The Fairest Of The Fair








 甘い芳香が開け放たれた窓から流れ込んでいる。庭のどこかで秋の薔薇が花をつけているのだろう。夏ほど強烈ではない甘い香り。
 隠れ家のようなこの屋敷に、シャアはまるで攫われるように連れてこられた。誰の仕業かは予想がついているシャアは、半ば開き直った気分で、未だ姿を現さない主の訪れを待った。
 失礼しますと声がして、先ほど茶菓を持ってきたメイドが再びやってきた。テーブルに置かれたそれに、シャアがまったく手をつけていないのを見て、少し眉を顰めた。もうじきに来ますからと差し出したのは彼女であった。メイドは主人の到着が遅れていることを謝った。申し訳ありません。シャアはさっきと同じように微笑して、おかまいなくと応えた。あの男が忙しいのはわかりきったことだ。いくら遅くなってもおかしくはない。シャアはここから出て行こうとすれば、出て行くこともできた。メイドは引き止めるだろうが、約束してあったわけではない。士官学校が休日で、時間があるから待っているに過ぎない。時間がくれば、相手が何といおうと帰るつもりだった。
 やがて、外から車のエンジン音が聞こえてきた。
 メイドはほっとしたように顔をあげ、「主人が到着したようです」とシャアに告げた。車のエンジン音だけで来訪者がわかるのは躾られているからだろう。すばやく茶を入れ替えて、彼女は主人を迎えに出て行った。
 温かな香りをただよわせる紅茶に、やはりシャアは手をつけなかった。再び庭に目を向ける。庭は、手入れの行き届いている屋敷内とは違い、荒れていた。草は伸びきったまま枯れて、その上に枯れ葉を積もらせている。薔薇は夏に咲かせた花が切られることなくそのまま枯れ、小さな花がいくつかぽつんと咲いていた。まったく手入れがされていない、というのではなく、誰かの設計で造られた庭だとわかる。使用人の不手際ではなく、おそらくここに手をつけるなと言われているのだろう。ぼんやりとそんなことを考えていると、ドアをノックされた。立ち上がる。
 敬礼をしたと同時にメイドがドアを開け、ギレンが部屋に入ってきた。彼は手を振ることでメイドを下がらせると、シャアには座れと言った。ギレンが座るのを待って、着席する。

「あまり驚いてはいないな。……私だとわかっていたのか」
「あんな車で人を拉致させて、こんなところへ連れ込むような人物の心当たりは、あいにく総帥しか思いつきませんでした」
「そうか。気をつけよう」

 公用車ではなかったが、あきらかに高級な黒塗りの車。プラス厳つい男の出迎えは、賑わった通りを歩いていた人々の目を引いた。口調こそ丁寧だったが、男は有無を言わせない態度だった。ここで言い争ってこれ以上目立ちたくなかったシャアは、言われるまま行き先の変更を余儀なくされた。

「ここは総帥の隠れ家ですか」
「隠れ家…そうだな」

 ギレンは首を回し、庭を眺めて懐かしげに眼を細めた。緊張していた空気がふと緩んだ。

「一人で落ち着きたい時などは、よくここへ来た。…最近は忙しくて、庭の手入れもままならん」
「あの庭は、総帥が…?」
「意外か?」

 ギレンの趣味としては意外すぎた。素直にそう言うと、ギレンは苦笑した。

「土はいい」

 しみじみとした口調だった。

「心が、落ち着く」
「……………」

 サイド3は地球からもっとも遠いコロニーだった。太陽の光など、コロニーではあたりまえだが望むべくもない。全てが人工物。病気の蔓延を阻止するために、地球から動植物等の持ち込みは厳しく制限される。普段はそんなことは、生活にまぎれて忘れていられるのだから、宇宙移民計画は成功しているといえよう。宇宙生まれ、宇宙育ちのスペースノイドは、我々は地球人であると教えられるが、実際に地球を見たことのない者は多い。これが地球だと写真を見せられて説明されても、そうですかとしか答えようが無い。それがどうした。実感のない地球に対する感想はこんなものである。特にサイド3はそうである。地球がわたしたちに何をしてくれた?コロニーが宇宙に浮かぶ箱舟であることは頭で理解していても、ここにあるものすべてがよくできたイミテーションにすぎないのだと、忘れている。ここでも子は生まれ、育ち、死んでいく。何も違いは無い。
 しかし、地球を識っている者は、どうだろうか。あの海と大地と重力を体で感じたことがある者は。常に頭の片隅に恐怖がこびりついているに違いない。水底に沈んだ錘のように。それは水面を波立たせることはなく、水中に変化を起こしたりもしない。しかし、確かにそこにある。そこから動くこともなく、忘れてもいられるが、なくなることは決してない。折に触れ時につれ、思い出すのだ。コロニーは地球の支配下にあり、しかも安全ではないことを。死んでもあの土に還ることはできない。屍が土になり木々が育ち鳥が歌う、そんな甘い想像すら許されていないことを。
 あの大地に還りたい。そう思う者を、誰も責めることはできない。本能に逆らうことはできないのだから。

「ここへお招きいただいた理由を、そろそろお聞かせくださいませんか」

 感傷を振り払って、シャアが訊いた。
 ギレンはシャアに一瞥をくれると、足を組んだ。躊躇っているようだ。

「MSパイロットになることを志願したそうだな」
「はい……」

 まさか、そんなことでわざわざここに連れ込まれたのだろうか。疑問が顔に出たらしく、言い訳をするようにギレンは続けた。

「なぜ、パイロットになることを選んだ?最前線だぞ」

 なんと、まあ。この兄弟は。
 ガルマと同じ疑問を呈するギレンに、シャアは可笑しくなった。どうやら私は、そろって兄弟に失いたくないと思われているらしい。

「ご令弟にも、同じ事を言われました」
「…あれは何と言っておった」

 いつかと同じ会話。気づいたギレンが目を細め、同じ言葉を返した。

「彼は私が同じ道を選ばなかったことが不満なようです」
「なぜ、わざわざ危険な道を進む?お前ほど優秀なら、良き参謀になれよう」
「私は、彼の友人です。…おわかりでしょう、総帥?」

 男同士の友情ほど、厄介で複雑なものはない。相手より上に立とうと思うのは、男としての本能だ。それがただの純粋な友情ならば、何の利害関係も絡まなければ、結束は固い。固いままだ。友情を貫いていくのに何の問題は無い。
 だが、どちらか一人が権力を持っていたら?権力者の友人という立場ほど曖昧で不安定なものはない。本人に何の権力もないのに、周りはそう見ない。友人なのだから権力者を動かしてくれると思われる。事実そうである。友人ほど率直に、しかも一見客観的に意見が言える立場はない。権力は目に見えない。武力や知力のように、個人の努力次第でどうにかなるものではなく、しかも扱いにこれほど厄介な力はないだろう。権力者を動かす力もまた、権力になり得ると気づいた時、苦悩がはじまる。では、上位に立つのはどちらだ?どちらが上だ?確かに彼は権力者だが、それを動かすことができる自分こそが権力者なのではないのか。デギン・ザビはそう悩み、悩みを解決し、しかも権力を握るにはジオン・ダイクンを消すしかないと気づいたのだろう。権力者が複数いるのはあたりまえだが、国に王は二人といない。友人だからこそ、部下にはなれなかった。友人に頭を下げたら、その瞬間友情は消えるのだ。友情を裏切らないためには、敵になるしかない。デギンは決断し、実行した。権力を捨て、隠遁してしまうにはデギンには野心がありすぎた。
 同じ事はギレンにもいえる。シャアの言わんとしていることを、彼は当然理解できた。何も言わず、ギレンは眼を彷徨わせた。遠い過去の感情に。

「…それに、MSの本領が発揮できるのは、やはり宇宙ですし」
「MSに乗りたいのか」
「総帥の兵器になろうとしているのに、そうがっかりなさらないでください」

 シャアは微笑して、それとも、と続けた。

「親衛隊にでも入れるつもりでしたか?」
「…………」

 ギレンは否定も、肯定もしなかった。親衛隊は最側近だが、ジオン公国の貴族・高官たちとその子弟で構成されている。血統重視のエリート集団だ。士官学校を出たばかりの若造、地球出身の新参者が入隊できるわけがない。そのことを、誰よりもギレンがよくわかっているから、何も言わなかった。

「ご用件がそれだけでしたら、私はお暇いたします」

 シャアは立ち上がり、脇に置いたコートを手にとった。
 総帥に対して礼を逸する態度だが、そうせずにはいられなかった。用もないのにこの男と二人でいたくない。脅えている。この先におそらく待ち受けている、ことに。
 出て行こうとするシャアを、ギレンの手が引き止めた。びくりとシャアが緊張する。
 ギレンはあらためてシャアを眺めた。
 以前に逢った時よりも、美しくなった。この年頃の男に対して美しくなったと感じるのはおかしなことなのだろうが、そうとしか表現のしようがない。シャアの持つ、抜き身のナイフの切っ先のような鋭さと危うさが、増した。それだけ艶っぽくなったともいえる。白い指先。その先にある体を知っているというのに、実感がまるでなかった。あの時のことはまるで夢の中の出来事のようだった。
 シャアはやんわりとギレンの手を外そうとした。

「…まさか、また、こうして総帥とお会いすることになるとは、思ってもみませんでした」

 約束をしたはずだ、という意味だった。それが、ギレンに火をつけた。外された手で、今度は明確な意図を持ってシャアの手首を捕まえた。引き寄せられたシャアの体を受け止め、ソファの上、ギレンの体の下にあっという間に組み敷く。

「っ、約束を、」
「したが、忘れた」

 言い捨てて、ギレンは唇を塞いだ。
 シャアは体を硬直させて、眼を見開いたが、やがてあきらめたように瞼を閉じてギレンのするにまかせた。
 シャア、と呼びかけるガルマの声が耳の奥で聞こえたが、それがギレンに届かないように、シャアはそれを封印し、鍵をかけた。








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ギレン再び。