The Fairest Of The Fair






 薬品の匂いがした。真っ白い壁が眩しくて二度、三度瞬きをする。カーテンで区切られた部屋。細いベッドがいくつか置いてある。淡いグリーンのシーツが敷かれていた。見覚えのある部屋だった。

「――――――……の検査手続きは、今説明したとおりだ」

 話し声がカーテンの向こうから聞こえてきた。その声にも聞き覚えがあった。少しだけカーテンを引いて覗き見る。二人の男性が話し合っていた。両方とも白衣を着ている。椅子に座りカルテを持っている初老の男と、男の前に立つ若い男の手には点滴が合った。
 ここは病院か、と気づいてよく見ると、カルテを持っている医師はダイクン家の主治医だ。ジオン・ダイクンはここで息を引き取った。
 ザビ家に暗殺されて。
 緊張している看護士に、医師が笑いかけた。

「そう緊張するな。いつも通り、ミスなくやればいい。ジオン様はお優しいお方だよ」
「はい………」

 えっ、と声をあげそうになって、あわててカーテンに隠れた。ジオン様、だって?どういうことなのだと考えていると、看護士が出てきた。こちらに構うことなくそのまま行き過ぎ、何かを取り出して仕度している。ドクン、と心臓が高鳴った。ジオン・ダイクンの死亡原因の公式発表はテロによる事故死、だった。夫人を連れてコロニーを演説しているその移動中、路肩に停められていた車が爆発したのだ。ジオンはサイド3と連邦の、どちらにとっても重要人物であったから、当然警護は厚かったが、さすがに無傷ではいられなかった。一報が自宅にいた自分たちに伝わった時は単なる事故、であった。急いで仕度をしている間に病院へ運ばれた、と続報が入り、病院へ着いた時にはすでに死亡していた。
 事故の不自然さに当然暗殺説が流れた。それがサイド3を一致団結させ、ジオン公国を建国する動きを後押しした。
 ジオンと母アストライアの遺体は綺麗だった。まるで眠っているだけのような二人は、しかし絶対に目を覚ますことのない血の気の失せた顔をしていた。
 ザビ家による暗殺、というのはこのことか、とシャアは理解した。テロ自体は連邦が、誰がやったにせよ、ここでジオンは殺されたのだ。ザビ家はチャンスを狙っていたに違いない。医者に命を狙われたら、助からない。
 たいへんだ。
 そろりと足音を忍ばせて、見つからないようにドアノブに手を伸ばす。目線と同じ位置にノブがある。どうしてこんなに高い位置に、と思ったのは一瞬で、違和感はすぐに消える。廊下に出ると他の看護士や患者がいたが、かまわずに走り出した。廊下はひどく長く、階段は高かった。お父様のように背が高ければこんな段差、なんともないだろうに。
 病室はどこだろうとキャスバルは迷ったが、すぐに特別室だと思い出す。
 駆け込めばそこに、父と母がいた。ベッドに横たわっていた。一瞬心臓が跳ねたが、かすかに上下する胸を確認して眠っているだけかと息を吐いた。しかしこれで安心してはいけない。今すぐ二人をここから脱出させなければ。

「父様!母様!」

 呼びかけて体を揺する。応えはない。

「起きて、起きてください!」

 ぺちぺち、と思い切って頬を叩いても、何の反応もなく、瞼を閉ざしたまま。
 ベッドサイドにはコップがあり、薬のパッケージがあった。睡眠薬でも飲まされたのだろうか。
 どうしようとジオンの腕を引っ張っても、子供の体では重い大人の体は少し動いただけだった。大人の体が欲しい。二人を護れるだけの力が、今の自分にあったなら。
 ドアを開けて廊下を窺うと、先程の看護士がやってくるところだった。手には点滴のチューブパック。

「お父様!」

 早くしないと、あいつが来てしまう―――叫ぶ間もなくノックの音がして、看護士が入ってきた。

「失礼します。ダイクン様」

 ジオンは目を開けて、体を起こした。アストライアは眠ったままだった。恐ろしい思いをしたのだ。疲れているのだろうとジオンが労わると、看護士もうなずいた。

「明日から精密検査をいたします。その前に体調を崩すといけませんので、栄養剤を点滴します」

 簡単に説明をして、点滴台にチューブパックをセットする。

「やめろ!」

 叫びは届かなかった。慣れた手つきでジオンの腕に針を突き刺す。

「父様っ」

 慌てて取り外そうとした手は振り払われて、次に看護士はアストライアの腕をとった。

「母様、母様!」

 ぽたりと恐ろしい液体が零れていくチューブを引き抜こうと引っ張っても、びくともしない。

「ああ、お願い……っ」

 これを抜いて、と看護士に訴えても、彼はキャスバルが見えないらしい。彼だけではなく、両親にも。姿は見えず、声も聞こえない。

「ここで、…こんなところで………っ」

 あなたに死なれたら、これから私の手が血で染まるのです。
 赤い軍服と赤い人型兵器。その中で嘲う自分。
 だから、お願いです。
 私を人殺しにしないでください。

「わたしに…あのひとを……ころさせないで………っ」









 言葉とともに零れ落ちたのはわたしの中で一番美しいものだった。わたしというものを構築する、すべてのものを純化して結晶化させたもの。涙。
 ぽつん、と零れ落ちた涙は波紋となって広がっていった。













「――――――…」

 目を開けたシャアは、これもまたさっきの続きだろうかと思った。ここはどこだろうと思い、士官学校の寮だと理解する。軋む体にうめきながら室内を見回す。昨夜の事が夢でなければここにいるはずの男が、いない。それともすべてが夢の出来事だったのだろうか。
 どこからどこまでが現実で、なにが夢であったのかわからない。

「…ガルマ…?」

 返事はどこからも返ってこなかった。ではやはり、ガルマは死んでしまったのか―――半分混乱して起き上がろうとした時、ドアが開いた。

「シャア、起きたのか」

 どこか呆然として固まったシャアをよそに、ガルマは部屋に入り、手にしていたトレイを机の上に置いた。トレイからは温かな食べ物の匂いが漂ってくる。
 照れているのかガルマはなかなかシャアと顔を合わせようとしなかったが、黙ったままじっと見つめているシャアに気が付くとようやく笑顔を向けた。

「…具合はどう?何か食べるかい?」
「…ガルマ……」

 呟いて手を伸ばすと、ガルマはその手を握りしめてきた。暖かい力。呼びかけに応え、動いてくれたことでこれが現実だと納得する。本物の、ガルマだ。

「どうかしたのか、シャア?」
「いやな夢を見た……」

 ほっとしたからだろうか、急速に夢が消えていく。霧のように。どんな夢だとガルマが訊いてくるが、もうはっきりと掴めなくなった。

「かなしい、夢だった」

 悲しくて、冷たくて、暗いイメージ。ただ味わったかなしい感情だけが胸に残っている。ひとりで立ち尽くしていた。

「シャア……」
「目が覚めたら君がいなかったから、…まだ夢の中にいるのかと……」
「ごめん、シャア」

 髪を撫でると、甘えるようにシャアはその手に擦り寄ってきた。朝だというのにその仕草が昨夜の艶めいた彼を思い出させて、ガルマの動悸が激しくなった。気まずく、手を離す。

「え、え―――、と。お腹、すいていないか?」
「いや。食欲はない」

 疲れているせいだろう。トレイに乗っているのはパンとスープ。焼いたハムの上には同じくこんがり焼かれた卵がある。つけあわせにブロッコリー。美味しそうだとは思うものの、食べたいとは思わなかった。

「果物は?桃があるけど」

 そう言ってガルマは桃を手に取った。柔らかい丸みを帯びた桃からは、甘い良い香りがする。喉の渇きを覚えてうなずくと、ガルマは嬉しそうに笑った。キッチンへと向かうガルマを見送ると、シャアはそっと立ち上がった。クロゼットからシャツとボトムを取り出して着込む。かすかな物音に気がついていたのだろうガルマは、ちょうど着終えたタイミングにあわせて、皮を剥き食べやすいよう切りそろえた桃を手に戻ってきた。

「はい、どうぞ」
「ありがとう」

 一口、口に含むと甘くて瑞々しい味がじんわりと広がった。

「それにしても、」
「?」

 果汁が服につかないように気を使いながら、シャアが意外そうに言った。

「ガルマが包丁を使えるとは思わなかったな」
「僕の部屋にもキッチンはあるよ」
「お茶を煎れているところしか見たことがない」
「君の見ていないところで、僕だって夜食を作ったりしているよ」

 食堂があり調理師もいて栄養のバランスをきちんと考えたメニューが出されるが、一人の量は決まっているし、時間帯も決まっている。営利目的で経営されているわけではないから使用に制限があるのは当然だった。士官学校という体力勝負の若者にはそれでも足りないのはわかっているから、部屋にはキッチンがついているのだ。ようするに、足りない分は好きにしろ、である。

「桃の皮を剥くのは案外難しい」

 どことなく不満そうな顔でそう言ったガルマに笑って、シャアは桃を半分ほど食べてごちそうさまを言った。

「もういいのか?」
「ああ」

 とにかく体力の回復が先だった。ベッドに仰向けになると、ガルマは気まずそうに皿をトレイに戻した。乱れたシーツには昨夜の残骸が染みをつけている。
 しばらくの沈黙の後、口を開いたのはシャアだった。

「何も訊かないのか?」

 問いに、一瞬ガルマの肩が緊張した。ゆっくりとシャアを見つめる。

「……言いたくないのなら、言わなくていいんだ。シャア」
「君が訊くなら、答えるよ。その権利があるとは思わないのか」
「……いいのか…?」
「かまわない」

 返答によっては、自分がどういう行動にでるのか、ガルマ自身にもわからない。怒るかもしれないし、泣くかもしれない。もっとも恐ろしいのは、それによってシャアを嫌いになる、見限ってしまう可能性があることだった。
 あれほど望んでいたのに。勝手に抱いていた幻想が打ち砕かれたからといって、彼に裏切られたように思ってしまうのではないかと。
 そういうガルマの心境が、わかっていてシャアは言っているのだろう。それでも真実が知りたいのなら、訊くがいい、と。
 知りたかった。
 シャアは仰向けのまま、だるそうに髪をかきあげた。ちらりと視線をガルマに投げかけて、目が合うとゆるりと猫のように目を細めて笑った。
 誘われているようだと思った。足を歩めて、深いところまで踏み込んでくるといい―――。そんなふうに、言われているようだ。

「総帥と」

 ガルマが切り出すと、シャアの腕が両脇に落ちた。笑みが消え、冷たい瞳が空を彷徨う。

「どんな取り引きをしたんだ…?」

 何とひきかえに、体を差し出したのだ。答えるために彼が深く息を吸い込む、瞬間が、ひどく長く感じられた。胸が酸素を吸い込んで膨らみ、言葉とともに咽喉をせりあがって吐き出される動作はまるでスローモーションのようだ。唇が言葉を紡ぎ、空気を震わせて声になる。
 そして彼は言った。

「もう二度と、私とこんなことをしないこと」

 言葉の意味を理解する前に、シャアが笑い出した。

「総帥も、そんな表情だったな。言ったとき」

 ―――もう二度と、私を抱かないでいただきたいのです。
 ギレンとの事が済み、改めて望みはなにかと訊かれ、そう答えたとき。まったく予想外だったのか、ギレンはぽかんと硬直した。今のガルマのように。甘えてねだられるとでも思っていたのだろう。ギレンは苦く笑い、「いいだろう」という返事をシャアに与えた。

「総帥を振ったのか…」

 ガルマが感心したように言った。シャアが笑いながら、

「振る権利をもらったんだよ」

 訂正を入れた。そんな約束をしても、結局ギレンは総帥であり、シャアはいずれ彼の部下になる身である。ギレンがその気になって誘えば、シャアは断る術がない。それでも、そんな不確実な約束でも、構わなかった。
 安心したのかガルマを窺えば、彼はほっと笑みを浮かべてうなずいた。

「僕は誰のものでもない」

 だから、ガルマ。
 君のものにしてもいいよと言えば、柔らかく抱きしめる腕が背中に回された。



 夏期休暇は残り半分。期間限定の蜜月。











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14話でいっていた「あんな約束」がこれです。
あんまりシャアが弱っているのでどーかなーと悩んだのですが…。

NTとしての片鱗をちょこっとだけ。誰だって好きで人殺しになるわけではない。