近世
1600
(慶長   5)
関ヶ原の合戦
1603
(慶長   8)
家康が征夷大将軍になり、江戸幕府成立
1625
(寛永   2)
寛永寺が建立される
1628
(寛永   5)
江戸近郊に鷹場が置かれる
1639
(寛永 16)
鎖国
1646
(正保   3)
金杉村(現・東日暮里あたり)ほか5カ村が東叡山領となる
1657
(明暦   3)
明暦の大火
1685
(貞享   2)
生類憐れみの令が制定される
1704
(宝永 元)
御隠殿が幕府から宮家に渡される
1707
(宝永   4)
富士山が大噴火し、宝永山ができる
1716
(享保 元)
享保の改革
1725
(享保 10)
青山久保町から出火して、金杉、下谷、谷中まで焼失する
1753
(宝暦   3)
金杉村杉苗の畑地が御隠殿の地になる
1772
(安永 元)
江戸大火。
目黒行人坂大円寺から出火し、金杉、箕輪など類焼
1783
(天明   3)
天明の大飢饉
1787
(天明   7)
寛政の改革
1815
(文化 12)
杉田玄白の『蘭学事始』脱稿
1821
(文政   4)
伊能忠敬の実測図が完成
1837
(天保   8)
高橋栄賢が金杉村に寺子屋「高橋塾」を開く
1841
(天保 12)
天保の改革
新堀村の貝塚から出火し、金杉、入谷、坂本まで延焼
1850
(嘉永   3)
千住から出火し、金杉、三ノ輪まで延焼
1853
(嘉永   6)
ペリーが黒船を率いて浦賀に来航し、開国を求める
1860
(万延 元)
桜田門外の変
1867
(慶応   3)
大政奉還、王政復古
「文政三年刊 根岸図」(国立国会図書館臓)
「文政三年刊 根岸図」(国立国会図書館臓)/1820年頃の根岸あたり。画面中央部にお行の松が描かれている。鶴が生息するのどかな田園の風景が彷彿される
金杉村の姿
 現在の日暮里地区には、江戸時代から明治初めまで金杉村、新堀村、谷中本村がありました。東日暮里5丁目あたりは金杉村杉崎でした。金杉村の中でも音無川の北側はほとんどが田圃。はるか遠くに三河島の大六天社がぽつんと見えていたと言います。
 田畑の北側の三河島境には沼地があり、この付近で将軍の鷹狩りのために鶴の餌付けをしていました。『東海道五十三次』で有名な浮世絵師歌川広重は、この鶴の風景を『江戸名所百景』の一つとして描いています。同じ頃の地図には、音無川の北の田圃のうちに「ひばり」「ためつる」「家々に梅多し」「雪見よし」という書き込みがあり、静かな田園のようすが偲ばれます。
「箕輪金杉三河しま」(『江戸名所百景』歌川広重 荒川ふるさと文化館蔵)
「箕輪金杉三河しま」(『江戸名所百景』歌川広重 荒川ふるさと文化館蔵)
御隠殿
 上野の寛永寺は、西の比叡山延暦寺にならって山号を東叡山とし、時の年号の寛永を寺名にしています。寺主も皇族を迎えて輪王寺宮と称しました。寺の維持のために東叡山領を定めて年貢を納めさせることにしましたが、その中に金杉村も含まれました。
 輪王寺宮の別邸である御隠殿は、金杉村杉崎につくられました。広さは3000坪。音無川が取り込まれて池や朱欄の橋や築山が配され、月夜には池に舟を浮かべて管弦を楽しんだこともあったと言います。また、このあたりは水鶏(くいな)の名所で、御隠殿の敷地の東北角の石橋は水鶏橋と呼ばれました。
「日暮里寺院の林泉」(『江戸名所百景』歌川広重 荒川ふるさと文化館蔵)
「日暮里寺院の林泉」(『江戸名所百景』歌川広重 荒川ふるさと文化館蔵)
京都から来た鶯
 根岸の里の鶯は、ひときわ美しい声で啼くと言われました。それは、京都からやってきた輪王寺宮が関東の鶯は訛りがあると言って、京都から数百羽の鶯を取り寄せてこのあたりに放したためと言われています。鶯にも雅な京言葉と威勢のいい江戸言葉があったのでしょうか。江戸時代末にこの地に住んだ狩野派の絵師酒井抱一は、「いつの間や京鶯の江戸訛り」と皮肉っています。
 輪王寺宮が鶯の声音にまで口出ししたかは定かではありませんが、京都から来たという根岸の里の鶯の声は評判になり、鶯を飼育することが流行しました。
 音無川(石神井用水)の水源は現在の練馬区にある三宝寺池の湧き水で、そこから流れ始める石神井川を分水して引いてきています。荒川区は明治時代まで水田の多い農村でしたが、そばに荒川がありながら、農業用水としては使えませんでした。金杉村も含め23カ村もが、音無川に潅漑用水を頼っていたのです。日照りが続く年には、雨乞いの神様として知られた榛名神社にお参りして榛名湖の水を田畑に撒き、麦藁でつくった大蛇を村の若者が大勢で音無川に泳がせて雨乞いをしました。