片町線・東西線

2011.7.1

木津
 名古屋から乗継いで木津までやって来て、片町線で京橋へ向かうことにした。
 この線は、京橋方から徳庵まで1973年に乗っているだけなので、木津−徳庵は初乗りとなる。1973年の片町線は長尾-木津間は非電化でDCが走っていた。もっとも関西線も奈良までしか電化されていない。片町−長尾間は旧型国電の天下だった。73系がまだ少数派で、戦前型の3ドア車と、42系の2ドア車を4ドア改造したクモハ31やクハ79が数多く走っており、東京では見られないものゆえ、数時間徳庵で駅撮りをしている。結局オレンジ色の旧国たちを見たのはその時一回きりだった。戦前型が、73系に入れ替わり、73も101系で新性能化、そして103系へ置き換えられ、東西線の完成で福知山線と直通するようになり、現在はJR西日本の207系と321系となっている。木津寄りの区間は電化複線化に伴い路線変更もかなりされた様で、並行する近鉄線の車窓から見えた、鄙びたローカル線の風景は今は無い。

木津
木津で連絡したのは快速の篠山口行。長尾から快速区間なので、各駅停車の原則で、この電車では長尾まで進む事にする。
長尾
長尾はかつての電化区間の終点だが、どこを見ても電車と気動車が連絡していた様な面影はなかった。

長尾
後続の来る間に長尾駅の様子をパチリ。


長尾
やって来たのは新鋭の321系だった。

京橋
片町線と言う名前は、この京橋の先に片町と言う起点の駅があったからだが、現在は東西線として地下に潜るので片町駅は廃止、線名のみに残る。もっとも現在は通称「学園都市線」なのだそうだ。
さて、電車は京橋止まりだが、もう一本待って、このまま東西線も乗り潰してしまう。京橋からすぐに地下へ、入り、加島の先で地上に出る。

尼崎
乗って来た電車は、このまま東海道・山陽緩行線で西明石まで行く。大阪のJRは、かなり自在にあっちの線からこっちの線へと乗入れていて面白いが、土地勘の無い人はわけがわからないだろうね。
尼崎到着は日没寸前ギリギリのところだった。

尼崎

尼崎

本日の乗り潰しの旅はここまで。すっかり暗くなってきた尼崎の上りホームから、京橋まで戻り、また乗継いで投宿する。
大阪市交通局へ続く

乗車記録と車輌
クハ206-1036 木津→長尾(快速)
クモハ320-25 長尾→京橋
クハ206-1045 京橋→尼崎
クハ207-130 尼崎→京橋

片町線 44.8km
東西線 12.5km
計 57.3km