インタビュー
村上信夫(帝国ホテル顧問)
村上信夫さん写真
1921(大正10)年、東京・神田生まれ。父親は洋食店を経営(日暮里に支店を持つ)。2歳で関東大震災に遭い廃業。'32(昭和7)年、日暮里へ移り住む。'40(昭和15)年帝国ホテル入社。'69(昭和44)年帝国ホテル総料理長就任。以後取締役、常務、専務を務め上げ'96(平成8)年退任し顧問となる。フランス最高料理アカデミー所属。黄綬褒賞('84年)、現代の名工('85年)、フランス芸術文化勲章、勲四等瑞宝章('94年)。海外の受賞も多数。
 父親が結核で入院してから住むところもなくなり、親戚を頼って日暮里に越してきたのは小学校5年生になる春休み(昭和7年)のことです。高い建物といったら私が通っていた日暮里第三小学校と鶯谷アパートくらい。どこの家も開けっ放しで鍵なんてかけてない。味噌・醤油の貸し借りは当たり前、おかずを余計に作ると持ってきてくれたり。本当にのどかな下町でしたね。
 居候ですから、子守りは私の役目。まだ2、3歳だった親戚の子をおぶって学校へ行ったもんです。転校生だったので初めはいじめられましたけど、身体も大きくて強かったので、ガキ大将になるのは訳なかった(笑)。そういえば、お行の松のすぐそばに、夜になると顔が出てきてニタッと笑うと言われていた首なし地蔵があって、度胸だめしもよくしました。ガキ大将の私にはメンツがありますから怖くても平気そうな顔してね。
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 「カツドウ」(映画)も楽しみでした。カンカンモリ通りに日暮里金美館っていう映画館がありましてね。新しいのがかかるとすぐに見に行ったもんです。鞍馬天狗なんかよく見てましたね。木戸銭は2銭。当時の下町の子供の1日の小遣いと一緒です。もっとも、私はしょっちゅうタダで見てましたけど。「ちょっとノブちゃん、ご飯食べてくるからここ見といておくれよ」。入口のもぎりのおばちゃんに頼まれて代役してましたから、「おばちゃん、見せて」「しょうがないわね、内緒だよ」って入れてくれたんですよ。
 小学校5年生のときに両親を亡くしました。それまでも納豆売りや紙芝居の飴の仕入れの手伝いやらで小遣い稼ぎはしてましたけど、これからは一人で食っていかなくちゃならない。子供なりの頭で考えた末に選んだ仕事が、今の道なんです。当時はひどい不景気で就職は早い者勝ちでしたから、小学校6年生の2学期が終わると同時。近所の人の口ききで、浅草の洋菓子店に住み込みで入ったのが、長い道のりの始まりでした。
 それから70年近く。縁あって帝国ホテルに入ってからも、小学校もロクに出ていない私が総料理長になれるなんて1度も思ったことがないし、なりたいなんてことも1度も思わなかったし。ただ、あの野郎よく仕事できるコックだって言われたい一心でやってきただけなんです。
 周りの人たちも温かかった。12歳でこの街を離れましたけれど、日暮里は私のいちばん好きな街、生涯忘れられない街ですね。