伊藤若冲

(いとうじゃくちゅう・1716-1800) 京都錦小路にある青物問屋の長男として生まれる。40歳を機に家督を弟に譲り、画業に専念する。初め狩野派に学び、その後、元明の中国絵画を摸写し、さらに実物の写生を行うことにより、独自の絵画世界を確立した。生涯独身で、晩年は深草の石峰寺に隠棲、85歳で没す。代表作に「動植綵絵」「鹿苑寺大書院障壁画」「仙人掌群鶏図」など。

「若冲」の由来

「老子」第45章の「大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)きも其の用は窮(きわま)らず」という一節から取っている。冲は沖の俗字。「本当に充ちたりているものは、中が空虚に見えるが、その働きは尽きることはない」という意味。
由来は、漢詩が書かれた「注子(煎茶器)」とみられている。書き付けたのは大典、所有していたのは売茶翁だった。

斗米庵

(とべいあん) 若冲の号。作品一点を米一斗と定めるという意味。米斗翁とも号している。

心遠館

自身の画室の呼び名。鴨川の西岸四条から五条の辺りの、清水寺、二条城などを見晴らす眺めの良い場所にあったと推測されている。

家族
両親

父・伊藤宗清(三代目伊藤源左衛門:代々の当主が名乗る)、母・近江の武藤氏出身。若冲は、父母がそれぞれ数え年20歳と17歳のときに生まれた長男。

兄弟

ふたりの弟がおり、次弟・宗巌(白歳居士)は俳諧や兄と同じく絵をたしなみ、末弟・宗寂は早逝した。石峰寺で晩年の若冲と共に暮らした真寂(心寂)は宗寂の妻。ほか、早逝した妹、弟がいた。

家業
桝屋

家業である青物問屋の屋号。通称「桝源(ますげん)」。この家業のお陰で、若冲は裕福な暮らしを営み、画業三昧な生活を送ることができた。
長男である若冲は、父の死後当主となり、四代目伊藤源左衛門を名乗る。

若冲の言葉
悉其貌、会其神 心得而手応

(そのかたちをつくし、そのかみにあい、こころえてておうず) 徹底した観察でその姿を知りつくし、そこにひそむ神の気をとらえることができれば、おのずと絵は描ける。「神」とは、生きるものが持つ、内にひそむ生命力。

若冲像が窺える資料など
寿蔵碣銘

生前、若冲が相国寺に建てた墓の碑文。筆者は大典顕常。この文から、若冲の画業に対する拘りや移り変わりを窺い知ることが出来る。明和3年(1766)建立。 *寿蔵(じゅぞう):生存中に建てる墓のこと

▼寿蔵碣銘より抜粋
「狩埜氏の技を為す者に従ひてあそび、既に其法に通ずるや」 狩野派に学び、既に画法を獲得した。

「一日(あるひ)、自ら謂いて曰く、是の法は狩埜氏の法なり。即ち吾れこれを能くするも、狩埜氏の枠を越えず」
あるとき、若冲は考える。狩野派の画法を獲得しても、狩野派の枠を越えることはできないと。

「如かず、舎(す)てて宗元に之くを。是によりて宗元画を取りて之を学ぶ。臨移すること十百本を累(かさ)ぬ」
狩野派を捨て、宗元画を学ぶことにした。模写はおびただしい数に上った。
*「宗元画を取りて之を学ぶ」という記述があるが、実際は元画、明画の模写が中心であったと考えられている。

しかし若冲は、人が描いたものを自分がまた写ししてるにすぎないことに気付く。
中国人はものそのものを見て描く。それなのに自分はその絵を真似て描くのみ。どちらが優れているかはいうまでもない。
そこで、直接見ることができる鶏を庭で飼い観察、写生するようになった。

「(若冲は)唯だ絵事のみ是れ好む」

藤景和画記

大典の詩文集「小雲棲稿」巻八に所収された一文。若冲について書かれている。
*藤景和:伊藤の「藤」に字(あざな)である「景和」をつけた呼び方

▼若い頃の若冲に関する記述
「少して学を好まず、字を能くせず、凡百の技芸、一も以す所なく」
学ぶことが嫌いで、書も下手、技芸に秀でたところなく、ひとつも身に付けたことがない。

「凡そ声色宴楽、人の娯しむ所、一としてしたがう所無く」
芸事も全く駄目で、娯楽も一切受け付けなかった。

▼動植綵絵についての記述
「平安の藤景和、丹青を以て家に名あり。まさに花鳥三十幅を作り、以て世に遺さんとす。而して十有五幅既に成る。余ために其の題を命ず」
若冲が花鳥画三十幅を作って後世に伝えたいと望み、そのうち十五幅は完成している。

さらに大典は、十五幅について一図ごとに詳細な内容を記し、それぞれに漢字4文字の題を命名している。
*この十五図のうち、最終的に収められたのは十二図。残る三図は水墨の花鳥画だった。当初、三十幅には水墨画も含まれる予定だったという。

小雲棲稿

「雀が売られているのを見た若冲は、焼き鳥にされるのを可哀相に思い、数十羽を買って庭に放してやった」
*「幸に君斯(こ)の心を拡げて、大悲開士(菩薩)に同じかれ」と大典は結んでいる

初編(安永6年刊)上の「岡生に与ふ」のうちの一編に、若冲の好物はそうめんというくだりがあるそうです。(「若冲の鶏」(佐藤康宏)より。 『花鳥画の世界第七巻 文雅の花・綺想の鳥−江戸中期の花鳥II』)

蕉斎筆記

平賀白山(*)の随筆。全十巻。巻二の寛政5年(1793)の条、巻三の寛政6年(1794)の条に、若冲のことが記されており、「俗事を嫌って、丹波の山奥へ2年ばかり隠遁。留守中、桝屋の株が山師に奪われかけたが、色々あってようやく事が収まった」とある。また、「石峰寺の門前に真寂尼という妹と暮らしている。家の襖には石摺のような蓮が描かれている―『面白き物好也』。寺の山上には道に沿って五百羅漢を配し、涅槃像も造られている。其の山の入口に新たに亭を建てている―『是も若冲の物好也』」と、晩年の石峰寺での生活ぶりも記されている。(抜粋)

*平賀白山(ひらがはくさん) 広島の浅野家の陪臣で身分は高くなかったが、詩人として多少知られていた。

参暇寮日記・役者寮日記

相国寺の寺僧が当番制で書いた寺務日記。相国寺と永代供養の契約を結んだこと、相国寺が大病中の若冲の見舞いを図ったこと、天明の大火後に永代供養を解除したことなど、両日記に若冲関連の記載がある。

平安人物志

分野別に主要な文化人を並べた出版物。明和5年(1768)版では、画家の項に大西酔月、円山応挙に次いで若冲の名が挙がっている。7年後の安永4年(1775)版では、亡くなった酔月が外され、応挙に次いで2番目に紹介されている(3-4番は池大雅、与謝蕪村)。天明2年(1781)版でも順番は変わっていない。このことから、当時かなりの人気を博していたことがわかる。

京都錦小路青物市場記録

明和8年(1771)12月22日から9年2月晦日、明和9年6月10日から安永3年(1774)9月30日までの同市場の記録(京都大学文学部蔵)。若冲に関する記述がある。(*1)
「若冲は当時50代後半で隠居の身。青物市場の営業認可について、ライバルの五条問屋町の青物問屋が異議を申し立てたため、錦小路青物市場は奉行所から営業停止を言い渡される。この危機に、若冲は町年寄として奉行所と交渉にあたった。京都滞在中の幕府代官に助言を仰ぎ、出荷する村々にも協力を要請。ついには江戸に行って幕府に訴え出る覚悟を固める。その際、周囲に災いが及ばないようあらかじめ町年寄を退任するなど用意周到に行動。係争は約2年8カ月かけて解決し、青物市場は営業を再開した」(*2)
「学ぶことが嫌いで芸事も全く駄目、娯楽も一切受け付けない」「妻子を持たず、40歳で家督を譲った後は絵を描くことに没頭した」そうした従来の人物像(*3)とは異なる姿が窺える。

*1「京都錦高倉青物市場の公認をめぐって」(『市と糶』(中央印刷出版部)所収 宇佐美英機/中村勝 出版年月1999年8月)
*2史料を発掘、調査した宇佐美英機・滋賀大学教授(日本商業史)による(2009年12月17日付朝日新聞
*3寿蔵碣銘による

細密画家、字は下手? 京都国博で伊藤若冲の手紙発見
伊藤若冲の手紙を写し取った乾板が3日までに、京都国立博物館で見つかった。 若冲の手紙が確認されたのは初めて。若冲について知人は「字をよくせず」と書き残したが、同館の狩野博幸・文化資料課長は「若冲は商家の生まれで、小さいころから習字をしていたはずだが、確かに字は上手ではない」と話している。
あて先は、若冲に絵を頼んだ商人とみられる。署名や日付などから、44歳ごろに書かれたらしい。
文面は、残暑のあいさつや、絵の代金とともにナマコ、そうめんなどをもらったお礼のほか、「此度あふむ画被申越刻、(省略)早速差上申候」と、オウムの絵の注文を受けたので早速描くとの返事が書かれていた。
狩野課長は「手紙で『かたじけない』とくどいほど繰り返しており、心配りが細かで、素朴な人だったのではないか」と推測している。(2005年6月4日付京都新聞)
ゆかりの寺

若冲は大変信心深い人物で、肉食を行わなかった。大典との親交により、伊藤家の宗旨が浄土宗であるにも関わらず、禅に帰依した。

相国寺

(しょうこくじ) 1383年、足利義満により建立。臨済宗相国寺派の本山。若冲は「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三十幅を相国寺に寄進。鹿苑寺に「大書院障壁画」を描いた。大典は相国寺の僧。

石峰寺

(せきほうじ) 正徳3年(1713)、千呆(せんがい)禅師により建立された黄檗宗(*1)の禅道場。若冲の終の住処となった。若冲による下絵の五百羅漢、若冲の墓や筆塚がある。筆塚には、貫名海屋(*2)が撰した銘文が刻まれている。

*1黄檗宗 日本三禅宗のひとつ。臨済派の一分派。承応3年(1654)来日した明の隠元隆gが、京都宇治に黄檗山萬福寺を建立して広めた宗派。
*2貫名海屋(ぬきなかいおく・1778-1863) 江戸時代後期の書家、文人画家。儒者でもあり、京都で私塾を開き、中国の碑文や法帖を収集した。

宝蔵寺

伊藤家の菩提寺。弟と両親の墓がある。墓には、若冲の遺髪も埋葬されている。

萬福寺

京都府宇治市にある黄檗宗の大本山。寛文元年(1661)、明の禅僧である隠元隆g(いんげんりゅうき・1592-1673)により創建。若冲は「黄檗山萬福寺境内図」という作品をのこしている。