創作物の面白さ/つまらなさとは何か

公開:2024年3月23日 最終更新:2024年4月1日

 私はここ数年、創作物の面白さやつまらなさとは何かを考えてきました。このサイトの記事のいくつかはその思索から生まれた副産物のようなものです。 まだこの疑問についての完全な答えが出たわけではないもののある程度考えがまとまってきたため、ここで整理しておきたいと思います。

 この記事の内容を要約するなら、以下のとおりです。

第一章:創作物の面白さ/つまらなさを生み出すもの

 創作物の面白さに最も重要なのは、既存作品にない新しさや独創性ではないかと私は考えています。
 少なくとも私がこれまでに面白いと思った作品はテーマ、ストーリー、絵柄等について新しさや独創性を感じるものばかりでした。 逆に、既視感を覚える要素ばかりの作品は陳腐でつまらないと感じます。 無論、新しい部分があっても面白い作品とは限りませんが、なければ面白い作品とはなりえない、というのが私の考えです。
 他の人々が全員同じだと思っているわけではないものの、多くの人々には少なからずそういう部分があると考えており、 例えばよく見られる「内容がない」という酷評は、新しい部分や独創性がないという意図で使用されている場合が多いと聞きます。

 名作には「記憶を消してもう一度読みたい」という感想をよく見かけますが、言い換えれば名作でも再読では初読時ほどの面白さを感じることはできないわけです。

 2022年以降、生成AIが創作活動に与える影響が物議を醸しており、特にイラストレーターの方々が懸念を表明しているのをよく目にしますが、こう考えると分かりやすいのではないでしょうか。 イラストの面白さに重要なのは多くの場合、イラストレーターの方々が何年もかけて磨き上げてきた独自の絵柄と思われますが、生成AIはその絵柄のイラストを容易に量産することができます。 そうなればその絵柄は急速に陳腐化し、面白さが失わる恐れがあります。
 例えばキース・へリング様は没後30年以上を経た現在も独自の絵柄で人気の高いイラストレーターですが、当時生成AIが存在し類似イラストを量産されていたらそこまでの人気にはならなかったかも知れません。

 私は面白さとは何かを数年考え続けようやくこの結論に達しましたが、考えてみるとこれは当然すぎる結論と思えてならず、 「考えるまでもないことを何年も考え続けてしまった気がする。しかし、同様の考え方は検索しても出てこないし、当然の考えでもない気もする。」と思考が堂々巡りしていました。 そんな時、作家の森博嗣様の著書「面白いとは何か? 面白く生きるには?」(2019年)の『「新しい」ものは「面白い」』の項を読み、我が意を得たりと感じました。

 まず、僕が一番に思いつく「面白さ」は、別の言葉にすると「新しさ」に近いもののように感じる。今までになかったもの、これまで考えたことがなかったもの、 一般的に認識されているところから外れているもの、などである。(略)

 もちろん、「新しい」だけで、即「面白い」わけではない。新しいことが、面白いことの一つの要因となっているというだけで、それ以外にも「面白さ」を成立させる条件がいろいろあるだろう。 ただ、その中でも「新しさ」は際立っているように感じる。まちがいなく最重要であり、しかも、「新しさ」が計算の結果生み出すことが難しい対象である点にも注目したい。

森博嗣「面白いとは何か? 面白く生きるには?」(ワニブックス)より

 考えれば考えるほど、新しさや独創性が作品の面白さに最も重要であることは明白であるようにしか思えません。 しかし、この考え方はそれほど一般的なものではないように思えますし、実際に私もこの結論に至るには数年を要しました。 そうなると、「何故、新しさや独創性が創作物の面白さに最重要であることは分かりにくいのか?」という疑問が生じます。

 無論、新しさや独創性だけが創作物に面白さを与えるわけではないでしょうし、人によってはその重要性が比較的低い人もいるはずです。
 しかし、それだけではこの考えに至るのが何故ここまで難しいのかは説明できません。 新しさや独創性の重要性に気づきにくいのは、読者/視聴者それぞれの知識や気力等が作品から感じられる面白さ/つまらなさを変化させ話が複雑化していることが理由ではないか、と私は考えています。 どのような理由から読者/視聴者によって感じられる面白さ/つまらなさが変わるのか、第二章、第三章で説明します。

第二章:知識・理解力と面白さ/つまらなさの関係

 幼い子供は他愛もない作品にも夢中になったりします。それはまだ目にするもの何もかもが目新しく、面白さを感じやすいためです。 それこそ子供は、蝉の抜け殻や蟻の行列を見るだけで面白がったりするわけです。
 そして誰しも、歳をとり読んできた/視聴してきた作品が増えるにつれ新鮮に思うものは減り、面白さを感じにくくなっていきます。 それどころか、歳をとって知識を得たことにより「こんな描写はおかしい!」「こんなことはありえない!」等と感じやすくなり、なおさら作品を楽しむのが難しくなることすらあります(参考:「何かを面白くないと感じる能力の存在関連」)。 こうして、多くの人々は歳を取るとあまり創作物を楽しまなくなっていきます。

 無論、創作物には逆に歳をとって知識や理解力を得ることにより面白さが増す要素もあります。 人間の心の機微、政治、経済、歴史、科学技術、料理、格闘技等々あらゆる知識は創作物の面白さを増加させうるものです。
 中でも、楽しむために既存作品の知識が重要となる作品はハイコンテクスト(高文脈)作品などとも呼ばれます。

 読者/視聴者に知識や理解力をあまり要求しない作品は娯楽作品・大衆向け作品などとも呼ばれます。 逆に、高い知識や理解力を要求する作品が芸術作品・文学(的)作品などと呼ばれることがありますが、これらの言葉は単にクオリティが特に高い作品を指すものだという考え方もあります。
 ある程度の知識や理解力を要求する作品をそれらの不十分な人が読んだり視聴したりした場合、実際にはその作品の問題ではないにもかかわらず、作品が低クオリティなものだと見なされる場合も多々あります。

 ところで、上で記載したとおり知識が増えて作品のつまらなさがわかるようになる場合は確かにありますが、つまらなさが分かったというのは錯覚に過ぎない場合も多いと考えています。
 こういった錯覚については、拙稿「感想によくある錯覚や視野狭窄」で詳しく説明しましたが、例えば「りゅうおうのおしごと!」の設定はありえないと多くの読者から非難轟々でしたが、作品公表の5年ほど後に同作の設定以上の出来事が現実に起きました。 また、「スターウォーズ」等のSF作品において宇宙空間で音が聞こえることを嘲笑する人は世界各地にいるようですが、拙稿「宇宙空間で爆発音が聞こえてもおかしくはない」で書いたように私はこの描写はおかしくないと考えています。
 ウェブでは知識不足や理解力不足ゆえの酷評をよく目にしますが、そういった酷評の多くは「自分には知識や理解力があるのでこの作品のつまらなさが分かった」といった考えによるものに見えます。
 目から鱗が落ちたと思うのは新たな鱗が目にはまっただけだ、という考え方があります。知識を下手に当てはめることで、却って作品のことを誤解してしまう場合も多いのではないでしょうか。

 矛盾を見つけて突っ込みを入れるのも作品の楽しみ方であり、私もそういう楽しみ方をすることがあります。 しかし、矛盾と思える描写があっても、「宇宙空間で爆発音が聞こえてもおかしくはない」等と整合できる解釈を自ら考えるのはもっと楽しいと思っています。

第三章:気力・感性と面白さ/つまらなさの関係

 第二章で、歳をとり知識や理解力が増すことで楽しめる作品・楽しめなくなる作品がある旨説明しましたが、それ以外の理由でも、歳をとると多くの人は創作物から距離をとるようになります。 多くの子供は知識のなさゆえに他愛もない作品に夢中になりますが、多くの大人が知識あるがゆえにハイコンテクスト作品などに夢中になるかと言えば、そんなことはありません。 拙稿「面白ければ売れるという考え方について」で「面白い作品を描こうとすれば、多くの場合表現や内容は先鋭化していきます」と書きましたが、先鋭化した作品を楽しめる人はどうしても限られるのです。
 若いころに浴びるように本を読むなどして様々な作品を楽しんでいた人が、若くなくなってもそのような生活を続けることは珍しいでしょう。 大のSF好きだったという高齢の知人から久しぶりに何かSFを読みたいと言われ「あなたの人生の物語」を貸したところ、 自分くらいの歳になるとこんな重いSFは読み難いと言われた(そして代わりに「猫の地球儀」を貸した)経験は印象的でした。

 多くの人が歳をとればとるほど創作物をあまり楽しめなくなるのは、奇妙に思えるかも知れませんが「創作物を楽しむには気力や感性が必要であり、楽しまない方が楽」だからではないかと考えています。

 歳をとれば知識が増え、その作品の問題点(「こんな描写はおかしい!」等)や既存作品との類似性等を挙げることは容易になります。言い換えれば、歳をとると作品からつまらなさを感じやすくなります。 逆に、歳をとってから創作物を楽しもうとすればその作品に既存作品にはない新しさを見つけなければならず、その為にはある程度の気力や感性が必要です。 端的に言ってしまえば、作品の良いところを探したり既存作品にない箇所を探したりして作品を楽しむよりも、作品の悪いところを探したり既存作品との共通点を探す方が楽なのです。 こうした心理のわかりやすい説明としては、「いやマジでSFが滅びたのこれです。そして代わりに「異世界」が流行る大きな理由の1つ。」や 「若い頃は類型化しがちなアラフォーオタクの作品感想に憤りを覚えたが、いざその年齢になると自分もそうなっていた」が挙げられます。

 拙稿「ガンダム新作を企画したモリオン航空とモグモ様の凄さ」で書いたように、優れたクリエイターの作品は読者/視聴者の一歩先を行くものです。 そういう作品を理解しようとするなら読者/視聴者も一歩踏み出し、自らの価値観や美意識を変える気力が必要となります。漫画家の野火ノビタ様は著書「野火ノビタ批評全仕事総評」(1998年)で「新世紀エヴァンゲリオン」の視聴者に対しこう書かれています。

私はこの物語にうち震えて熱狂しているオタクたちと同じくらい多くの、この物語をつとめて冷静に眺め、分析しようとするオタクたちを見掛ける。 はっきりと言おう。私はそういう人々を憎悪する。何故そんなにも平静でいられるのか?平静を装うのか? この物語は君たちの問題ではないのか?君たちのアイデンティティは揺るがぬ安定を保っているのか? 君たちは全けき人間なのか?あるいは、自らに火の粉がふりかかるのを恐れて、無意識に感覚を鈍摩させているあわれな人間なのか?

野火ノビタ「野火ノビタ批評全仕事総評」(月光盗賊)より

 加齢によるものにせよ防御反応的なものにせよ、気力の衰えが人から作品を楽しむ能力を奪うのはままあることではないかと私は考えています。

 コラムニストの稲田豊史様の著書「映画を早送りで観る人たち」(2022年)には『「おもしろい」と言うのは勇気がいる』という項があります(ウェブでは「映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由」に掲載)。 この内容は気力や感性の衰えとも関係があると私は考えており、 多くの人は気力や感性が衰えてくればなおさら勇気を出して作品を楽しもうとするよりも、否定的な見方をしたくなりやすいのではないでしょうか。

 ちなみに、「オタクは幼稚だから大人になっても積極的に漫画を読んだりアニメを観たりするのだ」というような考え方をしばしば目にしますが、 多くの人が大人になるにつれて漫画やアニメから離れるのに対しオタクの方々がそうではないのは、幼稚さ以外の理由から説明しうると考えています。
 漫画家のいしかわじゅん様は、著書「漫画の時間」(1995年)で加藤芳郎様が漫画賞の審査員をされた際の出来事についてこう書かれています。

「さっきさあ、審査員の講評があったんだけど、『私は最近、漫画を読んでおりません』っていった審査員がいてさあ」
 やれやれ、というのが、僕の感想だ。
 漫画というのは、絶対値だけでは計れない部分が多分にある。時代の雰囲気や新鮮さなど、現在の流れを見ていないと、その面白さに気づけない部分が多いのだ。 それをはなから放棄して、なおかつそれを授賞式で公言できる神経というのが、僕には理解できない。

いしかわじゅん「漫画の時間」(晶文社)より

 流行り廃りの特に激しい漫画やアニメを楽しみ続けるには、大人になっても気力や感性を維持する必要があります。 オタクの方々は幼稚だから大人になっても漫画やアニメを楽しんでいるのではなく、一般人は大人になると漫画やアニメを楽しむ気力や感性を持ち続けるのが難しくなる、と言った方が適切なのかも知れないと考えています。 ただ、上で紹介した「若い頃は類型化しがちなアラフォーオタクの作品感想に憤りを覚えたが、いざその年齢になると自分もそうなっていた」等にあるとおり、 新しい作品を楽しもうという気力や感性が強いであろうオタクの方々でも、やはり歳をとるとそれらが衰えるケースが少なくないのではないでしょうか。

 気力が衰えてくると、作品ごとの違いを理解することが難しくなり、ジャンル全体を批判したくなったりもします。 拙稿「その酷評は誰のため」でも書いたように、そのジャンルの作品を大して読んだ/視聴したわけでもないのにジャンル自体を否定するのは、人間が陥りやすい錯覚によるものではないかと考えています。 ここ数年は特に異世界系と呼ばれるジャンルを否定的に評する声をよく目にし(参考:「もういい加減「異世界転生」とか「仮想世界」とかやめようよ…。昔のゲームや漫画に独創性ある作品多かった→「最近の異世界転生ものは設定や世界観が安直」という意見に賛否両論」)、 私も以前は懐疑的だったのですが、読んでみるとそれらの作品にも新しさや独創性を追求した面白いものはあり、別にジャンルそのものを否定するようなものではないと考えています。

 私も将来歳をとって気力や感性が衰え、漫画を楽しめなくなる時がくるかも知れません。その時にはそれが漫画の質の低下ではなく自分の衰えであることが自覚できればいいと思っています。

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