同潤会鶯谷アパートの記録(鶯谷アパートの成り立ち)
同潤会とは
 同潤会は、関東大震災の被災に対して各地から寄せられた義捐金を基にして、1924(大正13)年に設立された財団法人です。震災で失われた住宅の供給と、それに付随した福祉施設の建設と運営という2つの柱をもって、東京と横浜の復興を担うものでした。主として住宅建設の事業を進め、震災直後の仮設住宅や賃貸の長屋から始まり、戸建木造住宅やコンクリートのアパートメントを建設し、また不良住宅地区の改良事業といった都市計画事業など幅広く活動しました。中でも近代的設備を備えたアパートメント事業は有名です。
 その後、時代が戦時体制へと移る中、軍事産業に従事する人々のための住宅供給を目的とした住宅営団が設立されました。同潤会は1941(昭和16)年に解散し、すべての事業を住宅営団に引き継ぎました。
鶯谷アパートの誕生
 同潤会アパートは、1926(昭和元)年の中之郷アパートから1934(昭和9)年の江戸川アパートまで計16か所つくられました。そのうち都内(当時は東京市)は14か所です。
 鶯谷アパートは、日暮里土地整理事業の終了した当該地を、1927(昭和2)年8月12日に用地買収して、翌々年の1929(昭和4)年3月28日に竣工。同潤会のアパート建設目標2000戸を達成した後に建てられたため、被災者への住宅供給という当初の目標を離れて、より新しい試みを取り入れたものになっています。
創建当時の鶯谷アパート
創建当時の鶯谷アパート
創建当時の鶯谷アパート((『日暮里町政沿革史』昭和5年刊)/資料提供:澤野庄五郎氏
*名称が「日暮里アパートメント」となっているのに注意。当初「日暮里アパートメント」として創建。その後、昭和6年に 「鶯谷アパートメント」に改称された
鶯谷アパートの姿
 鶯谷アパートは、3階塔屋1階建てが3棟、1号館から3号館に95戸と管理人室1戸がありました。現在の尾久橋通 りに面して門があり、門番小屋にいる門番が出入りする人々を見守っていました。敷地内には緑が多く、植木や草花が美しく植えられていました。2号館と3号館は中庭があり、特に3号館の中庭は映画会や夏祭りなどの会場に使うなど鶯谷アパートのコミュニティの場ともなっていました。
 各戸の間取りは、6畳と3畳に台所とトイレという形が最も多く、大半はこの形でした。ほかに、6畳と4畳半、6畳と4畳半が2部屋、6畳と8畳がありました。
 鶯谷アパートは、各階2〜4戸を階段室でつなぐユニットになっていました。ユニットは階段の節約にもなり、敷地に合わせて自由に組み合わせることもできるので、同潤会アパートの基本形の代表的なものです。鶯谷アパートは特に多様なユニットが自在に組み合わされています。
 同潤会アパートは、当時としてはとても近代的な設備が整えられていました。鶯谷アパートにも各戸にガスが配管され、水洗トイレ、ダストシュートが設置されていました。床は畳ではなく、コルクに薄縁を敷いたものでした。屋上には、洗濯場と物干し場が整備されていました。デザインにも工夫が見られ、トイレの丸窓や玄関のアプローチなどは鶯谷アパートの特色と言えます。
鶯谷アパート復元配置兼1階平面図
鶯谷アパート復元配置兼1階平面図
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鶯谷アパートの間取り例
鶯谷アパートの歩み
 1941(昭和16)年に同潤会が住宅営団に吸収されると、同潤会アパートも住宅営団が管理する賃貸住宅になりました。米軍による空襲が激しくなると、住宅は無管理状態となり、鶯谷アパートの住民も疎開するなど多くがアパートを離れていきました。鶯谷アパートは一部被災しましたが、建物は残りました。
 敗戦後、1946(昭和21)年12月に住宅営団はGHQによって解散させられ、同潤会アパートは居住者に払い下げられることになりました。しかし、払い下げが難航しているうちに日本は占領下ではなくなり、同潤会アパートはその所在地によって東京都と横浜市に移管されました。鶯谷アパートは1950(昭和25)年11月に一時的に東京都管理の賃貸住宅になり、翌年に6年割賦で払い下げられることで決着。まず建物が住民に払い下げられ、1953(昭和28)年に土地も払い下げられることになりました。土地は居住面 積に関わりなく均等に各戸に分けられています。これらの払い下げに対しては、自治会が対応してきました。
 戦後、人々の暮らしが落ち着き始め、さらに生活の電化が進んで暮らし方が変わってくると、鶯谷アパートの規模や設備や構造がそれに追いつかなくなっていきました。また、戦中戦後の混乱や無管理の時期があったことなどもあって建物の老朽化が進み、建て替えへの道を歩むことになりました。
東京都管理の賃貸住宅だった頃の「住宅使用料受領書」
東京都管理の賃貸住宅だった頃の「住宅使用料受領書」(通い帳)
*賃貸住宅になった昭和25年当初の暫定使用料は14円30銭。後に390円に改訂されている。
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鶯谷アパートの暮らし
椿御殿に暮らす人々
 震災復興のための同潤会ではありましたが、鶯谷アパートには実際は一般 の人たちよりワンランク上の人たちが住むことになりました。保証人が必要で、家賃も高かったため、相当の生活水準でなければ入居は難しかったのです。同潤会では、「アパートの家賃は大部分の普通 住宅より5割高いが、建築費も倍額以上を要したし、耐久年限も長いのだから、それでも安いと言わざるを得ない」と言っています。
 「官僚や大きな会社の課長以上、学校の先生なんかが住んでいましたねぇ」(元居住者談)。当時では珍しかったオルガンやピアノのある家もありました。敷地内の椿の木にちなんで「椿御殿」と呼ばれたのも、人々の羨望のまなざしの表れだと言えましょう。
アパートの中はどこでも子供たちの遊び場になった
アパートの中はどこでも子供たちの遊び場になった
自治会と階段
 鶯谷アパートの自治会はかなり早い時期につくられました。1930(昭和5)年頃に発行された入居規程に、同潤会の組織外で入会を勧める団体として自治会名があげられ、すでにその中に鶯谷アパート自治会の名が見られます。
 戦後の自治会の組織は、会長と6名の役員と数名の階段委員からなっていました。階段委員は1つか2つの「階段」から1名ずつ選びます。1階から3階まで、1つの階段を使う6戸〜12戸が「階段」です。「階段」は、アパートの居住者が最も深い関係を持つまとまりで、戦時中は隣組として機能していました。預かり物をするのは当たり前。菓子などを持ち寄ってお茶飲み会をしたり、ときには「階段」で旅行にも行きました。鶯谷アパート全体で12の「階段」がありました。階段委員の任期は1年。役員を手伝い、決定事項を自分の「階段」に持ち帰っ て伝えました。
アパートの祭り風景
アパートの祭り風景
アパートの祭り風景。自治会で樽神輿をつくってアパート内を練り歩いた
 
アパートの仲間が集まって、コーラスの練習会
アパートの仲間が集まって、コーラスの練習会
幻の共同風呂
 戦後まもなく、鶯谷アパートの北側にアパートの住民のための共同風呂がつくられました。電気で沸かす当時としては最新型で、一度に20人ほどが入れる湯船が1つ。しかし、この共同風呂は一度も使われることなく、姿を消しました。理由ははっきりしませんが、肝心の電気が供給されなかったのだという説も聞かれます。
 風呂として使えなかったため、しばらくアパートの人々の集会場として使われました。クリスマス会では、青年団がサンタクロースに扮してプレゼントを配り子供たちを喜ばせたと言われます。
鶯谷アパート
行事は子供中心
 鶯谷アパートは昭和40年代くらいまで子供たちの賑やかな声の絶えないところでした。アパートで開催する行事はたいてい子供主体のイベントだったと言えます。
 学童疎開に送り出すときの壮行会も子供会で行われ、戦後すぐの焼け跡でも親たちが応援する形で納涼会が開かれました。子供たちのために、自治会や親たちが集まって3号館の中庭で工夫をこらしました。夏は映画会、花火大会、盆踊り。冬は餅つき大会。同じ階段の人たちで子供中心の旅行会も行われ、潮干狩りなどに行きました。
 こういう催しを行うことで大人たちも互いに気心が知れ、アパート全体が仲良く暮らしていたと言われます。
集会室の階段の前に子供が並んでいる写真
集会室の階段の前で。アパートには子供たちの歓声が絶えなかった
暮らしの変化に合わせたやりくり
 戦後、鶯谷アパートに多くの若い世帯が入居しました。そうした人たちの子供が成長していく時期は、急速に生活の電化が進んだ時代でもありました。「とにかく狭くなってしまったのです。物が増えたでしょ。あちこちに棚をつくったり、いろいろ苦心しました。そのうち、子供が自分の部屋をほしがるようになってきました」(元居住者談)。
 払い下げによって建物が自分のものになることもあって、増改築で狭さや設備の遅れを解決しようとする人が増えていきました。しかし、鶯谷アパートは自治会がしっかりしていたため、ほかの同潤会アパートに比べてアパートの外観に関わる改造が少なく、当初の姿をよく残していると言われました。
 例えば、出窓を小屋根ぎりぎりまで出して改造し、勉強コーナーにしたり、洗濯機やテレビの置き場にしたりするのです。また、鶯谷アパートは玄関や台所が比較的広かったので、仕切りを取り払って居室部分を大きくすることも多く行われました。中にはアパート内に別の住戸を借り、子供部屋や両親の部屋、書斎などにする人も出てきました。アパートの居住者が借りる場合は家賃を安くしてくれたということもありました。
丸窓は鶯谷アパートのシンボルの一つだった