池大雅

(いけのたいが・1723-1776) 画家。柳沢淇園に見いだされ、与謝蕪村とともに文人画の大成者と称される。
若冲、大典、無住(*1)らとともに、京都郊外へ観梅に出かけ、桜の季節にまた来遊しようと約束したことがある。(「小雲棲稿(*2)」巻五より)

池大雅の二十五回忌追善会の案内状を届けた使者に対し、若冲が「この頃病気につき参上いたしません」と返事をしたという記録もある。 > 追善会は、寛政12年(1800)4月13日、東山双林寺で催された。
池大雅は幼時より萬福寺に出入りしていた。7歳のときには大字を書し、萬福寺十二世杲堂元昶(こうどうげんちょう)から神童と称賛された。
*1黄檗僧。売茶翁の侍者であり「売茶翁偈語」の編者となる。
*2大典による詩文集。上に記した観梅の他にも、若冲に関する話が載っている。

石崎光瑤

(いしざきこうよう・1884-1947) 画家。大正14年(1925)、西福寺の「仙人掌群鶏図」を再発見した。翌年、研究文を発表(*)している。

「大正14年、光瑤は京都の絵画専門学校で学生と雑談中に西福寺の若冲の襖絵のことを知らされ、無名の寺に力作があることを知り、学生有志と西福寺を訪ねた」「光瑤は、こどもの落書きを受けながら現存していることに感銘した。雄大な幹を持つ仙人掌が6枚目の襖の大きい部分をしめているのに躍動する感激を覚えた」
*大正15年5月号『中央美術』 「西福寺の若冲襖絵─新発見の画蹟を観て─」

上田秋成

(うえだあきなり・1734-1809) 国学者・読本作家。若冲が秋成の蟹型墓石を彫ったとされている。(「没後200年記念 上田秋成」展より 平成22(2010) 京都国立博物館)

大岡春卜

(おおおかしゅんぼく・1680-1763) 狩野派の町絵師。初期、若冲が学んだ人物と推測されている。当時、若冲は「春教」と名乗っていた。

鶴亭

(かくてい・1722-1785) 長崎の黄檗僧・海眼浄光のこと。鶴亭は号。一時還俗して上方へ移住。その際、長崎で熊斐(*1)に学んだ南蘋派(*2)を初めて上方に伝えた。後年再び黄檗僧となった。若冲の作風に影響を与えたといわれている。

*1熊斐(ゆうひ・1712-1772) 沈南蘋に直接師事した唯一の人物。熊斐を通じて南蘋風は広まっていった。
*2沈南蘋の影響を受けた画家のこと。中国の伝統的な様式に、写実的要素を加えた画風が特徴。長崎派という呼び方もあり、この場合は黄檗系統や唐絵目利系も含んだより広い範囲をさす。沈南蘋の影響が感じられる作品は「南蘋風」という。
沈南蘋=(しんなんぴん・1682-1760?) 享保16年(1731)、長崎に来日した中国人画家。滞在中、熊斐に画風を伝える。熊斐を通じ、その後の日本美術に影響を与えた。享保18年(1733)帰国。

木村蒹葭堂

(きむらけんかどう・1736-1802) 大坂で酒造業を営みながら、本草学者(*)、珍しい書籍や古器物、標本類の収集家として有名だった。交友関係が大変広く、コレクション閲覧などのため、多岐に及ぶ人物が自宅を訪れた。大典とも親交があり、若冲もその住まいを訪問している。(天明8:1788年、10月21日・29日来訪 蒹葭堂日記より)
また、幼少時から大岡春卜、柳沢淇園、鶴亭、淇園の紹介で池大雅に学び、画人として作品をのこしている。茶事では売茶翁につき、売茶翁の死後、愛用していた茶道具の殆どを譲り受けた。

*本草学(ほんぞうがく) 薬用になる動植鉱物に関する学問。薬物研究にとどまらず博物学の色彩が濃い。古来中国で発達し、明の李時珍が大成。日本では江戸時代に最も盛んとなった。

谷崎潤一郎

(たにざき じゅんいちろう・1886-1965) 1914年発表の短編『金色の死』に若冲作品に関する描写があるとのこと。

「若冲の花鳥画にあるような爛漫たる百花の林を潜って孔雀や鸚鵡の逍遥して居る楽園のあたりにも導かれました」(描写部分・2007年8月31日付読売新聞「若冲余話5」より)
夏目漱石

(なつめそうせき・1867-1916) 『一夜』『草枕』『硝子戸の中』に若冲作品に関する描写がある。

売茶翁高遊外

(ばいさおうこうゆうがい・1675-1763) 九州肥前の蓮池に生まれる。本姓は柴山氏。僧名は月海元昭。萬福寺での修行経験もある黄檗宗の僧で、「高遊外」という名の漢詩人・書家でもあった。いつしか、京都の名所で茶店を開き、道行く人に煎茶を売り禅を説いて暮らすようになる。京都の文化界で知らぬ者はなく、大典を通して若冲とも交流があった。若冲筆の「売茶翁像」が複数残されており、中には大典や蒹葭堂賛の作品も見られる。
宝暦10年(1760)、売茶翁は若冲の画室を訪れ、十五幅ほど仕上がっていた「動植綵絵」を見て感銘を受け、「丹青活手妙通神」という一行書を贈った。意味は「あなたの絵は神と通じ合っている」。若冲は、この一文を印章に彫り、いくつかの作品に捺している。
宝暦13年(1763)の没後、遺文を集成した「売茶翁偈語」が刊行される。若冲はこの書の為に翁の肖像を描き、大典は書中の「売茶翁伝」を草した。「偈語」の売茶翁の自題を書したのは池大雅だった。

茶店の脇に掲げた旗の中央にある「清風」の二字は、大典の書であったとのこと。この旗は木村蒹葭堂旧蔵。延享元年(1744)から十年余、大典との縁により相国寺内の林光寺に住んだことも。

伯c照浩

(はくじゅんしょうこう・1695-1776) 中国生まれの黄檗僧。来日して、明和2年(1765)には萬福寺二十世住持となる。
安永2年(1773)、若冲は萬福寺に伯cを訪ね、初対面にもかかわらず「革叟」の号と伯cが着ていた僧衣を授かった。若冲がより黄檗宗に接近し、石峰寺に五百羅漢を作るきっかけになったと推測される人物。

梅荘顕常(大典)

(ばいそうけんじょう だいてん・1719-1801) 相国寺の僧。萬福寺で修行した黄檗僧だったが、相国寺に転じる。以降も、黄檗僧との関係が深かった。当時の京都禅林の中で最高の詩僧と目され、詩文集に「昨非集(*)」「小雲棲稿」「北禅文草」などがある。詩文の師は、売茶翁の法弟でもあった大潮元皓(たいちょうげんこう・1676-1768)。
若冲と大変親しくしており「寿蔵碣銘」「藤景和画記」において、若冲の人となりや画業について記した。

*「昨非集」は木村蒹葭堂が刻冊。

増山雪斎

(ますやま せっさい・1754-1819) 伊勢長島藩主。博物趣味、文人趣味があり、「虫豸帖」をはじめ自ら画を描いた。若冲筆「糸瓜群虫図」は雪斎旧蔵。また、木村蒹葭堂と親しくしていた。

皆川淇園

(みながわ きえん・1735-1807) 儒学者。若冲の絵に賛を寄せている。寛政8年(1796)、淇園主催「東山新書画展観」開催の折、若冲作品を展示。

吉井勇

(よしい いさむ・1886-1960) 歌人。

或る日洛南石峰寺にゆきて、若冲の下絵によりて刻めりといふ五百羅漢の石像を見る
たそがれの羅漢の山にのぼり来てはろばろ遠き秋の日を見つ
痩羅漢落葉のなかに埋もれてゆふべ寒しとかこつごとしも
さまざまの羅漢の姿刻みたる石ことごとく秋風に鳴る
おほどかに落葉の谷を見下ろせる欠伸羅漢に夕日あたるも
しづかなる秋のゆふべや寝羅漢の石の鼾も聴こゆるが如
みづからの命楽しむごとくにも太腹羅漢空を仰げる
われもまた落葉の上に寝ころびて羅漢の群に入りぬべきかな
『天彦』(昭和14年10月初版 昭和9年秋から14年春までの作)より
吉野五運(号・寛斎)

「仙人掌群鶏図」を描くにあたり、若冲と西福寺の間を橋渡しした薬種問屋。珍しい動植物を収集していた。一羽の孔雀に千両払った、店の宣伝のためラクダに乗って大坂市中を巡ったという逸話を残している。

橋渡し=寛斎説については疑問点あり。

周辺の画家、弟子など

白歳
若冲の弟。絵を嗜んでいた。(所蔵先:宝蔵寺)

若演
周辺の画家たちの中では最も多く遺品が知られている。若冲の子、養子説もある(*)。(所蔵先:宝蔵寺、細見美術館、プライスコレクション、東京藝術大学大学美術館)
*「プライスコレクション 若冲と江戸絵画展」図録

秦意冲、處冲、環冲
意冲、處冲は「若冲 特別展観」図録(1971年東京国立博物館)に掲載あり。
(秦意冲所蔵先:東京国立博物館 環冲:宝蔵寺)

松本奉時
大坂の表具師兼蛙愛好家。若冲と交流していた。若冲作品の写し「白象図」(個人蔵)あり。(*)
*「松本奉時と伊藤若冲」展(2013年 大阪歴史博物館)