絵の魅力と上手さの関係

公開:2023年4月15日 最終更新:なし

「絵は上手くなればなるほど写真に近付く。写真のような絵を描かないのは画力が足りないからだ」というような考え方があります。 そこまで極端な考え方でなくても、デフォルメした絵を描く画家やイラストレーターや漫画家の方々(以下「絵描き」と総称します)を画力不足とみなす方は多いようです。
 日本でも、日本の漫画家よりもアメコミ作家の方が絵が上手いといった主張はよく見かけますし、「中国オタク「日本の漫画家やイラストレーターは学校ではなく自習ルートの人が多いって本当?」」という翻訳記事を見たところでは、デフォルメされた絵を下手と見なす人々がいるのは、中国でも同じようです (当該記事で翻訳されている発言の全てがそうだというわけではありません)。

 漫画家のいしかわじゅん様は、著書「漫画の時間」(1995年)でこう書かれています。

絵が上手いかどうか、というのは、わかりにくいことであるらしい。 ぼくは何度も、その件で考えさせられたことがある。 たとえば、具体的な名前を上げるのは控えるが、劇画で有名なあの人であるとか、ヒット作を何本も持つあの人であるとか、そういう人が描いた、八頭身で顔や体に線がたくさん入っているようなものがうまい絵であると、多くの人は、思っているようなのだ。 それは素人だけではない。非常に驚くべきことだが、絵を見るプロである編集者にも、やはりそう思っている人が非常に多い。

いしかわじゅん「漫画の時間」(晶文社)より

 その回でいしかわ様はイラストレーターの南伸坊様の絵の上手さが理解できない編集者が周囲に多いことを嘆いておられ、 私もプロの編集者でもそんなことがあるのかと驚かされました。

 写真と見紛うような写実的な絵を描けるのは凄い技術ですが、冒頭で言及したような写実至上主義の人々だって必ずしもそういう絵を名画とも、魅力的とも思わないでしょう。 写実性が同じでも魅力的な写真とそうでない写真があるのと同様、絵の魅力は写実性だけで生まれるわけではないのです。 絵描きに求められるのは多くの場合、その人ならではの独自性・個性のある絵なのではないでしょうか。

 作家の林望様は著書「「芸術力」の磨きかた」(2003年)でこう書かれています。

そう考えると、芸術における技術の意味というのが見えてきますね。 前述したように、芸術には技術の習得が欠かせないわけですが、だからといって、技術があれば芸術になるかというと、そうとはかぎらない。 それは書道に限った話ではなく、歌でも絵でも同じことで、技術だけでこなしているというものは、たいがい面白くないんです。

つまり技術というのは、芸術が芸術であるための必要条件であって、十分条件ではないということです。

だから、これはじつに逆説的なことなんですが、芸術には、技術を習得しなければ表現力が高まらない反面、 上手になるとつまらなくなるという面があります。上手になることは大切だし、そのためにみんな努力をしているわけですが、 ただ上手になるだけでは面白い作品を生み出せないんです。そこに芸術の秘鍵(ひけん)があります。

林望「「芸術力」の磨きかた」(PHP新書)より

 林様の著書では恐らく、上手くなるイコール写実的になる、というような言葉の使い方をされておりこの記事の用法とは異なるのですが、 「技術があれば芸術になるかというと、そうとはかぎらない。」というのは全くそのとおりかと思います。魅力的な絵となるには、写実性だけでは十分ではないのです。

 先日、拙稿「ガンダム新作を企画したモリオン航空とモグモ様の凄さ」でイラストレーターのモグモ様の凄さを説明しましたが、モグモ様は2015年にはPixivで写真と見分けがつかない写実的なイラストも公開されていました (それらは現在は削除されており、いつ投稿されたものかは私は記録していません)。完成したイラストを見ると写真にしか見えないのですが、10段階以上に分けてメイキングが掲載されていて、それらを見ると本当に一から描かれたものと分かるわけです。 しかし、モグモ様が活躍の場を広げ有名になっていったのは写真と見紛うような写実的で精密なイラストを描かれたからではなく、そこで満足せずその先に行き、独自の画風を編み出されたからではないでしょうか。

 ただ、絵の上手さの問題が厄介なのは、「絵が上手い」という言葉の定義が困難であることでしょう。 絵描きが上手いと言われる場合、大きく分けて三種類の意味があるように感じています。

 個人的には、あまりにも多くの方々が絵の上手さを上記1.か2.と考え、モノクロの絵やデフォルメされた絵の上手さを理解していない印象があります。 上で触れた、日本の漫画家よりもアメコミ作家の方が絵が上手いというような考え方は、こういうところからきているようのではないでしょうか。 アメコミ等海外の漫画の多くがカラーであるのに対し日本の漫画の大半はモノクロですが、モノクロ絵自体も一種のデフォルメであり、世の中には上手いデフォルメ絵を理解できない人々が多いように思えます。

 驚異的な絵の上手さでつとに有名なイラストレーター・漫画家の寺田克也様に対してですら、「彩色が凄いイラストレーター」というような 氏のモノクロ絵の上手さを全く解さない評価を見かけ、残念に思ったことが何度かあります。

 また、普段カラーイラストをTwitterやPixivに投稿している人気の絵描きがたまにモノクロ絵やモノクロ漫画を投稿すると、 クオリティが高くても反応が桁違いに少なくなるのを何度も見ており、みんなもっとモノクロも評価しようよ、といつも思っています。 なお、Twitter等でモノクロ漫画への反応が少ないのは日本語を解さない閲覧者が多いという要因もあるのでしょうが、そういう投稿には日本語のコメントも激減する印象があります。

 上手い人は、モノクロイラストを描いてもとんでもない上手さです。先日NHKで放送された寺田様のドローイングの一部を見てもその上手さは伝わるのではないでしょうか。

?浦沢直樹の #漫勉neo?|
放送は今夜25時?
今回のゲスト『西遊奇伝 大猿王』の作者 #寺田克也 さんの執筆動画を公開!

独創的な怪物を生み出す秘密とは?
本編もぜひご覧ください!

Eテレ 18(土)午前1:00※金曜深夜
見逃し配信で視聴する?https://t.co/LdGNiJC2uI pic.twitter.com/I4imcMv3eO

— NHKアニメ (@nhk_animeworld) February 16, 2023

 写真と見紛うような写実的な絵を描けるようになるのは凄いことですが、それは絵描きにとって必ずしもゴールではないのだと思っています。 実力のある絵描きの中にはさらにその先に行き、意図的にデフォルメされた絵やモノクロのイラストを描いている方も多いのではないでしょうか。

 これは、伝統芸能等にある守破離とも通じる考え方かも知れません。 描きたいものを忠実に写生するのは「守」の段階に、それをアレンジして独自の画風を生み出すのは「破」「離」の段階に近いのではないかと思えます。

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