2022年1月1日
SF作品ではしばしば宇宙空間での戦闘が描かれますが、ここで宇宙船の轟沈等により爆発音が響き渡ると「宇宙空間で音がするわけがないだろう!」と突っこみを入れる視聴者は少なくないと思います。 この突っこみに対してジョージ・ルーカス監督が「俺の宇宙では音がする」と語ったエピソードは有名です(参考:「ジョージ・ルーカスは「俺の宇宙では出るんだよ」と言ったのか、科学的な非科学の世界」)。
しかし私は、「宇宙空間での戦いで宇宙船等の爆発音が聞こえても別におかしくはない」と考えています。 宇宙空間で爆発音が聞こえることに突っこみが起こるのは、基本的に次のいずれかではないでしょうか。
まず、(1)は考えてみれば全くおかしくないことに気づくでしょう。
多くの作品で視聴者は神の視点を持っているのですから、本来は見えないものが見えたり、聞こえないものが聞けたりしても何ら不思議ではありません。
「視聴者が登場人物の私生活を観察できるのはおかしい」「視聴者に人間が入ることができない場所の状況が見えるのはおかしい」「視聴者に登場人物の思考が音声として聞こえるのはおかしい」
などと突っこまないのなら、宇宙空間で視聴者に爆発音が聞こえても突っこむ理由はないでしょう。
「視聴者は爆発する宇宙船を外から見ているのだから、爆発音が聞こえるはずがない」というような批判を目にしたこともありますが、視聴者の目と耳が異なる場所にあるのも別に不思議なことではないでしょう。
例えば激しい鼓動が視聴者に聞こえることで登場人物の緊張が描写されることがありますが、「他人の鼓動が聞こえるはずがない」と突っこんでも仕方がありません。
視聴者の目と耳は異なる場所にあると解釈すればそれで済みます。
では、(2)はどうでしょうか。
ここで問題です。戦闘を行っている宇宙船の乗員にとって敵軍や仲間の宇宙船の轟沈は絶対に知るべき情報と思われますが、この情報を乗員全員に確実に共有する方法は何でしょうか。
映像で轟沈するところを映すのも有効でしょうが、乗員が滞在しうる場所全てにディスプレイやプロジェクター等を設置するのは費用がかかるでしょうし、設置したところで全ての乗員が常にそれを観ているとは限りません。
恐らく、音声で情報共有するのが最も確実なのではないでしょうか。
そして、単に「敵船〇〇が轟沈しました」などとアナウンスするのと、爆発音が響いてから轟沈をアナウンスするのとでは、後者の方が士気高揚になるのではないでしょうか。
戦争では、士気は極めて重要と聞きます。爆発音を流すだけで士気が上がるなら、宇宙船の設計者は喜んで船内に爆発音が響く設計にするだろうと考えられます。
つまり宇宙船の設計者には、たとえ聞こえていなくても敵宇宙船の爆発音を船内に流せるよう設計するメリットがあるのです。
ここまで読んで「つまり、宇宙船は聞こえてもいない敵宇宙船の爆発音を船内に適当に流しているということか?」と思われるかも知れません。
そうである可能性もありますが、実際に聞こえている可能性もあります。
真空の向こうにある物体の爆発音を聞くことは技術上可能であり、SF作品に登場する宇宙船がその技術を採用している可能性があるからです。
「宇宙戦争アニメで爆発音。あれ?真空で音は聞こえるの?」で紹介されているように、
撮影した物体の発する音声を映像から再現する技術はすでに存在しています。
ことによれば、敵の宇宙船の乗員の断末魔すら聞こえるかも知れません。
逆に、仲間の宇宙船の轟沈音が士気を下げると考えるなら、そちらは控え目な音量で船内に流すかも知れません。
宇宙服を着て宇宙遊泳している登場人物に宇宙船の爆発音が聞こえたとしても、同様に宇宙服内蔵の人工知能が爆発音を流していると考えれば、矛盾はありません。 宇宙遊泳している登場人物がある方向を向けばそちらで爆発している宇宙船の爆発音がよく聞こえ、別の方向を向けばそちらの宇宙船の爆発音が良く聞こえる、といった演出も人工知能なら容易でしょう。
つまり、視聴者に宇宙空間での爆発音が聞こえてもそれは視聴者に登場人物の鼓動が聞こえるのと同様おかしなことではないし、 作中の登場人物に宇宙空間での爆発音が聞こえるのは情報共有や士気高揚のためそうしている可能性がある、と言えるのではないでしょうか。
2023年6月19日
一部の作品を視聴したり読んだりしただけで、そのジャンルの作品全てを酷評・否定する人は珍しくありません。SFジャンル全体への酷評に対しスタージョン様が「どんなものも、その90%はカスである」と反論されたことは有名です。
ここ数年でも映画評論家や映画監督の荒井晴彦様・稲川方人様・河村雄太郎様がアニメ映画全体について、ちゃんと人間が作っている映画
ではないため映画とは認めない旨の主張をされて物議を醸しましたし(参考:『ランキングからアニメを除外の「映画芸術」に聞いた「荒井晴彦さん、あなたはアニメが嫌いなのですか?」』)、
映画評論家の蓮實重彦様も同様にアニメ映画を否定する主張をされています(参考:『「この映画は絶対に擁護しなくてはいけない」と蓮實青年を駆り立てた「幻の映画」がついに劇場公開』)。
また、この記事を書いている最中(2023年6月)にも、アメリカで映画監督等複数の著名人がマーベル映画を否定する主張をされ、やはり物議を醸しました(参考:『【論争まとめ】クリヘムが「マーベル映画はシネマか否か論争」に参入!巨匠らへの"落胆"を露わに』)。
無論、そういった酷評・否定をするのは著名人だけではありません。発売前から投稿が可能だった頃のAmazonレビューには、発売前の時点で視聴しても読んでもいない人々による酷評で溢れているものがありました。
誰にでも、好みや得手不得手による苦手ジャンルはあるでしょう。しかし、単に個人的に苦手だというのではなく、そのジャンルの全作品を低レベルと見なし酷評・否定する人々が少なくないのは奇妙にも思えます。
少なくない人々がこういった酷評・否定をしたがる原因の一つは、酸っぱい葡萄の心理ではないかと私には思えます。ご存じの方も多いかと思いますが酸っぱい葡萄とは、欲しいものが手に入らなかった時に、手に入らなかったものの価値を無意識に過小評価してしまう人間の錯覚です。人間はしばしば、自分を守るために無意識のうちに「あんな葡萄はどうせ酸っぱいに違いない」などと自分自身を騙してしまうわけです。
「この作品が私にとって面白くないのは、このジャンルがくだらないものだからだ。私に読解力がないためにこの面白さが分からないのではなく、逆に読解力があるからこそくだらなさが分かるのだ」……といった考え方に陥るのは、言わば人間の本能なのではないでしょうか。
私は、一部の作品を視聴したり読んだりしただけでそのジャンルの全作品を酷評・否定する人々全員が酸っぱい葡萄の錯覚に陥っていると考えているわけではありません。そういった酷評・否定には、他の要因によるものもあるかも知れません。ただ、そういった酷評・否定が生まれる要因の一つとしては、この錯覚があるのではないかと思えます。
なお、以前拙稿「感想によくある錯覚や視野狭窄」でも書きましたが、錯覚に陥るのはおかしなことでも悪いことでもありません。冒頭で何人かの著名人の主張について言及しましたが、そういった主張が実際に酸っぱい葡萄の心理からなされているのだとしても、非難をする気は全くありません。私自身もこういった錯覚にたびたび陥っていのだろうと思っています。
2023年11月5日
近年、同人誌即売会で完全に立ち読み禁止としているサークルを目にすることが増えました。 増えたと言っても、私が現在知っているのは全部で4サークルですが、それら以外の立ち読み禁止サークルは私が20年以上同人誌即売会に通い続けている中で2サークルしか記憶にないため、近年立ち読み禁止サークルは急増しているとすら思えます。 なお、コロナ禍後に感染症対策として立ち読みを禁止するようになった可能性があるサークルや、売り子さんがパラパラとめくって本の内容を見せてくれるようなサークルは、ここではカウントしていません。
以前拙稿「私の書店離れ」で書いたように、私は書店が立ち読みを禁止するのは自由と考えていますし、同様に同人サークルが立ち読みを禁止するのも自由と考えています。
ただ、同人誌は商業誌よりも表紙からジャンルやクオリティが想像しにくいため、同人サークルでの立ち読み禁止は、書店での立ち読み禁止よりも大きなインパクトがあります。
正直なところ私は、何年も追い続けているサークルでも、内容を確認できないなら購入しないことが多くなると思います。
上記の立ち読み禁止の4サークルはいずれも長年プロの漫画家として活躍されている方のサークルか、何年も人気サークルとして活動されてきたところばかりであり、
立ち読みを禁止する側としては「長年活動しているのだから信頼して、立ち読みせずに買ってほしい」というような考え方なのかも知れません。
しかし、私は長年活躍しているプロ作家だろうと、なかなか表紙だけ見て同人誌を買うことはできませんし、それは少なからぬ他の同人誌即売会参加者も同様なのではないかと思います。
近年は商業誌でも購入前に立ち読みできないのが普通であり、同人誌についても同様にする考え方はおかしなものではないとは思います。しかし同人誌においては、長年活躍しているプロ作家だろうと一般参加者を騙そうとしているとしか思えないケースが昔から稀ではないという問題があります。
こういった騙しの手法としてこれまでで最も悲しく思えたのは、コミケカタログでもおなじみのDr.モロー様が1998年に同人誌「COMIC REVOLUTION 10周年記念本」に寄稿された漫画に掲載されたやり方です。 この漫画ではDr.モロー様が同人誌即売会で一般参加者に仕掛けた内の二つの「イタズラ」について描かれており、その一つはこのような内容です。
私には長時間行列し本を購入できたことを喜んだら作家側に嘲笑されるのは不条理に思えますが、こういった頒布方法は恐らくは同人誌即売会のルールに反しているわけではないのでしょうから、Dr.モロー様やS田真子様、Tつねこ様を批判するつもりはありません。 ただ、やはり一般参加者としてはこういったやり方を見聞きすると、著名作家の同人誌であろうと表紙だけで購入することは難しくなります。恐らく少なからぬ同人誌即売会参加者は、同様の出来事を見聞きししたことがあるのではないでしょうか。私は今でも立ち読み禁止のサークルを目にするたびに、こういった作家さん達を思い出します。
私は長い間同人誌即売会ではこういった同人誌を目にしていませんが、書店委託では今でも時折見かけることがあります。 上記のような常に立ち読み禁止のサークルが増え、一般参加者に購入前の立ち読みをしない習慣が生まれれば、 そういう同人誌の割合は増えていくのではないかという気がしており、個人的には立ち読み禁止のサークルが増えないことを願っています。
2023年11月12日最終更新
2024年11月10日
2010年頃から、異世界ファンタジー・異世界ものと呼ばれるジャンルが人気となっています(この記事ではこれらは同一として扱います)。
この言葉の意味は明確だと思っていたのですが、前回記事「お薦め漫画:即死チートが最強すぎて、異世界のやつらがまるで相手にならないんですが。−ΑΩ−」で『「異世界もの」とは、主人公が異世界に行って活躍する作品だとお考えください
』と書いたところ間違っていると友人から言われ、異世界ファンタジーとは何か考えました。
上記解説のように私は、異世界ファンタジーとはほぼ、我々の知る世界(以下「地球世界」とします)に住む主人公が異世界に行って活躍する作品だと思ってきました。 バリエーションとして、異世界と地球世界を何度も行き来する作品、地球世界に戻ってから活躍する作品、主人公以外の登場人物も異世界に行く作品等もありますが、それらも私の解説で包含できるはずです。
それに対して友人の考える異世界ファンタジーとは、作中に地球世界が存在するかに関係なくファンタジー世界を舞台とした作品で、例えば「ロードス島戦記」「ベルセルク」「葬送のフリーレン」も異世界ファンタジーです。 友人説では大半のファンタジー作品は異世界ファンタジーですが、「指輪物語」「BASTARD!! -暗黒の破壊神-」のような過去や未来の地球を舞台とした作品は異世界ファンタジーではありません。 端的に言えば、友人説では異世界ファンタジーという言葉はファンタジー作品を地球が舞台かどうかでカテゴライズするための言葉です。 私には友人説がなかなか理解できず、「つまり、指輪物語もロードス島戦記も異世界ファンタジーということ?」「だから、違うって!」といった話を5〜6回は繰り返してしまいました。
当初私は友人説には納得できなかったのですが、調べてみるとおかしなものではないようでした。 たとえばpixiv百科事典では2024年11月現在「異世界もの」はこう解説されており、第一段落は友人説、第二段落以降は私の説に相当するでしょう。
現実とは分けられた別世界、すなわち異世界を舞台&ジャンルとした作品。
現在のオタク界隈では概ね、異世界とは別に作中に現実世界が存在しており、そこから異世界に転生、或いは転移するなどした作品のことを指す。(略)
「pixiv百科事典 異世界もの」より
しかし、やはり友人説は少数派であるような気がしています。
その理由は、2010年頃からの異世界ファンタジーブームよりも以前には、ファンタジー世界を異世界と呼ぶのは一般的ではなかったように思われるからです。
無論、それ以前からファンタジー世界を舞台とした作品は多数あり、その中には主人公が地球世界からファンタジー世界に行くものもありました。
しかしそれらは独立したジャンルとは見做されておらず、主人公が地球世界からファンタジー世界に転生する物語を読みたい等と意識する読者も、そういう作品の舞台を異世界と呼ぶ人もまずいなかったはずです。
2010年頃以降に地球世界から転移・転生してファンタジー世界に行く作品のブームが起きたのは、感情移入のしやすさや世界観の分かりやすさが認識され、主人公が地球世界からファンタジー世界に転生して活躍する物語を読みたい、書きたいと考える人々が急増したためだったのではないでしょうか。
主人公への感情移入・自己投影を重視する読者は多く、そういう読者には地球世界出身の主人公がファンタジー世界で活躍するフォーマットは特に魅力的だったのかも知れません。
そういう作品の愛読者は地球世界出身の主人公が別の世界に行く作品には既存ジャンルとは一線を画す魅力があると考え、新たなジャンルとして異世界ファンタジーと呼ぶようになったのではないか、と推測しています。
「異世界召喚・転移・転生ファンタジー小説の歴史」を見ると、タイトルに「異世界」を含む小説は1979年の「異世界の勇士」の後長い間出版されてきませんでしたが、2008年の「緑き草原のストッフル 異世界の攻防戦」以降次々と出版されています。
恐らくこの時期に、異世界ファンタジーが独自のジャンルとして意識され始めたのでしょう。
つまり異世界ファンタジーという言葉は、主人公が地球世界から別の世界に移動する作品をカテゴライズする需要が生じた2010年頃に成立したものであり、
地球を舞台としているかでファンタジー作品をカテゴライズするためのものではないように思えます。
ちなみに1988年の「異次元騎士カズマ」や1998年の「異次元の世界エルハザード」からすると、20世紀末ごろには「異次元」が現在の「異世界」に近い言葉だったのかも知れません。
ただ、地球世界への言及がなく終始ファンタジー世界のみを舞台とする作品にもタイトルに「異世界」を含むものはあり、友人説に立つ人々も一定数いるのだろうとは思います。
しかしそういう考え方は恐らく少数で、異世界という言葉は2010年頃からのブームで急増した地球世界からの移動を念頭に用いられていることが多いのではないでしょうか。
この論争については調査が十分にできたわけではなく、今後私の考えが変わる可能性もありますが、
現時点では前回記事の「異世界もの」についての説明を変更する必要はないと思っています。
最後に、友人説と私の説で有名ファンタジー作品のカテゴライズがどう変わるかの表を掲載します。 「該当する」は異世界ファンタジーに分類され、「該当しない」は異世界ファンタジーには分類されません。
タイトル | 友人説 | 私の説 |
指輪物語、風の谷のナウシカ、BASTARD!! -暗黒の破壊神-、ハリーポッター、魔法先生ネギま! | 該当しない | 該当しない |
ロードス島戦記、ベルセルク、鋼の錬金術師、皇国の守護者、葬送のフリーレン | 該当する | 該当しない |
神秘の世界エルハザード、無職転生、即死チート | 該当する | 該当する |