2003年11月に松谷創一郎さんが「ネットでの儀礼的無関心の可能性」等にて提唱された、リンクの自由に疑問を呈する「儀礼的無関心」なる考え方は大きな反響を呼び、 確認されただけで2か月程の間に250以上のサイトが言及するトピックとなりました。かつては これらの言及記事は「羊堂本舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」 によって網羅されていたのですが、既に消滅し、当時の論争を追いかけることは難しくなってしまいました。
これはリンクの自由についての論争を知る上で勿体ないことだと思いますので、このページでは上記リンク集を復活させ、 更にそれらの言及記事を若干引用することで当時の論争をわずかでもお伝えしたいと思います。
以下は、特定の具体的な出来事を指した話ではない。たぶん、今日も全世界で繰り広げられているであろうことだ。
たとえば、ひっそりとネットで日記を書いている人がいる。Aさんとしよう。とくにリンクも張られずに、目立つことなく、だけど、Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人もわずかだがいたとする。
ある日、Aさんはあることについての日記を書いた。それを見たある人がAさんの日記にリンクを張った。さらにそれを見つけた人気サイトのBさんが、Aさんのところにリンクを張った。結果、ひっそりと日記を書いていたAさんのサイトへのアクセスが殺到した。
Aさんは、目立ってしまう自分のテキストについて驚き、そして当該のテキストを削除してしまった。結果、そのテキストを誰も見ることができなくなり、その後日記そのものをやめてしまった。
さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか──。
(略)
一方、Bさんにもリンクを張った論拠なるものもあるはずだ。(アクセスの限定をかけないかぎり)ネットは常に開かれているのだから、それは誰の目に触れてもいいということじゃないか、と。見てほしくないならネット上で公開などするな、リンクフリーという原則こそがこれほどまでにネットを発展させたのだ、と。それは、とても「正論」のように聞こえるし、ネットに明るくない僕にも、それはある程度間違っていない、とも思う。
だが、結果としては、誰も幸せになっていない──僕がひとつだけ気になって仕方ないのはこの点だ。それを考えると、杓子定規に「ネットの理念」たるものに依拠することの正当性や「正論」にも疑問を覚える。そんなの、ケースバイケースだし、僕らは日常的に(物理空間では)儀礼的無関心という振る舞いをしているじゃないか、と。リンクを張ることでAさんに変化が起こる可能性を、Bさんは想像できなかったのか。もしくは、Aさんに変化が起こる可能性について、どれほどの覚悟があったのか。
匿名掲示板のリンク張りはたしかに防止できないでしょう。ただ、匿名掲示板の人も利害関係は理解できるはずです。僕が「誰も幸せになっていない」というのは、結果として当該の日記が消えることで、匿名掲示板の人たちも永遠に見られなくなるということを意味します。つまり、こっそりのぞき見できる可能性が失われるわけです。共有されるメリットを維持するための儀礼的無関心、とも言い換えることができるでしょうね。しかし、これが、誰かひとりがリンクを張ることによってスポイルされる。それは道徳的・倫理的な問題ではなく、公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞いだなぁ、と僕は思うんです。
全ての発端となった、松谷さんの記事です。その後、氏はこの主張について続編を第二回、第三回、 第四回、第五回、第六回、第七回と書かれています。 不本意な無断リンク/直リンクをされた人の強硬な姿勢が大きな論争・トラブルに発展したケースは多数ありますが、このような、無断リンク/直リンクを嫌がる人を支援(?)するタイプの主張による大きな論争は稀であり、興味深いケースでした。
この主張の問題点・矛盾点については拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」にて詳しく述べましたのでここでは簡単にまとめますが、
要するに松谷さんには「リンクされたくないサイトを公開してしまっている人が、サイトの公開をやめることで幸福になる」という観点がないのですね。
だから、『誰も幸せになっていない
』などとおかしなことを言ってしまうわけです。
しかも氏は、作者が見られたくないと思っているサイトを人々が『こっそりのぞき見
』することが『公共の利益
』だと仰っているわけです。
松谷さんは主張のあまりの不道徳さからのちに多くの批判を受けるのですが、
この時点では氏の不道徳さに気付かずにその主張の支持を表明する人々もいました。
逆の可能性もあるなあと思いました。ページを公開しているのだけれど、誰からもリンクされず反応もないので、いやになってサイト全体がなくなるという可能性。
拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」でも取り上げさせて頂きましたが、これは重要な指摘です。
リンクの自由を否定する人には、「サイトの閉鎖」を避けるべき事態と考え、サイトの閉鎖につながる可能性のある無断リンク等を悪事とみなして否定する人々がいます。
しかし、無断リンク等が悪事ということになれば、確実にリンクをする際のハードルは高くなり、人々がリンクをする頻度は下がるでしょう。
そうなれば、アクセス数の少なさを憂いているサイト運営者がサイトを閉鎖する可能性は逆に上がり、本末転倒となってしまう可能性もあるわけです。
つまるところ、結局の話、行き着く考えは、人は人の考えは理解できないし、強制できないし、人と人はお互いを理解しあえないし、そういったものに期待すること自体が間違ってるんだと思える。
ANNさんは、松谷さんの「儀礼的無関心」という主張に同意しつつ、こう述べられていました。 しかし、人に理解を求められないことがわかっているなら、他人全員の理解が必要となる氏の主張に無理があることはすぐにわかるかと思うのですが……。
私もこの文章と全く同じことを考える。この文章は目を通してみて、絶対に損はしないと思う。いや、ぜひ読んでみてもらいたい、と思う。特に、弱者ではない人達に。
hiyabayashiさんは、松谷さんの「儀礼的無関心」という主張に同意しつつ、氏の主張が『弱者ではない人達
』にとってとくに重要だと述べておられました。
しかし『弱者
』と『弱者ではない人達
』は一体、どういう人々を指す言葉なのでしょうか。hiyabayashiさんの文章からすると、「リンクを自由と考える人々」が『弱者ではない人達
』ということになりそうなのですが、
頻繁に「リンクの自由を否定する人々」から暴言を受け、時にはサイトを閉鎖させられる「リンクを自由と考える人々」が『弱者ではない人達
』だというのは、私には大変に違和感のある分類です。
確かに正論は正に正論だし、合っている。だけれども、やっぱり人によって「こうしたい」というところは違う筈だし、それを全く見ようともせずに自らの論理だけであれこれするのはどうにも性に合わないのだ。(略)
- 自分がされて嫌なことは人にもしたくない
- 考えの押し付けもしたくない
- 過去にサイトを荒らされたり、ウォッチされてあることないこと書かれたことがあるので、荒らされた人の気持ちはよく分かる
yasaiさんは、松谷さんの主張の同意してリンクの自由に否定的な主張をしながら、しかし同時に『考えの押し付けもしたくない
』と述べておられます。
当然考えの押し付けをしなければ他人のリンクの自由は否定できないわけで、yasaiさんの主張は矛盾していると言わざるを得ません。
以前拙稿リンクとマナーなどでも触れましたが、
無断リンク禁止や直リンク禁止を相手に押し付けようとしている人々が「押し付けは良くない」と主張するのは、
この業界ではよく見られる、パターンとでも言うべき主張です。
言うまでもなく、自由なリンクは他者に何も押し付けません。自由なリンクを行う側は、自分のコンテンツを自分で作るだけです。
そして逆に自由なリンクの否定は、他者に主張を押し付け、「○○しろ」「××するな」という指示に協力させなければ実現不可能です。
それなのに、リンクの自由を否定する人々はよく「押し付けは良くない」という説明をするのですよね……。私には不思議でなりません。
頼りにならない情とやらに訴える暇があったら、手法を教えろ、場を作れと声を上げるほうがよほど早く皆が幸せになれると思うのだけど。 …それでもその手の人種が情で訴えるのは、自分が何を使って情報公開しているのか失念しているか、あるいは、 自分の思考は他者とほぼ同一だからこの主張は容易に理解してもらえる、と思い込んでるからだろうけど。
mieki256さんが指摘されるように、あるいは私が以前拙稿誤解の理解-何故リンクが自由なのか等で述べたように、 リンクの自由を否定する人は多くの場合、無断でリンクされるなんて誰だって嫌に決まっている、などと考えているのですよね……。 世の中にはそんな感じ方があることを知らない人が多数いるわけで、まずはリンクの自由を否定する人々は、自分達の存在を社会に アピールしなければならないと思うのですが。
「ネットでの儀礼的無関心の可能性」がなんだか無茶苦茶反応を呼んでいるようです。肯定的な意見が多く、否定的な意見も感情論やミスリーディングをしているものは僅かで、この問題にかんしてのみなさんの関心の高さがうかがえます。
下心の透けて見える、何ともいやらしい物言いです。この点については、下のfurunさんの2回目の記事でツッコミが入れられてしますので、そちらをご覧ください。
ただし、「私もリンクを決して張らないサイトがある」というような意見を多数目にするわけで、そのような人が多いこともとてもよくわかりました。つまり、「ネット儀礼完全否定論」は、かなり少数派なんです(少数派だから悪い、という話ではありません)。
拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」でも述べたように、 松谷さんの主張は4種類の内容に分れています。その中の1つ、「考えなしにリンクするとリンク先が該当記事を消したり閉鎖したりしてリンクした側も損をするかも知れないので、リンクする際は気をつけよう」については私も否定はしません。 氏の主張の問題は他の3点にあるのであって、他の方々の批判もそちらに集中していたわけです。批判を矮小化して、支持を大きく見せかける松谷さんの姿勢には疑問を感じざるを得ません。
ここで新たに「儀礼的無関心」というキーワードが議論に登場した。もし、この単語が定着すれば、人々は「儀礼的無関心」と唱えるだけで、ゴフマンの権威と説得力、およびTRiCKFiSH氏の権威と説得力を援用することができるのである。これは非常に大きな武器となるであろう。
そういうわけで、私は「儀礼的無関心」というスローガンの周知を訴えます
hakurikuさんは『無条件に「儀礼的無関心」を支持するわけではない。私は,「リンクフリーの原則」と「儀礼的無関心」という二つの対立軸の確立に,より実りのある議論の可能性を見るのである。
』
とも述べられているわけで、これを「肯定」に分類してよいのか若干迷うところもありますが、それはそれとして。
hakurikuさんが望まれるように、無断リンクを忌避する人々の一部に「儀礼的無関心」というスローガンが広がった時期が(短期間ですが)ありました。
その結果何が起こったかと言うと、そういう人々は「儀礼的無関心」が無断リンクを禁止する正当な根拠だと信じ、
無断リンクをした人をそのお題目のもとにいつも通りに罵倒しただけでした。
私が見た限りでは、結局のところ「儀礼的無関心」というスローガンはリンクの自由を否定する人々にとって何の役にも立たず、
そういう人々が実りのある議論をすることもなかったように思います。
たとえばオレの実体験ですが。
近所の公園に子供を連れて行って遊んでいると。
携帯電話のカメラで、幼女を撮影しているオッサンがいたわけですよ。
公共の場である公園では、プライバシーとかを主張できないわけで。
このオッサンは違法なことはしていない。(迷惑防止条例とかに無理矢理ハメこむことは出来るかもしれないが)
そういう「世知辛い世の中」で生きていく状態で。
「他人をジロジロ見ないのがマナーだ」とか牧歌的なことを言うのは、松っちゃんも相変わらずおめでてぇなぁと。
いわゆる陰謀論でいうところの「ビッグブラザー的監視社会」を推進したくて。住民は自己防衛しないでマナー論で解決しろ。と言っているようにも邪推しちゃう。
「パソコンは管理のためにパスワード認証はかけないでください。他人のパソコンを覗くのはマナー違反です」というルールがあるダメ会社みたいな感じ。
otsuneさんは、他人がマナーを守ることには期待できないから無断リンク禁止という主張は脆弱だ、といった説明を何度かされています。
それは確かにその通りなのですが、リンクの自由を否定する人々は殆どの場合、無断リンク/直リンクはマナー違反だからやめろ、
という主張をしてくるので、otsuneさんの説明だと何らトラブルの解決にはならないように思います。
otsuneさんの目指すところは別にあるのでしょうが、私としてはリンクについてのトラブルを減らしたいという願いがありますので、「相手のリンクの自由を尊重するマナー」の大切さを説いていきたいと思っています。
最終的に、私の頭のなかでは、
- 『無断リンク禁止』を主張してるサイト
- 『無断リンク禁止』を主張してるサイトに対し『リンクフリーは常識』と、リンクを強行するサイト
この両者は、どっちもどっち、だと思います。 前者後者の違いは、
- 前者が、たとえば「リンクされたくないサイトにリンクされるのは嫌だ」という論理
- 後者が「Webのしくみにのっかってるから正しい」という論理
………こういうことを書くと、論理的であることを支持する方々から批判がきそうだが(前提となる公理の違いがあるというのを考慮すべきである)、 リンクしたことによって生じる問題/事象、というのが全く考慮されてないということである。
たかゆきさんは何故、無断リンクの際に『リンクしたことによって生じる問題/事象、というのが全く考慮されてない
』と断言できるのでしょうか?
無断リンクする側は、このリンクによって相手がコンテンツを削除したりサイトを閉鎖したりするかもしれない、
といった問題/事象を考慮してもなお、リンクしたかも知れないのではないでしょうか。
ちなみに、リンクの自由に否定的な人が初めは「リンクの自由」も「リンクの自由否定」もおかしいようなことを述べつつ、結局は「リンクの自由」を否定するというのは一つのパターンです。 一体なぜ、中立の立場と取るように見せかけてから自分の立場を表明しようとするのか、私には不思議に思えます。
自分の日記に対するアクセス数がどれくらいあるかについては、自明に判る問題ではありません。HTTP鯖のログを読むとか、あるいは、なんらかのレポートが書き手に届くように設定したとか、そういうことがあって知るわけで、それにしても、私のようにアクセス数がどれくらいかという事にだんだん興味がなくなってくると、仮に知り得る仕組みが既に手配済みであっても、無視したりするようになります。
つまり、アクセス数が急増して驚くためには、アクセス数を知るために何らかのアクションを取っていることが前提となるわけで、さもなければ、誰か他人が、「君の所のアクセス数は鰻登りだね」とか教えてくれる必要があります。もちろん、それがリンクのせいだと判るためには、単にアクセス数だけ判れば良いってモンじゃないでしょ。
で、アクセス数を気にしながら日記を書いている人が、その日記が多くのアクセスを集めることに怯えている、あるいは、こっそりと人知れず書こうとしている、っていう事が、私としては、事態として飲み込めないのだな。書き手はどうしたかったのでしょう。読まれたかったのでしょうか、読まれたくなかったのでしょうか。あるいは、特定の人には読まれたいが、不特定多数では嫌だったのでしょうか。覚悟があるだのないだのという事柄以前に、自分がどうしたいのかについて、無自覚だったのでは?と疑うわけです。
だとすれば、サイトを閉鎖した人は、サイトを閉鎖することで不幸になったのでしょうか?幸福になったのでしょうか。実は、私は、どういう状態が幸福で、どういう状態が不幸なのか、はっきりと判りません。したがって、彼がしたいと思ったことが出来れば彼は幸福、したいと思ったことができなければ、彼は不幸と仮定して話を進めます。
彼は日記を公開したかったのですか?なら公開できなくなって不幸かも知れませんが、だとしたら、なぜ自分でサイトを閉鎖したのでしょう。閉鎖しなければ、より多くの人に読まれ、彼は幸福になるのでは?ま、びっくりした結果、自分のしたいことが判らなくなったのかもしれません。そういう一時の迷いのために、自分のしたいことと逆のことをすることはあり得ます。また、あるいは彼は、日記を公開したくなかったのでしょうか?秘密にしたいのでしょうか。なら、一時は、その思いに反して日記をさらけだしてしまっていましたが、誤りに気づいてサイトを閉鎖したことにより、彼は幸福になったのではありませんか?公開していた頃の誤りについて悔恨の念を抱くことはあっても、今後は問題ないはずです。ようやく、自分がしたいようにやれたわけです。(略)
ま、日記を読みたかった人は、読めなくなって不幸かもしれませんが、それは、本来書き手が読んで欲しくなかった文章なのです。公開したくない私人の秘密が、なにかの手違いでそれまで公開されていただけなのです。それを楽しみに思っていたからといって、書き手が公開しないことにしたものを読む権利は他人にはありません。したいことがあっても、その権利や能力や資格がないことはよくあります。それだけです。さっきの定義からいうと、これは不幸なんですが、たとえば、アイドル歌手になりたい私がなれずにいるのは不幸だというのと大差ありません。
拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」でも紹介させて頂きましたが、 これは素晴らしい考察です。
ここで指摘されるように、松谷さんが想定されたサイト運営者は奇妙な存在です。恐らくは、全世界に公開するということについて、 無自覚だったのではないでしょうか。そのため、人に見られるのは嫌なのに公開するという矛盾した行動を取ってしまったわけです。 ですので、そういう人がリンクされてサイトの公開をやめるのは、少なくとも本人にとっては全く不幸ではないわけです。
kkojimaさんのこの文章は、実のところ全く注目されていなかったように思いますが、重要な指摘です。 これを読めば松谷さんの問題提起のおかしさは大方ご理解頂けるのではないでしょうか。
……ちなみに、kkojimaさんのこの考察は素晴らしいのですが、これでも終結しないのが無断リンク論争です。
このような意見については、無断リンク禁止肯定派の方からこのような反論が来る場合があるのです。
それは、言ってみれば「誰もがサイトを公開できるべきだ」という意見で、
例えば大耳さんの2003年12月15日の記事「原理主義者の選民思想」にある『それは一部のネットエリートしか運営してはならないという選民思想ではないのですか?
』といった主張は、
まさにそういう考え方から来るものでしょう。
もしかすると松谷さんもこのような考え方から冒頭の問題提起をされたのかも知れず、
実際に後の氏の主張にはそれに近い内容のものもありました。
私の知り限り、リンクを自由と考える人々はリンクを嫌がる人々に対して「公開するな」という選民思想を説いているわけではなく、
「公開しない方が幸福かも知れませんよ」という選択肢を提示しているだけなのですが、それはなかなか通じないようです。
例えば、バットもボールも嫌いな人が趣味で野球をしても、まず幸福にはなれないでしょう。趣味なのですから無理に嫌いなものに付き合わず、
他のことをすればいいわけです。同様に、リンクされるのが嫌な人が趣味でサイトを運営しても、まず幸福にはなれないでしょう。
だから他の趣味をお勧めしますよ、とそういう話なのですが。
この記事は長めですがこの論争を知る上で重要ですので、通読をお勧めします。
「リンクしなくても大手サイトは存続しうるが、リンクされた結果、小さなサイトは死んでしまう……だから、リンクしない選択を」という論旨の展開は、弱いサイトに肩入れし過ぎて状況を見誤っていると思う。儀礼的無関心の推進もまた、多くのサイトを殺すだろう。
結果としては、誰も幸せになっていないとは近視眼的に過ぎる。例えば、国民全員の行動を随時監視していれば犯罪はほとんど起きなくなるだろう。小悪を徹底的に排除しようとすれば、自由を制限するしかない。だが、それゆえに不都合も大いに生じることはいうまでもない。犯罪さえなくなればいい、というものではないだろう。マイナーなサイトが、大きなアクセスでつぶれてしまう……それは、WWWにおいてありうるリスクだ。それ自体は残念なことだといっていい。しかし、だからといって儀礼的無関心なるものが正解となりえるか? 目先の問題を解決できればいいのか。
上で紹介した結城さんの記事とも共通するのですが、徳保さんが指摘されるように、松谷さんの考え方は「ある状況にはマイナス面がない」という、
トレードオフを無視した考えにしか思えません。このような考え方は、拙稿誤解の理解-何故リンクが自由なのかで紹介した、
「ユートピア的なヴィジョン」に近いものを感じます。そこで引用したスティーブン・ピンカーの言葉を再度紹介させて頂くなら、
『ユートピア主義者は、福祉が依存状態を助長するかもしれないとか、ある環境汚染物質を禁止すると人びとがやむをえず別の汚染物質を使用するかもしれないとか、そういった予想ができないのである。
』なのです。
あらゆる決定にはトレードオフが、つまり利益と損失がつきものです。無論、リンクが自由という決定にもそれはあります。 しかし、どういうわけかリンクの自由を否定する人々は、そこにトレードオフがないかのような主張をすることが殆どであるように思います。
個人サイト間というものは、やはりリアルな人間関係とは全く無縁ではありません。それを考えれば、“インターネットにおけるリンクフリー”という原則を適用するには、それなりの慎重さが求められます。
無論、サイト運営者同士の人間関係などもリンクの際には考慮されうるでしょう。 しかしそれを考慮しても、相手の意に沿わないリンクがされることもあるわけです。
ネットでは儀礼的無関心というヤツが行われていないらしい.儀礼的無関心ってのは引用すると
「儀礼的無関心」とは、社会学者のゴフマンが提出した概念で、(物理的な)公共空間において、あかの他人同士が、お互いに一瞥くらいはするもののそれ以上の深入りを避け、無関心を装うような態度のことを指す。つまり、「あえてする無関心(見て見ぬふり)」とでも言うべきもので、これによって僕らの共在の空間と公共性は保たれていたりする。
[recent events@TRiCK FiSHより引用]
おかしいな,もしそうだとしたら,みんなが自分の見たサイトになんらかの言及をすることになり,そこら中のサイトにリンク張りまくり,張られまくりの状態になるはず.
そうなっていないということは,みんな自分が極めて興味を持っている内容にのみリンク(あるいはツッコミ)を行い,そうでないものには儀礼的無関心を装っているっていうことじゃないのか.
〇 だいたい,例で挙げられているサイト A, B, C の関係にしても,「誰も幸せになれない」原因はリンクした B や C ではなくて自分の発言に責任を持てなかった A にあるんじゃないか.B や C から批判的な文章と共にリンクをされたとしても,A にはそれに対する釈明を自分のサイトで行う機会が与えられている.にも関わらず,それすらせずにサイトを閉じたというのなら「無責任」とか「覚悟が足りない」という批判は正当なものだ.
仮に B や C の A に対する批判が屁理屈というべきものであり,なおかつそれに対する反論を行うだけの文章力が A に無かったという場合も考えられる.この場合,悪いのはそのことに気づきつつ A を弁護する発言をせずにただ傍観していたヤツってことになると思う.
とやかく書いているけど,結局言いたいことは上記リンク先が「儀礼的無関心という言葉を持ち出して無断リンクを制限したいと思っている」ようにしか読めません.
正論です。ただ、このような正論に対しては時として上のkkojimaさんの記事へのコメントで引用した『それは一部のネットエリートしか運営してはならないという選民思想ではないのですか?
』(大耳さん)
といった反論がきたりするのですが。
Koyasuさんが指摘されるように、
あるいは私も以前拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」で述べたように、
松谷さんが提唱される「儀礼的無関心」は誰もがそれぞれの価値判断のもとに自然に行っていることであり、わざわざ『ネットでの儀礼的無関心の可能性
』などと銘打って提唱するほどのことでは
ないように思えます。
松谷さんの認識がずれているのは、松谷さんとは違う価値判断の人の行動を間違いだと考え、
『ネットでは、先に挙げた例のように、そのような儀礼的無関心が機能せずに、結果として誰も幸せにならない状況に至ることがある。こういう状況になったとき、僕は正直、「なんで無関心を装ってあげなかったのだろうか。気がきかないなぁ」と、Bさんに対して思う。
』
などと主張してしまったことではないでしょうか。
実際には、様々な事情を考慮してもなお、「リンクをする」という結論に達する場合もあるわけです。
まず、大元の「儀礼的無関心」のシナリオを読んで真っ先に連想したのは、「裸の王様」でした。 つまりは、子供が素直に「どうして王様は裸なの?」と問いかける事に否定的に読めてしまったのですな。 で、王様が「傷付く」から言わない方が良いんじゃないか、言わない方が「皆が幸せ」なんじゃないか、と。
....私ゃ、これには激しく違和感を覚えるものでして。:-)更には、何をもって「幸せ」=「良し」とするかという価値観について、 シミン的な独善を感じたりもして。 私ゃ、最初のシナリオの Aさんについて、 誰から見られても不思議じゃない公の場で、 発言の責任とか自分のプラバシーとかに無頓着な事を書いていたのに気付いて行動を改めた(削除した)のであれば、 それは痛みを伴なうものの経験によって学習したという事で肯定的に捉えたいという立場でして。 例えば、私ゃ「馬鹿」と言われるのも貴重なリアクション/アドバイスであって、 それを望んでいるのに「儀礼的無関心」が普及してしまうと「激しく不幸」に感じる訳で。:-P
(略)しかし、それは各個人の主観に基づく領域の問題で、 価値観を同じくする同一の文化圏の中でしか通用しないのではないか、と。 少なくとも私個人は違う価値観を持つ訳で、 そのモラルで「皆が幸せ」になれるというのは無邪気な独善を感じます。
で、あちこちでの言及をざっと眺めてみますと、 自分もリンクを躊躇う事があるという独白が結構多いのですが、 それはリンクによって為される行為に対する各個人の価値観による判断であって、 「儀礼的無関心」という価値観に対する同意では無いのではないか、と。 リンクなんて所詮は数十バイト程度の文字列でしか無いし、 それを書く「言論の自由」は基本的に尊重されるべきで、 その「自由に伴なう責任」を果たすべく個々の書き手が多種多様な判断で書いたり書かなかったりした物を、 一面的な「儀礼」という言葉で纏めて欲しく無いなぁ、などと思ってしまったり。
MIZUNOさんの『「儀礼的無関心」が普及してしまうと「激しく不幸」に感じる
』というのは、重要な指摘です。
成長は、多くの場合痛みを伴うものだと考えます。松谷さんが挙げられた例で言うなら、Aさんはリンクされたことで痛みを伴いながらも、
自分がサイトを公開したくなかったことに気付くことができたのではないでしょうか。
絶対に痛みを与えたくない、というのは非現実的で過保護な方針であり、人はなかなか失敗という痛みを経験しなければ過ちを改めることができないものなのです。
上の徳保さんの記事へのコメントで触れた「ユートピア的なヴィジョン」の話なのですが。人々の価値観がみな同じなら、もしかすると人間同士のトラブルは無くせるのかも知れません。 それは一つのユートピアであるのでしょう。しかし、現実に人々の価値観は異なっているわけで、私たちにはそれに対応したシステムが必要なわけです。 松谷さんの提唱する儀礼的無関心も、全ての人々が同じ価値観を持つ社会でなら、確かに上手くいくでしょう。 しかし現実にはそうではなく、儀礼的無関心をいくら広めようとしてもそれは上手くいかないでしょう。
そもそも「このサイトはリンクしてもいいサイト、リンクを遠慮すべきサイト」という判断は可能なのか。あるいはそもそも「見て見ぬふり」というのがネットにふさわしい態度なのか。逆に、無防備に「ひっそりサイト」をいつまでも維持できると思っていた開設者側に問題はないのか、という疑問が出てくる。ついでに言っておくと、2ちゃんねるの一部のバカどものように、他人のサイトをさらし、潰すための行動をあえてするような自称ウォッチャー連中(連中がよく使う言葉を流用して「ネット珍走団」と呼んでもいいだろう。「珍書団」という言葉も一部では流通しているようだ)の動きはまた別の問題だ。
自分としては、ネット珍走団みたいな連中を除けば、多くの場合、むしろリンクを遠慮しすぎだ、と感じているくらいである。たとえばトラックバックもいちいち遠慮するくらいの控えめな国民性にあって、実は「儀礼的無関心」は過剰に働いているのではないか、という気もするほどだ。(略)
今回の松谷さんの問題提起は、できるだけコミュニケーション・リンクを増大させようというネットワーク本来の性質と、限定されたコミュニティを構築したいという人間的な要望の間でいかに折り合いをつけるか、ということになると思う。これは今後も折に触れて話題になるだろう。ネットワークの将来を考える上で重要になってくると思う。
上のKoyasuさんの記事にもありましたが、松谷さんが『ネットでの儀礼的無関心の可能性
』などと提唱するまでもなく、
“儀礼的無関心”はそれぞれの価値観のもとに行われているわけです。無論、それ自体は悪いことではありません。
ただ私としては、この「関心はあるけどリンクは控える」という判断はむしろ多すぎるのではないか、ここで松永さんが指摘されるように、『「儀礼的無関心」は過剰に働いているのではないか
』、
と思うことがあります。それは、上の結城さんの記事で指摘される可能性、『ページを公開しているのだけれど、誰からもリンクされず反応もないので、いやになってサイト全体がなくなるという可能性
』の方が
大きいように思えるからです。
これは個人的な印象なのですが、多すぎるアクセスに驚いてサイトを閉鎖する人よりも、 少なすぎるアクセスにやる気をなくしてサイトを閉鎖する人の方がはるかに多いのではないでしょうか。 ですので私は、たとえサイトの閉鎖が松谷さんの言うように損失だとしても、「損失を避けるために儀礼的無関心を推進しよう」という考え方には同意できないのです。
- ex.1 リンクを張ることで「晒しageるのが幸せ」(という人が実際に存在してしまう)。
- ex.2 リンクを張られることで「ヨノナカには自分の願っているように動いてくれない or 動かないでいてくれない人がいる」「ヨノナカは自分の願う or予期するようにはまわってない」ということを学習することができ、幸せ。ちょっと「大人」(どういう意味で、にしても)になれる。
松谷さんは、『さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか──。
』と問題提起をされました。
しかし、何が幸せかは人それぞれであり、contractioさんが記事にされたように、幸せになった人もいるかも知れないわけです。
……と言うか、リンクされてサイトを閉鎖した人は、幼稚な感受性の持ち主でない限り幸せになれるだろうと思うのですが。
「せやからな、インターネットかていうても結局は人と人とのつきあいなんや。現実のそれと変わらへんのや。画面の向こうはおんのは何も感じへん機械やのうて、自分と同じ心と心を持った人間なんや。そのことを忘れて相手のことを思いやれへんゆうのんはどっかおかしいんとちゃいますか?人にされて嫌なことはせぇへんゆうのが最低限のルールやおまへんか?わてはそう思いますのや。日本人は本来、礼節を重んじる民族や。それがあんた、最近の若者は西洋食ばっかり喰うとるせいか知らんが、すっかりバテレンにかぶれてしまっとる。なんや、むこうの個人主義がカッコイイなんて言いよる若者が増えてきとるらしいが、わてはそうは思わんで。こないな狭い島国で主義や主張を声高にしたところで、見苦しいっちゅうねん。わてみたいに声のでかいモンが大きな顔してまかり通るような世の中になってもうたらおもろくないんやないのんか?自己中心的な気ィの強いやつや頭のええやつばっかりが得するようになってもうたら、弱肉強食。思いやりもなんもない殺伐とした世界になってまう。まさに世は世紀末や!あー恐ろしゅうてわてはかないまへん!」
吉田さんは自由なリンクにある種の危機感をお持ちのようで、リンクの自由をこのように表現しています。 しかし、この主張には疑問を持たざるを得ません。
私の考えはおおむね逆で、リンクが自由でなくなれば、それこそウェブは危機に陥るだろうと考えています。私は以前、拙稿誤解の理解-何故リンクが自由なのかでこう述べました。
無断リンク等を嫌がるサイトへのそういうリンクを禁じることを認めたとしましょう。 それは言わば「リンク禁止権」ということになるでしょう。しかし、これは極めて危険な権利です。 何故なら、これを認めてしまうと他人の反論や批判を一切封じつつ自らの主張を展開したり、 他人の作品などを自由に盗作できることになるからです。
これは杞憂ではありません。「ウェブ上での研究公開について」 ではまさに、他者の研究に
『バッカじゃないの?』、『ちょっと外に目を向ければわかるようなことを知らないで平然としている』等の罵声を浴びせ、自分のサイトについては『無断リンクは絶対禁止』を主張していた研究者のケースが紹介されていますし、 他人のコンテンツを盗作していたサイト運営者がリンクされて盗作を指摘された際に「リンクしたこと」を非難するケース も私は何度か見ています(参考:「海外ボツ!News」をパクった楽天サイト)(略)。このように言うと、「リンク禁止権をそんな風に使う人など稀であり、心配する必要はない」と言う人もいるかも知れません。 しかし、そうとも言えないと考えます。人や組織は、例え普段はおとなしくても権利を与えられれば往々にしてそれを最大限に使おうとし、 邪魔になる者に制裁を加えるなどするものだからです。
インターネットが『結局は人と人とのつきあい
』ならばなおのこと、サイト運営者は閲覧者への配慮を持ち、公開すべきことだけを公開する姿勢が望ましいのではないでしょうか。
また私の知る限り、自己主張が強くて自分の都合を押し通すことが多いのは無断リンク/直リンクを嫌う側なのですが、吉田さんの見てきたケースではそうではなかったのでしょうか。
ウェブで無断リンク/直リンクを拒否する人々が嫌われているのは、そういう人々が声を限りに、様々な横暴を尽くしてきたからです
(そういったケースは、拙稿リンクについての雑多な記事 - 数を恃むことについて、リンクについての雑多な記事 - リンク禁止問題の実状、リンクについての雑多な記事2 - 何故リンクの自由が説かれるのかなどでも
紹介してきましたし、多くの方は自分でも何度かは目にしたことがあるのではないでしょうか)。
吉田さんは、そのことを知らずに発言されているのではないかと感じます。
心無いリンクは止めようと「提言すること」自体は、すでにマナーではなく規制の領域に明確に入っている。儀礼は運動のようにして提言されるようなものではないだろう。マナーはリンクするほうが内心で検討することで、リンクされたほうが相手に向かっていうようなことではない。他者に向かって議論する論拠として使うことを想定している時点ですでにそれは政治的な論理なのであり、権利や禁止の問題である。
これもまた、重要な指摘ではないでしょうか。無論、マナーや思いやりは大切です。しかし、「○○という状況では××するのが思いやりだ」というのは、 もはやマナーや思いやりではなく、ルールの提唱です。そして、リンクされることを回避できるルールは、上の吉田さんの3回目の記事についてコメントしたように極めて危険だと私は考えます。
- A が悪いかどうかに関わらず B や C がどうするのが良いかというようなことらしい:
Aは「ひっそりとWebサイトを公開している人」。BとCは「リンクを張る人」。
なるほど。
そう考えると、松っちゃんの記述から「2chとかウォッチャーとか悪者の話はしていない。善意のある人にどうして欲しいかの話だ」というニュアンスだと読み取れる。
よし分かった。
仮に松っちゃんの発言がそうだと仮定しよう。
それだったらオレの主張は相変わらず「BとCはAの為にリンクしてやってくれ」だ。
2chとかウォッチャーとか悪意を持っている「D」という存在を、どうかAに知らせてやって欲しい。
もしAの取引先がAのサイトをこっそり見ていたらどうなるだろうか。
もしime.nuなどでAのサイトがこっそりアクセス繁盛していたらどうなるだろうか。
サーバー会社から「転送が増えています」と指摘されたりとか、アクセスカウンタが跳ね上がりでもしない限り、Aは無防備のままWebサイトを公開しつづけるのではないだろうか。
治安の悪い夜道を、ハンドバックをブラブラさせながら歩いている妙齢の女性を見かけて。
松っちゃんは「怖がるから無関心に成ろう」と言っている。オレは「そういう無防備な奴はビビらせておけば、今度から警戒するだろうから取り返しのつかない失敗はしないだろう」と言っている。
ただ単にそれだけの違いか。
松谷さんは恐らく、事情を理解した人ならば誰もAさんのようなサイトにはリンクしない、とお考えだったのではないでしょうか。 しかしotsuneさんのように価値観が違えば、それでもやはりAさんのサイトはリンクされるわけです。
上のjounoさんの記事で指摘されたように、松谷さんはリンクに関するルールを作ろうとされました。 しかしルールというものは、人々の行動を推測した上で作らなければなりません。 人々の行動を全く推測できていない「儀礼的無関心」というルールには、問題があると言わざるを得ません。
今、猫も杓子もサイトを持ててしまう時代みたいで、書店に行ってもその手のハウツー本がごろごろ転がっていたりします。
ところが、自分のサイトが「ある日いきなり巨大掲示板に晒される」、または「ある日いきなり有名なポータルサイトで紹介される」ことが充分起こり得る出来事であること。その結果自分では想像もしなかったような数のアクセスがあるかもしれないこと。勿論そのアクセスは肯定的な場合だけでなく、否定的な場合もありえること。これらについて教育されているのをお目にかかったことがありません。(略)
やはり一番必要なのは、サイト運営とはどういうものであるのか。つまり楽しいばかりでなくリスクもある。そのリスクについて具体的に啓蒙することだと思います。考えの「甘い」サイト管理人の意識の是正が必要です。
そういった啓蒙をする書籍がないのだとしたら確かに不思議にも思えますが、しかし、それは大概の人が予測できる可能性なのではないでしょうか。 私も初めてのサイトを作成している時から、自分のサイトが突然書籍やテレビで取り上げられることは当然あり得ると考え、 そうなっても困らないようにサイトを作ってきました。しかし確かに、そういった想像力を働かせることのないままサイトを公開する人もいるのかも知れません。
ところで、マスヤさんは『私は基本的にはインターネット上の儀礼的無関心を支持します。
』とも述べられていますが、
それと『考えの「甘い」サイト管理人の意識の是正が必要
』というのは、対立する考え方です。
松谷さんの儀礼的無関心の考え方は、考えの甘いサイト運営者はそのことに気付かずにサイトを運営し続けられるべきだ、というもので、
啓蒙とは対極にある考え方だからです。この考え方については、下の加野瀬さんの2回目の記事や拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」をご覧下さい。
昨日の文章は読み直すとちょっと攻撃的過ぎる感があるので,要点だけまとめ直しておく.
- 例の中でリンクした方の B, C は基本的に何も悪いことをしていない
- にもかかわらず,「儀礼的無関心」という関係のない言葉で B や C が悪いことをしたかのように書くことは,「無断リンクはいけない」という風潮を産み出しかねず危険
- そうではなくて,「リンクするときにリンク先にも何らかの配慮を」ということを言いたいのだったら,それはそれで議論する価値はある
ここでKoyasuさんが指摘されているように、あるいは、私が上で吉田さんの3回目の記事についてコメントしたように、
松谷さんの提案は『「無断リンクはいけない」という風潮を産み出しかねず危険
』だと考えます。
実際に、松谷さんの主張を真に受けてしまった人が起こしたトラブルを私は何度か目にしています。
確かに、人には危険なことを言う自由もあります。しかし私は松谷さんに、自分の発言がトラブルを引き起こすことについて『どれほどの覚悟があったのか。
』とは思ってしまいます。
それはそれとして、おれはこの話、元からAさんのサイトを読んでいた人たち(仮にTさんとしよう)が一番キモチ悪いんだけど、ほとんどの人はAさんやBさんばかりに興味があるようだ。Tさんがしたことに言及している人はごく少数なんだね(otsuneさんとか)。
このキモチ悪さを際立たせるために、せっかく電車の例が出ているので、わざと思いっきり悪意のある方向に振った設定にしてみよう。
- ミニスカートなのに脚を広げて寝こけてしまっている若い女性A
- Aさんを起してあげた品のいい初老の紳士B
- よけいな真似をするなとBさんにからむ若い男T
Aさんは確かに恥しい思いをしたが、終点まで気がつかなかったよりはましだ、今後は電車の中で寝る時は気をつけようと思う。Bさんがうっかり大きな声で起してしまったせいで、Aさんは別のCさんにまでパンツを見られてしまったが、少なくともBさんはヒーローである。
そしてこの設定におけるTは、単なる覗き屋の下衆野郎である。元記事では抑制の効いた理知的な立場にいたTだが、ちょっと設定をいじるだけで、かなりひどい人物になってしまう。しかしどちらの設定でも、Tがやっているのは自分だけが知っている面白いこと(サイト)という「既得権」を守ることである点は変わらない。結局「儀礼的無関心」というのは、自分の後ろ暗い部分を正当化するためのツールとして持ち出されたに過ぎないのである。
しかしながら、おれはこのTの立場も支持したい。誰もが自分だけのひそかな楽しみを持つ権利があると思うからだ。ただ、それは「ちょっと悪趣味な楽しみ」だということを忘れてはいけないのではないか。無理に正当化するのはカッコ悪い。
これもまた興味深い指摘です。ただただしさんが指摘されるように、あるいは私が拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」で『現在こっそり読んでいる人々の利益はそこまで重要視されなければならないものなのでしょうか。
』
と述べたように、こっそり見ている人々というのはそこまで尊重されなければならないものなのか、という疑問があるわけです。
確かに、こっそり見る自由はあるでしょう(それを『権利
』と言ってしまうのは適切ではないでしょうが)。しかし、それはどちらかと言えば後ろめたい行為なのではないでしょうか。
こっそり見る行為を『公共の利益
』と言ってしまう松谷さんの感性には、疑問を持たざるを得ません。
なお、権利という言葉の意味については、下の松谷さんの5回目の記事にコメントしました。
で、なんでこういうことを書いたかというと、一部でぼくが「やさしさ推進で万事はオッケー」だと思われているふしがあるからです。よく読んでいただければわかるとおり、そこまでは決して言ってないし(つまり、「過剰な読み」をされてしまったわけですね)、実際にぼくはそんなに優しくありません。先のコメント欄にもちょっと匂わせましたが、だって、裏を返せば、僕はこっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、と言ってるんだもん。と、以上、念のために自己フォローだかなんだかわからないフォローをしておきます。だって、痒いんだもん、なんか(笑)。
この一連の論争の前期には松谷さんの主張を「Aさんへのやさしさ・思いやりを説いたものだ」と考えていた方もいたわけです。 後に、松谷さんの主張の真意は「Aさんへのやさしさを捨てて、Cさんの利益を向上させよう」というものだったことが明らかにされますが、この点がまだよく理解されていなかったこともあり、 このころにはまだ松谷さんの主張を支持する方も散見されました。
なるほど頷かされる。「考えてリンクを張れ!」ではなくて、「考えてリンク張った方がお互いの為だよね、もうちょっと配慮があってもよくない?」といったところかな。
hanataniさんの解釈からすると、リンクする際にちょっとの配慮もしないサイト運営者がいることになりますが、本当にそんな人がいるのでしょうか。 もしかするとhanataniさんは、少しでも配慮があれば皆同じ結論に達するはずだ、同じ結論に達しないのはわずかな配慮もないからだ、とお考えなのではないでしょうか。
でまぁ個人的には「リンクを張る」と言う行為自体はやっぱり道義的にも許されてしかるべきだと思うんですよ。そもそもリンクのシステムだって論文の相互参照のために使用方法を考えられたものですし。
AのページにBがリンクを張る。Bが張るという事自体はAが強制して止められるものではないと。Aが「リンクされたくない」と思っているなら、そもそも公開するべきじゃないと思うのね。
それはAに内在する問題で、制限したいなら別の方法を取れと。Bの行動を制限するべきものじゃない。WWW はそういう場だと考えるんですよ。
ここで「Bが儀礼的無関心としてリンクしないという選択肢を選ぶことも出来る」のは否定しません。しかしそれはBの選択肢の問題でしかないと。Aが制限するものじゃない。
これと同じく「Aはそもそも公開しないという選択肢を選ぶことが出来た」わけです。それを越えて公開した以上、その波紋に対してどういう言うのはなんだかなと。もちろん「言うべき」ものも中にはありますが。
_ 他人の意見を無視するのは確かにに問題でしょうが、しかしそもそも「現実の場」を無視した意見を過大評価するのはどうかと思いますね。
A、B間のリンクに限っては、WWW というのはそういう場だという勉強をAがするべきでしょう。
Aが WWW をどういう場だと思うかは自由です。しかしその自由と同じようにBがリンクする自由もあってしかるべきでしょう。
Vidさんが指摘されるように、BさんはAさんのサイトにリンクしないこともできます。しかし、それはあくまでBさんの自由意思にゆだねられる問題です。 Aさんが自分のサイトについてどう思っていたのかは分りませんが、Aさんが人々の行動を決定することはできないわけです。 もしここで、ルールとしてBさんはAさんのサイトにリンクできない、ということになれば、それは私が吉田さんの3回目の記事についてコメントしたように、 危険な状況を招くのではないでしょうか。
叩かれて閉鎖したサイトをいくつも見てきたけれど、 別に私はその人たちが責任もなくwebにドキュメントをアップしているかというとそういうわけではないと思う。 「ひっそりやりたい」っていうのは、自分の責任の範囲内でやりたいってこと。 持てる責任の範囲って人それぞれなわけで、遠く離れた友達に近況報告をするための日記サイトもあるだろうし、 反応してくれた人にひとつひとつ丁寧に対応したい人は1日に100通もメールが来たら困って当然だと思うし。 責任持ってコミュニケーションしてる人に「晒されるのが嫌ならサイトなんかやるな」っていうのは、 「サイトなんてやるヤツは所詮自己顕示欲の固まり」「ネットなんてそういうもの」という古い先入観を押しつけてるに過ぎないんじゃないかなあ。
色々と疑問の浮かぶ記事なのですが。
まず、ジュンさんの記事からすると、リンクされてサイトを閉鎖した人々が無責任だと非難されたということかと思うのですが、
私もそれが無責任だとは必ずしも言えないと考えます。
サイト運営者は、ウェブで公開した内容について全世界に責任を負うと考えられますが、必ずしもその責任をサイトを公開し続けるという形で取る必要はないでしょう。
しかし、狭い責任の範囲内でやりたいという人がサイトを公開するのはおかしいのではないでしょうか。
サイトを公開すれば、世界中の誰がそれを見るかはコントロールできないのですから、
その時点で全世界に対して責任は発生します。したがって、サイト運営者が狭い責任の範囲を想定することは不可能です。公開したい、でも広い範囲に責任は負いたくない、というのは矛盾した願いだと言う他ありません。
また、『晒されるのが嫌ならサイトなんかやるな
』という助言は随分と厳しい口調に変換されていますが、
要は「リンクされるのが嫌なのにサイトを運営すると、傷つくことになる」というアドバイスなのですよね?
それ自体は至極まっとうな、事実を述べた助言なのではないでしょうか(これについては、上のkkojimaさんの記事へのコメントで詳しく述べました)。
リンクする側が『サイトなんてやるヤツは所詮自己顕示欲の固まり
』などと思っていなくても、
あらゆるサイトはリンクされ得ます。もしかすると、ジュンさんは「リンクする側は、リンクされる側の為というつもりでリンクしている」とお考えなのではないでしょうか。
そういう人もいるかも知れませんが、大概はリンクする側は自分と自分のサイトの閲覧者のためにリンクをするのであって、
リンクされる側のためにリンクをする人というのはあまりいないのではないか、と私は思います。
ひっそりとネットで日記を書いていた人が、澤山のアクセスを受けた時、被害者づらするのはどうか(してゐる)と思ふのだ。さう云ふ人が、どこから何件アクセスされたとか詳しく解析してゐると云ふのは、一體どう云ふ事なのだらう。
サーヴィス提供者がアクセスを勝手に解析して呉れてゐるのかも知れないが、もし本當に
ひっそりやる積りで、極々詰らない内容の文章を書かうとしてゐる人間ならば、アクセス解析を提供しないサーヴィス提供者を選ぶのが筋ではないか。或は、大量のアクセスを呼んでしまふやうな、他人から注目されるやうな、面白い文章をその人が書いた事が惡いと言へよう。「惡い」と言つて惡ければ、さう云ふ文章を書いた時點で、その人は
ひっそりやりたいとは思つてをらず、注目を集めたいと願つてゐた筈である、と言つたら如何か。
上で紹介したkkojimaさんの文章とも関連するのですが、野嵜さんも指摘されるように、
ひっそりとやっていたAさんが実はアクセスログをしっかり見ていたというのが、そもそも奇妙な話なのですよね。
松谷さんは、『Aさんは、目立ってしまう自分のテキストについて驚き、そして当該のテキストを削除してしまった
』と書かれていますが、
Aさんは本当に驚いていたのでしょうか? 実は予期していた可能性が実現して、予定通りの対応をしただけだったのではないでしょうか?
何かを公開すれば、それが人の注目を集める可能性は常にあります。例えそれが公開した本人にはつまらないことだったとしても。
Aさんにはそれが分っていて、つまりいつかサイトを閉鎖することも織り込み済みでサイトを運営していたのではないか――?
野嵜さんの指摘を読むと、そのようなことを考えてしまいます。
制作者が、ただ「ひっそりやりたい」と云ふだけの理由で閲覽者を選別する、と云ふのは、甚だ傲慢な事だ、と私は思ふ。
讀み手が書き手を選ぶべきであつて、書き手が讀み手を選ぶべきではない。書き手が讀み手を選別するやうになれば、窮極的には、「言論を提供する側」による「言論を享受する側」の統制に繋がる。
野嵜さんが指摘されるように、あるいは私が吉田さんの3回目の記事についてコメントしたように、 作者が読み手を選別できるようになることは極めて危険です。それはまさに言論統制であり、そのような社会では表現の自由はなくなってしまうからです。 これが、「無断リンク禁止/直リンク禁止」が忌避される最大の理由だと私は考えるのですが、リンクの自由を否定する人々がこの問題をどう解決しようと考えているのかについては、 私は未だに聞いたことがありません。
何か言ひたい事があつて、それで文章を書く、と言ふのなら話は解る。しかし、文章を書く場がある、だから言ひたい事をでつち上げる、と云ふのはをかしい。しかし、今の「ほーむぺーじ」の世界では、その種の「逆轉現象」が推奬されてゐるやうに思はれる。
「書く事がないなら書かない」「目立ちたくなければ目立つやうな態度をとらない」と云ふのが、當り前の態度だらう。 今のウェブでは、「目立つやうな態度をとりながら、注目を浴びたら文句を附ける」と云ふ、「俺に眼を附けたな貴樣」と云ふやくざの恐喝にも似た態度をとる人が、餘りにも多い。
意に沿わないリンクされた人々の対応を『「俺に眼を附けたな貴樣」と云ふやくざの恐喝にも似た態度
』とは良く言ったもので、
実際にこの恐喝は多くのサイトに恐怖を与え、閉鎖させて来ました。そういったケースの幾つかについては拙稿リンクについての雑多な記事 - 数を恃むことについて、リンクについての雑多な記事 - リンク禁止問題の実状、リンクについての雑多な記事2 - 何故リンクの自由が説かれるのかなどでも
紹介してきましたし、多くの方は自分でも見たことがあるのではないでしょうか。人々の利益を謳うなら、これらの恐喝をまず何とかした方が良いと私は思うのですが。
實のところ、最初の前提条件からしてをかしい。「ひっそりとネットで日記を書」くといふことは、不可能なことであるから。理念など出さなくても既にネツトがさういふ仕組みで動いてゐるのだから、身内の狭い範圍のみを想定讀者としても仕方がない。昔の私は、さうやつて淘汰されてゐくことを悲しく思つたこともあつたが、今はさほど思ふことはない。嫌になつたら公開を停止するのは當り前だ。ネツトでなくても身内向けの内容なら代替手段はいくらでもあるのだから、一時不快になる者が出るくらゐで誰も困らない。停止後、どうしてもネツトでなくてはならず再開したい、となつてもその際に「ネツトで公開するといふことはどういふことか」を考へざるを得なくなる。結果的には良い方向に變化するだらう。結局、どう轉んでも損はないのだ。尤も經驗にすら學べない連中もゐるが、これは對象としない。
この手の議論で最も惡いことは、「何らかの基準をもつて、リンクを貼らないやうにしよう」といふ呼びかけを行ふことである。大抵は「何らかの基準」が曖昧であり、各人の裁量に任せるとする。或は「何らかの基準」を制定しようとする。はつきり云つて無駄だ。何故ならば、そのやうな基準を決めること自體が不可能だからだ。勿論、狭い「身内」や「世間」で閉ぢるのならば可能であらう。しかし、比喩でも誇張でもなく本當に世界に公開されてゐるメディアで、そのやうな「身内の基準」「世間の基準」が通用するものだらうか。無理な話だ。しかしさうした時でも、「アクセス拒否されなければどこにでもリンクは可能である」といふ技術的な制約による基準は有效である。逆に言ふと、これ以外の基準は存在し得ないのだ。
これもまた、興味深い指摘です。松谷さんの問題提起では、『ひっそりとネットで日記を書いている
』Aさんが想定されました。
しかし、ネットでひっそりと、というのはそもそもどういう状態なのでしょうか? 私も以前、1日平均0.5アクセス程度のサイトを運営していましたが、
これがひっそりだったかと言えば、そうは思えないわけです。厳密に考えれば、ワールドワイドに公開されているサイトを「ひっそり」と言うのは、難しいのではないでしょうか。
そして、上のjounoさんの記事とも関連するのですが、江洲さんが指摘されるように、リンクをしないサイトの基準を決めることは困難です。 無理にそれを決めようとすれば、それは表現の自由の否定となり、上の吉田さんの3回目の記事についてコメントしたように、危険な状況を招くのではないでしょうか。
おそらく件の記事は、単純に言えば、
- 世の中、ホソボソとWeb公開したい人も居るんだ。
- 人が押し寄せるとそういう人はサイトを閉鎖しちゃうんだ。皆が損しちゃうんだよ。
- だから、『ホソボソ公開』ができる仕組みを皆で作るべし。
という話だろうと。そこまでは自分も同意。「『ホソボソ公開』ができる仕組みを作る」のが目的ですな。了解。さあ、皆で方法を考えよう…。
その目的を果たすための手法として、件の記事を書いた人、あるいは肯定してる人達は、
- 大挙してアクセスするのを止めよう。
- その為にも無遠慮にリンクを張るのは止めよう。
- もっと他者に対して思いやりを持とう。
- 要するに、モラルやマナーを作ろう。
…つまりは、「いかにして他者を洗脳するか」を掲げてるように見えるし、そういう意見が主流のようにも見える。
でも自分はその意見に首を捻るわけで。 先日も書いたように、
- 技術でどうにかしたほうが、早いし、確実では?
と。しかし…
- ホントに技術で解決したほうが早いのだろうか :
不安になってきた。ということで実験。情報隠蔽は技術によってホントに実現できるのか。 _…10分で出来た。 1時間のうち5分しか見られないページ。 Perlにあまり詳しくなくて、Web検索とコピペで書いたタコ初心者な自分でも、技術を使えばたった10分で、ある程度は目的が達成できる。(略)
コレと同じ事を、モラルやマナーで実現しようとしたらどうなるか。例えばトップページに、「xx時yy分〜zz分の間だけ、このページを見てください。それ以外の時間は見ちゃいけません」と注意書きを書いたとして、そのルールをどれだけの人が守ってくれるか想像してみてほしかったり。(略)
- ここまで書いてふと思う :
1時間に5分とか、1日に何人とか、そういう事ではないのかもしれない。万人に対して開かれてるけど、万人に対して開かれてないサイト。それが皆の頭の中にある『ホソボソ公開』の姿なのかも。…そんな矛盾した事を望まれてもどうしようもない。一体どういうサイトやねん。漠然と「ホソボソやりたい」言われても。「ホソボソやる」スタイルは、閲覧者を切り捨てなければ実現しない。万人に開かれたまま「ホソボソ公開」はできない。では、何を条件に切り捨てるのか。時間か、人数か、自分と閲覧者の関係か、あるいは他の何かか。そのへんがハッキリしないまま議論していても無意味だし、逆にそのへんハッキリしてれば実現する為の手法も見つけやすいはず。明確な目的・目標を設定せずして、適切な手法・方法が見つかるはずもない。
これもまた、拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」でも紹介させて頂きましたが、大変興味深い考察です。
みえき256さんは、10分で『ホソボソ公開』ができる仕組みを作ってみせ、その使用を提案されます。この仕組みを使えば、
確かにアクセスの増加は抑えられる可能性が高くなり、Aさんもサイトを閉鎖しなくて済んでいたかも知れません。
……しかし、果たしてそうなのでしょうか? もしAさんに事前にこのシステムが提示されていても、やはりAさんはこれを使わなかったかも知れない、
そんな気が私にはします。上のkkojimaさんの記事とも関連しますが、このAさんは、
自分の本来の希望について無自覚なのか、一見矛盾した行動を取っています。Aさんの本当の望みが分らない以上、それを叶えることは誰にもできないでしょう。
上で野嵜さんの記事について書いたように、Aさんは予定通りサイトのアクセスが増え、予定通り閉鎖したようにすら思えてしまうのです。
あるいは、実際にAさんの希望はそのようなシステムで満たされるものだったのかも知れません。
儀礼的無関心が話題になった当時は一般的ではなかったかと思いますが、mixiのようなサービスが人気を博したのはそういった需要があったせいもあるのでしょう。
しかし、そういったシステムで全ての問題が解決するともまた、思えないわけです。
リンクするな、というトラブルは今も起こり続けていますし、検索避けという中途半端なシステムでアクセスを抑制する、
という需要は現在もあります(参考:「同人サイトと検索避け:私の理解」)。
何を求めてサイトを公開しようとも、それは自由でしょう。ただ、まずは自分が何を求めているのかを考え、最適な方法でサイトを公開する(あるいはサイトを公開しない選択をする)ことで、不幸な目に遭わずに済むのではないでしょうか。
- 人格って文章に表れるのかな?
『肯定的な意見が多く、否定的な意見も感情論やミスリーディングをしているものは僅かで、この問題にかんしてのみなさんの関心の高さがうかがえます。』http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20031203#p1これを書いた方はプロのライターさんみたい。でも、もっと公開されている場で書いているんだ、と言うことを自覚した方がいいんじゃないかと思う。言葉って、文章の上手い下手レベルではないところで、その人自身が見えてくる気がするから。こう言いたかったんだよね。きっと。
『肯定的、否定的と限らず多くの意見が提示されました。この問題にかんしてのみなさんの関心の高さがうかがえます。』
実に鋭い指摘です。この問題を提唱した松谷さんには、これまでに見てきたように様々な意見が寄せられていますが、それらの松谷さんの捉え方は、確かに奇妙に思えます。
つまり、松谷さんにとっては、自説への否定的な意見はまず『感情論やミスリーディングをしているもの
』であることが前提のようです。
なんとも人を見下した姿勢に思えますが、プロのライターの方ともなると、普通のサイト運営者とは見方が違ってくるものなのでしょうか。
ちなみに、このリンク集を数える限りでは松谷さんの主張に肯定的な方は少数派で、12月6日までだとその数は以下の通りです。
紹介 | 肯定 | 否定 | 中立 | 確認できず | |
---|---|---|---|---|---|
12月2日 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 |
12月3日 | 5 | 3 | 3 | 3 | 0 |
12月4日 | 7 | 5 | 9 | 1 | 2 |
12月5日 | 9 | 1 | 14 | 7 | 2 |
12月6日 | 6 | 2 | 13 | 4 | 1 |
ただ、松谷さんは各言及記事の受け止め方が物凄く前向きなのかも知れませんし、 松谷さんだけが把握していてリンク集に載らなかった言及記事に肯定的な意見が多かった可能性もありますが。
元記事に関しては二つの点で「それはちょっといけないね」と思うところがあって、一つはネット上に日記が存在する」という状態を「電車の中に人がいる」という状態に置き換えてネット上での儀礼的無関心というものを持ち出して必要性を訴えている点。「日記が存在する」という状態と「人がいる」という状態は全然違う。ひょっとするとこの人は「ネット上に日記が存在する」という状態から「ネット上に人間(人格)が存在する」という状況を想定してこういうことを書いているんじゃなかろうかと思えて、それはちょっと何かの見過ぎでヤバいんじゃないかなんて非道いことまで考えてしまいました。
もう一つは、以前から再三申し上げているとおり、何か主張するときに例え話をするのは危険ってこと。
これまたもっともな指摘で、ウェブが世界中に公開するための道具であるのに対し、電車はそういう道具ではないわけです。
確かに比喩なのですから、両者に共通点があるならそれで良いのですが、松谷さんはそれも説明されていません。
それで『これは、電車のなかでの例を出すとわかりやすい。
』
と言われても、「その比喩には無理がありますよね?」と思ってしまうわけです。
「機能的にできるかどうか、ルールとして許されるかどうか、道義としてやるかどうかは次元が別。その結論もケースバイケースで、すべての事例に適用できる唯一の答など無い」
ということを明言してしまえば、後は個々の事例を抱えている人に委ねておしまいな話です。
江洲さんの記事などの繰り返しになりますが、結局はリンクするかどうかは状況により各個人が判断する事柄です。 そこに他者が一律のルールを持ち込もうとしては、大変なことになってしまうでしょう。
勘違いの産物による事件の発生を、儀礼によって抑止することを考えるならば、勘違いを正すことを考えた方が、道としては真っ当ではないかと思うのである。ネットは特別じゃない、当り前の事が当り前にあるだけである。
Aさんが本当に『勘違い
』をしていたのかは分かりませんが、上の江洲さんの記事でも指摘されているように
『ひっそりとネットで日記を書いている
』つもりだったのなら、
それは確かに勘違いというものでしょう。そしてその『勘違いを正す
』ということは、
即ちBさんがしたようにAさんのサイトにリンクをするということになるのでしょう。
これは狐志庵さんが指摘されるように真っ当な道に思えるのですが、松谷さんにはこれは『誰も幸せになっていない
』
選択なのですよね。何が幸せなのかは、各自が判断することだと私には思えるのですが。
私自身の「リンクの自由」についての考えは、昔は「WWWは誰がみるのかわからないんだから、無断リンク禁止と言ったり、予想外の人の目に晒されたくらいでおたおたするなんて覚悟なさすぎ」でした。
それが今では「できるだけリンクは自由であってほしい。でも、悪意はなくてもリンクすることが"暴力"になってしまう可能性があることを、リンクする側も常に頭の中に入れておくべきなのでは」と変わりました。
リンクするというのは一種の権力の行使であり、そこには良識が求められます。しかし良識を働かせても、やはり上のotsuneさんの2回目の記事や狐志庵さんの記事のように、 Aさんにリンクするという結論はあり得るわけです。
また、リンクには良識が求められると述べましたが、それと同様に、サイトの公開も一種の権力の行使であり、そこには良識が求められるでしょう。 公開されたサイトがいつでも暴力となり得ること、それを回避するために他者の意見をすぐに聞ける状態を保つことをサイト運営者には忘れてほしくないと私は思います。
いかにも下らない自己満足べっとりのサイトでありつつ、そのページはごく稀に奇跡的な「声」を発することがある(それは真に核心を突いており、僕たちをハッとさせる)。焦点はここにある。僕たちが「儀礼的無関心」をよそおってしまうのは、その瞬間に聞こえる「声」が、危ういバランスの上に成立している貴重な何かであることを知っているためだ。
fvjkさんが指摘されるように、危ういサイトに対して「儀礼的無関心」が装われることも確かにあるでしょう。
しかし、それが望ましいことなのか、双方にとって幸せなことなのかは誰にもわからないわけです。
上で紹介したotsuneさんの2回目の記事で、otsuneさんは『それだったらオレの主張は相変わらず「BとCはAの為にリンクしてやってくれ」だ
』
と述べられています。また、上の狐志庵さんの記事でも、同様のことが述べられています。
危ういサイトだから見て見ぬふりをするのか、危ういサイトだから手を差し伸べるのか、それは結局ケースバイケースなのではないでしょうか。
リンク集をざっと見て、印象に残ったのが「アクセス制限? パスワード認証? それは誰でも出来ることではないよね。それをAにやれというのは酷な事だ」というニュアンスの意見。
これ技術者の立場で言いたいのですよ。
「酷な状況だったら、そのメンドクサイ状態をなんとか自分たち素人の手でも扱えるように行動しようよ」ってこと。
上のみえき256さんの2回目の記事とも関連しますが、確かに閲覧者を切り捨てるシステムはありますが、 本当にそれをAさんのような運営者が望んでいるかそもそも分らないというのが問題なのではないでしょうか。 Aさんようなサイト運営者は、サイトをどのように公開したいのか、あるいは公開したくないのか? それが分らない以上、これは技術者に解決できる問題ではないように思えるのですが。
ここでポイントとなるのが、こういうニーズを持つ人たちが「誰に見せたいのか?」という問題に明確に答えられるのかどうか、ということです。自分の知っている特定の人にしか見せない、という話なら簡単です。これ書きながら気がついたのですが、はてなダイアリーのプライベートモードがまさにそれですね。メーリングリストでも可能ですから、初心者向けのサービスもあると思います。
しかし、どうも儀礼的無関心というマナーを要望する(と想定されている?)人たちは、そういう完全にクローズのコミュニティを運用したいのではないようです。ある範囲では一般公開したい、自分の知らない人にも見てほしい、という非常に複雑な気持ちがある。特定メンバー向けのアクセス制限では満たされない複雑なニーズなのです。.htaccessができない、という技術的な問題が本当の問題ではないような気がします。
ただそれにしても、要件がハッキリしているものなら、誰かが作ると思います。複雑であっても、ケース分けをして分析していけば、工数は膨らむけど作ることはできます。でも、そういう話でもない、「ニーズの複雑さ」にも帰着しない問題のようです。それで私は思うのですが、このニーズというのは「自分のニーズをハッキリさせたくない」というニーズなのではないでしょうか?
つまり、自分の書いたものを人に見せたいのか見せたくないのか、そのことをハッキリ明言したくない、それは他人に対してもそうだし、自分自身に対してもそうなのです。仮に、何らかの手段で微妙なアクセス制限をしてくれるサービスがあったとしても、そのサービスを利用して自分の文章を公開するということは、そのサービス(と設定)によって表現される特定の人に向けて自分は書いているのだ、と宣言していることになります。それが明確になってしまうことを避けたいのではないでしょうか。
この記事は、上のみえき256さんの2回目の記事やotsuneさんの3回目の記事についての、一つの解答なのかも知れません。 確かに、誰にでも見せたいわけではない、という方針のサイトはあります。しかし、ではそういったサイトは誰に見せたいのかと考えた場合、 その答えが明確にされることは滅多にありません。答えがない以上、みえき256さんやotsuneさんのような方が「技術的に解決を」と提案したところで、 その技術は実現しないわけです。私も長い間、「何故方針を明確にしないのか?」と疑問を持ってきました。もしかすると、その解答がこのessaさんの記事なのではないでしょうか。
私の印象ですが、誰にでも見せたいわけではないサイトの運営者は、執拗なまでに自分の方針を明らかにしません。 そういう人々は、方針を隠しているというよりも、方針について無自覚であるか、むしろその方針を考えたくないようにすら見えるのです。 そう考えていくと、確かにこのessaさんの記事は的確であるように思えます。自分自身に対してすらニーズを明らかにしたくない―― 奇妙に思えますが、確かにそう考えるならば誰にでも見せたいわけではないサイトの運営者の考え方は一貫しており、理解できます。
そしてそこから思うのですが、もしかするとニーズを明らかにしたくないという考え方は、自分を悪者にしたくないという意識から来るものかも知れない、と感じました。 上の記事でみえき256さんが書かれたように、何らかの形で閲覧を制限することは、閲覧者を切り捨てることに他なりません。 そこに罪悪感があるからこそ、そういうサイトの運営者はそのことを考えないようにし、閲覧者に対しても自分自身に対しても、 自分は切り捨てなんかしていないよ、というスタンスを取っているのかも知れません。
ごく単純化すると、「常連さんだけ大切にしたい」ってことじゃないかと思うんだよね。「一見さんにはうろちょろして欲しくない」というか。馴れ合いの場じゃないと落ち着けない人たちというのは、確かにいる。
だとしたら技術でカバーできる。
最初のアクセスでセッションIDを発行して、クッキーに保存。そのIDのアクセス数(のようなもの。ポイントみたいな数値)をサーバに保存しておく。で、ポイントがある程度たまった人にだけ、新しい記事や人気のある記事を読ませてあげたり、インタラクティブなコンテンツへのアクセスを許可する。知合いにはあらかじめ、多めにポイントをあげてもいいだろう。(略)
ユーザIDを発行したりする手間がないから、敷居が低くて誰でも使える(設置さえできれば)。「儀礼的無関心」とやらが必要とされているようなサイトって、こういう場のことじゃないのかね?
上のessaさんの記事への反応記事です。 技術とアイデア力を持つ人は、このようにすぐにシステムを提案できるのが素晴らしいと思います。 ……が、このシステムで問題が解決できるかについては、残念ながら疑問に思うところがありまして。
essaさんの記事にある通り、「儀礼的無関心」が必要そうなサイトというのは、そういったアクセス制限を明確に実施するのを避ける印象があります。 このシステムで問題が解決できるなら大変結構なのですが……どうなのでしょうか?
それとは別に、この話はあいまいな部分が多い。
Aさんが日記をやめたのは、どちらの理由なのだろう?
- アクセスが殺到したから
- リンクを張られたから
いいかえると、
- 特にリンクを張られなくても、アクセス数が増えると目立っていたことに驚き、日記をやめる。
- たとえ来た人が一人でもリンクを張られたことに驚き、日記をやめる。
話の流れからすると(2)だろう。正解は両方かもしれないが、(2)ということにしちゃう。
この場合、リンクではなく掲示板への書き込みやメールでも同じだろう。
ikeruzeさんが指摘されるように、Aさんが日記をやめた直接の理由は、明確ではありません。 Aさんが「閲覧者は一人もいない」と考えていたとは流石に考えにくいですが、どの程度の目立ち方だったら驚かれなかったのか?は結局、 誰にも分りません。分らないのに松谷さんの提唱する「儀礼的無関心」を皆が行うのは、極めて難しいように思います。
そうやって、俗流の大河が怒涛となってすべてをきれいさっぱり洗い流して行くのだ。
それはそれで大いに結構なことじゃないだろうか。俗に揉まれればそこから飛び出す先鋭も生まれる。残らなきゃそこまでだ。ひっそりと消えてもどっかに種が蒔かれてる可能性もあるだろうし、しょせん、人にできることは種を蒔く程度のことだ。
artonさんは、「リンクによって怒涛の人波が押し寄せて多くのサイトが閉鎖するかもしれないが、それでもいいではないか、それらの中から飛び出てくる先鋭的なサイトもあるだろう」 といったことを仰りたいのだと思います。豪快な意見と見えるかもしれませんが、真理ではあります。
私は以前、拙稿誤解の理解-何故リンクが自由なのかで、突然人気のサイトからリンクされたことでより見られることを意識し、 コンテンツを充実させ人気サイトとなっていった「FOMALHAUT」を例に挙げさせて頂きました。 突然リンクされることによるサイト閉鎖のリスクが確かにあるとしても、逆にそれがサイトを魅力的にする可能性もあるわけです。
少数でやりたい。というのはおそらく大前提。
それはたぶん自分の目の届く範囲に留めたいという欲求から来ている。
常連だけ大切にしたいわけではなくて
たまには新しい仲間も欲しい。
ただ、一度に沢山来てしまうと把握しきれない
あまり沢山の人を相手にするのは精神的負担が大きい
というようなことだろうと思ってました。外から眺めて適当な推測で言っているわけではなくて
そういう話をしていた人がけっこういたからなんですが
パスワード制限があったとしてもそれで閉じてしまうのは嫌だ
新しい人も入ってきてほしいし…
というようなニーズは確かにあります。
ここで問題なのは2点あって
「全員をちゃんと相手したい」ということと
「たまには新しい仲間も欲しい」ということ。(略)ある意味本気度が低い人こそが
こういう仕組みのターゲットになるのだというのは
皮肉な話というかアンビバレントな感じがするなぁ。
気楽にやるための重装備というか。
上のessaさんの記事とただただしさんの2回目の記事への反応です。 これもまた、鋭い指摘なのではないでしょうか。確かに、限られた閲覧者を望むサイト運営者でも、完全に固定化された閲覧者ではなく、 多少は新規の閲覧者を望んでいることが多いように思います(再リンク:「同人サイトと検索避け:私の理解」)。 無論、限られた閲覧者を望むサイト運営者の全てがそうであるかは分りません。しかし、そういった需要は確かにあるわけです。
それにしても、『気楽にやるための重装備
』とは言い得て妙ではないでしょうか。
本来、ウェブはそう難しい場ではありません。世界中の人に見せたい・伝えたい言葉や作品を公開してしまえば、それで大丈夫なわけです。
しかし、そこまでのことではない、一部の人だけに言葉や作品を届けようとすると、大変面倒なことになってしまうのですね。
WWW(ワールドワイドウェブ)とは、つくづく面白いシステムだと感じます。
儀礼とやらを守る人もいれば、そうじゃない人もいるし、(略)儀礼的無関心を流布するよりは「インターネットの世界は皆マスコミに出ている有名人状態」ということを流布した方がいいような気がする。
実際にどちらの流布も難しいとは思うのですが、ただ、上のhakurikuさんの記事について述べたように、 「儀礼的無関心」の流布はトラブルの元になりますので、意図的に避けた方がいいと考えます。
儀礼的無関心がなんかしっくりこないのって、他人をあてにしてるからか。リンクするなって言う形で。いくら穏便婉曲的に表現しようとも「リンクするな」と言っていることには変わりない。
その前にまず自分がリンクされないような仕組みを勉強していろいろとしかけていて。それがどれもこれも失敗していて。そういう状況なら多分ここまで拒否反応はしてないと思うし……
自分が本当に望むものと言うのは自分しか創れない。
儀礼的無関心を望む人たちはまず自分が望むものをどう創ろうとしたのだろうか。
他人の力をあてにするのはその後だと思うのだが。
Vidさんが指摘されるように、サイト運営者にとってみれば、「儀礼的無関心」というのは結局他人任せのやり方に過ぎません。 いちサイト運営者としては何とも不愉快なシステムであり(受益者負担の原則はご存知ですか?)、 Vidさんのような反応が出てくるのも当然ではないでしょうか。
確かに、松谷さんの提示されたケースでは閲覧者の利益も謳われているわけですが、何が自分の利益かは閲覧者それぞれが考えることです。 結局、「儀礼的無関心」とは「ひっそりやりたいサイト運営者のために、皆はリンクするな」と言っているようにも思えてしまうわけです。
.技術マンセーな人が陥りがちなんだけど、 「リンクしないでね」と一言書くことの「簡単さ」 という効果を甘く見る傾向があるのは確かなんだろうな。 私の技術屋としての経験から言わしてもらえば、 この手のものを甘く見るべきではない、という点は注意しておくかにゃ。 それで済むならそれに越したことはない。
.勘違いされないように一応言っておくと、 もちろん一方で、 厳格に守りたいものがあるのに鍵もかけずに「この扉開けるべからず」 と貼り紙するのはアホのやることだわな。 これはリンクの是非というここでの主題とは明確に区別されるべき話題だが。
塩崎さんが指摘されるように、『「リンクしないでね」と一言書く
』だけでも、かなりの人は守ってくれます。
軽視する人も確かに多いようなのですが、その影響力は決してあなどれません。
ただ、逆に影響力がありすぎて、それを過信してしまう人も結構いるのですよね。 つまり、「今までの人は全員注意書きを守って、リンクの際には必ず連絡してくれましたよ! 連絡なしでリンクするなんて、あなただけです!」という感じで、 「効果がある=強制力がある」と思ってしまう人々がいるわけです。そういう人々がいる以上、親切に(?)注意書きを守って相手の勘違いを助長させるかも知れないのもどうかなあ、 などと思うこともあります。
こないだ書いた 儀礼的無関心 についての話。 公開したいけどウザいのはヤダっていうやたらめったら都合の良い需要があるんだそうで。(略)
技術的にそのような需要を満たす事もまったく不可能ではないだろうが、それこそ倫理的に実行すべき事ではないだろう。精神の幼さを助長する技術は倫理に反するからだ。
「儀礼的無関心」が要求されるサイトの運営者が皆、精神が幼いのかどうかは分りませんが。確かにリンクについてトラブルを起こす人々には、考えの足りないケースが圧倒的に多いようには思います。
個人的には、上で書いたとおり、 「リンクする自由」っていう考え方がいろんな人に広まって、 それを多くの人が許容する世の中になるのはいいことだと思ってます。 一方で、一部の人々の「リンクされたくない」という感情的な部分を 権利という名の下にバッサリやるのは、 率直に言って大人げないなぁ、と思うのです。
個人的には、リンクされたくないないという感情を権利の元にバッサリ無視する人はまずいないのではないか、と思っています。 例えば、上の塩崎さんの記事について私が書いた「勘違いを助長させたくない」など、リンクについての要望を無視する側には、 まず何らかの理由があるのではないでしょうか(ちなみに私の場合、その理由でリンクについての要望を無視したことはありませんが)。
愛の死体安置所は今日から「敵対的無関心」の積極的な使用を奨励します。下痢便のような倫理観に燃えた一部の役人が施設の児童虐待を見逃すような単なる無関心ではありません。 悪意をもって関心を持たないようにするのです。だから今後はそんな木っ端役人も根性を出して「あいつら貧乏人だし、死んで当然」と公然と言い放ちましょう。 幼児虐待の母親も「だって〜、テレビとかみたいし〜、友達とかみんなまだバンバン遊んでるし〜」と堂々と主張して子供を飢えさせましょう。どっちみちあなたの無関心は他人の迷惑なのです。
拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」でも述べたように、
「儀礼的無関心」を提唱した松谷さんは、『実際にぼくはそんなに優しくありません。先のコメント欄にもちょっと匂わせましたが、だって、裏を返せば、僕はこっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、と言ってるんだもん
』など、「儀礼的無関心」がされる側にとっては優しくない行為であるとも述べていました。
morgueさんのこの文章は、それをより露悪的に述べたものと言えるでしょう。
確かに、問題を抱えた相手にとって、無関心は時に害悪となり得ます。私は以前、何もしてなきゃ偉いのか - 悪趣味を笑う無関心という記事を書きましたし、 上のotsuneさんの2回目の記事や狐志庵さんの記事でも、それは明らかでしょう。 儀礼的無関心が徹底した社会というのは結構恐ろしいものかも知れません。
さて、「儀礼的無関心」で僕が共感をおぼえる箇所は、リンク先の運営者が「変声期」前にあった時に限られる。いわゆる、思春期とか反抗期、第二次成長期を迎えているティンネイジャーたちだ。ネット上での年齢は自己申告なので、それを正確に判断することは難しいが、サイトオーナーが「変声期」前にある可能性が認められた場合、成人の側からのリンクは控えた方が好ましいように思われる。(略)
大半の子どもたちは「変声期」を前に、ネット上での社交術を学んでしまっていて、そのため自分の「声」を手にする以前に、大胆な「声」を発する機会を自ら放棄してしまっている(ように思う)。「声」がトラブルを招くことを知っていて、それでも自身の「声」を出してみようとする子どもは少ないだろう。さらにそこへ成人たちの「儀礼的無関心」がなければどうなるか。子どもたちはますます「声」を発することに臆病となり、「変声期」を経由しないで成人するようになるのではないか?
子供にのみ「儀礼的無関心」される権利(?)を認めるというのは興味深い提案ではありますが、私にはそれは過保護というものではないかと思えます。
上のMIZUNOさんの記事の言葉を借りるなら、子供たちがリンク大人からリンクをされて傷付くのは『痛みを伴なうものの経験によって学習したという事
』
なのではないでしょうか。傷付くが成長に必要な場合もある、私はそう考えるのですが。
ちなみに、このリンク集はここでほぼ半分ですが、松谷さんの「儀礼的無関心」に肯定的な記事はこれで最後となります。
そもそも、「そっとしておいてあげる」のが果たしてその人のことを思いやった結果であり、その人のためであるのか、ということは考慮した方がいいんではないでしょうか。
繰り返しになりますがraffineさんの指摘される通り、「儀礼的無関心」を提唱した松谷さん自身、『実際にぼくはそんなに優しくありません。
先のコメント欄にもちょっと匂わせましたが、だって、裏を返せば、僕はこっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、と言ってるんだもん
』など、
「儀礼的無関心」がされる側にとって優しくない行為であると述べていました。逆に、otsuneさんの2回目の記事や狐志庵さんの記事を見ても、
善意から「儀礼的無関心」が行われないケースがあることがわかります。
この手の議論が繰り返されて嫌気がさすのは、たいがい「自分の都合のいいように他者をコントロールしよう」という妄想に満ち溢れた人が議論に参入してくることです。多くの人に読んで欲しいけど自分に悪意のある人はイヤだ、ってのは理解できなくもないですが、それじゃあその人は誰からも反感を買わないような内容を書いているのか、っていえばそうとも限らないわけで。
なかにはとんでもない輩がいて、何の論拠もなく他人を糞味噌に貶しておいて、リンクはお断りだ!悪いのは俺じゃなくてリンクする奴だ!俺は自分の意見を言っただけだから悪くない!と声高に主張する神経の持ち主がこの世にはゴマンといるし、いるってことが目に見えてしまうからイヤになるんですね。
raffineさんが指摘されるように、あるいは私が上の吉田さんの3回目の記事についてコメントしたように、自分は散々表現の自由と言う権力を使っておきながら、リンク禁止で反論を受け付けないようにする人々は多数いるわけで。 リンクの自由を否定する人々を擁護する人々が、それを知らないで意見を述べているようにしか見えないケースがあることが何とも残念に思えます。
Blog等に関する「リンクトラブル」の原因は、Webでプライベートな日記を公開している人が「誰にリンクされるかを選びたい」というケータイ的なネットワーク感覚で公開しているにもかかわらず、blogなどのアーキテクチャがそのニーズに適切に応えられない点にある。
上で紹介したessaさんの記事にもあるように、特定の友人にだけブログを見せられるような仕組み自体は、当時既にいくつかのブログツールにあったように思います。 問題は、その記事にもあるように、「儀礼的無関心」が必要と思われる人々が、自らのニーズを明らかにしようとしないことではないでしょうか。
ant-eat-ant world 2003/12/16
ミニコミ的なWebサイトを作りたい人は、読者数を選ぶために「読者を減らす努力」をすべきではないかという話。ここでは、わざと読みにくくする工夫が上げられています。(略)最初に取り上げたリンク先では、基本的にデザイン面と文章の内容で読みにくくする工夫が挙げられてますが、 自分の場合、読者を制限することに関しては、技術面での進化を期待しています。
ただ、読者を限定するためのシステムが実現できても、それはどうしても「重装備なシステム」になりがちで、 システムを一番必要とするはずの人たちは面倒臭いことを嫌がる層であり、結局簡単な「誰でも見られる形で公開」という形を選択する人が多いでしょう。 ですから、この問題の解決の道はなかなか遠いとは思いますが…。
閲覧者を減らす努力をするというのは大変興味深い話であり、加野瀬さんに紹介されていた記事にある『ユーザーアンフレンドリー
』
という言葉は衝撃的ですらあります。しかし、上の野嵜さんの記事にあるように、
注目されるようなことを公開すれば閲覧者が集まるのが必然であるなら、意図的に注目されないような書き方をして閲覧者を減らすこともまた、当然と言えるのかも知れません。
上のessaさんの記事では、「儀礼的無関心」の対象となるであろう方々の
『自分の書いたものを人に見せたいのか見せたくないのか、そのことをハッキリ明言したくない
』
というニーズが考察されていますが、こういう形で閲覧者を減らす努力をするというのは、そのニーズにも合っているのではないでしょうか。
ネット上の注目はニュースサイトがリンクしたから注目集まるのではなく、注目されるべきようなもんをWeb上にアップしてるからされるのだ、と考えるわけなのです。
その時期が早い段階か遅い段階かの違いでしかなく、そんなのいずれ注目されるもんなわけで、嫌なら頻繁にURL変動させるとか注目分散の努力しないと。
highbiscusさんが指摘されるように、あるいは上で紹介した野嵜さんの記事にもあるように、注目されるようなことをウェブで公開すれば、注目されるのは自然なことです。 この時、注目されたのはリンクした人のせいだと言う人もいるのですが、実際はそうではないわけですね。注目されるようなことを公開すれば、誰かがリンクしなくてもいずれ他の誰かがリンクするのであって、 それは自然現象と変わらないのです。例えば、新商品を発表した企業が注目されて株価が上がるのは自然なことで、誰かのせいではありません。
突然リンクされた人はしばしば、リンクした人を「お前のせいで注目された!」などと激しく非難します。 しかし注目されるようなことを書いていた以上、いずれリンクされるのは必然であって、リンクした人を責めても仕方がないのです。
不倫日記だのをいい年こいて覚悟もなしに公開して、いざ晒されたらわめくような人は全くもって自業自得なので考えに入れなくていい。 問題なのは、「見てほしいんだけど見てほしくない」という中途半端な位置にいながらいいものを生み出している人たちで、 こういう人たちに対して儀礼的無関心を貫くのはある程度必要なことなのかなと思う。
上で紹介したfvjkさんの記事とよく似た指摘なのですが。やはり、そういう人に「儀礼的無関心」を行うかどうかは、 それぞれが判断すべきことなのではないでしょうか。無論場合により、「儀礼的無関心」を行うという判断もあり得るでしょうが、 他の人が逆の判断をしても何ら不思議はないわけです。
「で、大手サイトの人は他の相手の気持ちを考えましょうっていう」
「そうだね。怖いもんね」
「でもそれだけだとマナーは大事だね、っていうだけの話で」
「うん」
「俺が関心あるのは、どういうサイトがプライベートなサイトで、どういうサイトがパブリックかってこと。それが分からないと気を付けようがない」
儀礼的無関心をルールとして実行していくとすると、「儀礼的無関心」を行うべきサイトが明文化できない以上、それは「暗黙のルール」ということになるわけですが。
世の中には「暗黙のルール」が大好きな方々がたくさんいまして。そういう方々は、誰もが「暗黙のルール」を知っているのが当然と考え、
破った人を激しく非難したりするわけですね。「無断リンク禁止」などはまさにそういうルールで、無断でリンクされることを嫌がる人がいると
知らない方々が、これを破ってあちこちで散々な目に遭わされているわけです。
sakoto00さんもそうなのかも知れないと思うのですが、私のような暗黙のルールに疎い人間にとっては、こういう社会は何をするにも
「これは暗黙のルールに反してないだろうか?」と考えてしまい、恐ろしくて仕方がないわけで。
そして私は、「儀礼的無関心」というルールにも、まさにそれと同じ匂いを感じてしまうわけですね。 もしこれが正しいということになれば、それは新たな「暗黙のルール」となり、それを知らない多くの人々が吊るし上げられることになるのではないか、 そんな風に思えてしまうわけです。
違和感を感じたのは、
- WWW の世界では「ゴフマンの儀礼的無関心」に分類できる行動がない。 これを導入できたらみんなが幸せになるのではないか。
- (物理的な)公共空間においては、儀礼的無関心が働いてみんな幸せだ。
という主張そのものに疑問を呈している人が (少なくとも 1月頭までのリンク集で見られるところでは) ほとんどいないところです。 (略)
結局のところ、
- WWW の世界でも「儀礼的無関心」にあたる行動がとられている。
- (物理的な)公共空間でも、WWW の世界でも それらのマナーを破る奴がいて、被害をうけることがある。
ということだと思うのです。
松谷さんの提唱する「儀礼的無関心」は、相手を思いやってのマナーではなく、主に自分の利益のための行為なのですが(詳しくは下の加野瀬さんの2回目の記事参照)、それはそれとして。
hirooさんが指摘されるように、あるいは上のKoyasuさんの記事などにもあるように、
ウェブでも「儀礼的無関心」は行われているわけです。そして実社会でも、常に儀礼的無関心が行われるわけではない。
要するに、ウェブも実社会も何ら変わりはないわけですね。
話を戻すと、どうしてネットでの儀礼的無関心の話に萎えたのか。もちろんワタシだって、あえてリンクしないで済ませることはある。 しかし、そうした配慮はそれぞれの心の内にしか存在しえないもので、集合的なものとして組織化できるものではない。 今回のネットにおける儀礼的無関心、と称する呼びかけ自体、マナー、ネチケット(おえっ)の領域を超え、一種の抑圧につながりかねないからだ。 それでは儀礼でも何でもない。
上のjounoさんの記事や江洲さんの記事にもあるように、「儀礼的無関心」はルールの提案です。 しかし繰り返しになりますが、もしもそのようなルールが実施されれば、吉田さんの3回目の記事についてコメントしたように、 危険だと私は考えるわけです。また同様に、そのようなルールが実施されればyomoyomoさんが指摘されるように、あるいはsakoto00さんの記事についてコメントしたように、 抑圧的な状況を生みかねません。
こうした問題を考えた上で松谷さんは「儀礼的無関心」を提唱されたのか、私には疑問に思えるのですが。
はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH : ネットでの儀礼的無関心の可能性
これはもともとの発端ですが、リンクを張られたAさんがどういうことを書いたかというのは問題にされず、リンクを張ったBさんに対しての提案がメインでした。
また松谷さんはリンク先のコメント欄でこのように書かれています。# TRiCKFiSH 『また、匿名掲示板のリンク張りはたしかに防止できないでしょう。ただ、匿名掲示板の人も利害関係は理解できるはずです。僕が「誰も幸せになっていない」というのは、結果として当該の日記が消えることで、匿名掲示板の人たちも永遠に見られなくなるということを意味します。つまり、こっそりのぞき見できる可能性が失われるわけです。共有されるメリットを維持するための儀礼的無関心、とも言い換えることができるでしょうね。しかし、これが、誰かひとりがリンクを張ることによってスポイルされる。それは道徳的・倫理的な問題ではなく、公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞いだなぁ、と僕は思うんです。』
はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH : 「ネットでの儀礼的無関心」追記&次回予告
で、なんでこういうことを書いたかというと、一部でぼくが「やさしさ推進で万事はオッケー」だと思われているふしがあるからです。よく読んでいただければわかるとおり、そこまでは決して言ってないし(つまり、「過剰な読み」をされてしまったわけですね)、実際にぼくはそんなに優しくありません。先のコメント欄にもちょっと匂わせましたが、だって、裏を返せば、僕はこっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、と言ってるんだもん。
以上から、自分は「儀礼的無関心の可能性」を「サイト運営者はひそかに運営している素人のサイトをこっそり覗き読む権利に配慮して欲しい。特にアクセス数が多く影響力のあるサイトは」という主張だと受け取りました。 なお、ここでいう「素人」は「ネットの技術を知らない人たち」という意味で使っていて、以後もその意味で使います。
「こっそり覗き見して皆で情報を共有するメリット」は「公共の利益」なんでしょうか。これが、掲示板などに参加している人からすれば「そのコミュニティの利益」ですが、特別に相手にコミットせず、覗き見している第三者の利益に公共性はないでしょう。 (略)こっそり覗き読んでいる人が、一番望んでいる事態を考えてみます。
「素人のサイト運営は、多人数に見られていることに気が付かないような状態にしておくべきだ。日記や掲示板サービスはアクセスログやカウンターの提供など読んでいる人を意識させる機能をつけてはいけない。そのサイトを紹介する時は、直接リンクせず、転送リンクや、URIのみ表記、googleキャッシュリンクなどでリンク先がばれないようにしろ。そうすれば、素人のサイト運営者は多人数に読まれたくない文章を書いてくれる」
これでは、あまりにも素人をバカにしてますし、素人の利益がありません。素人の利益になる方法はないのでしょうか。(略)必要なのは、閲覧者を匿名のまま、閲覧者を制限するシステムです。アクセスが一定数に達したら表示しない、 特定のサイトから多数のアクセスがあったら表示しない、同好の人たちの間でしかわからない言葉をパスワードとして使う といった手段が考えられます。
現在のインターネットで、ネットに関する知識がないまま、サイトを公開するというのは、教習所に行ってない人が、 いきなり高速道路を走るようなものです。本当なら、近所の道路から始めて、だんだん高速道路に近づければいいのですが、 そういう学習をする場所はありません。しかし、緩やかに読者を制限するシステムができれば、最初のうちは数人を相手に、 そして数十人、数百人に…と段階的にステップアップできます。これは「ネットの教習所」として機能するでしょう。
極めて重要な指摘で、この内容は拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」でも紹介させて頂きました。
松谷さんの「儀礼的無関心」は、多くの人々に「ひっそりやっているサイトへの思いやりを求めたものだ」と解釈されてきました。しかし、そうではないわけです。
氏自身も認めているように、これはむしろ「ひっそりやっているサイトを踏みつけにしよう」という提案なのです。『こっそりのぞき見
』するのが
『公共の利益
』だとはまったく厚かましい言い分であり、
そこに「ひっそりやっているサイトへの配慮を感じることはできません。
これまでにも、otsuneさんの2回目の記事や狐志庵さんの記事のように、 「ひっそりやっているサイトへの配慮としてリンクをする」という考え方はこれまでにも紹介してきましたが、 これらの記事の妥当性もこれでより理解頂けるのではないでしょうか。
後半で加野瀬さんが提案される教習所システムなのですが、これは上のみえき256さんの2回目の記事やただただしさんの2回目の記事とも 関連する、技術的な解決の提案です。しかしながら、これについては私はそれが解決策になるのか、疑問に思えます。 多くの人に見られたくない「素人」の人でも、 上のessaさんの記事やkengochiさんの記事にあるように、 閉じた世界を望んではいない場合が多いように思えるのです。
この記事は長めですがこの論争を知る上で重要ですので、通読をお勧めします。
私はたしかにAさんのことも思いやってこの話をしましたが、同時に自分(Cさん=ウォッチャー)のメリットも要求しています。つまり、AとCのメリットをBは潰すな、BはAとCに「儀礼的無関心」しろよ、と言っているわけです。つまり、“AさんとCさんの関係”をスポイルするな、と言っているわけですね。
松谷さんの「儀礼的無関心」は、Aさんのことも思いやっていたのだそうです。しかし、上の加野瀬さんの2回目の記事や、 あるいは拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」でも分るかと思うのですが、 その主張には疑問を持たざるを得ません。松谷さんの「儀礼的無関心」で利益を得るのはCさんだけであり、 Aさんは自分では気づいていないだけで最悪の状態にあるからです。
もしかすると松谷さんは、「Aさんにも利益はある。Aさんは自分のサイトがあまり見られていないという幻想を信じたまま、サイトを運営できるではないか」と言いたいのかも知れません。
しかし、その主張を否定するのがまさに松谷さんのコメント『「他者を思いやること」が、とても横柄な態度に思えるからです。
もちろん、だれかを「思いやる」のは勝手です。しかし、それはその相手から「余計なお世話だ」と言われた瞬間に却下されます。
』なのではないでしょうか。
意図的に勘違いを助長させるのが相手を『思いやって
』いるのだとは、まさに『余計な御世話だ
』というものでしょう。
加野瀬さんのレトリックとは、このような(注:読み専門の)インターネットユーザー7割=「覗き見している第三者」に「その利益の公共性はない」というものになるかと思いますが、それはちょっと飛躍があると思います。なぜなら、静かに読む人の権利もありますからね。それでも「覗き見している読者」に「権利がない」というならば、その論拠を示してみてください。たぶん、できませんから。
拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」にも書きましたが、
そんなものは簡単に示せます。「権利」とは、他者に何かをさせる、あるいは何かをさせない法的な地位です。
権利は全て法律に定められており、法律にないものは権利ではありません。
「覗き見している読者」の権利を認める条文は法に見当たりませんので、松谷さんの主張ははっきりと間違っています。
権利が発生すると当然相手に義務が発生するわけですが、松谷さんはサイトの運営者にコンテンツ公開の義務があるとお考えなのでしょうか?
さて、話は変わって、以下は私の友人の例をあげます。
若い女友達なのですが、彼女は自分のプロヴァイダのサーバにHPを持っており、それとはべつに無料レンタルできる非ブログの日記サイトを持っていました。日記の内容は、恋人や友人、バイト、好きな音楽の話とか、いわゆるよくあるものです。ちょっと赤裸々で、ハッキリ言って「自意識丸出し恐怖新聞」的な内容でもありますが、とりあえず身分を特定されるようなことはない、という感じです。
そこには、単純アクセスのみのカウンターも置かれているのですが、ある日以降、その数値がどんどん高まったそうなんです。だけど、どこかにリンクされているかどうか、調べてもわからない(というよりも、レンタルサーバということもあり、調べようもない)。で、彼女は不安になってその日記を閉じ、同じ無料レンタル日記をべつのメールアドレスで登録して借りて、また新たに日記を書き始めました。
しかし、今度彼女は、自らのHPからその日記へリンクで飛ぶ際に、IDとパスワードを入力するような設定をしました。そして、自分が日記を読んでほしい人のみ(ここに私も含まれるのですが)にそのIDとパスワードを教えて「読め」と言ってきたわけです。
すでに、この出来事はすごく混乱しているのに気づかれている方もいるかと思います。
まず、彼女は自分のHPから日記へリンクで飛ぶ際にはパスワードをかけているのだけれど、日記そのものは無料レンタルですので、そこに直接カギをかけているわけではないのです。つまり、玄関には厳重にカギをかけて、裏口は開放している状態なんですね。それならば、最初からその無料レンタルの日記のURLをみなにメールすればいいだけなんです。
次に、彼女はHPから日記へリンクで飛ぶ際にIDとパスワードをつけるという技術的努力をしているのにもかかわらず、自動日記生成プログラムを借りてきたりするようなことはせず、また「はてな」を借りて「プライベートモード」を使うという知識もないんです(ただし、「はてな」は先に述べたように閲覧者の敷居があるので、それを考慮したものかもしれません)。
いまだに彼女はその無料レンタルのサーバで、自分が許した友人のみが見ていることを前提に(しかし誰に見られているかはわからない)、日記を書き続けているようです。ちなみに、私はそんな閉じた日記は興味なく、内容も私言うところの「自意識丸出し恐怖新聞」なのでとても気持ち悪く(友人がやっていると嫌なもんです)、最近はアンテナからもはずし読んでいません。
何と言いますか、正直なところ松谷さんの友達甲斐のなさに呆れてしまうのですが……。
友人と言うなら、そんな状態で日記を公開しているならアドバイスの一つもすればいいのではないでしょうか?
そりゃあいわゆる「ウォッチャー」(Cさん)の立場としてはAさんが無防備なまま日記を書いてくれれば、
本来見えないような記事を書いてくれるかも知れない、と思うものかもしれませんが、友人をそんな状態で放置する神経は理解できません。
これは、まさに松谷さんが「儀礼的無関心」を行ってCさん達の利益を守っているところなのかも知れませんが、 私としては儀礼的無関心の醜悪さにますますぞっとしてしまいます。
なお、この記事は長いのですが松谷さんの考え方を知るうえでは重要ですので、通読をお勧めします。
以前「こっそりやっているサイトには、あえてリンクしないという配慮も必要ではないか」という話題が一部で取り上げられ、そのキーワードとして「儀礼的無関心」という言葉が使われるなど、いろいろ考えるところがあった。このサイト内でも「ネットでの儀礼的無関心」かコミュニケーション優先かという記事を公開した。
しかし、ARTIFACT −人工事実− 2004/01/31「ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−」を読んで、自分自身がその話題の発端を間違って受け取っていたことに気づいた。
アクセスが集中した小規模サイトが焦って記事を削除したり、サイトを閉鎖したりすることがある。そんなことがないように思いやりを持って、あえてリンクしないであげようよ……という趣旨だとてっきり思いこんでいたのだが、何のことはない、最初に言いだした人は「こっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、と言ってる」のだった。要は覗き見である。その出歯亀行為を「公共の利益」にすり替えて議論が進められていた。このあたりを完全に見落としていたのは、私の大きなミスだ。
そこではっきり言わせていただく。「覗き見の
」と。権利など、守る必要は一切ない※2/6追記。法的な意味で「権利」は誰にでもある、という言葉尻を捉えた反論が来たので、余計な議論を避けるため、上記取消線部分を以下のように訂正します。
「覗き見する人の覗き見環境を他人がわざわざお膳立てしたり維持したりしてやる必要は全くない」
覗き見する先がなくなったからと言って文句を垂れるのは筋違いだし、ウォッチャーとしても恥ずかしい態度である。ウォッチ対象が潰れたら黙って次の対象を探すウォッチャーには何も言わないが、外からバカにして見ていただけの人が「せっかく俺が見ていたのに」と文句を言うのはおかしくありませんか?そして、それこそバカにされ続ける人の尊厳を損なう行為ではありませんか?
上の加野瀬さんの2回目の記事を受けての記事です。加野瀬さんが指摘された点に気付いていない方は多かったようで、 松永さんもここでその点を加味した記事を改めて公開されました。
松永さんが指摘されるように、Cさんの利益を守らなければならない理由など、どこにもないわけです。松谷さんは権利があるなどと仰っているわけですが、 拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」や上の松谷さんの5回目の記事へのコメントで書いたように、 そんな権利はどこにもありません。
無論、Cさんのようにサイトをウォッチするのは自由です(権利ではなく)。 しかし、それができなくなったから人を非難するというのは、醜悪というものでしょう。
不思議に思ったのは、以前の私の意見は松谷さんから誉められていたのだが、今、それは「誤読していたのだ」と断じられていることである。彼の意見に対しては、誤読したほうがよい意見を導き出せるというのだろうか?
笑ってしまうような話ですが、それは真実であるように思います。松谷さんの提案は、内容を理解してしまえば本当に瑣末な話なんですよね……。 瑣末な話には瑣末な反応しかできないわけで、建設的な内容だと誤解していた方がよい反応ができるのではないでしょうか。
- 松谷
(略)では、私が「こっそり覗き見」という表現をしなかったならば、この「儀礼的無関心」というトピックを松永さんは評価し続けたということになりますね。それでいいでしょうか?
- 松永
そうだと思います。
「覗き見する人に対する思いやり」という議題が浮上しなかったならば――つまり「あまり多くの人に閲覧されることを想定していない人」をそっとしておく、という意味だけであれば――以前書いた記事だけで充分であり、このように再度取り上げて補足することはなかったでしょう。
そして、Aさん(見られる人)だけに限定するのであれば、私は今も、前の記事の内容は妥当であると考えています。
- 松谷
(略)
そして、これも繰り返しますが、なぜ、それほどまでに松永さんは、私の「執筆の動機」について拘るのでしょうか? そしてそれに拘ったところで、なぜ一連のテクストは、その影響と拡がりを否定されるのでしょうか? 逆に言えば、それに拘ったところで、その影響と広がりは変わりません。
私には、この点に松永さんが拘り続けることがいまだに大きな疑問です。- 松永
何度も書いているとおり、私は「Aのみを対象とした思いやり」については否定していません。Aに加えてCを思いやる場合には否定する、ということです。
(略)
一方、AとCの両方の視点で語るとき、それは勢い、Cの利益を守るためにAという弱者を守ってやるという一方的な視点に陥りがちではないかと思います。Cの利益は「そのサイトをいつまでも見られる」という、絶滅を目前にした種の保存みたいなことになり、一方でCから見たAの利益は「さらされていることに気づかず更新し続けられる」というものになります。それは本当にAの立場からすれば、なめられているとしか言いようがないと思います。
したがって、私は動機にこだわっているのではなく、この「儀礼的無関心」をAの立場に立って見るか、それともCの立場に立ってみるのか、というところにこだわっているのです。そして、私はCの視点を尊重する必要は全くないよ、と考えているわけですね。
- 松谷
松永さん、以上の点、内容は把握しました。やはり私と松永さんのもっとも大きな違いは、Cさんに対しての配慮をするか、しないか、ということですね。そして、Aさんへの配慮については、われわれは共通の認識をしていますね。繰り返しの確認失礼いたしました。
しかし、私は残念ながらその考え“だけ”には、賛同できません。
Aさんの権利を尊重することについては同意しますが、やはりCさんの権利もあるんです。
そして、そこでAさんが優先されてCさんが優先されない、という論拠を松永さんは示されていませんし、示すことができないと思っています。なぜなら、権利は誰のそれの原初的には等価で、それは各人の立場が平等だからです。近代社会において、それは基本的な理念で、ここを無視することはできません。
本来的に「公共の利益」というのは、これらさまざまな立場の方々の権利を平等的に扱い、その上でバランスを考えて決められていくものです。ゆえに論拠なくCさんの権利を無視することは、本来的にはできません。それは逆にCさんへの配慮が欠けています。そしてまた、誰かひとりかが正しく、誰かが間違っている、なんてことを決めてもここでは仕方ないのです。
そのようにCさんの権利を無視することとは、ムラ社会的な発想といえます。そして、そのような主張が吟味なく通ることになれば、それはたんに「公共の利益を維持するための技法」ではなく、「ムラ社会の掟」となってしまいます。
私はそれには極めて反対です。
残念ながら、松永さんの言う「ネット珍走団」の人たちにも「珍走」する権利はあります。2ちゃんねる等で「晒す」自由も、法的には保護されているんです。それが否定されるのは、その方々が法を犯したときのみです(ただし、最近はネットでの「名誉毀損」で逮捕者も出ていますから、それらの行為は決して推奨できませんけれどね)。
私もそのような「ネット珍走団」の方々を良くは思ってはいません。が、その方々が法に抵触した迷惑を他者にかけていないかぎり、そういう人たちとも共生していかなくてはならないのです。残念ですが、これが「ムラ」ではなく「都市」であるインターネット社会の現実だと考えております。(略)
そのような観点から、私は松永さんの意見は、「都市」ではなく「ムラ」を志向するものにしか思えませんし、その点でまったくもって賛同いたしかねます。
- 松永
権利という言葉が合わないように思いますね。
私は別に「ウォッチャー」を潰そうとしているわけではなくて、単に嫌いと言ってるわけですし(笑)、Cさんが覗き見することそのものを規制しろといった覚えはありません。むしろ、Aさんがサイトを公開した時点で、すべてのネットワーク接続者に閲覧の「権利」はあります。
しかし、本質的にAさん(またはそのサイトの掲示板への熱心な参加者や、メールを送るなど密接な関係のある人)ならともかく、本来Aさんが想定していない読み方をするC2タイプの人たちが、「Aさんにリンクをするな」という「権利の制限」を主張する「筋合い」も「資格」もないと思います。
(略)
ウォッチしているサイトが消えたとき、黙って去っていくウォッチャーも多いと思います。まあそれは次の獲物を探しているのかもしれませんが。こっそり見ていたのなら、こっそり立ち去るというのが潔いのではないか、と、これは個人的見解。それに、Aさんはそもそも「ウォッチされる=人にバカにされる」ためにサイトを開いていたはずはないので、バカにされ続ける義務はないと思います。
松谷さんが、ここまでCさんの権利(そんなものはないのですが)を重視するのは、不思議でなりません。 この論争については、詳しくは拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」で述べましたので、 ここでは簡単に述べます。
松谷さんは、「Bさんがリンクをしないことで、CさんがAさんのサイトをこっそり見続ける利益を得る」ことを『公共の利益
』と繰り返し呼び、
極めて重視されています。しかしこの状況には、利益に反する部分も当然あります。
少なくともBさんのサイトの閲覧者は面白いサイトの情報を知りたがっているわけで、Bさんがリンクをしないことはその利益を損なっています。
また、実はAさんは多くの閲覧者に発奮し、サイトをさらに充実させるタイプなのかも知れませんし(上のartonさんの記事について私が紹介したケースのように)、
少なすぎる閲覧者を残念に思い、サイトを閉鎖するタイプなのかも知れません(上の結城さんの記事にあるように)。
そういった要素がある以上、Bさんがリンクしたからといって『公共の利益
』に反するとは全く言えないわけです。
松谷さんの主張には、そういった観点が全く抜け落ちていると言わざるを得ません。
この記事はかなり長いのですがこの論争を知る上で重要ですので、コメント欄を含めて通読をお勧めします。
これについては、その精神は下劣極まりないものであるものの、こういう考え方があってそれがきちんと機能するのならそれもいいかと思いました。
Electric Wombさんも分った上で書かれているようですが、「儀礼的無関心」は松谷さんが言われるような形では『きちんと機能
』しません。
それは飽くまでもケースバイケースで判断されるものに過ぎないわけです。
要するに、リンクされるところに公開してあるWebサイトを、こっそり見ているウォッチャーの楽しみを奪うな。という要望を「儀礼的無関心」と言い換えて「紳士ならわきまえるべきだ」という変な正当化が入ったんじゃないかなぁ。
上のfurunさんの2回目の記事でも指摘されていましたが、
また私も下でKoyasuさんの4回目の記事についてコメントしましたが、松谷さんの自己正当化能力は凄いと思います。
多くの記事で批判を受け続けたCさんの『権利
』という主張を、松谷さんは結局最後まで諦められませんでした。
- 「ネットでの儀礼的無関心」結
ARTIFACT −人工事実− からのリファーが多いので見に行ったらそこのトラックバックから発見.「儀礼的無関心」のそもそもの提唱者のまとめ…らしい.
何か凄く勘違いしてらっしゃるような気がしてならない.公共の利益の中にはヲチャがヲチ対象をマターリとヲチする権利というものが存在して当然なのだそうだ.で,それを邪魔するというかヲチャの存在を知らせてしまう大手サイトのリンクはやめれということ?
なんていうか,ARTIFACT で「覗き見している第三者の利益に公共性はない」 と述べられているのは,ヲチャがヲチ対象になんらコミットしていないどころ か,知識のないヲチ対象を嘲笑うような行為であるということでしょう.それ ともヲチャにヲチされることでヲチ対象になんか得することがあるのでしょう か. ヲチ対象の幸せを願うのなら,otsuneさんが以前書いたようにさっさとリンクしてヲチされていることを教えて上げた方がよっぽど良いです.
そもそも,ヲチ対象である A さんが問題を持っているとしたら,それは基本的にネットに関する知識の欠如でしょう.だから,儀礼的無関心で取り上げられた問題の根本的な解決方法は A さんに十分な知識を持ってもらう,これしかない.アクセス制限はあくまで対症療法にすぎず,根本的な解決にはならないし,リンクを張らないなどという他の誰かがリンクを張ってしまえば終りの手段が一体何をどう解決してくれるんでしょうか.
だいたい,自分の友人がアクセス制限のないところで赤裸々な日記を書いているっていうなら,さっさと「はてな」のプライベートモードとかを教えて上げれば良いのに,それが分かっているにも関わらず何もしないってのは友達がいのない人だな〜.
Koyasuさんが指摘されるように、松谷さんは権利というものを誤解されているようにしか思えません。 その辺りは、拙稿拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」や、 上の松谷さんの5回目の記事へのコメントで述べました。
しまった…,かぶってしまった….
しかし,↑の一連のコメントを見ていて思ったんだけど,この人は自分の言ったことに対して批判されることが基本的に許せない人なんじゃなかろうか.あるいは自分が間違っていると認めることが出来ないのかな.なんとなくそういう感じの自意識の強い人の様な気がした.
それと,一連の記述の中で自分の発言への賛成意見を取り上げる数と,反対,あるいは批判的な意見を取り上げる数に差があるように思える.
個人的には自分が正しいと言うには,自分の意見に対する賛成をわざわざ取り上げるようなことをするよりも,反対意見に対してきちんと反論を書くことの方がよほど大事なことだと思う.
こちらもまた的確な指摘で、松谷さんの主張が説得力を得られない原因はこの点にもあるような気がします。 とにかく氏は肯定的な意見については絶大な評価をし、積極的に取り上げるのですが、否定的な意見についてはfurunさんの2回目の記事でも指摘されたように矮小化し、 ほぼ取り合おうとはしません。無論、どの意見を取り上げようとそれは自由なのですが、このようにあからさまに扱いに差をつけられると、 説得力を感じなくなってしまいます。
ちなみに、「儀礼的無関心とは - はてなキーワード」の項目には、 拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集へのリンクがあるのですが、 松谷さんはこのキーワードページを度々編集し、結局4回もこのリンクを削除しています。 これは、批判的な記事を人の目に触れさせず封殺しようとする松谷さんの姿勢を表しているようにも思えてしまいます(参考:ちょっとしたミス)。
さて、私が気になったのはこの点。
私はたしかにAさんのことも思いやってこの話をしましたが、同時に自分(Cさん=ウォッチャー)のメリットも要求しています。つまり、AとCのメリットをBは潰すな、BはAとCに「儀礼的無関心」しろよ、と言っているわけです。つまり、“AさんとCさんの関係”をスポイルするな、と言っているわけですね。
このAさんとCさんの関係って、単なるCさんの片思いであり、それは守らなければならないものなのか?少なくとも、Aさんはその片思いを知らないわけであり、(Aさんとしては)守る必要なんかない。
片思いの相手に突然「実は結婚します」とか言われて「酷いわ、私はあなたのことが・・」とか言い出す人を連想した。
aganoさんが指摘されるように、松谷さんの言われるCさんの権利とは、一方的な片思いに過ぎないのですよね。 本来なら権利には対となる義務が発生するわけですが、Aさんにはそんな片思いに応える義務は当然ないわけです。
ちなみに、そういった話をするなら、松谷さんのこの部分を引用するのが適切かと思います。『だけども、当初から明示していたように、私がこの話を書いたのは、同時にCさんのメリットを維持するためでもあり、そして、A&Cさんの関係の維持を目的にするものでもあります。
』。
……AさんからしてみたらCさんは勝手にサイトを読んでいる知らない人であり、『関係を維持
』も何もほとんど無関係ではないか、と思ってしまうのですが。
私も上で松谷さんの5回目の記事や松永さんの2回目の記事などにコメントしたように、 松谷さんがなぜそこまでCさんの利益ばかりを主張し、他の利益を無視するのか、私には不思議でなりません。
あらゆる人を「Web というものを分かってないかもしれないから」といってそれを尊重しようとしてたら、めんどくさくてやってられなくなるっしょ。それこそ公共の利益にならない。なので、リンクしちゃった、とかそれで人が溢れてサイトが閉じられちゃった、とか言ってリンクした人を責めるのはなんか違う、と思いまする。
queue_jpさんが指摘されるように、「儀礼的無関心」は松谷さんが言われるような形では機能しない、現実的ではないルールです。 「儀礼的無関心」を機能させるにはウェブ利用者の全員に、「あまり見られたくないサイトにはリンクしない」という意識を徹底させなければなりませんが、 そのような意識の浸透は現実的ではありませんし、そのようなサイトの判別も困難でしょう。 また、それらが可能だったとしても、上のotsuneさんの2回目の記事や狐志庵さんの記事のように その上でリンクする人はきっと現れて、それだけでそのルールは崩壊します。
何より、上で私が松永さんの2回目の記事についてコメントしたように、そのルールが生むメリット自体にもそもそも多くの異論が出るでしょう。
「儀礼的無関心」を巡る問いには、ちょうど裏側にあたるような命題もあって、私にはウェブでのこの論題の騒がれ方が、裏側の命題から逃れるためのパフォーマンスではないのか、と思えてしまうのだ。
たとえば、ひっそりとネットで日記を書いている人がいる。Aさんとしよう。とくにリンクも張られずに、目立つことなく、だけど、Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人(引用者註・Cさん)もわずかだがいたとする。
ある日、Aさんはあることについての日記を書いた。それを見たある人がAさんの日記にリンクを張った。さらにそれを見つけた人気サイトのBさんが、Aさんのところにリンクを張った。結果、ひっそりと日記を書いていたAさんのサイトへのアクセスが殺到した。
Aさんは、目立ってしまう自分のテキストについて驚き、そして当該のテキストを削除してしまった。結果、そのテキストを誰も見ることができなくなり、その後日記そのものをやめてしまった。
さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか──。ここにある表の命題は、
- 「あまり大勢に見られることを望んでいないサイトは、あまり大勢で見に行ったりしない方がいいのではないか」
という問いかけである。
(略)
「本人の意思」も「コミュニティの意思」も、あらかじめ知りうるものではなかったとしたらどうなるだろうか。そのとき、最初の命題は次のように書き換わる、
- 「大勢に見られることを望んでいるサイトであっても、本人がコミュニティにとって有害であれば、あまり大勢で見に行ったりしない方がいいのではないか」
である。「本人の意思」や「コミュニティの意思」が恣意的に作られ、この裏側の命題を支持してしまうという状況が起こりうるのだ。
それゆえに、この論題は人々の議論を呼んだのではないのか? 「自分は無関心されていない」「自分は細々とサイトをやっている人のことも思いやってあげられる、寛大な市民だ」というような、根拠のない安心感に浸るために、「本人の意思」や「ローカルコミュニティの意思」や「グローバルなコミュニティの意思」を人々は代弁しようとしたのではないか?
「自分が(望んでか望まずか)無関心されていたらどうするのか?」
「関心を持ってもらって初めて知ることのできる領域があるとして、自分がその領域から緩やかにネグレクトされていたらどうするのか?」
ということを問わないと、「Aさん本人の意思」や「コミュニティの意思」を自分に都合のいいように作り上げてしまいかねないと私は思う。
これは、興味深い指摘なのではないでしょうか。この話題に言及した記事には、自分がBやCの立場になること想定して書かれたものは多数あったものの、 Aの立場になることを想定したものはほぼなかったように思えます。しかしサイトを運営する者はいつでも、 他者の思惑次第でAの立場にもなり得るわけです。
上で紹介したfvjkさんの記事やテラヤマアニさんの2回目の記事では、
それぞれ自らが「儀礼的無関心」を行う場合の状況が述べられました。しかし、fvjkさんやテラヤマアニさんのサイトがまさに、
『いかにも下らない自己満足べっとりのサイト
』だからリンクしないであげよう、とBさん達に判断されることだってあり得るわけです。
自分がそういう扱いをされることをどう思うか、を考えてみることもまた、重要なのかも知れません。
ちなみに、私なら自分のサイトに『いかにも下らない自己満足べっとりのサイト
』などと思われてリンクを遠慮されたらがっかりしますし、
他人のサイトにもそういう考えを持ちたくはありません。それは随分と他人を見下した考え方なのではないでしょうか。
「自分でインターネットの仕組みを勉強して、自分の望むシステムを構築するまたは望むサービスを探す」「人に見られて困る内容はインターネット上に明らかにしない」「自分に技術がないならプロにお金払って、自分の望むシステムを構築する」等の行動をとれば良い。ところが、この人物、素のインターネットにコストもかけずにこれらのことをないものねだりしている。
- あなたのまわりにもいませんか?
工数や費用を無視して、元の仕様にない機能の追加を要求する輩とか。一億円かけてAという機能を持ったシステムを作っていて、後からBという機能を追加してくれと言われる。人と工数考えて5000万円さらに必要ですよと計算すると、さら1000万円は出すとしか答えない。それじゃ無理ですというと、「ニーズがあるのだから」とごり押しする。結局泣くのは開発の人。それと同じ。
- まったく
この人物「注目が集まり、私は非常に満足しています。」とか言っているけど、「自分の望む物を手に入れるのに自分はコストを負担せずに、周りに要求する」主張なんて私から言わせりゃ、迷惑以外の何物でもない。
松谷さんの提案が迷惑なものというのはその通りで、氏の提案の通りになった場合を考えてみましょう。 Bさんが善意でAさんにCさんの存在を教えた場合、それはAさんからすれば有り難い指摘だったかも知れませんが、 Cさんからすれば公共の利益を損なう暴挙であるわけです。当然、CさんはBさんを非難するでしょう。全く迷惑な話ではないでしょうか。
上のVidさんの2回目の記事とも関連しますが、松谷さんの主張ではCさんの利益を守るために、 AさんやBさんが協力しなければならないことになります。しかし、何の努力もしないCさんを、何故他者が守ってやらなければならないでしょうか。 上でも述べた、受益者負担の原則というものについて考えて頂きたいと思います。
学問用語をインターネットの特定のコミュニティ内の現象に当てはめることに意義があるとすれば、ローカル方言のかわりに学会で何十年もかけて洗練されて定義の定まった言葉を使うことで、より多くの人とより正確な議論を共有できるようにするため、のはずだ。
(略)
ただし、それはローカル方言が正確に学問語に翻訳されていた時の話。誤訳されていたら、かえって混乱を招いてしまう。……私としましては、儀礼的無関心という言葉に「こっそり覗き見る権利」なんてニュアンスが含まれているとは到底思えないのですが。
松谷さんの提唱する「儀礼的無関心」という概念は、本来のそれとは異なる誤用なのではないか、という懸念は何人かの方がされていました。
上の加野瀬さんの記事でもこう触れられています。
『社会学の人からすると、ネット上でリンクを張らないという行為に対して、「儀礼的無関心」という言葉を使うことが誤用ではないかという心配があるそうです。
』と。
私の理解でも、ゴフマンの本来の「儀礼的無関心」とは、無用なトラブルを避けるために無関心を装うという自己利益のための行動であり、
松谷さんの主張する他者利益のための行動とは全く異なるように思えるのですが……。
で、TRiCK FiSHの方のエントリー。全文載せて一行ずつツッコミたい…けど長すぎるから却下。とりあえず、あんまり性格のよさそうな人じゃないなぁと思う。女友達がネットでのプライバシーの確保の仕方がわかってないと記述してあるけど、友達やったら助けたれや!せめて、突っ込んだれや!と思う。ほったらかしってどうよ?そんな人「友達」って呼びたくないなぁ。あと自分の記事に貼られてたリンク先に読んでへんのに「適当にコメント」して、リンク先のサイトの人がそれに対してコメントしたら、『その方はどうも私のテクストにリンクを張って批判的なコメントをし、 そのあとでそれを撤回していたのです。で、それを僕が読んでいることを前提にして、コメントをされていたわけです…その方が自意識過剰とも言えるのですが、細かく書くと、その方は「リンク張ったら読むのが当然」という「常識」を持って』るって結論をだしてくる。ちゃうて。自分がコメントかいたんやろ?リンク貼ったからじゃなくって、あんさんがコメントしたから「読んだんやな〜」って思わはってんて。コメントってもんはそういうもんやねんから。そのスペース使ってコメント以外の「対応」すんねやったら、それこそ「コメント じゃないですよ〜」って意思表示しとかんと相手にその意図は伝わらへんってぐらいの常識理解しときいや。自意識過剰なんはあんさんやって。
違った意味でかなりエンターテイメントなエントリーやった。
松谷さんの友人に対する姿勢というのは、私も松谷さんの5回目の記事にコメントしましたが、色々と疑問に思わざるを得ません。
また、同様に他者の記事に対する松谷さんの姿勢というのもいまひとつ良く分らないのですよね。
TAKEGAWAさんが指摘されるように、批判的な他人の記事について、読まずにコメントするなどの姿勢もそうですし。
また、上のKoyasuさんの4回目の記事についてコメントしたように、
松谷さんは「儀礼的無関心とは - はてなキーワード」のページを何回も編集し、
その記述から氏の主張に批判的な続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集へのリンクを4回も削除されているわけです。
しかし、松谷さんは想定問答集は『ろくに読んでない
』そうなのですね(再リンク:ちょっとしたミス)。
正直なところ、理解に苦しむ姿勢です。
確かに「公益」を満たすためにはそれぞれの個人がそれぞれ折り合いをつけなければならないでしょう。しかし、それならば「儀礼的無関心」は成り立ちません。関心を示し、覗き見、冷笑を加える者の「権利」も、それを希求する権利を認めるとすると、少数のヒトに関心を示して貰い、覗き見は勘弁してもらって、自分の文章に冷笑される事を厭うヒトの「権利」は侵害されます。常に権利と権利の衝突と調整が起きるだけになってしまうじゃないですか。簡単な論理矛盾ではないか?
松谷さんの言う「権利」のおかしさを、簡潔に指摘されています。読者さんが指摘されるように、 あるいは拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」や上の松谷さんの5回目の記事にコメントしたように、そんな権利はどこにもありません。
見たいものを見るのは人の権利かも知れぬ。しかし人の観られたくない状態を見ないことも、また吾々の義務である。法規は兎に角、吾々の心は吾々にそれを命ずる。人にせられんと欲するごとくその如く人にもせよ。深く考えるまでもなく、これはすぐ分る筈のことである
こうしてみると、F氏がいかに儀礼的無関心を誤用したかが覗える
この論争では儀礼的無関心を、道義・道徳的な言葉と認識した方も多かったようですが、少なくとも松谷さんの言う「儀礼的無関心」は全く 道徳的には思えません。道徳的な無関心と言うなら、まさにit1127さんの挙げられる状況がそれにふさわしいように思えるのですが。
「潜在的悪意を持つ人の見る権利にまでわざわざ配慮する必要なし」(権利があることはもちろん知ってはいるけれども)という文脈に対して、「権利は誰にでもある。法律に違反しない限りそれは守らないといけない。君のは所詮感情論。」という返答をしている。それこそ法律論であって、元々のテーマ(儀礼≒感情論)からは離れているのでは?
と言いますか、松谷さんとしては元々のテーマに法律論があったようなのですよね。だから権利の話を繰り返しされているわけです。
「儀礼的無関心」を儀礼・感情論と捉えてしまったのは、全くの誤解ではないようなのですが、上手く松谷さんにやられてしまったのではないかと。
なお、法律論としての松谷さんの主張の問題点については、拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」や上の松谷さんの5回目の記事へのコメントで詳しく述べました。
儀礼的無関心って,素人は素人のままなので,大事にしてあげましょうね
という人をバカにした意見にも取れるなぁ.
上の加野瀬さんの2回目の記事にもあるように、まさしく「儀礼的無関心」はAさん(素人)をバカにした意見なのですよね。 松谷さんはこれをAさんへの思いやりとも言っているわけですが、無知のまま放置されることの一体何が思いやりなのか、理解に苦しみます。
.....「権利」という言葉を持ち出すのであれば。
Web の閲覧時に生じる権利ならば、「著作物」である Web page の「著作権」であり、 それは「著作者」に生じるという極めてシンプルな話じゃないのかしらん? 善意か悪意かはサテオキ、著作権者が「公開 = 閲覧を許可」していれば見る事を許されただけであり、 見る「権利」が生じた訳ではない、のではないかと。 更には「著作権者」が公開を止めたくなった場合を想定した上で、 ウォッチャー視点からの見「続け」る権利などを主張するのは、主従が逆転してるとしか思えないんですけどね。
MIZUNOさんが指摘される通り、サイト運営者(作成者)には紛れもなく「権利」がありまして。 拙稿続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集 - Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」や上の松谷さんの5回目の記事へのコメントで書きましたが、 松谷さんが主張されるように、Cさんの(ありもしない)権利が振りかざされた場合、本来権利を持っているはずのサイト運営者は、 むしろ「義務」を負ってしまうのですよね。松谷さんはやたら権利権利と繰り返されますが、その法律理解には疑問を持たざるを得ません。
「儀礼的無関心」という言葉をキーワードにここ数ヶ月blogでのひとつのトレンドになっていたらしいのですが、議論のきっかけとなった記事を書いた人が結局何ひとつ結論を出さずに言葉遊びに終始してしまったため、なんともバカバカしい収束を見せつつあるようです(あまりにバカバカしいんで元記事を紹介する気にもなれません)。
ある意味、「儀礼的無関心」論争の最も的確なまとめかも知れません。実際に、逆さ独楽さん以外にも多くの方が松谷さんの発言を見て議論を諦めてしまいました。
相も変わらず「ネットはそういうもんじゃないだろ」という「玄人」さんの原理主義的な言説は頻出し、一方で、そんなことをさっぱり知らない「素人」さんが毎日現れ続けるという、大きな断層も依然としてあって。その断層は以前よりもちょっと縮まった気もするのだけれど、どうなんでしょうか。一生縮まることがなく、解決などすることない、ということをわかりつつも。
上のhakurikuさんの記事についてコメントしたように、松谷さんの影響で『「素人」さん
』的な人々とそうでない人々との断層が深まったケースなら少なくともありました。
要するに、「儀礼的無関心」というキーワードの存在で無断リンク禁止の正当性を信じてしまった人々が、それを根拠としてリンクをした人を罵倒したわけです。
確かに松谷さんがいなくても結局同じトラブルは起きていたかも知れません。
しかし、松谷さんが本当に『「素人」さん
』のことを思うなら、変に無断リンクが禁止できるような幻想を与えるべきではなかったのではないか、
そうすれば一部の『「素人」さん
』はリンクされることを覚悟の上でサイトを公開できたのではないか、そう私には思えます。
せっかくなので、この文章に関してはほぼすべてをこの場で再掲しておきます。
- Q44.「儀礼的無関心という言葉がある。あまり見られたくないサイトにはリンクをするべきではない」
A44.「儀礼的無関心」とは元々、社会学者のゴフマンが提示した概念で、 松谷氏の「はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH「ネットでの儀礼的無関心の可能性」」にて リンクの自由を否定する考え方の根拠として紹介され、「羊堂本舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」に 見られるように、いくつかの議論を生みました。(※注1)
「儀礼的無関心」には、いくつかの主張が込められています。発端となった記事や、 加野瀬氏による批判「ARTIFACT −人工事実− ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−」、 松永氏による批判「「ウォッチャー」の権利など守る必要はない。儀礼的無関心2 ウェブログ@ことのは」、 松谷氏による反論「はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH「ネットでの儀礼的無関心」結」 などを読むと(コメント欄でのやりとりにも要注目)、その主張は四種類に分けられるでしょう。一つ目は「考えなしにリンクするとリンク先が該当記事を消したり閉鎖したりしてリンクした側も損をするかも知れないので、リンクする際は気をつけよう」という打算論。 二つ目は「あまり見られたくないサイトにはリンクしないことが優しさだ」というマナー論。 三つ目は「あまり見られたくないサイト(A)に大手サイト(B)がリンクし、Aが閉鎖することになれば、 それはAのサイトをこっそりと見ていた人々(C)の権利をBが侵したということだろう」という法律論。 四つ目は「あまり見られたくないサイトがリンクされて閉鎖することになれば、 それは元からそのサイトをこっそり読んでいた人々の利益(=「公共の利益」)が侵されたということであり、 あってはならないことだ」という社会論。
以下に、一つ一つ検討します。
- Q44-1.「考えなしにリンクするとリンク先が該当記事を消したり閉鎖したりしてリンクした側も損をするかも知れないので、リンクする際は気をつけよう」
A44-1.この主張はリンクする側に対して「〜だからリンクするな」というような性質のものではないので、 特に検討する必要はないでしょう。 何がリンクする側にとって得なのか損なのかは、リンクする側にしか判断できないのですから。
- Q44-2.「あまり見られたくないサイトにはリンクしないことが優しさだ」
A44-2.この主張には二つの問題があります。第一に、確かにリンクしないことが「思いやり」と思われる場合もあるでしょう。 しかしリンクしないことが本当に思いやりかどうかは各状況ごとに各人が判断するべきことであって、一元的に決めていいことではありません。 多くの人から陰でこっそり笑われているサイトに対し、リンクして間違いを指摘するのもまた一つの思いやりでしょう(参考:「void GraphicWizardsLair( void ); --「A が悪いかどうかに関わらず B や C がどうするのが良いかというようなことらしい」」)。 「思いやり」とは各自が判断し、自分で実行すべきものです。「自分は相手を思いやった結果、こうすることにした。 これで相手は間違いなく喜ぶし、他の人も相手を思いやったら同じようにするはずだ」というのは傲慢であり、 危険な考え方ではないでしょうか。
そして第二に、他人に対して親切だと思える行為があったとして、人は必ずそれをすべきなのか、という問題もあります。 実際のところ人は他者に無限に尽くすことはできず、どこかで「ここまでは他人の言うことを聞ける」 「これ以上は言うことは聞けない」という境界線を引かざるを得ません。例え「ここではこうするのが親切だ」と 思える行為があったとしても、「必ずそれをするべきだ」というのは無茶と言うものではないでしょうか。 (※注2)
……但し、そもそも『「儀礼的無関心」はリンクする側に思いやりを求めた主張だ』という受け止め方は 誤解である可能性もあるように思えます。松谷氏は一連の議論の中で
私がこのトピックにおいて、「『優しさ全開で万事はオッケー』なんて思っていない」と書きました。それは、文脈上いろんな意味を孕ませたつもりですが、この場合において簡潔に書きますと、自分が「他者を思いやること」が、とても横柄な態度に思えるからです。
もちろん、だれかを「思いやる」のは勝手です。しかし、それはその相手から「余計なお世話だ」と言われた瞬間に却下されます。と、むしろ先ほど述べた、この主張への第一の反論に近い主張をしています。 ここから考えれば、「儀礼的無関心」はむしろ第二の主張を否定するものであり、その真の意図はこれ以外の第一・第三・第四の主張にあると 考えるのが妥当だということになります。
しかし、その捉え方にも疑問があって、氏は私は自らの権利主張とともに、 こっそりとサイトを運営している方への配慮も主張した上で、「儀礼的無関心」の話を書いたわけですね。 「どちらか片方」っていうことではありません。
私はたしかにAさんのことも思いやってこの話をしましたが、 同時に自分(Cさん=ウォッチャー)のメリットも要求しています。
とも書いているのです。これは矛盾しているように思えますが、 では前に引用した氏の発言は間違いだったと考えるべきなのでしょうか? しかし氏は、
実際にぼくはそんなに優しくありません。 先のコメント欄にもちょっと匂わせましたが、だって、裏を返せば、僕はこっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、 と言ってるんだもん。
等、「こっそり見るのは優しくない行為だ」とも主張しているのです。
……どうやらこの主張の内容を正確に把握することは不可能そうなので、ここでまとめます。 これらの記述から「儀礼的無関心」の二つ目の主張の問題点をまとめると、以下のようになるでしょう。
- 『あまり見られたくないサイトをこっそり見ることは優しくない。 しかし、あまり見られたくないサイトに「実は見られている」ことに気付かれないようにすることは思いやりだ』と「儀礼的無関心」は主張しているが、これは矛盾している。
- 『あまり見られたくないサイトにリンクする行為は優しくないので否定されるべきだ。 あまり見られたくないサイトをこっそり見る行為は優しくないが否定されることがあってはならない』と「儀礼的無関心」は主張しているが、これは矛盾している。
- 『思いやりなど一元的に決められるものではない。 しかし、あまり見られたくないサイトに「実は見られている」ことに気付かれないようにすることは常に思いやりだ』と「儀礼的無関心」は主張しているが、これは矛盾している。
- 以上のような矛盾を差し引いて考えた場合、「儀礼的無関心」は『あまり見られたくないサイトにはリンクしないのが思いやりであり、 そういうリンクをすべきではない』と主張しているか、『そのような主張は傲慢だ』と主張しているかのいずれかだと思われる。 前者だとすると、それはこの項の冒頭で述べたように二つの点で間違っている。 後者だとすると、それは「優しさ」という観点からのリンクの自由の肯定である。
- Q44-3.「あまり見られたくないサイト(A)に大手サイト(B)がリンクし、Aが閉鎖することになれば、 それはAのサイトをこっそりと見ていた人々(C)の権利をBが侵したということだろう」
A44-3.そもそも好きなサイトをこっそり見続ける権利なるものが何を根拠に主張されているのか分かりませんが、 仮にそのような権利があるとしても、上の主張は二つの点で間違っています(※注3)。
第一に、Cにそのような権利があるのなら、Bを見ていた人々(D)にも「Bで面白いサイトの情報を得続ける権利」が あることになります。つまり上の主張に基づくなら、BはDの権利から生じる義務を果たしたに過ぎません。
第二に、BがAに対して閉鎖するよう脅迫等をしたわけではない以上、Aを閉鎖したのはBではなくA自身です。 つまり、Cの権利を侵したのはBではなくAであり、上の主張に基づくならばCはBではなくAを自身の権利に基づいて批判し、 糾弾するなり再開の要求をするなりすべきでしょう。思うに、注3で引用した発言や
静かに読む人の権利もありますからね。それでも「覗き見している読者」に「権利がない」というならば、その論拠を示してみてください。たぶん、できませんから。
等からすると、恐らく松谷氏は前稿のQ2と同様の誤解をしているのではないでしょうか。 つまり、「人間には自由な希望を持つ権利がある。権利があるということは、 周囲の人間はその希望が叶うよう協力する義務があるということだ」と。 無論、これは間違いです。 人には「本を読みたいと思う権利」も「読む自由」もある。だからといって「私のためにあの本を買え」と言うのは、他人の財産権を否定することになる。同様に、 人には「サイトをこっそり見続けたいと思う権利」も「見続ける自由」もある。だからといって「私のためにあのサイトにリンクするな」と言うのは、 他人の表現の自由を否定することになるし、「私のためにサイトを公開し続けろ」と言うのは他人の著作権を否定する(※注4)ことになる。 それだけのことではないでしょうか。松谷氏は
私は先に「原初的にはどんな権利も認められる」と書きました。しかし、そのなかで、唯一認められないのは、「『他者の権利』を侵害する権利」です。
等と述べていますが、ありもしない権利を主張して他者の正当な権利を否定しているのは、氏自身であると言わざるを得ません。
最後に三つ目の主張の問題点をまとめます。
- こっそり見続ける権利なるものを主張している点(法律上、どこにもそのような条文は見当たらない)
- (仮に「こっそり見続ける権利」があるとして)作者が他人の作品を読むよう薦める行為が、元からのその作品の読者のこっそり読む権利を侵害することになると主張している点
- (仮に「こっそり見続ける権利」があるとして)面白い作品を薦める作品を見続けたいという読者の権利を否定している点
- 作者が他人の作品を読むよう薦める権利を否定している点(表現の自由の否定)
- 作者が自分の作品の公開を取りやめる権利を否定している点(著作権法の否定)
- Q44-4.「あまり見られたくないサイトがリンクされて閉鎖することになれば、 それは元からそのサイトをこっそり読んでいた人々の利益(=「公共の利益」)が侵されたということであり、 あってはならないことだ」
A44-4.この主張は、一つ目の主張をさらに発展させたものと言えるでしょう。 管理人は自分の利益だけでなく、多数者の利益が最大になるように配慮しなければならない、と。 この主張には四つの問題があります。
まず第一に、現在こっそり読んでいる人々の利益は そこまで重要視されなければならないものなのでしょうか。松谷氏は
僕が「誰も幸せになっていない」というのは、結果として当該の日記が消えることで、匿名掲示板の人たちも永遠に見られなくなるということを意味します。つまり、こっそりのぞき見できる可能性が失われるわけです。共有されるメリットを維持するための儀礼的無関心、とも言い換えることができるでしょうね。しかし、これが、誰かひとりがリンクを張ることによってスポイルされる。それは道徳的・倫理的な問題ではなく、公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞いだなぁ、と僕は思うんです。
等、こっそり見ることの利益を繰り返し述べていますが、この主張には疑問を抱かざるを得ません。
ひっそりとサイトを運営していたつもりの管理人にとって、 「予想外に多くの、あるいは予想外の意図を持った閲覧者にこっそり見られていた」というのは残念な事態であるかも知れません。 しかし、そのような事態が現に起きているなら、例え残念な事実ではあってもそのことを知りたいと思うのは 少なからぬ管理人の自然な希望なのではないでしょうか(「知りたくない」という管理人もいないとは思いませんが)。 しかし、「儀礼的無関心」の主張からすればそのような管理人の希望は否定されるべきであり、 こっそり見ている人々の希望だけが叶うべきだ、ということになります。 これが果たして真に「公共の利益」と言えるのでしょうか?
私は別に、「こっそり見る人々の利益を高く評価し、管理人の利益に価値を見出さない価値観」を否定する気はありません。 しかし、「この価値観が正しい、皆がこの価値観を持つべきだ」と言われれば、「それは違う」と答えざるを得ません。 (参考:「ただのにっき「儀礼的無関心反応リンク集」」)第二に、リンクすることによってこっそり読む人々の利益が損なわれる可能性はそこまで重要視されなければならないものなのか、という問題もあります。 冒頭で述べたように、この主張は「人々の利益を最大化させよう」という主張だと解釈できるでしょう。 ならばリンクする側はおおよそ以下のような利益/損失・可能性について計算するべきということになります。
- 今こっそり見ている人々の利益/それができなくなる損失
- 新たに見る人々の利益/それができない損失
- 「リンクされる→管理人が傷ついて閉鎖→閲覧者にとって損」となる可能性
- 「リンクされる→管理人が閲覧者を意識してサイトをより充実させる→閲覧者にとって得」となる可能性
- 「皆が気を遣ってリンクしない→管理人が寂しくて閉鎖→閲覧者にとって損」となる可能性(参考:「結城浩 - The Essence of Programming (プログラミングのエッセンス)「ネットでの儀礼的無関心の可能性」」)
「儀礼的無関心」は1・3の利益・可能性を繰り返し主張しますが、2・4・5の利益・可能性については全く触れていません。 当然1・3が他より優先される理由は一切説明されませんし、実際にそのような理由があるとは全く思えません。
確かに、何かをしようとする際に既にある利益とそれが失われる可能性を考えるのは自然なことではあるでしょう。しかし、それを重視するあまりに 新たな利益が生み出される可能性や、不自然な状態で利益を無理に守ろうとして却ってそれが損なわれる可能性を 無視していいものでしょうか。1・3のみを重視すべきだという主張は、暴論であると考えます。第三に、仮にAの閉鎖が公共の利益に反するとした場合、確かにBのリンクは問題でしょうが、 それではCがやっていたことは一体何なのか、という疑問があります。
Aの閉鎖が公共の利益を損なうとし、Aが閉鎖する可能性を生むような行為は慎むべきだと考えた場合、 確かにBの行為は問題になるでしょう。しかし、別に特にどこからもリンクされなくても 閲覧者が徐々に増えていって、結局プレッシャーを感じて(あるいはウォッチされていることに気付いて) サイトを閉鎖する管理人もいるのです。 もし「儀礼的無関心」の想定したケースのAがそういうタイプだったら、 BがリンクしなくてもCが閉鎖させることになっていたでしょう。 この場合、「儀礼的無関心」の立場を取るなら、Cは『公共の利益を害してしまうという点で、ひどくお粗末な振る舞い』をしたことになります。 つまり、「儀礼的無関心」の第四の主張を認め、Aが閉鎖する可能性を生むような行為は慎むべきだとするなら、 そもそもCの行為には問題があると言わざるを得ないのです。 なぜ、自ら問題のある行為をしているCを、Bはそういうことをせずに守るべきだということになるのでしょうか?
Bを否定するならCも否定されるべきですし、Cを肯定するならBも肯定されるべきでしょう。 Cを肯定しBを否定する「儀礼的無関心」は、ダブルスタンダードであると言う他ありません。そして第四の問題として、仮に「こっそり見る利益が極端に大きく、他の利益は問題にならない」 という主張を認めたとしても、「ではどうやってその利益を守るのか」が見えてこないという疑問があります。
この主張が成立するためには、管理人がそれぞれこういう問題について高い意識を持つ必要があるわけであり、 松谷氏はそのことについて『リンクを張ることでAさんに変化が起こる可能性を、Bさんは想像できなかったのか。もしくは、Aさんに変化が起こる可能性について、どれほどの覚悟があったのか。』と、サイト管理人に想像力や覚悟を求めています。しかし、サイト管理人は想像力や覚悟を持つべきというなら、 そもそもAに「リンクされることを想像する力」や「リンクされる覚悟」が欠けていたことは明らかです。 サイト管理人は想像力や覚悟を持つべきと言うならAのような管理人が存在するのは問題ということになりますし、 サイト管理人に想像力や覚悟を求めないならBの行為は否定できない。 しかし、「儀礼的無関心」は想像力や覚悟のないAの存在は肯定しつつ、 想像力や覚悟のない(かも知れない)Bをそれゆえに否定している。これはやはりダブルスタンダードというものでしょう。
「儀礼的無関心」は結局何を望んでいるのでしょうか。管理人を啓蒙したいのか、してはいけないのか? やはり、「儀礼的無関心」は破綻していると言う他ありません。尚、各議論において、「儀礼的無関心」を持ち出した人が以上の内のどの主張を意識して「リンクするべきではない」 と言ったのかは当然私には分かりません。それを知るには、主張した本人に聞く以外ないでしょう。 「松谷氏は四種類か三種類の意味を込めて儀礼的無関心を主張したと思われますが、あなたはどの意味で主張されたのですか?」と。(※注5)
ただ、どの主張が意識されているにせよ、以上の考察から「儀礼的無関心」はリンクの自由を否定するものには なり得ないと考えます。
「儀礼的無関心」はそのキーワードの伝播の仕方が興味深く、「儀礼的無関心」に対するコメントでその人のアホぶりがわかる、という点では面白かったが、「儀礼的無関心」そのものは、得られるものは何もなかったです、はい。 はっきり言って議論にならない話題なのですな。
よーするになにかを言ったつもり大会が開催されただけだったと。セカイ系と同じですね。ただ、提唱者の松谷氏の議論寝技師(※2)っぷりはちょっと面白かったけど(笑)
(略)
※2:続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集(儀礼的無関心編)参照。特に大技だったのがこの発言。
http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20040130
私としましてはkurosawa31さんのところでこぼしたように、もともと問題提起なので、とくに結論はありません。ですから、 なにか私に「結論」なるものを期待していた人がいましたら、残念ですがその期待には応じられません。
おじさん絶句しちゃったよ。
確かに、結論がないという松谷さんの姿勢には多くの人が驚かされたと思います。
明らかになった氏の主張の焦点も本当に瑣末な問題で、特に語るようなことがないのですよね。
正直なところ私にとっては一連の論争は不愉快なところが多かったのですが、
松谷さんに一つ一つ間違いを指摘していくところは面白く感じました。
ゴフマンの述べた儀礼的無関心は「自分のリスク回避のための行動」の集積であり、それによって無難な状況・秩序を生み出そうという行動様式である。そして、これは現代の都市生活者の「態度」の一つについて命名したものであって、それが倫理的に推奨されるものであるか否かという善悪・価値観については別の問題であるという点にも注意しておきたい。
はてなキーワードのページでも、松谷さんの定義する「儀礼的無関心」の概念は否定されてしまっているようです。
- コメント(はてなダイアリー - 儀礼的無関心)
void GraphicWizardsLair( void ); //(2004年04月15日(木))経由。
また、『都市の社会学』だけの批判を取り上げるのも、学問的にも相応しくはないでしょう。というよりも一面的すぎます。 どんな社会学理論にも批判があるのは当然であって、その批判があらたな「知」を産みます。 このような批判をひとつだけ置くようでは、ゴフマンが後生に与えた影響(たとえば、シンボリック相互作用論に対して)などが、 すり抜けてしまうかもしれない。
学問的に相応しくないって何。自分が「学問的に相応しくない」引用の仕方をして世間を煽ったことは棚に上げて。
「街で見かけた他人に無関心を装う」といった現象(儀礼的無関心)の原因が明らかであるとして、 ではそれと同様の原因によってWebに顕在化する現象は何か。というアカデミックな議論があったのか? 松谷氏は、 原因と現象の因果関係を推論することはせず、儀礼的無関心という表面的な結果と、 何となくそれに似たWeb上の現象を関連付けるに留まる。 「某理由によってリンクを遠慮する」というWeb上の現象についての言及が突然現れるわけだが、 その現象が、儀礼的無関心と同様の原因によるものであるかを検証したのかといえば、していない。 「ネットでの儀礼的無関心の可能性」というタイトルであるにも拘わらずだ。これは一体学問的に何だろうか。 松谷氏がしているのは社会心理学的な考察ではなくて、松谷氏個人のビリーフに基づいたマナーあるいは具体的な戦略の話だ。 イデオロギーとは無縁の社会現象に過ぎない儀礼的無関心を、そのような戦略のために引用しておいて何を言う。
これまでの論争から判断する限り、松谷さんの提唱する儀礼的無関心の意味は、大雑把に言うと 「Cさんがウェブでこっそり覗き見を続けられるための配慮、およびウェブの素人のAさんを素人のままでいさせるための配慮(?)」といったものでした。 しかし、これまでの論争からすると、どうも本来の「儀礼的無関心」はそういう「配慮」ではないようなのですね。 「儀礼的無関心」とは、正しくは、「トラブルを回避するために見て見ぬ振りをするという打算的な判断」であるようです。 つまり言ってしまえば、松谷さんの提唱はそもそもが誤用だったことになります。
松谷さんはこの論争について『この話題がとても多くの人を関心を呼んだのは、「儀礼的無関心」というキャッチーなネーミングにもありますが(大成功)
』
などと仰っていますが、このような感覚には大いに疑問を感じます。キャッチーなネーミングで人が集まりさえすれば、人を誤解させてもいいのでしょうか?
誤解させた人々へのフォローはないのでしょうか?
そして、そのような誤解による主張をしてなんの訂正もしない松谷さんに、『学問的にも相応しくはないでしょう
』などと人を非難する資格はあるのでしょうか?
松谷さんはプロのライターであるそうなので、人が集まりさえすれば売名行為として成功、という面があるのは否定しません。
しかし、それならせめて『学問的
』などと言う言葉で自分を正当化するのはやめた方がいいのではないかと私には思えるのですが。
TRiCKFiSHの松谷さんはまだ儀礼的無関心だなんて馬鹿なことをいっていたのか。 プロブロガーだの、気持ち悪いレッテルを発明してるし。道徳的総会屋だとか、「噴きあがり」とか、 なんであんなに攻撃的で上から目線の物言いなんだろう。
jounoさんが指摘されるようにレッテル貼りと言いますか、とにかく松谷さんは何でも名前を付けたがる印象があります。 上のjintrickさんの記事についてもコメントしましたが、松谷さんはプロのライターだそうなので、 キャッチーな言葉をうまく作って話題になれば儲け物という感じなのかも知れません。
……さて、「羊堂本舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」にリンクされていた記事は以上です。 ただ、このリンク集に載らなかった記事で、一つ重要と思われるものを最後に紹介させて頂きます。それは2004年4月8日のnarkoさんの記事「ネット進化論 - narkoの日記」で、 記事自体は「儀礼的無関心」とはほぼ無関係なのですが、松谷さんがこの論争について重要なコメントを残されています。
(略)2ちゃんねらーが晒しまくったり、もしくは、「プロブロガー」などの人たちがリンクフリーを声高に振りかざしたゆえに、 WEBは「面倒くさい場所」になったから。「儀礼的無関心」はそこで「うまくやろーや」っていう提案だったわけども、 結局は技術(パソコン通信の復権)でスッキリ落ち着きそうなわけです。▼で、このとき、「幸せ」になれないのは、 2ちゃんねらーと「プロブロガー」という皮肉が起きてしまう。僕はどちらの味方でもないし、 逆に言えばどちらの味方でもあるので、これは心情的にはあまり芳しいとは思っていません。
2ちゃんねらーや『プロブロガー
』などのせいで『WEBは「面倒くさい場所」になった
』わけではありません。
一部の人にだけしか見せたくないサイト運営者にとっては、ウェブは最初から『「面倒くさい場所」
』です。
また、松谷さんの『「うまくやろーや」っていう提案
』は、他の人々(特にウェブに無知な人々)にとっては全然うまくない提案であり、そのため受け入れられなかったのです。
松谷さんの提案のような状況を望む人は、松谷さん以外に見たことがありません(2ちゃんねらーのことは知りませんが)。
そして、『「幸せ」になれないのは、2ちゃんねらーと「プロブロガー」
』とは、いかにも松谷さんらしい馬鹿げた主張です。
リンクを自由と考える人々にとって、サイトを見られたくない人々がサイトを公開しないのは喜ばしい、幸せなことです。
そういう人々がサイトを公開してしまい傷付くことがなくなるのですから(2ちゃんねらーのことは知りませんが)。
2ちゃんねらーと「プロブロガー」は、その戦略性の無さ(「運動」や「啓蒙」の失敗)が招くこととしてあまり同情もできないんです。 リンクフリーのウェブを目指すときに「ネットはリンクフリーであるべきだ」という言説をまき散らす稚拙な所作は、やっぱり「下手くそ」としか思えない。
上でも述べたように、サイトを見られたくない人々がサイトを公開しなくなったとしたら、それは『失敗
』ではなく、成功です。
繰り返しますが、そういう人々がサイトを公開してしまい傷付く、ということが無くなるのが大切なのです。
本当に『「ネットはリンクフリーであるべきだ」という言説
』によってサイトを見られたくない人々がサイトを公開しなくなったのなら、
それは全く『稚拙
』ではありません。それを『「下手くそ」
』と思うのは、私の知る限り松谷さんだけです。
……以上です。
公開:2010年10月23日 更新:なし