私は以前、拙稿「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集で いくつかの点から「無断リンク禁止/直リンク禁止」という主張に疑問を呈し、 不本意なリンクをされて困らないためのより有効な方法や考え方を述べました。
ただ以前の文章は幅広い説明を主眼としており、そのため一つ一つの説明が浅くなっているという側面がありました。 そこで本稿では、改めて上記の問題についてより深く解説することで、リンクされて困らないための考え方をより詳しく述べたいと思います。
尚、本稿ではトップページ以外へのリンクという意味で「直リンク」という言葉を用いています。 他のサイトではこの言葉が異なる意味で使われている場合がありますのでご注意下さい。 詳しくは注1をご覧下さい。
私がこれまでに多くのリンクの自由に関する揉め事を見てきて感じたことの一つに、 「無断リンク/直リンクを理由もなく嫌がることで、多くの人が却って傷つくことになっている」 というものがあります。
実際のところ、「無断リンク禁止/直リンク禁止」を謳っているサイトは少なくありません。
私の見てきた限りではそういう注意書きをするサイト運営者には、こういう注意書きをしておけばそういったリンクを禁止できる、
と信じている人が多いようです。
これは「無断リンク/直リンクは悪事であり、従ってこう書いておけば皆そういうことはしない」という考え方によるものなのでしょう。
しかしそれは誤解です。現状では多くの人にそうは認識されておらず、従ってそういう注意書きをしていても
実際にはそういうリンクをされる可能性は否定できません。
事実そういうリンクをされて傷つくサイト運営者も多いのです。
確かにリンクされる可能性があることを認識した上で「無断リンク禁止/直リンク禁止」といった注意書きを するのならそれもいいでしょう(注2)。しかし、そうでない人があまりにも多すぎるように思えます。 そういう人々はリンクをされて激しく傷つき、往々にしてリンクした側を攻撃します。 これまでに私が見たケースでは、自分のサイトの日記や相手のサイトの掲示板での長文の罵倒、 自分のサイトのトップページでの相手サイトのキャプチャ晒し、匿名掲示板で荒らしを依頼する、といった行為が行われていました。 また、リンクした側の言い分を信じるなら、リンクされた側からウイルスメールが送られたケースも目にしています。 これらの出来事は、如何に「無断リンク禁止/直リンク禁止」を謳う人々がそういった行為を悪事とみなしているかを示しています。
しかし、それは実際には損な考え方です。無断リンク/直リンクをされたというのは別に非道なことを されたわけではありませんし、無断リンク/直リンクされたからといって別に損害は発生しません。 そういうリンクを嫌がる人は多くの場合、 「よく考えてみたら、別に無断リンク/直リンクされても問題なかった」と気付けば傷つかずにすんだのではないか、 と私は考えるのです。
この分かりやすい例が、「[教えて!goo] リンクはトップページに、は何故なのか」でなされる質問です。 この質問者は、これからサイトを作ろうとしている初心者(?)にリンクをしたいと申し出られ、 「何故リンクはトップページにしなければならないのか」と聞かれて呆れ返っています。 しかし、それなのに何故そういうリンクをしてはいけないのか自分でもわからずに、 人々にその理由を聞いてその理由で相手を納得させようとしているのです。 結局この質問者は、とってつけたようなおためごかしの、しかも理屈として完全に間違った説明で 相手を納得させるという結論に達しました。
このケースでは結局リンクがなされたのかどうかは不明であり、 このサイト運営者がどうなったのかは解りません。 しかし、この件で直リンクをされなかったとしても、いつかこのサイト運営者が今後そういうリンクをされた場合、 少なからず傷つくことは予想に難くありません。私は、これはこのサイト運営者にとって不幸なことであると考えるのです。 無断リンク/直リンクをされても困る理由がないなら嫌がらなくていいのではないか、 そういうリンクを受け入れれば傷つかずに済むのではないか……そう考えるわけです。
また上で述べたような、理由もないのに嫌がっているといった状況ではなく、 何らかの理由から無断リンク/直リンクをされては困るケースも時にはあるかと思います。 しかし実際には、理由があってもリンクされないとは限りません。下記のような理由から、 理由があったとしてもリンクされてしまう可能性は常にあるからです。
1の例としては、産経新聞が「記事への直リンクは著作権法に反する」という根拠から
いくつかのサイトの運営者に警告のメールを送り、記事へのリンクの削除を求めたケースが挙げられます
(参考:スラッシュドットジャパンの「産経新聞社が「無断リンク」に警告」、
「産経新聞法務部:記事への直リンク禁止はあくまで要望」)。
これは産経新聞側にとっては紛れもなく「妥当な理由」であり、恐らく産経新聞の担当者はこれで問題のリンクが削除されることを疑っていなかったのではないでしょうか。
しかし、産経新聞にリンクしていた側にとってはそれは「妥当な理由」ではありませんでした。
このケースでは問題とされたサイトは結局産経新聞へのリンクを削除せず、産経新聞もメールでのやり取りの後、
リンクを削除させることを諦めました。
確かに、サイト運営者が妥当と信じる「リンクすべきではない根拠」を示せば、そういうリンクをされない可能性は
高まるはずです。理由があってリンクをされたくないサイト運営者は、その理由を書いた方が傷つかずに済むかもしれません。
しかし、誰もがその根拠を妥当と判断するとは限らないのです。
次に2についてですが、例えば無断リンク禁止を謳っているサイトの運営者が、
「外国のサイトにリンクされた」と困っているのを私は何度か目にしています。
外国のサイトの運営者なら日本語が読めない可能性が高く、いくら「妥当な理由」を掲げていても無意味でしょう。
尚、外国のサイトからのリンクなんて特殊なケースであり参考にならない、という方もおられるかも知れませんが、
別にそんなことはありません。例えば別に有名でもない私のサイトですら、これまでに自分で気付いただけで
アメリカ・韓国・イタリア・台湾・中国・フランス・ドイツ・オーストリアのサイトからリンクされた経験があるのです。
海外サイトからのリンクは、全く特殊なケースではありません。
そして3についてですが、これはリンク先サイトの運営者を傷つけるために、
あるいはそのリンクをクリックした閲覧者を傷つけるために、
それ以外になんの益もなくされるようなリンクです。一言で言えば「嫌がらせ」でしょう。
リンクの自由を否定する人はしばしば、このようなリンクをする人の存在を問題視し、
「だからリンクが自由だなんておかしい」といった主張をします。
なるほど、確かにそういう無益なリンクには疑問があります。しかし、そういうことをする人がいるから
「自由なリンクは問題だ」というのは論理の飛躍でしょう。
例えば、誹謗中傷や名誉毀損的な発言をする人がいるからといって「だから表現の自由は廃止すべきだ」とは言えません。
例え表現の自由があろうと、本当に問題のある表現なら罪を問うことは可能です。
リンクの自由も同様であって、本当に問題があるリンクがあるなら、それはリンクが自由であっても問題とし得るでしょう。
どんな言葉も状況次第で暴言となり得ますし、どんな道具も凶器となり得ます。
我々はそのことを忘れるべきではないでしょう。
しかし、だからと言って言葉や道具の使用自体を否定するべきではないと考えます。
尚、ここで私は、人を傷つけるため悪意から行われる無益なリンクには疑問があると述べましたが、 「あるリンクが本当に、そういう悪意による無益なリンクなのか?」は各ケースごとに慎重に検討されるべきであると考えます。 現状では、リンクされて傷ついたから「悪意だ!」「嫌がらせだ!」といきなり決め付けるサイト運営者は少なくありません。 しかし、安易にそのような判断を行いそういったリンクを否定していけば それは却って危険な状況を招く恐れがあります。この危険性については、次章で述べます。
こういった可能性を考えれば、いくら「無断リンク/直リンクされるべきではない理由」があろうと
結局リンクされてしまう可能性は否定できないことはご理解いただけるでしょう。無論、その可能性を理解した上で
リンクされたくないサイトを運営するのは自由です。
しかしそれは結局は、誰にも見つからないことを期待して裸で散歩をするようなものではないでしょうか。
例え「私は病気です。もし無断リンクされたら自殺します」と書かれていても、誰もそこにリンクしないとは断言できません。
本当にリンクをされて困る理由があるなら、なおのことシステム的にリンクを制限するべきなのです。
私は前章で、無断リンク/直リンクは悪事とは認識されていないので、そう認識した上で
受け入れるなり、アクセス制限なりをした方がリスクを負わずに済む、と述べました。
しかし、ここで問題があります。リンクの自由を否定する人はそもそも「自由なリンク」を不合理で非道徳的な悪事と
みなしているのですから、「受け入れよう」というのは「悪事に屈しろ」と言っているのと大差ないのです。
そういう人は多くの場合、「自由なリンクによって問題が生じる可能性は常にある。ましてや自由なリンクは常に
リンクされた側を傷つけるではないか! 自由なリンクは不合理で、道徳に反する。
従って自由なリンクは否定されるべきである」と考えています。
また、ここから「このことを人々に説明すれば皆わかってくれる。つまり、自由なリンクは撲滅できる」
と考えている場合も少なくないようです。
ここには、無断リンク/直リンクを道徳的な面と、公益の面から否定する二つの考えが含まれています。
しかし、これらは大きな間違いを含んでいます。以下に、その間違いについて述べます。
無断リンク/直リンクを否定する人はしばしば、そういうリンクは道義に反する行為であり、 そういうことをするのは不道徳な人間だ、といった主張をします。 しかし、その考え方には妥当性がありません。
無断リンク/直リンクによってリンクされた側が傷つくかもしれないというのは、無論喜ばしい可能性ではありません。 しかし「人を傷つける=不道徳」という考え方は極端すぎます。 もしも人を決して傷つけるべきではないというなら、私たちは何もすることができなくなってしまうでしょう。 例えば、リンク程ではないにせよウェブで時折問題となる事柄に、ブックマークが挙げられます。
残念にも、同人では、リンクどころかブックマークすらトップページにしか許さず、あまつさえ、 トップページからやってこない訪問者に対してIP晒してやる!とか、 アク禁ではじいてやったわ!!などと日記で吠え立てている理屈の通じない人がどんどん増えています。
Nさんから頂いたメールより
これは、2005年4月に私が頂いたメールの一部です(Nさんの了承を得て掲載しています)。私は以前拙稿で同人系(注3)のサイトにはリンク禁止に関するトラブル が多いと述べましたが、やはり同人系のサイトで顕著な、そして同人系以外のサイトではあまり見かけないのが ブックマークに関するトラブルです。 なるほど、閲覧者が思い通りの箇所にブックマークをしてくれず、 それによってサイト運営者が傷つくというのもまた喜ばしいことではないでしょう。 しかし、だからといって「そういうブックマークが悪だ」と言えるかといえば、疑問に思わざるを得ません。 (関連:「トップ以外にブックマークして欲しくないというサイト管理人たち」)
また同様に、「素通り禁止」に関するトラブルというのもあります。素通り禁止とは サイト運営者による「このサイトを閲覧した人は必ず掲示板に書き込め」というルール(要望)で、 従わなかった人への罵倒や荒らしがしばしば行われるという点で「無断リンク/直リンク禁止」と似た部分があります (関連:「読冊日記 2004年 6月中旬 - 素通り禁止」)。 これもまた、確かにサイト運営者が傷つくことになるのは望ましくはありません。 しかし、だからと言って「素通り禁止を謳うサイトには素通りをしてはいけない」ということになれば多くの人のサイト閲覧に不便が生じることは避けられません。
ここで、「いや、ブックマーク禁止だって素通り禁止だって従うべきだ」という人もおられるでしょう。しかし、 こういったルール(要望)がどんどんエスカレートしていけば、結局はどこかで「そんな要望は聞けない」という 判断をせざるを得ません。 それを全て「ルール違反」「マナー違反」と言うことはできないでしょう。 実際に、読んだ本の後書きに「感想の手紙を下さい」と書いてあったとして、どれほどの読者が感想を送るというのでしょうか? 「人は必ずしも他者の要望には従わない」というのは当然のことであって、何ら異常なことではないのです。
ただ、ここで強調しておきたいのは、「リンクの自由というのは“リンクされる側なんてどうでもいい”
という考え方ではない」ということです。
確かに、自由なリンクによって――つまり、リンク先の要望を無視したリンクによって
リンクされた側が傷つくことはありますし、そういうリンクによってサイトが閉鎖し、結果的に多くの人が損をする可能性
もあります。それは望ましくない可能性に違いないでしょう。しかしリンクする側は、状況によって
「そういったリスクを考慮しても尚、この場合はリンクした方が人々の喜びや利益につながる」と
(意識的にせよ無意識にせよ)判断するからそうするのです。
無論、その判断が間違っている可能性はあり、リンクする際になるべくその判断を間違えないようにすることは重要です。
しかし、それでも上で触れた産経新聞のリンク問題でそうだったように、
「無断リンク/直リンクをした方が人々にとって望ましい」という結論は常にありうる。
従って無断リンク/直リンクは必ずしも道徳心や思いやりの欠如からなされるわけではなく、
むしろ思いやりからなされる場合もある。
リンクの自由を否定する人々の多くはこの点を根本的に勘違いしているのです。
リンクの自由を否定する人は多くの場合、リンクを自由と考える人を道徳的な観点から非難します。
「少しは配慮をするべきだ」などと、相手を配慮の全くない人間であるかのように扱う人も少なくありません。
しかし、上記のような判断からリンクがなされた場合にはそれは道徳的な問題ではなく、
従って「リンクが自由と考えている=人の気持ちを軽視している」という非難は全く不適当です。
第一章で産経新聞のリンク問題を紹介しましたが、この時産経新聞へのリンクを外さなかったサイト運営者が
産経新聞のスタッフの苦悩に心を痛めていなかったと、一体誰が断言できるのでしょうか?
また、むしろ逆に「はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH「ネットでの儀礼的無関心の可能性」」のように、
相手サイトの運営者を傷つけてもいいからリンクを控えるべきだという主張がされる場合もあることは覚えておいてよいでしょう
(参考:「ARTIFACT −人工事実− ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−」)。
決して、リンクをしなければ相手サイトの運営者を傷つけなくて済む、というものではないのです。
私のサイトを例にとってみましょう。私はこれまで、リンクの際の連絡に累計で恐らく20時間程度の時間を
費やしてきました。別に私は連絡をしたことを後悔はしていないのですが、しかしやはりこのことに疑問はあるわけです。
「リンクの連絡をすることで、サイトの更新にかけられる時間が減ってしまった。
私は、私のサイトを楽しみにしてくれている閲覧者の期待を裏切ってしまったのではないか?」……と。
確かに連絡をしたことでリンクされる側の運営者は喜んでくれたかも知れません。しかしそれは即ち、
その分自分のサイトの閲覧者の閲覧者を喜ばせなかったかも知れない、ということなのです。
私は、リンクの際に連絡したことを悪いことだっだとは思っていませんが、しかし
良いことだったとも思えないわけです。
私はただ、誰を喜ばせようとするかという選択をしただけであって、それは善悪の問題ではないのではないでしょうか。
リンクの自由を否定する人々がよく持ち出す比喩に、
リンクの際に連絡することを電車で老病者に席をゆずることに喩え、
「だから無断リンクはマナー違反だ」というものがありますが、
私の考えではこれは適切な比喩ではありません。何故ならウェブサイト運営者は、
リンク先サイトだけではなく、現在の、そして将来の自分のサイトの閲覧者全てに対して責任があり、
目の前の一人にしか影響を及ぼしえない電車利用者とは立場が全く異なるからです。
電車内で立っている老人がいた時に、若者が「どうぞ」と席をゆずることは「親切」と言えるでしょうが、
電車の運転手が「どうぞ」と運転席をゆずる(そして自分は立って運転する)ことは必ずしも「親切」では片付けられないでしょう。
無論、確かにサイト運営者は電車の運転手と同一ではありません。多くの場合、
一介のサイト運営者が人々に対して持ちうる影響力は電車運転手のそれよりずっと小さいものでしょう。
しかしそれでも、サイト運営者は十分に多数の閲覧者の明日を幸福にしうる力を持っていますし、
時には閲覧者の長期にわたる人生に影響を与える力すら持っているのです。
そういう立場にあるサイト運営者が、「必ずリンク先サイトの運営者のことを最優先することが“親切”」なのかと考えた場合、
そうとは言い切れないのではないでしょうか。
電車で席をゆずった時に、そのコストを負うのはゆずった本人のみです。
しかし、リンクの際の連絡のコストは運営者自身だけではなく、そのサイトの閲覧者も負わなければならないのです。
「無断リンクは悪事というほどのことではないが、ちゃんとリンクの際に連絡をすることに比べれば
思いやりに欠ける行為である」といった主張をこれまでに多数目にしましたが、
これも誤解であることがこれまでの文でご理解いただけるのではないでしょうか。
つまり、状況によっては無断リンク/直リンクをした方がより親切だと判断される場合がある、ということなのです。
もしも仮に、完璧な慈悲心を持った聖人がサイトを運営していた場合――やはりその人は
状況に応じて無断リンク/直リンクをするのではないでしょうか。
私の見てきた限りでは、道義的な観点からリンクの自由を否定する人の多くは、 「感情は無条件で正しい。つまり、不愉快な行為は問題ある行為だ」と信じています。 例えば、「理屈では正しいかもしれないけど、感情ではやっぱり納得できない。 だから無断リンクは間違っている」といったように。 しかしそれがそもそも誤った考え方なのです。人の直感的な感情は、さまざまな状況で問題ない行為に不快感を感じます。
例えば、金融業者や仲介業者に対して嫌悪感を持っている人は洋の東西を問わず少なくありません (日本でも「金貸し」という言葉はしばしば侮蔑的な意味を込めて使われます)。 そして、そういう嫌悪はしばしば差別や迫害につながってきました。 しかし、そういう職業は別にそれ自体が悪というわけではありません(注4)。 スティーブン・ピンカーはこの心理について著書「人間の本性を考える」でこう述べています。
しかし貸付業者や仲介者は実体のある物を生みだしているわけではないので、 彼らの寄与はわかりにくく、しばしばピンはねをしていると思われたり、 寄生虫のように見られたりする。歴史上くり返し見られるのは、仲介者に対するゲットー化、 資産の没収、追放、集団暴力で、その対象は仲介者のニッチに特化することを身につけたエスニック・マイノリティであることが多い。ヨーロッ パのユダヤ人はもっともよく知られた例であるが、故国を離れた中国人や、レバノン人、アルメニ ア人、インドのグジャラート人やチェッティヤール人なども、同じような迫害を受けてきた。
ある経済学者が特殊な状況のもとで、物理的誤謬が特異な歴史的状況によらず、人間の心理から 容易に生じることを示した。彼が自分の目の前で、物理的誤謬の兆候のすべてが発生するのを観察 したのは、第二次世界大戦中の捕虜収容所でのことだった。捕虜たちは毎月、赤十字からそれぞれ同じ包みを受け取っていた。 数人の捕虜が収容所のなかを歩きまわり、これよりはあれが欲しいという人や、月末までに割当て分を 使ってしまった人に、チョコレートやタバコや日用品の交換や貸しつけを仲介した。 仲介者は取引ごとに少し利益をえて、深い恨みをかった。それは仲介者マイノリティの悲劇の縮図だった。 この経済学者は「(仲介者の)機能や、売り手と買い手を結びつける労力は無視された。 利益は労働の報酬とはみなされず、狡猾な行為によるものと見なされた。 仲介者は、存在しているという事実そのものが反証になっているにもかかわらず、余計なものと思われた のである」と書いている。
スティーブン・ピンカー「人間の本性を考える(中)」(NHKブックス)P185,186より
直感的な感情は時として間違うものです。 そのため、感情を無条件に正しいものと信じる姿勢はしばしば恐ろしい結果を引き起こします。 だからこそ我々は、他人を悪と見なし糾弾する前に常に自分の感情が妥当なのかどうかを自問すべきなのです。
また、むしろ逆に、無断リンク禁止/直リンク禁止といった命令に無条件に従うことがある種の不道徳につながる可能性もあります。
例えば、「無断リンク禁止を主張するサイトにリンクする際には必ず報告すべきだ」ということになれば、
「リンクの際に連絡してくれると嬉しい、でもやっぱり皆忙しいだろうし……」という他者への配慮から
「リンクはご自由にどうぞ」と書いたサイト運営者は、
そういう配慮のないサイト運営者に比べて圧倒的に損(?)をすることになります。
これは「直リンク禁止」でも同様で、それに従うことがマナーとなれば、
やはり他者への配慮を持った人や気の小さい人に損(?)をさせ、
配慮のない人や我の強い人に得をさせることになるでしょう。
つまり、こういうことなのです。
「無断リンク禁止/直リンク禁止といった規範は、おとなしい人は利益を得られず、配慮のない人が利益を得られる規範である。
これは規範として不道徳であり、肯定できない」と。
尚、一応述べておきますと、別に私は「だから連絡不要と書いてあるサイトにリンクするときには連絡しろ、
無断リンク禁止と書いてあるサイトの場合連絡するな」などと言いたいわけではありません。
ただ、道徳的な観点からリンクの自由を否定する人は、
「無断リンク禁止というサイトにリンクする際には必ず連絡するのが道徳というものであり、そうすれば誰もが幸せになれる」
というような説明をする、しかしそれは違うのではないかと考えるのです。
さて、私はここまで、「より多くの幸せのために、リンクされる側のことを気にしつつも無断リンク/直リンクをするサイト運営者」 という観点から説明をしてきました。しかし、確かに無断リンク/直リンクを否定する人々が想定するように、 そうではない人――つまり、リンクされる側の困惑を気にせずにリンクする人もいることでしょう。 なるほど、そういう人に嫌悪感を持つというのは全く分からないことではありません。 分からないではないのですが……しかしやはり、そういう人を異常な不道徳者とみなすことには疑問を感じざるを得ません。
恐らく無断リンク禁止/直リンク禁止を主張する人の多くが理解していないのであえて述べますが、
そもそも人の思いやりは無限ではありません。
多くの人の「思いやり」は、主に家族・身内や共感できる人々に対して、あるいは自分の利益につながる場合に発揮され、
そうでない場合にはあまり発揮されないのです。
こういうと恐らく、「冷淡な考え方だ」「いや、そんなことはない」という方もおられるかと思います。
しかし、これは事実です。そして、人の思いやりが無限ではないことを証明しているのは、
他ならぬ「無断リンク禁止/直リンク禁止」を謳う人々です。
例えば、「無断リンク禁止/直リンク禁止」という主張はリンクするサイトの運営者やその利用者側の気持ちやコストを無視した主張です。
私がこれまで見た限りではそういう主張をする人がそういった気持ちやコストを気にしていたと思えるケースは皆無であり、
私としては「無断リンク禁止/直リンク禁止」を主張する人の多くは、そういう点での思いやりを持っていないと思わざるを得ません。
また、他にもリンクの自由に関する議論を見ていると、リンクの自由を否定する人の
「企業サイトにリンクする際にはリンクポリシーに従わなくてもいいが、
個人サイトにリンクする際にリンクポリシーを無視するなんて思いやりがない」
といった主張をよく目にしますが、これもリンクの自由を否定する人の思いやりの限界を示しているでしょう。
個人サイトだろうが企業サイトだろうが、リンクに関する要望を無視されたサイト運営者が傷つく可能性はあります
(産経新聞の担当者がそうだったように)。それはやはり望ましくないことでしょう。
しかし、そういう主張をする人にとっては企業サイトの運営者は思いやりの及ぶ範囲ではないようなのです。
私は「リンクの自由を否定する人の多くは思いやりがない人だ」などと言うつもりはありません。 いや、ある意味ではそう言っているのですが、それを非難したいわけでは決してありません。 そうでなくただ、「リンクに関する要望を無視するリンクをされて傷つくサイト運営者を気にしない人は確かにいるだろう。 しかし人の思いやりに限界がある以上それは必ずしも異常とは言えず、非難しても無意味なのではないか。 リンクに関する要望に従うことで傷つく閲覧者を気にしない人もいるだろう。 人に無限の思いやりがあると信じるのは馬鹿げている」と言いたいのです。
「Personnel」のそふぃあ氏の文章を引用します。
(略)閲覧者は一般に、インターネットに公開されたものをプライベートなものと考えてくれません。特に、制作者の事情などとは無縁な初心者、あるいは小中学生は、「公開物」を「公開物」として素直に認識してくれます。
これは何も不思議なことではありません。
企業を批判したことはありませんか? 恐らくあるでしょう。雪印は大いに批判されています。マイクロソフトも良く叩かれています。これはちっとも不自然ではありません。批判している側は、特定の身近な存在を否定しているつもりは毛頭ないからです。さて、ウェブサイトには、こうした「企業」が運営するものもあれば、一個人が運営するものもあります。しかし、それらは一般閲覧者にとっては全く同列に扱われます。もちろん質的評価は違うでしょう。しかし、同じような方法で(リンクを辿る or URLを入力する)同じように表示されるものを、同等の立場の存在であると認識するのは当たり前であり、これを「同列」と表現しました。つまり身近な存在だとは思ってもらえないのです。正確には、身近に感じてもらえるとは限らないといったところでしょうか。
人は身近でないものに対しては「クール」です。積極的に批判を行ったり、公然と真似をします。
「無断リンク/直リンクをするのは人としておかしい」といった主張を見るたびに私が連想するのが、
「動物を食べるなんて可哀想だ」という動物愛護的な観点から菜食主義の立場をとる人々です。
時としてこういった人々は、動物を食べる人を「動物を殺しているのを気にかけない、無慈悲な人だ」と非難します。
しかしまず、動物を食べる人が本当に動物の死を気にしていないのかは簡単に分かることではありません。
むしろそのことを悲しみつつも、しかし避けがたいことだと考えて肉を食べている人は多いのではないでしょうか。
食事の際の「いただきます」という言葉は、ある程度そういった心境を表すものでしょう。
それどころか逆に、悲しみつつ肉を食べている人には、
植物を殺して食べていることも気にかけている人も多いのではないでしょうか。
そういう人は、「動物を殺しているんだぞ、何とも思わないのか」という非難に対しては、
むしろ「植物を殺すことには何とも思わないのか」と思ってしまうのではないでしょうか。
そしてまた、確かに動物を殺しているのを気にかけない人もいるのでしょうが、
それが非難に値するほど無慈悲なことなのかどうかも議論のあるところでしょう。
しかし、一部の動物愛護的菜食主義者は、「より広範な道徳的観点から肉食を肯定する人もいるかもしれない」ことを想像できませんし、
「食べるために動物を殺すことは許されるべきではない悲劇である」という自分たちの道徳規範を皆が
共有できると疑いもしていません。これに似た想像力の欠如が、リンクの自由をめぐる問題の一部を占めているのではないかと私は考えているのです。
また、こうも言えるかも知れません。
「死刑制度廃止を訴える人が、死刑制度を肯定する人々を“死刑になる人の苦しみを考えない冷血な人だ”と非難したとしたら、
それは的外れな主張かもしれない。肯定する人も、苦悩の末にそういう結論に達したのかもしれないのだから」と。
道義的な理由から無断リンク/直リンクを否定する人は、多くの場合本当に「リンクされて傷つく人」を 気遣っているのでしょう。それは確かにある種の思いやりであると思います。 しかし、逆にその思いやりによって傷つく人がいることを理解するのもまた思いやりではないでしょうか。 多くの場合、誰かを助けることは他の誰かを助けないことなのです。
もしもリンクの自由を否定する人が「リンクに関する要望に従わない場合、リンクされたサイトの運営者を傷つける可能性があることを気にして欲しい」 と言うなら、私はそれには共感を覚えます。 しかしそれを言うなら、「リンクに関する要望に無条件に従う場合、自分のサイトの閲覧者を傷つける可能性があることを気にして欲しい」 とも思います。
中山昌亮・矢島正雄の「PS-羅生門-」で、ある犯罪者を捕まえるべきか悩む新人刑事に対し、 上司が言います。
悩んでんだな。そりゃいい。悩め!! 少しの悩みもナシに人捕まえる警官は俺にゃ気味悪いぜ。
中山昌亮/矢島正雄「PS-羅生門-」小学館 ビッグコミックオリジナル2003年8号より
どんな行為でも、人を傷つける可能性はあります。しかしそれでも、
その行為がより人々を幸福にすると考えたなら人はそれをするでしょう。
そういう行為に共感はできなかったとしても、それもまた一つの思いやりなのだと理解できれば、
多くのサイト運営者は無断リンク/直リンクをされて傷つかずにすむのではないかと考えます。
「皆が自由にリンクをすれば、多くの人が傷ついてサイトを閉鎖したりして、結果的に皆が損をする」
という人も少なくありません。
まず述べておきたいのですが、こういう主張をする人の中には、
「現在はリンクは自由ではない。もし将来リンクが自由ということなれば、人びとは何も考えずにリンクをしまくって
大変な事態になってしまうだろう」という考えの人がいます。が、これは間違った理解です。
現在、リンクは自由です。誰もが自分の望むウェブサイト/ページにリンクをすることができ、
そうしたからといって別に罰を受けたりもしません。
「無断リンク禁止/直リンク禁止」といった注意書きのあるサイトもありますが、
別にそれがあったとしてもリンクできるのですから、リンクは問題なく自由です。
そして無論、リンクが自由であっても人々は何も考えずにリンクしまくったりはしていません。
何故なら、別に何も考えずにリンクをしまくったところでその人が得をするわけではなく、
むしろリスクばかりが生じる可能性もあるためです。従って、
「もし将来リンクが自由ということなれば、人びとは何も考えずにリンクをしまくって大変な事態になってしまう」
というのは勘違いに過ぎません。(注5)
そういう誤解を含んだ主張を取り除いて考えた場合、上記の主張はつまり
「無断リンク/直リンクされることで、傷ついてサイトを閉鎖したりする人が出る可能性がある。
だから多くの人のためにそういうリンクは否定されるべきだ」ということになります。
確かにサイトの閉鎖というのは望ましい可能性ではないでしょう。
しかし、「そういうリスクがあるから無断リンク/直リンクをしてはいけない」というのは近視眼的過ぎます。
そのような極端な主張を認めれば、結果的に却って多くの利益を損なうことになる可能性があるでしょう。
これまでに実際に、こういった極端な、バランスを欠いた考えが人々に不利益をもたらした ケースはいくつもあります。 スティーブン・ピンカーは「人間の本性を考える」で、こう述べています。
残念なことに、強く求めるものを無限の価値をもつものと見なす心理は、ばからしさにつながる 場合がある。テトロックがそうした例をいくつかあげている。1958年の食品・医薬品法デラニ ー条項は、公衆保健の向上をめざして、発癌性のリスクのある新たな食品添加物をリスクの程度に よらずすべて禁止にした。いい話に聞こえるが、それがちがった。この政策のおかげで、人びとは すでに市場にでているもっと危険な食品添加物にさらされたままになり、製造業者は、発癌性さえ なければ危険な食品添加物でも新たに導入するという行動を誘発され、糖尿病患者用のサッカリン など、助かる命のほうが危険にさらされる命より多かったはずの製品が違法になった。また、有害 な廃棄物が発見された1978年のラブキャナル事件のあとに、有害な廃棄物処分地をすべて、完 全に浄化することを要求するスーパーファンド法(包括的環境対処補償責任法)が成立した。しか し一つの処理場で最後に残った10パーセントの廃棄物を浄化するには、費用が何百万ドルもかか ることがわかった――ほかの処理場を浄化したり、ほかの健康上のリスクを減らしたりするのに使 えたはずのお金である。したがって豊富にあった資金は、対象になった処理場のほんの一部の浄化 さえ完了しないまま破綻してしまったし、アメリカ人の健康におよぼした効果にも異論があった。
「人間の本性を考える(中)」スティーブン・ピンカー P.264より
無断リンク等を嫌がるサイトへのそういうリンクを禁じることを認めたとしましょう。 それは言わば「リンク禁止権」ということになるでしょう。しかし、これは極めて危険な権利です。 何故なら、これを認めてしまうと他人の反論や批判を一切封じつつ自らの主張を展開したり、 他人の作品などを自由に盗作できることになるからです。
これは杞憂ではありません。「ウェブ上での研究公開について」
ではまさに、他者の研究に『バッカじゃないの?』
、『ちょっと外に目を向ければわかるようなことを知らないで平然としている』
等の罵声を浴びせ、自分のサイトについては『無断リンクは絶対禁止』
を主張していた研究者のケースが紹介されていますし、
他人のコンテンツを盗作していたサイト運営者がリンクされて盗作を指摘された際に「リンクしたこと」を非難するケース
も私は何度か見ています(参考:「海外ボツ!News」をパクった楽天サイト)。
こういった人々が現状では少ないのは、リンクの自由が広く認識されており、
「おかしなことを書けば多くの人に見られ、批判を受けることになる」と理解されているからでしょう。
しかし、リンクの自由がなくなればそういったリスクは無くなり、一部の人々は大手を振って中傷まがいのコンテンツを
作ったり、他人の作品を盗作するようになる可能性があります。
このように言うと、「リンク禁止権をそんな風に使う人など稀であり、心配する必要はない」と言う人もいるかも知れません。 しかし、そうとも言えないと考えます。人や組織は、例え普段はおとなしくても 権利を与えられれば往々にしてそれを最大限に使おうとし、邪魔になる者に制裁を加えるなどするものだからです。
以前、ウェブで興味深い出来事がありました。 一部の人々が、既に発表された自分の作品と共通点のある作品を他者が発表することを嫌がり、
キャラクターの名前や設定、台詞等ネタが被ったものを見つけたら、
- 先にUPした者(以後「先発」)と後にUPした者(以後「後発」)は話し合え
- 話し合いがこじれたら、後発は作品を下ろせ
という「提言」をしたのです。表現の自由を無視したこの馬鹿馬鹿しい「提言」は、しかし多大な支持を集めました。
そして、当初は『当然ながら、唯一絶対の対処法ではありません。また何ら拘束力はございません。どうかその点をご理解の上お読み下さるようお願い致します。
』
というあくまでも一種のお願いに過ぎなかったその「提言」は瞬時に変質し、
その「提言」に従わない人々への攻撃がなされるようになったのです。
- Web上で小説を公開している方々に、「盗作だ!」と嫌がらせメールが多数送られてきています。
- メールでの攻撃以外に掲示板をあらしたり、その方のサイトからリンクを辿って、お友達関係のサイトまで攻撃している人達もいます。
- また、ネット上だけでなく、同人誌即売会等のオフラインでのイベントで、直接本人を攻撃する人も出てきています。
- 自宅に押しかけて、脅迫めいた行為を行うと言う被害まで出てきました。
何人もの人が「提言」のおかしさを指摘するサイトを作成し(参考:
忙しい人のための簡略「提言騒動」話、
◇提言被害に関する応急手当法◇、
☆STOP THE 「先発優先」提言☆、
盗作【言いがかり】対策室、
提言を使ったいやがらせ対策フローチャート、
Takako's Homepage、
「お互いのオリジナリティを尊重します」とは何か(消滅)
)、
さらに多くの人々が様々な場で「提言」を信じた人々への説得を行い、
ましたが、
この騒動が収束するまでには結局1年以上を要しました。このケースはまさに、
他者の表現の自由を安易に否定する事がどれほど危険かを示しています。
表現の自由は人々の様々な権利を守るための最も重要な権利とされており、
それゆえに多くの人がその権利を行使し、また多くの人がその恩恵を受けています。
それがなかったということになれば、上で紹介したような様々な問題が起こる可能性は大いにあります。
確かにいかなる権利でも制限を受けることはあり、それは表現の自由といえども例外ではありません。
しかし、表現の自由を安易に否定すれば、それは言わば一種の魔女狩りにつながる恐れがあります。
だからこそ人々は表現の自由が侵されるかも知れない法律を激しく批判するのですし、
リンクの自由をたやすく明け渡したりもしないのだと考えます。
……ただ、やはりこの「リンクの自由を否定することによる危機」という箇所には、疑問をもたれる方も多いのではないでしょうか。
確かにこれは結局は推測に過ぎず、実際にはたとえ「無断リンク/直リンクはおかしい」といった規範が定着しても
そういった問題が生じない可能性もあるでしょう。
しかし私は実際にある程度そういう心配をしています。
これは、人間観、社会観の違いによるものではないかと私は考えています。
スティーブン・ピンカーはこういった人間観をそれぞれ「悲劇的ヴィジョン」と「ユートピア的ヴィジョン」と呼び、
このように説明しました。
(悲劇的ヴィジョンの考え方では)社会がどれほど不完全であっても、そ れと比較すべきなのは実際にあった過去の残酷さや窮乏であって、想像上の未来における調和や豊 かさではない。多少ともうまく機能している社会に暮らしているのは十分に幸運なことなのだから、 それをだいなしにしないことが最優先されるべきだ。私たちは人間本性によって、つねに野蛮な未 開状態の一歩手前に置かれているからだ。それにたった一人の人間の行動でさえだれにも予測でき ないのだから、社会のなかで交流する何百万という人びとについてはなおさらで、社会をトップダ ウンに変えるための方策など、信用すべきではない。修正するつもりだった問題よりもやっかいな、 意図しない結果を生じさせてしまう見込みが高いからである。(略)
(略)ユートピア的なヴィジョンは、社会的な目標を明確に示し、 それを直接の標的とする政策を考案することを目指す。経済的不平等に対しては貧困を根絶する取 り組み、環境汚染には環境規制、人種のアンバランスには優先措置、発癌物質には食品添加物の禁 止。悲劇的なヴィジョンは、そうした政策を実施する人たちに(官僚組織のなわばりの拡大とい う)自己本位な動機があること、そこから生じる多数の結果を予想する能力に欠けていること、そ の社会的目標が自己の利益を追求する何百万人もの人たちと衝突する場合はとくにそうであること を指摘する。要するに、と悲劇的ヴィジョンをもつ人たちは言う。ユートピア主義者は、福祉が依 存状態を助長するかもしれないとか、ある環境汚染物質を禁止すると人びとがやむをえず別の汚染 物質を使用するかもしれないとか、そういった予想ができないのである。
「人間の本性を考える(下)」スティーブン・ピンカー P.20・23より
上の文章で言われる「ユートピア的ヴィジョン」は、まさしく「無断リンク/直リンクは禁止できるべき」
という考え方と同様のものですし、それを否定する考え方はまさに上の文章の「悲劇的ヴィジョン」
と同様ではないでしょうか。
私はユートピア的ヴィジョンが常に間違いだと思っているわけではありませんが、ただ、
「無断リンク/直リンクをすべきではない」という規範は結果的に大きな損害をもたらす可能性が高いとは強く感じています。
表現の自由は「傷つきやすく壊れやすい権利」と言われるように、重要でありながらたやすく制限を受け、
そうなると回復が困難な権利であるからです。
私は「無断リンク禁止/直リンク禁止などと主張するな」と言う気はありません。
しかし、そういう注意書きを考えなしに書かれているのだったら、考えてみて頂きたいとは思います。
その注意書きは本当に、自分自身のためになるのか?
その注意書きは、自分のサイトの閲覧者を傷つける可能性を冒してまで書く価値があるものなのか? と。
ここで、「それでも不意にリンクされて創作者が意欲を失い、サイトを閉鎖するといった可能性はやはりある。 多くの閲覧者のために、創作者が傷つくかも知れない無断リンク/直リンクをしてはならない」という方もおられるでしょう。 確かにそういうリンクが望ましくない結果をもたらす可能性はありますが、しかしやはりそれは極端過ぎる主張であると考えます。 もしそういったリンクをしてはいけないということになれば、 リンクに手間がかかるようになることでそのサイトの閲覧者が増えにくくなり、結果的に創作者の意欲を下げる可能性もありますし、 むしろそういうリンクをされて創作者が発奮する場合もあるでしょう。
その一例が、一日数万のアクセスがあった個人ニュースサイト(注6)「俺ニュース」と田中松太郎氏のCGサイト 「FOMALHAUT」のケースです。 「俺ニュース」に「FOMALHAUT」のCGを(直リンクで)度々採り上げられていた田中氏は、 「俺ニュース」閉鎖告知に下記のコメントをされました。 (尚、「俺ニュース」が既に消滅しているため、引用した文章のリンク先はsabimaru氏によって作成された ミラーサイトに修正してあります。「俺ニュース」管理人氏は、同サイトの著作権放棄を明言されていました。)
うーん、びっくりしました。
去年「戯れる巫女」を初めて取り上げていただいた時の衝撃、あれが僕の中での「絵に取り組む姿勢」を激変させるきっかけだったのです。
あの出来事がなければ、多分今でも「適当にそこそこの絵を描くだけで満足しちゃうハンパ絵描き」のままだったと思います。少し大袈裟な表現になりますが、俺ニュースさんがなければ今の僕はありえなかったわけで。
成長のきっかけをいただいた身としては非常に残念なことではありますが…。
とにかく5/31まで頑張ってくださいませ。
それまではほとんど無名だった田中氏の絵は、「俺ニュース」に採り上げられるようになって
見る見るうちに魅力的になっていきました。
現在は氏は多数の企業や団体の依頼を受けて絵を描くようになり、様々な場で活躍されています。
果たして「コンテンツ製作者を驚かせるリンクすべきではない」と言えるのか?
常に「直リンクは製作者の意欲をそぐ」のか?
本当に「そういったリンクは多くの人にとっての損失につながる」のか?
この出来事は、そういった疑問への参考の一つとなるでしょう。
リンクの自由を説明されて、「“リンクされても嫌がるな”だなんて、横暴だ!」といった反応を見せる人は 少なくありません。 しかし、誰もそんなことは言っていないのです。 理由があろうとなかろうと嫌なものは嫌だ、それならそれで良いのです。 ただ、自分を守るためにこそ「いくら嫌がってもあなたの希望に他の人が必ずしも従うとは限らない、そしてそれは悪事ではない」 ということは知っておくべきだと私は考えるのです。
パスワード等のアクセス制限なしにウェブにアップロードされたコンテンツは、「公開された作品」です。 そうである以上、それを見た人々の多くはそれに自由にリンクし、他者にその存在を教えることができると考えるでしょう。 リンクされて傷ついた人々の多くは、そのことさえ認識できていれば傷つかずに済んだはずなのです。
自由にはまた責任がついてまわります。リンクの自由を否定する人が時々危惧するように、 人々が「リンクする際に、リンク先の要望を聞いてはいけない」あるいは「リンクする際に、リンク先の都合を考えてはいけない」 というような風潮がもし生まれるなら、それは問題かも知れません。しかし、 私の知る限りではそのように信じる人はおらず(たとえいるにせよ稀であり)、そういった心配はないと思えます。
リンクする際にはリンク先の都合を考慮することが望ましいでしょう。しかし同時に、 その際には自分のサイトの利用者の都合なども考慮することが望ましい。 そのバランス感の存在を理解し、無断リンク/直リンクのなされる背景を理解できれば、 少なからぬサイト運営者は傷つかずにすむのではないでしょうか。
尚、無断リンク/直リンクを否定するその他の典型的な(しかし間違った)根拠とその具体的な問題点については、 拙稿「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集で詳しく述べました。 併せてお読み頂ければ、リンクされることに関する理解の助けとなるかもしれません。
最後に、本稿の要点をまとめます。
本稿でいう「直リンク」は、「トップページ以外のページへの直接のリンク」という意味で用いています。 同「ディープリンク」。
ちなみに、「直リンク」という言葉はこのような意味で用いられる場合があります。
以上は全て「直リンク」と呼ばれますが、これらは全く別のものです。 ご注意下さい。(→ページトップに戻る)
正確に言うなら、「無断リンク禁止/直リンク禁止」という注意書きには書いている本人にとって損であること 以外にもいくつかの問題があります。
という問題点はその最たるものでしょう。
……とは言え、第二章で述べたように「無断リンク/直リンクが禁止されることが世の中にとって望ましい」
と考えているならそういう発言が問題とも言えないでしょうし、
一概に「無断リンク禁止/直リンク禁止」という言葉は問題だ、とも言い切れないように思います。
ちなみに、何度か「無断リンク禁止/直リンク禁止といった但し書きは、表現の自由を侵害している」といった主張を
目にしましたが、これは正しくありません。
例えば「死ね」と言われたとしても別に人は死んだりはしませんから、この発言自体は暴言ではあるでしょうが
生存権の侵害ではありません。それと同様に「無断リンク禁止/直リンク禁止」という注意書きは人の表現の自由を否定はしていますが、
そう書かれても人は自由にリンクできるのですから、この注意書き自体は表現の自由の侵害ではありません。
と言うか、そもそも表現の自由などの自由権というのは国家や公共団体と個人との関係について定めたものであって、
私人相互の関係について規定するものではありません。
人が人を殺したらそれは「生存権の侵害」ではなくて「殺人」ですし、例えば脅迫によって他人の発言を封じようとすれば
それは「言論の自由の侵害」ではなく「脅迫」です。(→第一章「理由なきリンク拒否」に戻る)
同人とは、元々は『志・好みを同じくする人。同好の士。仲間。
』(goo 辞書「同人」より)
といった意味なのですが、転じて「一般の流通ルートには乗らない作品を作る人」といった意味で用いられる場合があり、
ここではそういった意味とご理解下さい。ここから
「同人系のサイト」というのは、「一般の流通ルートには乗らない作品を作る人が公開しているウェブサイト」
とお考え下さい。(→第二章「「無断リンク/直リンクは不道徳である」という誤解」に戻る)
金融業者が嫌われやすい一因として、違法な高利貸しや悪質な取立ての存在を挙げることもできるでしょう。 しかし、社会的にはそれがなくても金融業者はやはり嫌われやすい傾向があり、その理由としては結局 「一部に問題のある業者がいるから金融業者全体が嫌われやすい」と言うよりは、 「人間の感情デザインは、問題がなくても金融業者を嫌う傾向がある」と言った方が妥当であると考えられます。 (→第二章「「無断リンク/直リンクは不道徳である」という誤解」に戻る)
ちなみに、「現在はリンクは自由ではない」という考えの人が、「人は決して何も考えずにリンクしまくるように
なったりはしない。つまり自由なリンクなんて存在しえない」といった主張をしているのを見たことがありますが、
完全に間違った主張です。
例えば、表現の自由があるからといって我々は頭に浮かんだことを全て口にするわけではありません。
様々な事象を勘案し、言うべきことは言うでしょうし、そうでなければ言わないでしょう。
表現の自由があるということは何でもかんでも表現するということではなく、「何をどう表現するか、或いは表現しないのか」
を自分で決定できるということです。
リンクの自由も同じです。
リンクの自由を否定する人はしばしば、リンクの自由とは「何も考えずに何でもかんでもリンクすること」
だと考えてそれを否定しますが、リンクの自由とは「どのようにリンクするか、或いはリンクしないのか」を
リンクする側が決められる、ということなのです。(→第二章「「無断リンク/直リンクはウェブの損失につながる」という誤解」に戻る)
「個人ニュースサイト」とは、ウェブ上の様々な興味深いコンテンツを短いコメントとともに リンクし紹介するサイトです。更新頻度の高いものが多く、自らが閲覧したコンテンツを 日々記録すると言う点で、広義のウェブ日記と言えるかも知れません。
人気の個人ニュースサイトには一日あたり数万のアクセスになるものもあり、
そういうサイトで紹介されたサイトは突如多数の人が閲覧する事になることと、
また個人ニュースサイトの行うリンクが基本的にいずれも無断リンク/直リンクであることから、
しばしば非難の対象となり、ここから「リンクの自由」に関する議論になることもありました。
個人ニュースサイトの一つの例として、上で触れた今は亡き人気個人ニュースサイト「俺ニュース」
のミラーサイトをご紹介します。
(→第二章「無断リンク/直リンクはウェブの損失につながる」という誤解に戻る)
公開:2005年7月31日 更新:2010年10月23日リンク一件追加