The Fairest Of The Fair






 ―――――ギレン。
 一度だけ、名前を呼ばれた。今まで体が受け止める快楽に導き出される声ばかりを漏らしていた唇に。
 それまではギレンを呼んだとしても名前ではなく肩書きで、総帥、とだけだったのが、その瞬間。ギレンが体内で吐精した瞬間。シャアが名を呼んだ。ギレン、と。
 あれは何だったのだろうとギレンは考えた。肉体は欲求を満たした快い疲労感に包まれている。
 ギレンにとって、セックスとは単に肉体の性的欲求不満を解消させるための行為であり、もっと本能的な、いわゆる子孫繁栄とは無関係であった。相手は男女問わずであり、愛情や相手の気持ちなどというややこしい感情は一切考慮しなかった。もちろんそれなりに気に入った相手でなければ行為に及ぶことはなかったが、だからといって特別な感情を抱くに到る相手は今まで現れなかった。常に自分中心の快楽。
 ギレンは煙草を取り出して、マッチで火をつけた。燐の燃える独特の強い匂いが鼻をつく。肺に吸い込めばずしりと重苦しい痛みが胸に走る。毒を喫んでいる。

「ギレン、か…」

 ふっと煙を吐き出し声に出してみる。それは自分を現す固有名詞に違いないが、シャアに呼ばれた時のような不可解な感覚は沸き起こらなかった。あの満足感は。あの男の一体何が、これほどまで。執着といってよいほどの感情だった。わざわざ連れ去るようにしてまで会いたいと思わせる存在。
 単に体の相性がいいとか、そういう問題ではないだろう。そう思えるのは肉欲が満たされただけではなかったからだ。精神的な満足を得ている。ギレンには経験がないが、もし相愛の相手とだったらこんなふうに快楽を感じるのではないかと、想像してしまう。行為が終わった後の、虚しさがない。自分の中のなにかがひどく満たされていた。
 シャアは今、行為の残骸を洗い流している。ギレンはかすかに聞こえてくる水音に耳をすませた。自我を無くす瞬間に呼ばれる、自分の名。名前を呼び合ったことがないわけではない。最中に互いの名前を呼び交わすのは愛撫のひとつであろう。だからなぜなのか考えてみても、答えはでなかった。わかっていることはただひとつ。この満足感を与えるのはシャアだけだという事実だった。だからこそ、約束を反古にしてまで、抱いたのだ。

「……総帥?」

 控えめに声をかけられて振り返ると、咥えたままだった煙草から灰が零れ落ちた。
 シャアは着替えにとギレンが用意させた服ではなく、自分の服を着て、コートを手に持っていた。まるで何事もなかったような顔。本当に今しがた、この男を抱いたのか、信じられない……
 再び湧き上がってきそうな劣情を噛み殺し、灰皿に煙草を押し付けた。

「食事をしていけ」
「遠慮いたします。もう行かなくてはなりません」

 私も暇ではないのですよと肩を持ち上げる。

「そもそも出かけている最中に攫われてしまったのですから、急ぎませんと」
「…では、送らせよう」

 シャアが外出中であったことを、ギレンは知らなかった。使いにやらせた部下には彼の写真を見せて、士官学校へ向かわせたのだ。出かけていたシャアを捕まえることができたのは、その部下の執念か、幸運だろう。

「どこへ行くつもりだ?」
「私の後見を引き受けてくださっている所へ。あとは学生支援センターと、管理局」

 シャアの後見を引き受けているのは、サイド3に身を潜めている親ダイクン派と呼ばれる人々だった。個人ではなく、支援という形で、決してザビ家に悟られないよう。慎重に彼らはシャアを見守ってくれていた。そのことについて、シャアは感謝している。未成年者が宇宙にでるのは容易ではなかった。未成年の、しかも学生がひとりでという状況は、普通はありえない。コロニー公社と地球連邦はここに到っても人々を宇宙に送り出すことを奨励しているが、莫大な費用は自己負担だし、受け入れる側が当然必要だった。
 シャアが無事にサイド3に潜り込めたのは、将来有望で健康な男子だったからこそだ。士官学校へ入学していなくても、遅かれ早かれ徴兵されて戦争に出されることはわかっていた。また軍人になればたとえ戦死しても保険がおりて借金の返済ができる。行き先がどこであろうと、コロニー公社としては損さえしなければよいのである。ジオン・ダイクンが生きていた頃となんら変わっていないのだ。

「お役所は情け容赦なく、定時で業務を終わらせますから」

 正規の軍人になるための手続きのひとつ。未成年者はこちらの書類に印を、というわけである。シャアには両親がいないため、必然後見人ということになる。

「それから、友人と待ち合わせをしていますので。食事は外でとって、寮へ帰ります」

 シャアは何気ない口調だったが、ギレンは反応した。

「ガルマと、か」

 それはギレンの直感だった。嫉妬といってもいい。シャアの隣に立つ特権を与えられた者に対する。

「……いいえ」

 唇を歪ませたギレンとは対照的に微笑んで、シャアは否定した。もちろん嘘である。よくわかるものだと言うように、可笑しそうに笑ってみせた。
 そうしてシャアは、今度こそギレンの腕をすり抜けて、去って行った。
 パタン、とドアが閉まる。
 ギレンはしばらくその扉を凝視していたが、やがて立ち上がり、隠れ家を後にした。














 待つことは嫌いではない。不安と期待に駆られてあれこれと思い悩む、そんなふうに誰かを待つことができるのは、幸福なことだと思う。ただし、必ず来るとわかっている場合に限られるが。
 は、と息を吐くと目の前が白く染まった。日が落ちてから急激に寒くなった。通りを行き過ぎる人々は口々に文句を言っている。天気や気温を管理されているコロニーならではの光景だ。地球のほうが天候は変わりやすいし、予想も外れがちだが、自然に対してはどうしようもないことがわかりきっているからその文句はいわば自分の迂闊さに対するものであり、やつあたりといってもいいだろう。気象庁の誰それをクビにしてやれ、なんて文句はコロニーならではだ。
 広い公園内は外灯のおかげでほのかに明るい。木々の向こう側の大通りの明かりがちらちら見える。静けさのなかで自動車の走り去る音が時折響いた。
 その静けさを破るように、必死の顔をして走ってきたのはガルマだった。不安そうに顰められていた表情が、シャアを見つけてぱぁっと輝く。

「シャア!」

 ガルマにしては珍しく周囲を気にせず叫んだ。ようやくシャアの前までたどり着いたガルマは、膝に手をついて前かがみになりながら、なんとか息を整えようとした。

「ご、ごめん、遅く、なって―――」
「落ち着けよ、ガルマ」

 はーはーと激しく呼吸を繰り返すたび、彼の温かさを示すように白い息が吐き出される。

「車で来なかったのか」

 当然の疑問をシャアは発した。ガルマはシャアと同時刻に、シャアとは別に公用車で寮を出たのだ。当然自動車を使って来るものと思っていた。まさか護衛もつけずに走って来るとは、思ってもみなかった。
 何かあったのかと続けたシャアに、ガルマは心底申し訳なさそうに答えた。

「道路が込んでいて―――車より走ったほうが速いと思ったんだ」
「は………」

 シャアは思いがけないガルマの答えにぽかんと口を開け、次に笑い出した。

「走ったほうがって、そんな訳ないだろう。そんなに焦ってたんだ?」
「ああ…」

 照れくさいのか、ガルマが前髪を弄る。シャアはまだ笑いながら、

「試すつもりでわざと遅れたのなら、ぶん殴って帰るところだが……」
「ち、違うよ。帰り際になって、兄上に呼び止められたんだ」
「兄上…総帥に…?」

 すぅっとシャアの笑みが消える。ガルマはうなずいた。
 何が言いたかったのか、ギレンはやたらとガルマを引き止めた。学校のことを聞いてみたり、軍人としての心得を長々と説教してみたり、そのくせ肝心なことを言い出せないでいる感じがした。

「結局、何が言いたかったのか―――シャア?」
「ん………?」

 まったくあの人は。シャアは内心で可笑しくて堪らなかった。ギレンはただ、自分に待ちぼうけを食らわせたかっただけだろう。怒って帰ってしまえばしめたものだくらいには思っていたのかもしれない。単なる、子供じみた嫉妬心だ。今日、シャアがギレンと逢っていたことを知らないガルマが、そんなギレンの心理がわからなくてあたりまえだ。

「本当に、ごめん。寒かっただろう」
「まあね」

 ずっと立ち尽くしていたシャアと引き換え、全力疾走してきたガルマはうっすらと汗すらかいている。

「でも、僕は、寒いのは嫌いじゃないから」
「そうなのか?」

 ガルマは自分の首に巻きつけていたマフラーをシャアの首にかけた。指先がかすめた頬は冷え切ってしまっている。そのまま両手で包んで、熱を分け与える。シャアは笑って頬からガルマの手を外した。

「寒いほうが、ひとが温かいのがわかりやすいだろう?」
「シャア…」

 唇を寄せると、ガルマの手が背中に回った。隙間などないくらいにぴったりとくっつく。布越しに伝わってくる体温に体の芯がほんのりと暖かくなっていった。














 総帥の執務室の窓から、ギレンは外を見下ろしていた。控えめにライトアップされた街は、暗くなっても笑いさざめく人々がいる。戦争のための前準備というわけではないが、コロニーの常として、電力の節約が求められている。使えば使うほど払うものも大きい。
 この中のどこかに、おそらくはガルマとともにシャアがいる。随分ガルマを引き止めたから、もしかしたらひとりで帰ってしまったかもしれないが、ギレンは立ち尽くして待つシャアを想像した。職権を乱用して気温を下げろと命令したから、今ごろは震えているだろう。いっそ、雪でも降らせてやればよかった。

「……いや…」

 雪では駄目だ、とギレンは頭を振って考えを否定した。雪は暖かい。寒いからこそ雪は降ることができるのだが、触れれば融けて水へと変わるイメージは暖かさを内包している。
 雨がいい。冷たく突き刺さる雨。冷たい雨にうたれればあの男は凍るだろうか。ギレンが抱いている間中、その肌は汗ばむことなく冷ややかだった。彼の心情をそのまま伝えるかのように。
 融けて蒸発することができないのなら、凍えてしまえと思う。



 痛みを通り越して熱ささえ感じるほど、冷たく。




Next



Back



Novel




私は寒いの苦手です。

氷水に手を入れているとだんだん痛くなってくる感覚。凍傷。