明治・大正
1868
(慶応   4)
江戸を東京と改称し、東京府を設置
 
(明治  元)
金杉村は荒川の村むらとともに東京府に編入(小塚原町・中村町を除く)
1871
(明治   4)
戸籍法が定められる。廃藩置県
1872
(明治   5)
太陽暦が採用され、 明治5年12月3日を6年1月1日とする
1874
(明治   7)
金杉村西蔵院内に公立根岸小学校が開校
(学区…金杉・谷中・三ノ輪・谷中本・三河島・ 町屋・下尾久・上尾久)
1878
(明治  11)
郡区町村編制法により、金杉村は東京府北豊島郡に編入される
1883
(明治  16)
日本鉄道会社、上野─熊谷間の営業を開始
1885
(明治  18)
日暮里村に公立日暮小学校が開校
(学区…日暮里・谷中本・谷中)
1889
(明治  22)
市制・町村制により、金杉村は谷中本村、日暮里村と合併して、日暮里村となる
町村制施行のため、金杉村は日暮小学校の学区になる
1894
(明治  27)
日清戦争
1896
(明治  29)
2度の台風襲来により、 荒川・利根川・多摩川出水
1904
(明治  37)
日露戦争
1905
(明治  38)
第一区線(東北線)と土浦線を結ぶ日暮里─三河島間が開通。日暮里駅が開設される
1906
(明治  39)
東京電燈(株)、千住発電所完成
1907
(明治  40)
連日の大雨で荒川など洪水発生
1908
(明治  41)
明治期最大の洪水発生。関東一円被害甚大
1911
(明治  44)
荒川放水路事業が起工
1912
(大正  元)
国道第4号線(下谷通り)の工事着工
1913
(大正   2)
王子電気軌道(株)、 三ノ輪─飛鳥山下間の営業開始
日暮里村に町制施行、日暮里町となる
1914
(大正   3)
第一次世界大戦
1918
(大正   7)
米価が沸騰し、米騒動が起きる
1921
(大正  10)
市電、東京駅─三ノ輪橋間が開通
1922
(大正  11)
東京市最初の下水処理場が三河島に完成
1923
(大正  12)
関東大震災
1925
(大正  14)
日暮里大火(3月、 金杉より出火、 約2000戸を焼失)
日暮里土地整理組合が設立
尾久に同潤会住宅73戸が建設される
治安維持法が公布・施行
1926
(大正  15)
日暮里土地整理事業が竣工
鶯の啼き合わせ
 鶯の声くらべを「鶯の啼き合わせ」と言います。 鶯の里と言われた根岸あたりでは、江戸時代の後半頃から「鶯の会」と称して毎年4月に鶯の啼き合わせをしていました。 愛鶯家が美しい篭に入れて自慢の鶯を持ち寄り、笹の雪あたりから音無川沿いの家を借りて軒端に吊るします。 人々は立ち寄ってはその声を品評し、最も美しい声で啼く鶯に投票するのです。
 盛んに開かれていたのは明治中頃まで。 鶯谷アパートの地所の元の持ち主だった日本鉄道株式会社(JRの前身)の創始者・白杉政愛氏も大の愛鶯家でした。 この家には広々とした庭があったので鶯の会のときには4、5羽預かったと言います。 また地方からやってくる参加者が泊まれるように、3〜4部屋空けたと言いますから、根岸の里の鶯が全国に名を馳せていたことが窺い知れます。
「根岸鶯啼合図」(『風俗画報』第19号:明治23年刊)
「根岸鶯啼合図」(『風俗画報』第19号 明治23年刊)
子規や漱石のいた街
 根岸のうぐいす横丁に、俳人正岡子規が住んだのは1892(明治25)年のこと。子規は2年後に数軒先に移り、『病床六尺』などを執筆して、1902(明治35)年に亡くなるまで根岸で過ごしました。
 夏目漱石は第一高等中学の本科の頃から子規と親しくつきあっていたので、月に一度は子規の家を訪ねており、 2人でこのあたりを散策したと言います。
 根岸の芋坂にある「羽二重団子」のことを、子規は『道灌山』に、漱石は『吾輩は猫である』に描いています。 ここの団子は、泉鏡花、田山花袋など多くの文学者や、当時東京美術学校(現・東京芸術大学)の校長だった岡倉天心などにも愛されました。 岡倉天心は、上野の美術学校からわざわざ馬に乗ってやってきたと言われています。
音無川の北と南
 1889(明治22)年に東京市ができたとき、金杉村は2つに分けられてしまいました。音無川を境に、南は上、中、下根岸町として東京市下谷区に転入し、北は北豊島郡日暮里村となったのです。それまでは同じ村内だったのに、このことで住民の意識の中に音無川の北は郊外だという区別が生まれ、同時に対抗意識も生まれました。
 この線引きはその後も続き、日暮里町が荒川区に、下谷区は台東区にと現在に至るまで別々のままで、かつて同じ村だったことを知る人さえわずかになってしまいました。
「根岸近傍図」(『根岸近傍』:明治34年刊)
「根岸近傍図」(『根岸近傍』明治34年刊)
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金杉の大火と帝都復興事業
 日暮里は明治末から大正にかけて、急激に市街化が進んでいました。そんな折り、1925(大正14)年3月18日に金杉に発生した火災は、一帯の2000戸、4万6000坪を焼き尽くしました。
 もともと日暮里一帯は路地が多く、住宅が建て込んでいたので、かねてから都市計画事業の計画地になっていました。そのため、大火の1カ月後には日暮里土地区画整理事業組合の設立を申請し、翌月の5月に許可がおり、翌年11月には工事が完了。被災後1年半余という異例のスピードで区画整理が進みました。つまり、日暮里は大震災や大火によって、従前居住者の協力を得ながら街づくりが行われたと言ってもよいでしょう。
 このようにして整った町に、住宅供給のために同潤会鶯谷アパートが建てられたのです。
「大正二年頃田植ノ地」金杉大通1620(『日暮里町政沿革史』昭和5年刊)
「大正二年頃田植ノ地」金杉大通1620(『日暮里町政沿革史』昭和5年刊)/現・尾久橋通り。資料提供:澤野庄五郎氏
谷中生姜
 金杉は水田が多く、稲作を主体としていましたが、現在の日暮里にあたる地域には谷中本村の谷中生姜を始め、三河島の漬菜(三河島菜)、汐入大根といった近世からの特産物が明治・大正期までつくられていました。
 特に谷中生姜は、あまり辛くなく風味のよいことで有名でした。生姜の束ね方も谷中独特で、将棋の駒型に束ねたといいます。しかし、関東大震災を契機に畑は急速に宅地化し、その姿を消していきました。
「東京名産谷中生姜」明治40年頃ノ関傳兵衛氏宅(『日暮里町政沿革史』昭和5年刊)
「東京名産谷中生姜」明治40年頃ノ関傳兵衛氏宅(『日暮里町政沿革史』昭和5年刊)/現・日暮里駅前の谷中生姜畑。関多美氏蔵。資料提供:澤野庄五郎氏
関東大震災
 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東一円をマグニチュード8.9の大地震が襲いました。昼食時だったため、あちこちで火災が発生し、被害が増しました。東京で約40万世帯が被災しています。  
 荒川区では家屋が密集していた南千住や日暮里の被害が甚大でした。このとき内外から集まった義捐金を基金にして、同潤会アパートがつくられました。
「震災絵葉書」大正12年9月1日東京大震災実況
「震災絵葉書」大正12年9月1日東京大震災実況(日暮里停車場:現・JR日暮里駅、荒川ふるさと文化館蔵)