エッセイ
故郷を想う 牛 次郎
 このエッセイの文字数が千字に限定されているのがいかにも残念である。あれも書きたい、これも書きたいとなったら枚挙に遑がない。浅草生まれではあるが、戦災以来、中学を卒業するまでは、日暮里四丁目に住んでいた。 同潤会アパートは確か三丁目ではなかったか。丁目に拘泥するのには理由がある。お祭りの時期が違うのだ。三丁目は鶯谷の近くにあった三島神社(三島さま)の氏子で、春が祭りだが、私の住んでいた四丁目は、お諏訪神社(おすわさま)で夏の暑い盛りの八月が祭礼だったからで、山車を曳いたり、樽御輿(たるみこし)をかついだりした。樽御輿というのは、本物の御輿が戦災で焼失してしまったので、酒樽に砂を詰めて、荒縄や渋団扇で鳳凰を作り、それを子供たちが夢中でかつぎ廻ったのだ。
 戦後で物資(もの)は何もなかったが、子供たちの心は田園的に豊かで、創意工夫に長(た)けていた。神社は異なったが、小学校は三、四丁目とも同じで第二日暮里小学校であった。 改正道路と、日暮里駅から三輪(みのわ)方面に伸びている道路の交叉した角にあった。斜め向いには、当時、財閥解体で三菱を名乗れなかった千代田銀行があった。殆どの子供たちが下駄を履いて登校していた。プールがあって、夏にはそこで泳いだが、男子は全員が六尺褌であった。現在では浜辺でも六尺褌は駄目なのだというが、そんなのはベラボーめである。褌の締め方を知らない奴の戯言(たわごと)に違いねえ。
樽御輿イラスト
イラスト:筆者
1940(昭和15)年、東京・浅草生まれ。劇画原作者、作家、僧侶。 少年時代を日暮里で過ごす。さまざまな職業を経て劇画作者となる。’70(昭和45)年、牛次郎の筆名 で作家デビュー。「釘師サブやん」(’71年)、「包丁人味平」(’75年)がヒット。 ’81(昭和56)年「リリーちゃんとお幸せに」で第8回野生時代新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。 ’86(昭和61)年11月、熱海市の医王寺(臨済宗)で出家得度、’89(平成元)、伊東市に願行寺を建立・開山し、住職を務める。僧名・牛込覚心。
 ところで、焼け跡であった日暮里で、コンクリートの建造物というと、三階建の我が第二日暮里小学校と京成電車のガードと、同潤会アパートであったと記憶している。私はなぜかドージン会アパート、イコール同人会アパートだと頭っから思い込んでいた。ここには同級生で、絵の巧かった寺尾や、級長をやった後藤、羽二重団子の親類の澤野たちがいた。羽二重団子はかの漱石も贔屓(ひいき)にしていた有名な団子屋で、「我輩は猫である」にも登場する。戦災で焼かれた人たちを団子屋の奥さんが真剣に面倒を見てくれたのは今でも忘れない。恩義に感じている。息子さんが声優になって諏訪コージといった。神社から芸名を付けたのだろう。情のある町だった。団子屋の前にゼンショー寺があって、よく境内で遊ばせて貰ったのだが、どうなっただろう。雪の日に、下駄に塔婆を打ちつけてスキーにして遊んで、和尚さんに叱られた。その私が現在、ものかき兼業で伊豆で住職をやっている。不思議なものだ。おい枚数が足りねえよ。書きたいことは沢山あるが、次の機会を待つ。