The Fairest Of Fair






 頭から冷水を浴びて、ようやく体が正気づく。学長室から寮の自室まで、よく意識を失わずに戻ってこられたものだ。ギレンから解放された頃にはすでに辺りは暗くなっていて、生徒たちは帰ってしまった後だった。おかげでひどい状態のこの姿を誰にも見られずにすんだ。
 ほっとして気が抜けたせいか、膝が震えて立っていられない。浴室の床にぺったりと座り込む。上から降ってくる水よりも冷たい、濡れた床が心地良かった。体の奥から流れ出てくる液体の感触だけが、やたらと熱かった。

「…………?」

 ふと、微かに悲鳴が聞こえた。小さな子供のような、嬰児の泣き声のような、悲鳴。どこから聞こえてくるのだろう。少なくとも自分の声ではない。シャアは狭い浴室に視線を巡らせた。
 足元。冷たい水が打ち付けてくる床につたう白濁が、排水溝へと流されていく。そこから悲鳴は聞こえてきていた。

「ああ…………」

 生命になることのない、あの男の子供たちだ。せめて女の胎内でならば、幾億もの競争の末の可能性を掴むこともできただろうに、男の自分の体では、絶対に不可能だ。

――――――かわいそうに。

 心にもないことを思ってみる。途切れることなく続く悲鳴に、笑いが込み上げてきた。なんて滑稽なのだろう。最中にずっと殺してやりたいと、そればかりを考えていた、そのことが、こんなにも簡単だったとは。
 くすくす、という小さな笑いが、次第に堪えきれなくなって声になる。口を開けると上から降ってくる水が入りこんだが、構わなかった。薄く目を開けて容赦なく降り注ぐ水で眼球を洗う。水滴とはいえ高所から落ちてくる衝撃で結構痛い。目の奥が痛いのは、だからそのせいだ。決して泣いているわけではない。












 抱かれている間中、ずっと殺してやると思っていた。殺気を隠すこともしなかった。こんな扱いを許すものかと口走ってしまった覚えもある。大きなデスクの上であられもなく脚を広げられ、男に貫かれる激痛を堪えて、滲む視界の片隅に映った、ペン立てに突き立てられた万年筆。たとえば今、これを男の首、頚動脈に突き刺したら死ぬだろうかと考えてみる。しかし、腹上死、というなんとも間の抜けた言葉が頭を過ぎり、断念する。そもそも自分がここにいるのはギレンだけを殺すためではなく、ザビ家そのものに復讐するためだ。ここでギレンを殺しても、すぐさま捕まって処刑されるだけで、死ぬことは決して自分の望みではない。望み、そういえば望みのものを与えてやろうと言っていたな。さて、何をしてもらおうか―――……











 あの男を殺す、というのと意味は違うかもしれない。だが数億もの、男の分身とも生命になりきらないコレを体内に吐き出させ、捨てる事は殺人以外のなんでもないように、今となっては思える。死にたくない、とこれらは確かに悲鳴をあげている。男に蹂躙されたそこに指を入れて、まだ奥に残っているものに命令する。死ね。
 セックスという行為の本来もつ意味とはかけ離れた想いに、やっぱりこれは殺人だ、とシャアはまたひとしきり笑った。こんなことならあんな約束などするのではなかったな。
 やがて笑いの発作がおさまると、シャワーを止めた。冷えて悴んだ体をタオルでくるみ、ベッドへとダイビングする。わずかに残っていた思考能力がこのままではベッドが使い物にならなくなると警告するのに従って、濡れたタオルを放り投げた。ブランケットに包まれて丸くなると、爪先からゆっくりと温かさが戻ってきた。















 今日も定刻どおりにコロニーの太陽が沈む。見るともなしにそれを眺めて、ガルマはため息をついた。
 せめてあと一言三言、シャアと交わしてから帰りたいと、寮のエントランスで待っている。ここなら確実に帰ってきたシャアに会える。教室での挨拶責めが終わってからずっとここにいるのに、彼は未だに帰ってこない。
 今の時期、季節は夏に設定されているから夕暮れ刻といえども遅い時間だ。そろそろ帰らなければ、夕食に間に合わない。
 ガルマが夏期休暇で帰ってからは久しぶりの家族揃っての夕飯で、父も嬉しそうにしている。休暇の間はそうしようと約束しているわけではないが、暗黙の了解というものがある。愛されているのがわかっているから、無下にはできなかった。
 ずいぶん遅くなったから、運転手も待ちくたびれているだろうと足早に駐車場に向かう。謝りの文句を考えているうちに、駐車場が見えてきた。意外なことに、ガルマが乗ってきた車だけではなく、総帥専用の車と、その護衛のための車も残っていた。
 ガルマもよく見知った、ギレンの護衛官が頭を下げてくる。

「兄上は、まだお帰りになっていないのか」
「はい」

 護衛官は困ったように返事をした。事実困っているはずだ。総帥は暇ではない。士官学校での演説の後もスケジュールが詰まっているはずだった。もっとも、すっぽかしたとしても困るのは周囲の者たちだけで、ギレン自身は困りもしなければ後悔も罪悪感もないだろう。それがわかってしまうだけになんとなくガルマは申し訳ない気分になる。察したのか、彼は少し笑って、

「学長と話をなさっているようです」

 顔を上げて校舎を眺める。今の時間帯では使われていない教室の電気は消されているが、基本的には昼間でも点けっぱなしだ。もちろん、学長室も。見上げた学長室の明かりは点いていた。他の教室が暗い分、そこだけがやけに明るく見えた。

「え……、しかし、」

 学長室にはシャアもいるはずだ。シャアは何も言わずに出て行ったのだが、一人でいるガルマが誰を待っているのか察した教官がそう教えてくれた。生憎どういった用件なのかまでは教官も知らなかったが。
 総帥と会見しているのか。
 ギレンにはシャアのことを話した―――というか、自慢したことがある。だから興味が湧いたのかもしれない。だが、いくらなんでもこんなに長くかかるものなのだろうか。

「……私が行って、呼んでこよう」
「ガルマ様?」

 言うが早いか、ガルマは踵を返した。自然と足が速くなる。ただ単に、優秀な士官候補生と会話が弾んでいるだけかもしれない。別に二人きりでいるのではなく、学長も一緒にいるのかもしれない。しかしそれはあくまで『かもしれない』であって、確かなものは何ひとつなく、ガルマの胸騒ぎを宥めてはくれなかった。
 それでも学長室の前までくるとさすがに躊躇いが生じた。中に飛び込んでいきたい衝動を不安が押し留め、ノックに変える。返答を待たずに部屋へと入れば、窓際に立っていたギレンが振り返った。ガルマを見て不審そうな顔をする。

「どうした、ガルマ」

 部屋にはギレンだけで、シャアの姿はなかった。どこか切羽詰った表情のガルマとは対照的にギレンは落ち着き払っている。
 ギレンの身に纏う軍服には一片の乱れもない。
 だが、部屋は違った。正確にいうのなら部屋の雰囲気、空気が冷静な総帥にはそぐわない淫らな雄の匂いで充満していた。今まで断固として信じてきたものが足元から崩れ落ちていくような。
 何がこの部屋で行われていたか、などと、一度経験のあるものならばすぐにピンとくるだろう。

「………あ……あ……」

 驚愕に目を見開いて青褪めたガルマが、何を悟ったのかを敏感に察知したギレンの目が不快を顕わにした。あなたは、と搾り出すような声でガルマが言った。

「何…を、何をしたのです、シャアに!?」

 最後の部分は絶叫だった。そうしなければ立っていられないほどの衝撃に全身が脅かされていた。

「何を、とは何のことだ」
「兄上っ!」

 まったく感情の篭っていないギレンに、ガルマが焦れた。何を、と。それを自分の口から言わせようというのか。今にも掴みかかる勢いのガルマに、冷たい声が響いた。

「ガルマ」

 ただ名前を呼ばれただけで、ギレンはガルマの気勢を制した。かつん、と軍靴の音を立てて、ガルマの目の前に立つ。二度、三度とガルマは首を振った。乱れた髪が目を隠すのを嫌って、指が髪をかきあげる。そのまま、ガルマは前髪を握り締めた。絶望に歪んでいるだろう自分のこの顔を見ても、ギレンは顔色一つ変えない。それが尚更ガルマを苛立たせた。なぜ、弁解ひとつしようとしないのだ。人の心を踏み躙っておいて。

「よくも、シャアを…!シャアは……私の……っ」

 友人だと、言ったはずだ。親友だと。そう自慢した時、素直に喜んでくれたのはすぐ上の兄のドズルで、キシリアとギレンはそうかと言っただけだった。

「大切な友人、か?」

 ぎくりと体が震えた。確認をとるような声色に、それだけではないのだろうと言われているようだった。
 気がつかれたとしても、もう構わない。直感ではなく本能がガルマに警告を鳴らす。この男は、敵だ。

「あの男はやめておけ」
「何……を…」

 嘲笑うつもりかとギレンを睨みつければ、意外にも真剣なものだった。次の言葉を待つガルマに、ギレンが言った。

「あれは、とてもお前の手に負える男ではない」

 何もかも知っているような男に、口の端が歪んだ笑いを作る。怒りもある一線を越えれば笑いにすりかわるものらしい。

「あなたにシャアの何がわかるというのです」

 この自分にさえ、彼の事はよくわからない。ただ気がついた時には強烈に惹かれていた。その時にはもう引き返せないほどに。シャア。他には何もいらない。自分でも驚くくらいの暗い声で言い放ち、ガルマは学長室を後にした。これ以上、ギレンの顔など見たくなかった。シャアに会いたい。会って、どうしたいのか、ガルマにはわからない。今のシャアの状態を思えば会ってくれるのかどうかもわからないだろう。
 目頭が熱くなった。
 その熱の感覚だけをヤケにはっきりガルマは感じていた。身体の感覚と思考とが分裂して、どこか冷静な部分の自分が、ガラス一枚を隔てた場所で今の自分を俯瞰しているようだ。
 こんなことになったのは自分のせいだ。自分があんなふうに彼の事を話したりしなければ、ギレンが興味を持つことなどなかっただろうに。ただでさえこのガルマ・ザビを差し置いてトップの成績なのだから、名前くらいは知っていたとしてもおかしくないのに。目の前のぼやける視界が鬱陶しい。邪魔だ、とそれを払うと、手が暖かいもので濡れた。

 ―――どうか。

 誰にかわからない誰かに、祈る。

――― どうか、あの美しい人がこのことで壊れてしまいませんように。

 それだけを祈りながら、ガルマはシャアの部屋の扉を叩いた。










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Novel-2






痛い話…。
あいかわらず焦げてるなぁ……。
ところでコロニーって季節があるのでしょうか?(調べてから書きなさい…)
ツッコミを入れないでくださいねー(汗)。