感想によくある錯覚や視野狭窄

 私は他人の錯覚や視野狭窄にしばしば残念な思いをさせられます……が、私も恐らく同様に周囲にそういう思いをさせているのだろうと思います。

 科学者であり小説家でもあったC・P・スノーは、有名な一九五九年のリード講演で──『二つの文化と科学革命』(松井巻之助訳、みすず書房)という本にもなった──当時の教養あるイギリス人に見られた科学軽視の姿勢についてこう述べた。

 わたしはしばしば、伝統文化の基準からは高い教育を受けたといえる人々の会合に顔を出してきたが、彼らはよく嬉々として、科学者は人文学を知らないと不信感をあらわにしてみせるのだった。 一度か二度、わたしは我慢できなくなり、ではあなた方のなかに熱力学の第二法則を説明できる人が何人いますかと尋ねてみたが、彼らの返事は素気なく、また否定的だった。 わたしが投げかけた質問は、人文学でいえば「あなたはシェイクスピアの作品を読んだことがありますか?」と同等のものでしかなかったのに。

スティーブン・ピンカー/草思社「21世紀の啓蒙(上)」P.50より

 ここでは、様々な漫画や小説やアニメ等の感想を見ていて人々(私自身を含む)が陥りやすい錯覚や視野狭窄に気づいた、という話をしていきます。 錯覚や視野狭窄に陥るのはおかしなことでも悪いことでもなく、私自身もよく陥っていますが、それらを意識しなるべく克服できるようにした方がより作品を楽しめると考えています。

第一章:本当にありえない?「早まった一般化」の錯覚

 様々な感想を読んでいると、よく「ありえない」と酷評するものを目にします。 作品を読んで/視聴して「この展開はご都合主義が過ぎるのでは?」という印象を受けることは私にもよくあり、「ありえない」というのも同様の感想なのかと長い間思っていました。 しかし、「ありえない」という評価は私がご都合主義的な展開と感じなかった作品への感想に多い印象があり、逆にそういうレビュアーはご都合主義的展開と私には思えた作品を絶賛していることも多く、いつも不思議でした。

 私が違和感を持った感想について調べていくと、「ありえない」という酷評は大半が物語展開というよりも設定へのものであることに気づきました。 そして、設定を酷評する人々の判断基準が奇妙に思えるケースは多く、これは「早まった一般化」と呼ばれる錯覚が生じているのではないかと私は考えています。

 例えば、『りゅうおうのおしごと!』というラノベがあります。主人公は16歳で将棋のタイトルを獲得したプロ棋士という設定で、「ありえない」と非難轟々でした。 私の将棋マニアの知人もまさにそういう非難を何回か私にぶつけていましたが、私は「この作者さんは理論上この年齢でのタイトル獲得は可能と計算して書かれているのだからそれでいいじゃないか、何を以てありえないと言えるのか」と言っていました。 その後同作が始まって約5年、現実に藤井聡太七段が17歳・18歳で立て続けにタイトルを獲得するなど同作の主人公以上の活躍をされ、同作は予言書と呼ばれたりもしました(参考:「現実が小説を超えてしまう…藤井二冠の活躍にラノベ「りゅうおうのおしごと!」作者驚愕 新刊の帯「現実に、負けるな」の深さ」)。

 作中の設定を超える出来事が起きたことにより同作を「ありえない」と酷評してきた人々は反省したのかというと、別にそういったことはないように見受けられます。 それどころかいまだにこの設定を酷評する人々はいて、「現実に起こり得ても読者に受け入れがたい設定は駄目だ」というようなことを言っています。

 もう一つ例を挙げるなら、『冴えない彼女の育てかた』というラノベがあります。高校生の主人公が同じ学校に通うプロのラノベ作家とセミプロの同人イラストレーターを仲間にしてゲーム制作をするという設定で、これについても「ありえない」という感想を何度も目にしました。 才能ある若手クリエーター二人がたまたま同じ高校にいるなんてありえない、あるいはそもそもそんな歳でクリエーターなんてありえないといったものです。 しかし同じ高校に作家とイラストレーターがいるという設定は、ゲームメーカー「TYPE-MOON」を立ち上げた作家とイラストレーターが中学の同級生で、その頃からクリエーターとして切磋琢磨してきた親友同士だったという史実を基にしたものではないかと私は考えています。 つまり、これは別に「ありえない」ことではないと思えます。

 同作のクリエーターの若さについても、現実を見てみれば別におかしな設定ではありません。 例えば作家の鈴木るりか様は中学2年の時に小説を刊行され大ヒットとなりました。 漫画家の長谷垣なるみ様は高校生の時に「なかよし」で連載をされました。 漫画家の高河ゆん様は高校生の頃から人気同人サークルを運営し、月に200〜300ページもの漫画を描かれていました。 創作業界には若くして頭角を現す人もいるのです。

 また、同作のそのラノベ作家はデビュー作1巻目が売れてその2巻の発売時にサイン会が開催されたという設定なのですが、これについても「デビュー2巻目でサイン会なんてありえない」という感想を目にしました。 しかし、デビュー作2巻目でのサイン会も別にありえないことではありません。漫画家のわらいなく様のサイン会は初連載作品かつ初単行本である『KEYMAN』1巻の発売時に開催されました。 「デビュー2巻目でサイン会なんてありえない」という認識はどこから来たのか、やはり気になっていました。

 そして、こういった設定を「ありえない」と酷評する人々が往々にして現代社会に魔法やタイムスリップや記憶の入れ替わりや怪獣やゾンビ等の超常要素を加えた作品を絶賛しているのも、私にとっては理解に苦しむところでした。 10代での将棋タイトル獲得はありえないと酷評するのに、現代社会に魔法があるのは気にしないの?と。

 思うに、私を含め多くの人々は超常をよく知らないことは自覚していますが、現実世界のことは分かったつもりになりがちです。 自分はこれまでの人生で○○を見たことがない、つまり○○はありえないのだ!……と。 このため、現代社会に魔法があるという設定には違和感を持ちませんが、現代社会で10代のプロ棋士がタイトルを獲得するという設定には違和感を持ちやすいのではないでしょうか。 これは「早まった一般化」と呼ばれる、少数のサンプルから全体を判断してしまう錯覚ではないかと思えます。 「物語に大きな嘘があるのは良いが、小さな嘘はだめだ」などとする感想は多数あり、その一つを引用します。

所詮は架空のお話なのはわかっているけど、ファンタジー世界じゃなくてリアルな世界を描いてる以上もうちょっと現実味のある設定にしてくれ。もしくはもっととんでもなくぶっ飛んだ設定にするべき。

ちょっときついっす」より

 念のために言っておくと、私は上のような感想は錯覚だからおかしいと考えているわけではありません。 ただ、作家に読者の錯覚を想定した作品を期待するのではなく、読者が錯覚を克服する道もあるのではないか、と考えているわけです。

 私は2年ほど前に拙稿「即効性の高いストーリーが求められている」で、超常を扱わない作品は近年ヒットしにくくなっている、というような話をしましたが、 もしかするとこれにはこのような錯覚も関係しているのかもしれません。

 現実の社会を舞台にしているように思える作品だと、多くの読者/視聴者が「この部分はおかしい」と違和感を持ってしまい楽しめないため、 初めから超常要素を加えて読者/視聴者に違和感を与えにくい作品が人気となっているのではないでしょうか。 つまり、作品に超常的な要素が加わることで読者/視聴者が錯覚に陥りにくくなっているわけです。

 そもそも運動系の部活動を題材にした作品では、「同じ高校の部に超高校級の選手が複数いる」「野球部のない高校に入学し野球部を作ろうとしたら、その学校に中学野球の名選手がいた」といった設定は定番ですが、創作活動でそれをした『冴えない彼女の育てかた』はたびたび酷評されていて不思議に思ったことがあります。 もしかすると、近年多くの読者/視聴者はそういうよくある設定にも違和感を持つようになっていて、そのような運動部ものも受け入れがたいのかもしれません。

 このサイトで以前も書いたことがありますが、人間の直感はよく間違えます。「ありえない」という酷評の多くは、直感を過信し錯覚から脱却できていないゆえであるように思えます。

 なお、私は錯覚を克服すればあらゆる設定が受け入れられるようになると言うつもりはありません。 物語の設定作りには破るべきではないとされる鉄則もあります。 この鉄則は次の第二章とも関係はありますが本稿の主題からは外れるため、後日別の記事で書く予定です。

第二章:ご都合主義とどう向き合うか、私の視野狭窄

 私は第一章で『「ありえない」という評価は私がご都合主義的な展開と感じなかった作品への感想に多い印象があり、逆にそういうレビュアーはご都合主義的展開と私には思えた作品を絶賛していることも多く、不思議でした』と書きました。 私は以前、これは物語の展開を重視するか、設定を重視するかの違いなのではないかと考えていました。 私は設定に興味がなく展開に興味があり、10代での将棋タイトル獲得を酷評するような人々はその逆なのではないか、と。 後者は、超常を扱った奇抜な設定の作品を高く評価することが多い印象があったからです。 しかし、様々な感想を見ていくうちに、必ずしもそうではないことに気づきました。

 私が以前見た個人のアニメ感想ブログの話です。そのブログには「私はストーリーにしか興味がなく、ストーリーだけでアニメを評価していきます」というような但し書きがあり、 「意外なストーリーで面白かった」「予想通りのストーリーでつまらなかった」等簡潔に多数のアニメの感想を書いていました(注1)。 そのブログの感想を見ていると、魔法やSF等の超常を扱った作品の評価は「意外なストーリーで面白かった」ばかりで、超常を扱っていない作品は「予想通りのストーリーでつまらなかった」ばかりという印象でした。 この方の求めるストーリーとは何なのだろうと驚きましたが、その後も多くの人々の感想を読んでいくと「面白いストーリーは、超常を扱っていないと生まれない」というような考え方は多いのです(第一章で触れた拙稿「即効性の高いストーリーが求められている」にもつながる話です)。

 多くの人々は、派手な問題が次々と起こる展開を高く評価するためにそれらを起こしやすい超常を扱う作品を好み、そうでない作品を退屈な作品とみなす傾向があるように思えます。 そういう人々にとっては、それが魅力的なストーリーの重要な要素なのではないでしょうか。 テレビドラマ等の題材として医療ものや刑事ものは定番ですが、超常を扱わない題材ではこれらが次々と問題を起こしやすいからでしょう。 このように考えると、多くの人々は展開を気にしていない、などというイメージは私の視野狭窄だったように思えます。

 しかし私は逆に、超常を扱った作品の場合あまりストーリーに期待できないと感じてしまいます。 私は突き詰めて言えば「主人公がどんな工夫で問題を解決するのか、目標を達成するのか」が見たいのだと思います。 そして超常を扱った作品の場合、主人公の工夫に関係なく奇跡等で問題が解決してご都合主義的に思えてしまうものが多く、身構えてしまうのです (私が超常ものに期待しない理由は他にもあり、第三章で述べます)。

 そもそもどの作品をご都合主義と評するかが人によって異なるのは、この言葉が異なる意味で用いられているためである場合もあるでしょう。 ここで、私がご都合主義的と感じる展開を簡単に整理してみます。ちなみに、こういった要素で主人公側に不利になるものは負のご都合主義と呼ばれることがあります(参考:「ご都合主義とは-ニコニコ大百科」)。

  1. 友人知人に何回も偶然遭遇することでストーリーが展開する
  2. 悪漢に絡まれているところに偶然居合わせて助けたり、動物を助けているところを偶然目撃したりして恋愛感情を得る
  3. 複数のキャラクターがあっさりと主人公への恋愛感情を得る(いわゆる「ハーレム展開」)
  4. 中盤以降に唐突に事故や事件や災害に巻き込まれたり奇病にかかったり記憶喪失になったりし、ストーリーが展開する
  5. 唐突に新たな設定が明かされて問題が解決する(「夢オチ」「デウス・エクス・マキナ」等)か、逆に問題解決が難しくなる
  6. 土壇場で明らかに不合理な行動をとって問題解決が難しくなる

 こういった要素は程度の差はあれど多くの物語に含まれており、これらがあるから即ご都合主義だとは思いませんが、これらが何度も起きるとご都合主義的なストーリーという印象が強くなります。 個人的には上で挙げた中でも特に苦手なのが6で、「苦戦の末に強敵を倒すが、とどめを躊躇っているうちに逃げられてしまう」「戦場に明らかな足手まといがついてきて、足を引っ張ったり人質に取られたりする」といった展開にはご都合主義的な印象を強く受けます。 近年印象的だったのがあるバトルもののアニメで、たった3話のうちにとどめを躊躇って逃げられる展開が3回あって頭を抱えました。 無論、あまりにもご都合主義を排除しすぎると意外な展開にするのが難しくなるわけで、その匙加減は重要でしょう。 しかし私には、あまりにも多くの読者/視聴者が展開上のご都合主義を気にせず現実にありうる設定を酷評するような印象があり、不思議に思えていました。

 例えば、第一章で挙げた『りゅうおうのおしごと!』や『冴えない彼女の育てかた』はご都合主義とよく批判されますが、ストーリー展開という観点からはしっかりした作品であると私は考えています。 ストーリー展開のために偶然の出来事(特に上で挙げた1・4)を多用する作品は多いのですが、両作品ではほぼ用いられていません。 また、これらの作品は主人公が複数の女性から好意を持たれるハーレム系ですが、主人公に好意を持つ女性たちの大半は物語の開始時点ですでに主人公に好意を持っていてあっさり好きになるわけではなく、上の2・3で挙げたご都合主義は感じません。

 そして私はこれまでに様々な感想を読んできて、ご都合主義をどう評価するかも人によって異なることに気づきました。

 私は、長い間「ご都合主義的展開は大嫌いな人とそこまで嫌いではない人がいるだけで、良くないのは明らかだ。実力不足の作家・漫画家が多いから多用されているだけで、今後実力が上がればご都合主義は物語からほとんどなくなるはずだ」と期待していました。 大間違いでした。ご都合主義的展開は、作家・漫画家の実力不足から作られるのではなく、恐らく読者/視聴者に求める人々がいるから多用される側面もあるのだと、長い時間かかって気づきました。

 ミステリもののアニメ『虚構推理』の終盤、探偵役の推理が明かされた時の感想を調べていて衝撃を受けた書き込み(42と297)です。

42. アニメ好き名無しさん 2020年03月28日 00:33 ID:6abA.UMA0
苦労もおひいさまも淡々と作業してる感じだったね
緊迫感も起伏もなし
普通本人たちにも想定外の事態が発生して盛り上がるもんだけど
最近のラノベ小説はこんな感じなんかね
147. アニメ好き名無しさん 2020年03月28日 09:25 ID:EbSwDoU30
>>42
「想定外のことが起きれば盛り上がる」って小学生の発想かよw

297. アニメ好き名無しさん 2020年03月29日 18:35 ID:ZXy2JLG50
>>147
エンタメの定石ですが?
傑作と呼ばれる作品にはたいていこの要素がある
小学校に上がったらお前も習うから楽しみにしとき

【虚構推理】第11話 感想 謎解きをする面白さ」より

 私にはこの感想の意味がなかなか理解できなかったのですが、やがて理解して驚きました。これはまさに、誰もが当然嫌っていると私が思い込んでいたご都合主義的展開をあるべきものと主張する感想だったからです。 そして、私がご都合主義と考え軽視していた展開を重視する考え方もあることを知ると、これまでに理解できなかった感想が理解できるようになってきました。

 以前当サイトでもで紹介した恋愛漫画『やがて君になる』について、作者の仲谷鳰様へのインタビューにこういう箇所があります。

──侑と燈子の関係性を描いて行く上で、特に大事にしていたことはありますか?

仲谷 (略)あとは、侑と燈子が「運命の二人」みたいな感じには見えないようにしたいなと思っていました。

大人気百合漫画『やがて君になる』最終巻直前仲谷鳰に聞く「侑と燈子が『運命の二人』には見えないように」」より

 私には運命の二人に見えないようにしたいというのは大変納得のいく考え方でしたが、ウェブでの反応を見ると仲谷様のこの回答は意味不明だというものが多かった記憶があります。 インタビュアーとしても、この回答が印象的だったため記事のタイトルとしたのでしょう。

 私は物語は必然によって展開されるのが理想で、偶然や運命に頼るのは最善ではないと考えており、仲谷様のこの回答はそれと同様のものと解釈しました。 偶然や運命はご都合主義の典型的なパターンだからです。 偶然の積み重ねではなく必然によって二人が結ばれる物語を仲谷様は描こうとされ、私はそれは成功したと考えています。 私にとって納得のいくものである仲谷様の回答の意図が伝わらない方が多いことは、印象的でした。

 私は長い間、ご都合主義的な展開を多用する作家・漫画家を実力が低いと考えていました。 現在は、恐らくそれを望む読者/視聴者がいるから書かれている場合もあるのだろうと考えています。

 日本のフランス料理店で働くソムリエを主人公とした漫画『ソムリエ』の7巻にこういうエピソードがあります。 主人公の働く店はレベルの高いフランス料理店ですが、ある時来店したフランス人の高名なフランス料理シェフから「こんなのはフレンチじゃない」、なぜならフランス産のバター等を使っていないからだ、と言われ自分の仕事に迷いを生じます。 彼は自らの店のシェフと話をし、後日そのフランス人シェフが再び来店した際に「日本のお客様が最高とおっしゃるのであれば、それが日本で最高のフレンチだと思っておりますので」と回答します。

 創作作品からはできる限り偶然要素を排し、必然でストーリを進めるべきだ……というのは、フランス料理はフランスの食材で作るべきだ、というのと同様の視野狭窄した考え方だったように思えます。 読者/視聴者がそれを望むなら、それでいいのです。

注1……ここで触れているアニメ感想ブログは2017年頃に検索でたどり着いたのですが、後日再度探したところ見つからず、恐らく公開停止されたのだろうと考えています。 上で書いたそのブログの注意書きや感想は正確な引用ではないのでご了承ください。

第三章:感情は皆同じ?「酸っぱい葡萄」や差別・迫害

 様々な作品の感想を読んでいて強く感じるのが、「多くの人々が人間の感情を古今東西不変のものと考えていて、自分と異なる感情を持つ人物を悪人、異常者、犯罪者予備軍等とみなしている」ということです。 人間の感情は時代によっても地域によっても全く異なりますし、個人差もあります。別に自分と異なる感情を持つから悪人とは言えません。しかし、そう考えてはいない人々は多いように思えます。

 例えば、現代では多くの男性は女性の胸を見れば興奮するでしょうし、女性は男性に胸を見せることには羞恥心を覚えるでしょう。 しかし、現在でも女性が胸を露出して生活する地域はあり、そういった地域ではそれらの感情は見られません。 また、アメリカで黒人奴隷が一般的だったころ、多くの白人女性は平然と黒人男性の前で着替えをしていました。当時多くのアメリカの白人には黒人は人間ではないと認識されており、羞恥心も働かなかったのです。 逆に、女性が髪を露出せず生活する地域もあり、そういう地域にしばらく滞在した男性は女性の髪を見ただけで興奮するようになるそうです。 人間の感情のあり方は、時として社会習慣等で簡単に変わってしまうものなのです。

 また、少なくない人々は死者の蘇生や不老不死を禁忌と考えています。 それらが可能なファンタジーやSF等の作品でしばしばそういう心理が扱われ、死者の蘇生により恐ろしい出来事が起きたり、死者の蘇生を思いとどまったことが美談として描かれたり、不死の人間が死を渇望するようになったりします。 しかし、死者の蘇生や不老不死を禁忌とする考えは、大切な人が死んで悲嘆にくれる人や死を恐れる人が自分を慰めるための理屈ではないでしょうか。「生き返って欲しい……。いや、死者の蘇生は禁忌なのだから生き返って欲しいと思う必要はないんだ」と。 これは「酸っぱい葡萄」と呼ばれる、手に入らないものの価値を過小評価する錯覚であり、人間は自らの感情を無意識のうちに作り替えてしまうのです。 そして「人は死ぬから人生に価値があるのだ」等と言って自分をだますわけです。ルターが「死は人生の終末ではない。生涯の完成である」と言ったように(注2)。 もし実際に死者の蘇生や不老不死が可能になったら、大半の人々はこれらを禁忌とする心理など忘れてしまうでしょう。 この心理については、グレッグ・イーガン様の『しあわせの理由』収録の「ボーダー・ガード」に面白い考察があります。

死が人生に意味をあたえることは、決してない。つねに、それは正反対だった。死のもつ厳粛さも、意味深さも、そのすべては、それが終わらせたものから奪いとったものだった。けれど、生の価値は、つねにすべてが生そのものの中にある──それがやがて失われるからでも、それがはなかいからでもなくて。

グレッグ・イーガン/早川書房「しあわせの理由」P.307より

 少なくない人々は人間の感情を不変のものと考えていて、しばしば自らのそれに合わない人物を非難します。視野狭窄に陥った姿勢と考えます。

 『ドラゴンボール』の孫悟空は、「殺されたみんなや破壊された地上はドラゴンボールでもとにもどれるんだ 気にするな」と言って読者から強い非難を受けました(参考:「ドラゴンボールの孫悟空ってクズですよね 地球人が死んでも生き返るとか言ったときは本当に最低だと思いました」)。 この非難はまさしく、人間の感情を不変のものと考えたがためのものでしょう。

 現代社会の人間の多くは人命を限りなく尊いものと考えており、人命が失われる事態をできる限り避けようとします。 しかし、それは現在の技術では死者の蘇生が不可能だからであり、可能になれば人々はそこまで人命を尊重しなくなるでしょう。 孫悟空の発言を非難するのは、人間の感情が不変のものであると錯覚したがゆえのものなのではないでしょうか。

 近年のラノベ等には、人間だった主人公が異世界でモンスターに生まれ変わり多数の人間を殺すものようになるものが散見され、こういった作品にはよく「人間を虐殺するなんて、主人公は狂っている」といった感想がつきます。 しかし、主人公が人間でなくなり人間社会に溶け込んで生活する等の意思がないなら、人間の道徳に従うメリットは特にないでしょう。 もしそんな状況になったら、人命を尊重する感情などまず吹っ飛んでしまうのではないでしょうか。

 1950年代にハリウッド映画で異星人が登場するSFものが流行したとき、「異星人なのに皆現代のアメリカ人と同じ思考をしている」という批判があったそうですが、 多くの観客は自分と異なる思考に違和感を覚えるから同じ思考をさせよう、と制作者は考えていたのかもしれません。 私は第二章で超常ものにあまり期待しないと書きましたが、それにはこの問題に由来する要因もあります。現代社会と異なる物理法則や技術水準の世界が舞台なのに登場人物たちの価値観等が現代日本人と全く同じに見えて、違和感を覚える場合が多いのです。 ただ、上で書いたように自分と異なる思考に違和感を覚える人も多いため、そういう描写としているのかもしれないと考えています。

 創作上の世界については理解できないキャラクターを悪人等とみなすのは仕方がないことかと思います。いちいち各キャラクターの感情の背景を細かく考えてはいられないでしょう。 上で挙げた『ドラゴンボール』の孫悟空等何人かの創作上のキャラクターについて、「このキャラクターは理解できない、怖い、何か犯罪をしでかしそう」というような感想を見かけましたが、そういう感想自体を否定するつもりはありません。 しかし、現実社会においても自分に理解できない感情を持つ人物を悪人、異常者、犯罪者予備軍等とみなす人々はいて、しばしば迫害や差別につながってきました。

 分かりやすい例は、同性愛でしょう。同性愛はいくつかの文明圏において長い間異常な行為とされてきました。 『美少女戦士セーラームーン』のアニメシリーズは1990年代に様々な言語に翻訳され、多くの国で放送されましたが、 その際にセーラーウラヌスとセーラーネプチューンの女性同士での恋愛描写はアメリカ版ではいとこ同士、フランス版では姉妹同士、イタリア版では片方が男性と改変されました。 減少してはいますが、いまだに同性愛が犯罪である国も少なくありません。

 人間の感情は、さまざまです。異なる感情を持っているから悪人だなどということはありません。 「犯罪を起こすのは異常な人で、正常な人は犯罪を起こしたいという欲求を持たない」等と考えている人をしばしば目にしますが、誰だって犯罪は起こし得ます。 男性の9割、女性の8割が憎い人間の殺害を夢想するという調査もあり、犯罪者とそうでない人に根本的な違いがあるわけではりません。 ウェブではよく「不快になる人がいるから○○してはいけない」という主張が登場しますが、これも「人間には正常な感情と異常な感情があり、自分と異なる感情は異常だ」とみなすがゆえのものであるように思えます。 ある人が「誰でもされて嫌がるに決まっている」と考える行為が、別の人にとってはされて嫌がる人がいるなんて考えもしなかった行為である場合もあります。 私は多くの人々に他人の感情が自分とは異なることを想像してほしいと願っています。

 なお、念のために述べておくと、私は人間の感情が一人一人完全にランダムに異なると言っているわけではありませんし、 一人一人の全ての感情が社会習慣によって容易に変わると言っているわけでもありません。 人間の感情にはある程度の傾向やパターンはありますし、社会の慣習等にかかわらず広く見られる感情もあります。 例えば、顔の美醜の評価基準は地域や時代により異なりますし個人差もありますが、普遍的に美しいと評価される要素もあります。

注2……手に入らないものの価値を過小評価する「酸っぱい葡萄」の錯覚はよく知られていますが、逆に手に入れたものの価値を過大評価する錯覚もあるという研究も近年あり、「甘いレモン」と呼ばれます。 上で挙げたような死を肯定的に捉えようとする考え方は昔からあり、この錯覚に由来するようにも思えます。

公開:2021年4月7日 最終更新:2021年4月10日

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