第3話   ムカデの名前で出ています



 ムカデの楓(かえで)さんは、とてもセクシーな女性です。

 京都にいる時は「しのぶ」と呼ばれていました。神戸では「なぎさ」と名乗っていました。横浜(ハマ)の酒場に戻ったその日からは「ひろみ」という昔の名前でお店に出て、恋しい男の顔をボトルに書いて自分を探してくれるのを待っていたりもしました。

 流れ女のさいごの止まり木に、昔の男が止まってくれるのを、東急東横線の桜木町駅でずっと待っていたのですが、男どころか電車さえも止まってくれなくなってしまい、あっという間に年をとってしまいました。


 廃駅となってしまった東急東横線の桜木町駅の跡が、潮気まじりの夕日に照らされて、紫色にかすんでいます。「私も今年で60歳。そろそろこの業界から足を洗いましょうかね。」楓さんは、静かにため息をひとつ落としました。



 その夜、楓さんはバーで飲んでやや荒れていました。
 「フラれたんじゃないわ、私が降りただけよ。あぁ、キラキラと輝くグラスにはいくつもの恋が溶けてるの?水割りをください、足の数だけ…」
 「そんなに飲んだら、身体を壊しちゃいますよ。」マスターがたしなめました。


 「お嬢さん、一緒にいかがですか?」
 そう声をかけられて、楓さんが振り向くと、そこには今まで見たことも無いようなダンディーな虫が立っていました。
 「こんばんは。私はしゃかいけんろう虫と言います。」
 「あら、おいしそうな素敵な方…」
 「確かに虫は貴方にとって食料かもしれませんが、食べないで下さいね。」


 聞けば、楓さんはお店を処分し、国民金融公庫や銀行への支払を済ませたら、貯金は300万円しか残っていないとのこと。ローンも残っている10年前に購入した2DKのマンションで、この先の老後を一人で過ごしていくのに、不安を感じていました。現在はもう収入がなく、年金も支給されないため、明日、生活保護の申請に行くそうです。

 しゃかいほけんろう虫は言いました。
 「生活保護は、月額8万円程度が支給されて、月額7万円弱の国民年金よりも額が多いですよね。けれど、お持ちのマンションも貯金も、車もクーラーも手放さなければなりませんよ。まずは、本当に年金がでないのか、確認してみてはいかがですか?」



 翌日、しゃかいほけんろう虫は、社会保険事務所に行き、ひろみさんの本名である「タアシ カエデ(多足 楓)」で年金の加入履歴を取ってみました。
 なるほど、楓さん本人が言っていたように、5年3ヶ月しか加入期間が無く、これでは年金は支給されません。
 しかし、しゃかいほけんろう虫はその足で横浜市中区の区役所へ行き、職権請求で楓さんの住民票と戸籍を取得しました。
 「やはり、思ったとおりだ。この戸籍はクリーニングされている…」



 その夜、しゃかいほけんろう虫は、楓さんに会いました。
 「ひろみさん、いや、タアシ カエデさん、貴方は過去に名前をかえたことがありますね。」
 水商売関係では、戸籍上の、姓だけでなく名の方も変えてしまう人も時々います。「カエデ」さんも、実はちょっと前まで「ムカデ」さんという名前でした。そしてその前は「ゲジ子」だったそうです。
 さらに話をしていくと、楓さんは恋多き女性で付き合った男性も多かったようです。

 「何人くらいの男性とお付き合いされたのですか?」
 「片手じゃ足りないくらいよ」
 「あなたの片手って…」

 そして、結婚と離婚を数多く繰り返しており、あちらこちらの戸籍に入ったり出たりしていたようです。あまりにも戸籍の記入事項が多くなってしまったため、本籍地を移動して、戸籍のクリーニングをしたのです。




 しゃかいほけんろう虫は大量の委任状に楓さんの印をもらいました。そして戸籍を一つ一つ遡っていきました。



 ようやく、生れてから現在までの履歴が判明しました。



 しゃかいほけんろう虫は、カクテルグラスを回しながら呪文を唱えました。
 「ヒーホ、ケンシャキ、カンショウ、カイ!」



 すると、社会保険事務所のコンピューターから、新たに過去の年金記録が続々と出てきたのです。

 「カエデ」の名前では5年3ヶ月しかなかった年金加入期間でしたが、「ムカデ」さんの名前で何年分も出てきたのです。

 台湾出身の実業家「王」さんの社長婦人であった「オオ ムカデ」という名前では、取締役として高額の役員報酬をもらっていて厚生年金保険にも加入していたこともわかりました。

 サラリーマンの「石」さんの妻として専業主婦をしていた「イシ ムカデ」という名前の時には、国民年金の第3号被保険者としての記録も残っていました。

 他にも、「トビズ ムカデ」「アオズ ムカデ」「ケアカ ムカデ」「セスジアカ ムカデ」「ズアカ ムカデ」「ジ ムカデ」「イッスン ムカデ」など、たくさんの記録が出てきました。




 これらのバラバラになっていたデーターを、一つにまとめると、年金加入期間は全部で30年と4ヶ月分になりました。そして社長婦人であった期間も長く、平均標準報酬月額も高額であることがわかりました。

 楓さんは、生活保護を受けねばならないどころか、60歳からは特別支給の老齢厚生年金が月々20万円弱も支給されることが判りました。





 廃駅となった東急東横線の桜木町駅の跡地で、しゃかいほけんろう虫から裁定請求書の控えを受け取って、楓さんは言いました。

 「この町の人々は皆、みなとみらいに向かって歩いていく。私も昔の男のことなど忘れて、未来に向かって歩いていくわ。ありがとう、しゃかいほけんろう虫さん。お元気で。」

 野毛大通りを歩いて行く楓さんの背中に、しゃかいほけんろう虫は言いました。

 「僕たちにもそれぞれ得意分野があって、年金問題はある程度年齢の高いしゃかいほけんろう虫の方が詳しいようです。再びビジネスを始めて助成金を必要とするときには若いしゃかいほけんろう虫の方が詳しいかと思いますよ。」

 そんなしゃかいほけんろう虫の声は、本牧ふ頭から飛んできたカモメたちの鳴き声にかき消され、楓さんの耳には届かなかったのでした。

めでたし、めでたし。






               

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