若き天才美形ピアニスト(笑うところです)×調律師パラレルが続いちゃいました…。
前段の話:露→日・露←日
ステージ上に正装したイヴァンが進み出て一礼した。若い女性の黄色い声が多く混じる漣がすぅっと引いていく。それを菊は舞台袖で腕組みして眺めていた。 これからイヴァンが披露するのは日本的なわび・さびの感覚を帯びるコントラストの強い曲だ。どちらかというと繊細、優美で煌びやかな曲を得意とするイヴァンに表現できるのだろうか、と若干の不安をもって演奏の開始を待った。イヴァンの才能は誰よりも認めているのだが。シン…と静まり返ったホールの中、白い鍵盤の上に白い指が置かれる。誰ともなくごくり、と喉を鳴らす。静かに演奏は始まった。 演奏を聴いて菊はおや、と感心した。音符の合間にさしはさまれる無音の間が絶妙な効果を生み出している。しわぶき一つ聞こえない空間にかすかにピアノの弦が震える緊張感。間、もまた演奏なのだということを口角泡を飛ばして議論した学生時代を菊はふと思い出した。『あなたが空虚だと思っているこの3秒ほどの無音の時間には、豊かな情感が詰まっているのです!』と何度主張してもイヴァンは我慢できずに無音の空虚に音符を詰め込んでしまったものだったが。なるほど菊も年をとるはずだ、離れていた歳月はイヴァンの演奏の幅を広げ、いまや菊が主張していた間をも表現できるようになっていた。 |
夜のホテル、パーティー会場。菊はにぎやかな喧騒を背後に聞きながらバルコニーで風に吹かれていた。イヴァンがアルフレッドのホールで行っているリサイタルの3か月連続満員御礼でスタッフの慰労をかねた祝賀パーティーが催されている。が、にぎやかな場が苦手な菊にパーティーは苦痛なだけだ。人付き合いは得意ではないのに、何故か、何かにつけてスタッフの皆さんがかまってくるのだ(スタッフの中で一番小柄で童顔なのでマスコットのようにかまわれているということに菊は気付いていない) 白い手すりに両手を並べて置くと、クセで鍵盤を叩くように指が動く。先ほどまで聴いていた、イヴァンの演奏を思い返してなぞっていた。かつてのイヴァンの演奏は空虚を恐れるようにひたすらぎっちぎちに詰め込む装飾過多のスタイルだったが、(自惚れでなければ)菊の演奏を参考にして演奏の幅が広がっている。余白の美が表現できるようになっているとは。さすが音楽の女神に愛された男だ。しかし…とふいに菊は目の奥の闇を深くした。 私は…偉大な音楽家になれないけれど、天才のための肥やしになることを許容できるほど達観もしていないのです…、 「こんなところにいたんだ」 パーティーの喧騒が一瞬大きくなり、小さくなった。一人きりの空間を邪魔されて、菊は眉をひそめた。目の前でほのぼのと笑みを湛えている男は、ステージ衣装のタキシードのままで、それがとても似合っている。すらりとした長身と美しい顔は黒の正装によく映えて、シャンパングラスを持ってパーティー会場に混じっていてまったく違和感はない。菊が同じ格好をしてもせいぜい給仕にしか見えないだろうに。この男は、菊が持っていないものをすべて持っているのだ。見上げる視線は無意識のうちに睨むようなものになっていた。 「何かご用ですか」 「用がなくちゃ、君と話しちゃいけないの」 当たり前だ。大体この男は、存在するだけで菊の神経を逆なでするのだ、用がないなら視界に入ってくるなと言いたい。 「夜風に当たりたいのでしたら私はこれで。お邪魔でしょうから」 「ああ、待ってってば。今戻るのはやめたほうがいいと思うよ、アルフレッド君が隠し芸を強要してたから。そういうの、苦手でしょ?ほら、食べ物もとってきたんだよ」 まったく、アルフレッドさんはろくなことを思いつきませんね…と菊は額を押さえて足を止めた。差し出された皿には生魚や野菜などのさっぱりとした前菜が載っていて、いつまでも外つ国のこってりとした食事に慣れられない菊の繊細な胃袋にも優しそうだ。もう昔のように食い詰めてすきっ腹を抱えているわけではないのに、食べ物にはつい釣られてしまう。まあ食べ物には罪はありませんし、騒々しいのも苦手ですから、今だけですよ、憮然とした表情を隠しもせずに、菊はイヴァンの隣に納まった。 |
菊の不機嫌を察知していないわけはないのに、イヴァンはかまわずニコニコと話しかけてくる。それがまた菊の神経に障った。 「あのね、参考にどうぞってエーデルシュタイン氏からチケットもらったんだ、一緒にいこ?」 イヴァンはホールの音楽監督の名前を出して高価そうなコンサートのチケットを示して見せた。一緒に行く気など毛頭ないが(大体なんで私を誘うんですか!)ちらりと目を走らせる。ピアノ協奏曲のプログラム…高名な指揮者でもある音楽監督は、いよいよこの男をオーケストラと共演させるつもりらしい。 「何でそんなに私にかまうんですか、放っといてくださいよ…」 「他人の演奏を聞くのも芸の肥やしになるものだよ?」 「いえ、私はしがない調律師ですので…」 もう菊はイヴァンにとって倒すべき好敵手ではないのだから、放っておいて欲しい。 昔からイヴァンは菊にやたらと構いたがった。昔はそれでも二人は確かに好敵手であったから、イヴァンが菊から学ぶべきものはあったのだろうが、今の菊からピアニストとして吸収できるものは何もない。それなのにまとわりついてくるイヴァンは、負け犬の姿を確認して自分の上位を確認したいのだろう。とうがった想像をしてプライドがささくれ立つ。菊は怒りに震えそうになる声を無理やり押さえつけた。 「もっとふさわしい方と行ったらいかがですか?ピアニスト仲間とか、いらっしゃるでしょう?」 「君がふさわしいと思ってるから、誘ってるんだよ。君はもうピアノは弾いてないの?」 「ええ、もうピアノを弾くのは辞めたんです」 イヴァンは何とも言えない表情を浮かべた。 「ねえ…本当にそれでいいの?」 「いいんです、私は器ではありませんから」 イヴァンは菊を負け犬だと罵った。けれどイヴァンは本当はそんなことちっとも思っちゃいなかった。離れていた何年もの間、イヴァンの脳みそには常に菊の演奏が残っていた。ピアニストデビューした菊の特徴的な演奏が聴ける日を今か今かと待っていた。しかし再びイヴァンの目の前に現れた菊は、もう辞めたのだと酷いことを言う。どうして!そんな簡単に捨てられるのだろう!イヴァンが求めてやまない何かが確かに菊の演奏にはあったのに! 愛しているがゆえにひどいことを言いそうになる、のをイヴァンは必死で堪えた。今の菊は挑発に乗ってこない。怒らせれば意固地になり、ますます離れていってしまうだけだ。 あの頃は意地悪ばかりして言えなかったけど、今なら言える。いや、今言わなくちゃ。 「僕は本田君の演奏が好きだよ。ピアニストになればいいのにって思ってる」 「え…?」 菊が凍りついた。 大きな黒い瞳がこぼれそうなほど見開かれた。 華やかなことが少ない人生を送ってきた菊にとって、イヴァンと競い合っていた学生時代は唯一輝かしいものだった。菊はイヴァンの天才を認めている。だからそのイヴァンに認められて一瞬誇らしい気持ちになり――― 次の瞬間、感じたのは恐怖だった。 ダメだ、もう私はこの人の前できらきら星ひとつ弾くことはできない。 |
凍り付いてしまった空気を砕いたのは空気を読まず乱入してきたアルフレッドだった。 「キク!こんなとこにいたのかい!?」 ずっと会場に見えない菊の姿を探していたアルフレッドは、やっと見つけたぞ!と元気いっぱいの子供のような笑顔で小さな背中に飛びつき、それから隣にイヴァンの姿を見つけて目をぱちくりさせた。イヴァンと菊の関係はピアニストと調律師―――それなりに連絡が密になる仕事仲間のはずだが、二人が一緒にいる印象がなかったので。 「何を話してたの?」 きょとんと聞いてくるアルフレッドにイヴァンが菊のピアノのことを言おうとした瞬間、菊はイヴァンの足を思い切り踏みつけて黙らせた。 「おや失礼、暗くてよく見えなかったもので」 「…っ…ちょっと…大して長い脚でもないのに先まで気が回らないわけ?」 「特別サービスで手当てして差し上げますから、行きますよ!ではアルフレッドさん、失礼します」 余計なことを言いそうな唇をぐいーっと引っ張って菊はその場から退出した。いひゃいいひゃいと背後で大男が悲鳴を上げているけれど知ったことか。 「余計なことを言わないでください!」 「なに、隠してるの?」 「だって面倒じゃないですか…」 |