| 伊藤若冲 |
| (いとうじゃくちゅう・1716-1800) 京都錦小路にある青物問屋の長男として生まれる。40歳を機に家督を弟に譲り、画業に専念する。初め狩野派に学び、その後、宋元明の中国絵画を摸写し、さらに実物の写生を行うことにより、独自の絵画世界を確立した。生涯独身で、晩年は深草の石峰寺に隠棲、85歳で没す。代表作に「動植綵絵」「鹿苑寺大書院障壁画」「仙人掌群鶏図」など。 |
| 池大雅 |
| (いけのたいが・1723-1776) 画家。柳沢淇園に見いだされ、与謝蕪村とともに文人画の大成者と称される。 若冲、大典、無住(*1)らとともに、京都郊外へ観梅に出かけ、桜の季節にまた来遊しようと約束したことがある。(「小雲棲稿(*2)」巻五より) 池大雅の二十五回忌追善会の案内状を届けた使者に対し、若冲が「この頃病気につき参上いたしません」と返事をしたという記録もある。 > 追善会は、寛政12年(1800)4月13日、東山双林寺で催された。 池大雅は幼時より萬福寺に出入りしていた。7歳のときには大字を書し、萬福寺十二世杲堂元昶(こうどうげんちょう)から神童と称賛された。 *1黄檗僧。売茶翁の侍者であり「売茶翁偈語」の編者となる。 *2大典による詩文集。上に記した観梅の他にも、若冲に関する話が載っている。 |
| 石崎光瑤 |
| (いしざきこうよう・1884-1947) 画家。大正14年(1925)、西福寺の「仙人掌群鶏図」を再発見した。翌年、研究文を発表している。
石崎光瑤については、いーふくさん・どっとこむ > 福光百科事典に詳しい記述があります。また、コンテンツ内には「若冲の襖絵」という項目があり、発見時のエピソードが紹介されています。 |
| 影響 |
| 宋、元、明代を中心とした中国絵画の模写から、当時の流行である南蘋派・鶴亭の花鳥画からそれぞれ影響をうけたと推察されている。
寿蔵碣銘には「宗元画を取りて之を学ぶ」という記述があるが、実際は元画、明画の模写が中心であったと考えられている。 |
| 大岡春卜 |
| (おおおかしゅんぼく・1680-1763) 狩野派の町絵師。初期、若冲が学んだ人物と推測されている。当時、若冲は「春教」と名乗っていた。 |
| up▲ |
| 鶴亭 |
| (かくてい・1722-1785) 長崎の黄檗僧・海眼浄光のこと。鶴亭は号。一時還俗して上方へ移住。その際、長崎で熊斐(*)に学んだ南蘋派を初めて上方に伝えた。後年再び黄檗僧となった。若冲の作風に影響を与えたといわれている。
*熊斐(ゆうひ・1712-1772) 沈南蘋に直接師事した唯一の人物。熊斐を通じて南蘋風は広まっていった。 |
| 画材 |
| 最高級の絵具と画絹を用いていた。そのため薄塗りでも発色がよく、長い年月を経ても色褪せない。白い線描部分ではボリュームを出すために、金泥も用いている。黒目部分に漆を使うこともあった。 但し、伏見人形図を描く際は泥絵具を用いて素朴な土人形の風合いを出し、筋目描きの際には吸水性が強く滲みやすい中国製の画箋紙を用いて墨画を作った。 |
| 家族 |
| 父・伊藤宗清(三代目伊藤源左衛門:代々の当主が名乗る)、母・近江の武藤氏出身。若冲は、父母がそれぞれ数え年20歳と17歳のときに生まれた長男。 ふたりの弟がおり、次弟・宗巌(白歳居士)は俳諧や兄と同じく絵をたしなみ、末弟・宗寂は早逝した。石峰寺で晩年の若冲と共に暮らした妹・真寂(心寂)もいる。 |
| 木村蒹葭堂 |
| (きむらけんかどう・1736-1802) 大坂で酒造業を営みながら、本草学者(*)、珍しい書籍や古器物、標本類の収集家として有名だった。交友関係が大変広く、コレクション閲覧などのため、多岐に及ぶ人物が自宅を訪れた。大典とも親交があり、若冲もその住まいを訪問している。(天明8:1788年、10月21日・29日来訪 蒹葭堂日記より) また、幼少時から大岡春卜、柳沢淇園、鶴亭、淇園の紹介で池大雅に学び、画人として作品をのこしている。茶事では売茶翁につき、売茶翁の死後、愛用していた茶道具の殆どを譲り受けた。 *本草学(ほんぞうがく) 薬用になる動植鉱物に関する学問。薬物研究にとどまらず博物学の色彩が濃い。古来中国で発達し、明の李時珍が大成。日本では江戸時代に最も盛んとなった。 |
| up▲ |
| 参暇寮日記・役者寮日記 |
| 相国寺の寺僧が当番制で書いた寺務日記。相国寺と永代供養の契約を結んだこと、相国寺が大病中の若冲の見舞いを図ったこと、天明の大火後に永代供養を解除したことなど、両日記に若冲関連の記載がある。 |
| 若冲 |
| 「老子」第45章の「大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)きも其の用は窮(きわま)らず」という一節から取っている。冲は沖の俗字。「本当に充ちたりているものは、中が空虚に見えるが、その働きは尽きることはない」という意味。 由来は、漢詩が書かれた「注子(煎茶器)」とみられている。書き付けたのは大典、所有していたのは売茶翁だった。 |
| 相国寺 |
| (しょうこくじ) 若冲と深い関わり合いを持つお寺。1383年、足利義満により建立。臨済宗相国寺派の本山。 ほんの少し詳しく:若冲巡り2000年篇 > 相国寺と承天閣美術館を御参照下さい。 |
| 蕉斎筆記 |
| 平賀白山(*)の随筆。全十巻。巻二の寛政5年(1793)の条、巻三の寛政6年(1794)の条に、若冲のことが記されており、「俗事を嫌って、丹波の山奥へ2年ばかり隠遁。留守中、桝屋の株が山師に奪われかけたが、色々あってようやく事が収まった」とある。また、「石峰寺の門前に真寂尼という妹と暮らしている。家の襖には石摺のような蓮が描かれている―『面白き物好也』。寺の山上には道に沿って五百羅漢を配し、涅槃像も造られている。其の山の入口に新たに亭を建てている―『是も若冲の物好也』」と、晩年の石峰寺での生活ぶりも記されている。(抜粋)
*平賀白山(ひらがはくさん) 広島の浅野家の陪臣で身分は高くなかったが、詩人として多少知られていた。 |
| 心遠館 |
| 自身の画室の呼び名。鴨川の西岸四条から五条の辺りの、清水寺、二条城などを見晴らす眺めの良い場所にあったと推測されている。 |
| 信仰 |
| 若冲は大変信心深い人物で、肉食を行わなかった。大典顕常との親交により、伊藤家の宗旨が浄土宗であるにも関わらず、禅に帰依した。 |
| 沈南蘋 |
| (しんなんぴん・1682-1760?) 享保16年(1731)、長崎に来日した中国人画家。滞在中、熊斐に画風を伝える。熊斐を通じ、その後の日本美術に影響を与えた。享保18年(1733)帰国。 →南蘋派 |
| 筋目描き |
| 墨の滲みと滲みがぶつかると、境目が白くなる。この性質を利用した技法のこと。本来は邪道とされるが、若冲はあえて作品に使用した。 |
| 石峰寺 |
| (せきほうじ) 正徳3年(1713)、千呆(せんがい)禅師により建立された黄檗宗(*1)の禅道場。若冲の終の住処となった。若冲による下絵の五百羅漢、若冲の墓や筆塚がある。筆塚には、貫名海屋(*2)が撰した銘文が刻まれている。 ほんの少し詳しく:若冲巡り2000年篇 > 石峰寺を御参照下さい。
*1黄檗宗 日本三禅宗のひとつ。臨済派の一分派。承応3年(1654)来日した明の隠元隆gが、京都宇治に黄檗山萬福寺を建立して広めた宗派。 *2貫名海屋(ぬきなかいおく・1778-1863) 江戸時代後期の書家、文人画家。儒者でもあり、京都で私塾を開き、中国の碑文や法帖を収集した。 |
| 悉其貌、会其神 心得而手応 |
| (そのかたちをつくし、そのかみにあい、こころえてておうず) 若冲の言葉。徹底した観察でその姿を知りつくし、そこにひそむ神の気をとらえることができれば、おのずと絵は描ける。「神」とは、生きるものが持つ、内にひそむ生命力。 |
| up▲ |
| 大典顕常 |
| (だいてんけんじょう・1719-1801) 相国寺百十三世住持。萬福寺で修行した黄檗僧だったが、相国寺に転じる。以降も、黄檗僧との関係が深かった。当時の京都禅林の中で最高の詩僧と目され、詩文集に「昨非集(*)」「小雲棲稿」「北禅文草」などがある。詩文の師は、売茶翁の法弟でもあった大潮元皓(たいちょうげんこう・1676-1768)。 若冲と大変親しくしており「寿蔵碣銘」「藤景和画記」において、若冲の人となりや画業について記した。 *「昨非集」は、木村蒹葭堂が刻冊。 |
| 拓版画 |
| 若冲が用いた版画の摺り方。中国が発祥で、拓本と同じ形式で作られる。絵柄を凹版で作り、表から墨を塗っていくと、凹部が白く残り、黒い背景に絵柄が浮かび上がるように見える。 図版:「乗興舟」(部分) |
| 動植綵絵 |
| (どうしょくさいえ) 三十幅からなる代表作。制作時期は、宝暦8年(1758)頃から明和3年(1766)の約10年間。相国寺に寄進され、明和6年(1769)以降、毎年「閣懺(相国寺三門で行われる儀式)」の折り、釈迦三尊像と共に方丈に掛けられ、一般にも公開された。明治22年(1889)、廃仏毀釈で窮地に立たされ皇室に献納。1万円の下付金を受けた。
「近年洋人某此画をみて大いに是を愛し購はんと請しかど寺主是を聴(ゆるさ)ざりき (「石亭画談」 明治17年刊・竹本正興著より)」→「動植綵絵」を購入しようとした外国人がいたが、寺側はそれを断った。 *ここに記載されている外国人は、フェノロサかビゲローと推測される。 |
| 独楽窩 |
| (どくらくか) 画室の呼び名。錦小路の奥まった静かな場所にあった。 |
| 斗米庵 |
| (とべいあん) 若冲の号。作品一点を米一斗と定めるという意味。米斗翁とも号している。 |
| 富岡鉄斎 |
| (とみおかてっさい・1836-1924) 儒者、書家、画家。最後の文人と称される。 若冲筆「糸瓜群虫図」に、鉄斎による箱書、書簡が付いている。書簡は、「糸瓜群虫図」と池大雅筆「淡彩山水図」の売買取次を計ったもので、若冲は200円(180円にまけてくれるだろうと鉄斎は書いている)、大雅は120円と記されている。 |
| up▲ |
| 南蘋派 |
| 沈南蘋の影響を受けた画家のこと。中国の伝統的な様式に、写実的要素を加えた画風が特徴。長崎派という呼び方もあり、この場合は黄檗系統や唐絵目利系も含んだより広い範囲をさす。沈南蘋の影響が感じられる作品は「南蘋風」という。 |
| 鶏 |
| 重要な題材のひとつ。若冲は、庭に何十羽も飼って写生を続けた。 江戸時代、鶏は観賞用動物で、より美しさを求めて品種の改良が続けられた。それは現在まで及んでおり、江戸のいくつかの種は絶滅し、殆どの種は形を変えている。若冲が描いた鶏も、現在あまり見かけない羽色だという。 |
| up▲ |
| 売茶翁 |
| (ばいさおう・1675-1763) 九州肥前の蓮池に生まれる。本姓は柴山氏。僧名は月海元昭。萬福寺での修行経験もある黄檗宗の僧で、「高遊外」という名の漢詩人・書家でもあった。いつしか、京都の名所で茶店を開き、道行く人に煎茶を売り禅を説いて暮らすようになる。京都の文化界で知らぬ者はなく、大典を通して若冲とも交流があった。若冲筆の「売茶翁像」が複数残されており、中には大典や蒹葭堂賛の作品も見受けられる。 宝暦10年(1760)、売茶翁は若冲の画室を訪れ、十五幅ほど仕上がっていた「動植綵絵」を見て感銘を受け、「丹青活手妙通神」という一行書を贈った。意味は「あなたの絵は神と通じ合っている」。若冲は、この一文を印章に彫り、いくつかの作品に捺している。 宝暦13年(1763)の没後、遺文を集成した「売茶翁偈語」が刊行される。若冲はこの書の為に翁の肖像を描き、大典は書中の「売茶翁伝」を草した。「偈語」の売茶翁の自題を書したのは池大雅だった。 茶店の脇に掲げた旗の中央にある「清風」の二字は、大典の書であったとのこと。この旗は木村蒹葭堂旧蔵。延享元年(1744)から十年余、大典との縁により相国寺内の林光寺に住んだことも。 |
| 伯c照浩 |
| (はくじゅんしょうこう・1695-1776) 中国生まれの黄檗僧。来日して、明和2年(1765)には萬福寺二十世住持となる。 安永2年(1773)、若冲は萬福寺に伯cを訪ね、初対面にもかかわらず「革叟」の号と伯cが着ていた僧衣を授かった。若冲がより黄檗宗に接近し、石峰寺に五百羅漢を作るきっかけとなったであろう人物。 |
| 平安人物志 |
| 分野別に主要な文化人を並べた出版物。明和5年(1768)版では、画家の項に大西酔月、円山応挙に次いで若冲の名が挙がっている。7年後の安永4年(1775)版では、亡くなった酔月が外され、応挙に次いで2番目に紹介されている(3-4番は池大雅、与謝蕪村)。天明2年(1781)版でも順番は変わっていない。このことから、当時かなりの人気を博していたことがわかる。 |
| 宝蔵寺 |
| 伊藤家の菩提寺。弟と両親の墓がある。墓には、若冲の遺髪も埋葬されている。 |
| up▲ |
| 枡目描き |
| 画面を方眼に分割して、一つ一つ彩色を施していく技法。1981年、小林忠氏が、この技法を用いた作品を若冲作として初めて紹介した。否定論、工房説もある。 |
| 桝屋 |
| 家業である青物問屋の屋号。通称「桝源(ますげん)」。この家業のお陰で、若冲は裕福な暮らしを営み、画業三昧な生活を送ることができた。 長男である若冲は、父の死後当主となり、四代目伊藤源左衛門を名乗る。 |
| 増山雪斎 |
| (ますやませっさい・1754-1819) 伊勢長島藩主。博物趣味、文人趣味があり、「虫豸帖」をはじめ自ら画を描いた。若冲筆「糸瓜群虫図」は雪斎旧蔵。また、木村蒹葭堂と親しくしていた。 |
| 萬福寺 |
| 若冲となじみの深い寺。京都府宇治市にある黄檗宗の大本山。寛文元年(1661)、明の禅僧である隠元隆g(いんげんりゅうき・1592-1673)により創建。若冲は「黄檗山萬福寺境内図」という作品をのこしている。 若冲巡り2002年篇 > 黄檗山萬福寺もあり。 |
| up▲ |
| 吉野五運(号・寛斎) |
| 「仙人掌群鶏図」を描くにあたり、若冲と西福寺の間を橋渡しした薬種問屋。珍しい動植物を収集していた。一羽の孔雀に千両払った、店の宣伝のためラクダに乗って大坂市中を巡ったという逸話を残している。 橋渡し=寛斎説については、疑問点があるそうです。 |
| up▲ |