昭和・平成
1927
(昭和   2)
日暮里地区の下水道工事が竣工
1929
(昭和   4)
同潤会三ノ輪アパート竣工
同潤会鶯谷アパート竣工
1930
(昭和   5)
都道環状第4号線(道灌山通り)完成
1931
(昭和   6)
荒川放水路完成/満州事変起こる
京成電気軌道(株)(京成電車、のち京成電鉄)、日暮里─青砥間開業/日暮里駅開設
1932
(昭和   7)
尾竹橋通り開通・市郡合併により荒川区誕生
1933
(昭和   8)
京成電車日暮里─上野公園間が開通
この頃鶯谷アパート前の音無川が暗渠になる
1934
(昭和   9)
尾竹橋架橋
1935
(昭和 10)
御隠殿前のお大石橋等が取り払われる
1936
(昭和 11)
二・二六事件起きる
1939
(昭和 14)
第二次世界大戦始まる
1940
(昭和 15)
区内の町会・隣組組織が整備される
切符による生活物資の配給が始まる
1941
(昭和 16)
太平洋戦争勃発
1942
(昭和 17)
市電気局(のちの都交通局)の交通調整により王子電車は市電となる
衣料切符制が実施される
1943
(昭和 18)
区内各戸で防空壕がつくられる・東京都制施行
1944
(昭和 19)
区内建物の強制疎開が始まる(日暮里町2万8320坪)
区内児童の福島県への学童集団疎開が始まる
1945
(昭和 20)
東京大空襲。区内死傷者600人超/終戦
1946
(昭和 21)
日本国憲法が公布される
日暮里駅前大通り(新道放射11号線)が都市計画として決定し整備される
1951
(昭和 26)
戦災復興区画整理34地区(現・東日暮里5丁目含む地区)の事業認可
鶯谷アパートを分譲
1953
(昭和 28)
NHKテレビ放送始まる
1962
(昭和 37)
三河島駅構内で二重衝突事故
1963
(昭和 38)
日暮里大火(4月、現・東日暮里3丁目の寝具店より出火。5098平方メートルを焼失)
1964
(昭和 39)
東京オリンピック開催
1966
(昭和 41)
住居表示第3次整備(日暮里地区)
鶯谷アパートは東日暮里5丁目となる
1970
(昭和 45)
大阪で日本万国博覧会開催
1971
(昭和 46)
国鉄西日暮里駅が開設
戦災復興区画整理34地区の換地処分告示
1978
(昭和 53)
隅田川の花火大会が17年ぶりに再開
1983
(昭和 58)
この頃、バブルによる地価沸騰
1987
(昭和 62)
地上げ始まる
1990
(平成   2)
バブル崩壊
「日暮里駅上ヨリ見タル町全景」飛行船ツェ伯号通過(『日暮里町政沿革史』昭和5年刊)/昭和4年、日暮里上空を飛行する飛行船ツェッペリン号。資料提供:澤野庄五郎氏
 第二次世界大戦の戦局が厳しさを増すと、 荒川区でも多くの人々が縁故を頼って疎開していきました。1944(昭和19)年には学童疎開が実施され、小学3年生以上の児童が福島県へ疎開することになりました。
 鶯谷アパート周辺は建物強制疎開の対象になったという正式な記録が残されていませんが、実際には木造家屋が次々に倒されたと言います。こうして街から人々がいなくなり、残っていた家も激化する空襲で失われていきました。終戦の年の日暮里の人口はほぼ1万人。前年の5分の1以下に減っていました。
昭和20年3月大空襲の跡(南千住、石塚勇一郎氏所蔵)
昭和20年3月大空襲の跡(南千住、石塚勇一郎氏所蔵)
   
鶯谷アパート子供会の学童疎開壮行会記念写真(昭和19年8月)
鶯谷アパート子供会の学童疎開壮行会記念写真(昭和19年8月)
 終戦後しばらくは、衣食住の何もかもが不足している窮屈な時代でしたが、人々は楽しみを見出していきました。大人の娯楽は映画。日暮里は明治・大正期には映画撮影所もあった土地柄で、日暮里金美館を始め周辺にもたくさんの映画館がありました。
 子供たちの楽しみといえば紙芝居。拍子木の音に、公園や原っぱに集まったものです。子供たちが大勢いた鶯谷アパートは格好の商売の舞台となり、たくさんの紙芝居屋さんが出入りしていたと言われています。ちなみに昭和20年代後半、紙芝居を生業とする人は都内だけで3000人以上。日暮里は紙芝居を制作し、全国に貸し出しを行う「元締」がいた街で、紙芝居文化の発信地でした。
紙芝居と子供(荒川ふるさと文化館蔵)
紙芝居と子供(荒川ふるさと文化館蔵)
 1948(昭和23)年頃、焼け野原だった日暮里駅前に甘い物を扱う露店が建ち並ぶようになりました。当時は砂糖などの食料品同様、菓子も統制下にあって子供も大人も甘い物に飢えており、日暮里駅前は大変な賑わいを見せていました。1952(昭和27)年に砂糖や小麦粉の統制が撤廃され、表立って商売が成り立つようになった頃、区画整理事業によって露店街は駅の北東に移転しました。
 日暮里の駄菓子問屋街としての最盛期は昭和20年代後半から30年代。かろうじて50年代までその賑わいを維持していましたが、都心部で子供が減り、バブルによって駅前の再開発が進むと、4路地あった問屋街は1つを残して駐車場やマンションになりました。現在、駅東口近くの駄菓子屋横町がわずかにその風情を残しています。
日暮里駅前菓子玩具問屋街(昭和29年、桧垣卓二氏所蔵)
日暮里駅前菓子玩具問屋街
(昭和25年頃、桧垣卓二氏所蔵)