私事情・病気のこと(筋ジス)

私事情・子どもたち   2009.10.19  戻る  top 次へ


1991〜・・・ゆうこ31歳〜 



書き始めたからには、全て書こうと頭では思うのだけど

どこまで、書こう・・・・・・・・ここまで書いて良い物なのか・・・・・・・・・

選ぶ言葉で、伝わり方が変わってしまうから、さぁて「どうするよ!!」っと、思い悩みましたが

書き始めるまでの一瞬の迷いだったようだわ

書くべき事が、文章となって頭を埋めていくので、いってみよう(笑)

「価値がある無理」と「とぼけた無茶」の境界が見えない私

医師の忠告をことごとく無視し続ける私・・・それには理由がありました

こんなに「人」が好きなのに・・・言うほど「子ども」は好きじゃないんですよ

なのに3人の子持ちなんです。我が子はどんな風でも可愛い・・妙です(笑)



私には、一つ違いのとても仲の良い弟がいました16歳の誕生日を2ヶ月後に控えたある日、交通事故に合い

あっけなく亡くなってしまいましたが、

あまり良い家庭環境にいない私たち姉弟は、幼い頃から助け合い乗り切ってきたんです

姉弟の絆は、太く強く、お互いを支えあう事を私は知っています。

だから自分の子どもは、絶対に一人っ子にしたくないと思っていました。



それなのに、遺伝子が原因の病気だったと知って、どうしたら良いのかわからなくなっていた

子どもの将来が見えないと言うことが、とても重くて整理しきれない

自分の事は、どんな環境も受け入れやすいけれど、

自分の子どもが同じ病気になったら私に出来ることが有るのか何もわからないでいた




困惑の時を過ごす中、二人目の妊娠に気がついたけど、主治医は断固として反対するし

出産を引き受けてくれる所もなく、病院探しの中とある病院の婦長に「子どもの将来を考えずに無責任だ」と言われ

私の背中を押す材料が一つも見つからず。産むことにためらいを感じ諦めようとした矢先

神経内科を受診してる院内の産婦人科教授が引き受ける、神経内科医師にも納得してもらうよう働きかけると連絡が入り

迷路から抜け出したように、重く苦しい時は過ぎ人より少し回数の多い検診も、ひどいつわりも、

大変だと感じる事無く、妊婦ライフを楽しめる事が出来て絶好調だったはずだけど

遺伝子異常の病気「筋ジス」という概念から、「遺伝」の言葉に、神経質になる

そんな中、遺伝について調べ始め、知らなかったいろんな事を知った

常染色体劣性遺伝の場合、両親から病原を持つ遺伝子を一つずつもらわない限り発症しないという事実を知った

さらに兄弟、姉妹では同じ病気を発症する事があるけれど、親戚等に同病の者はほとんどいないという事

そして、私が生む子どもは理論的に筋ジスを発症しないとわかって、とても嬉しかった

だからと言って安心も出来ない私は、考えを変えた。

この子たちに、もし別の筋疾患のような難病が降りかかってきも、

私自身が精一杯生きていれば、子どもの糧になるだろうと確信した。

私の将来の姿もわからないのに、どこからそんな結論に結びつくのか。。。

今思い返せば「こじつけ」だったのかと考えさせられる(笑) こういうとき、楽天主義は力を発揮する。




そして、5ヶ月の検診の日、胎児の心音が消えていた。王子1の1歳の誕生日から10日目の事だった

中々しぶとく、落ち込まない私も、その日はどうにかなるんじゃ無いかと思うくらい落ち込んでしまい

妊娠が、わかったとき「産むこと」を躊躇したからこんな事になったと

責任の所在を私の中に見つけることで、精神のバランスをとっていた気がする




それから、淡々とした時を経て感傷的になる暇もなく、日々は過ぎ行き 暑い夏が終わり秋が深まる頃

もう、無いだろうと思っていたのに赤ちゃんを授かった

まだ、短い距離なら杖歩行出来ていた 完全に車椅子になるといわれた日までまだ3年もある。

大丈夫、今ならまだ大丈夫

産まれてこなかった子の分も、大事にしてこの世に送り出すんだと覚悟を決め神経内科の主治医に「産む」と宣言し

前回お世話になった、大学病院の産婦人科にお願いし、王子1を年度途中から預けられる無認可保育園を探し

途中入園はさせないのだけどと言われつつ、園長の好意だったのか入園させてもらえる事になり

妊娠中、育児に無理がこない状況を着々と作り上げ

出産後、生まれくる子が0歳から王子1と二人一緒に公立保育園に預けられるように、

見えないパワーが、突き動かしているかとさえ思えるスピードで私は動き始めた。




世間の職を持つ母親と同じように、私も仕事を持っているから、子どもたちを預ける必要があるわけで、

障害者という理由は二の次だった私だけど、待機児童が多い中、親が障害者の場合優先して入園可能と聞いたので

公立の保育園に入れたいと市役所の障害福祉課の担当に相談したら、冷たく言われたのがこの言葉

「そんなに甘い物じゃ無いですよ。保護者が身障者で何かの時に迎えも出来ない、その身障者の親に介助者がいないなんてあり得ないですよ

まずは児童課に相談して、話を進めてくださいよ!送り迎えの人も見つけて!保育園側との交渉もしてくださいよ」

え〜そうなの?と心が叫んでいたけれど、保育園に子どもを預ける時の段取りの順序や常識をまったく知らない私は言われるまま走り出す

物事は、背景から固めていくのだと思い知る事になった。




市役所からの帰りに、中古車屋に行き乗り降りしやすく運転しやすそうな車を品定めして金額を確認

家で、殿の帰りを待ち切り出した

「車で子どもたちの送り迎えするから、運転の練習つきあって! 車も適当なのを探してきたから買うよ!」

実は、私は20歳で運転免許を取得したものの、危ないという理由から車の運転禁止を言い渡されていて

殿から見ると、私のバイクの運転は、雑で荒っぽい世間の迷惑と映っていたのかも(笑)

この時、私31歳ですがペーパードライバー歴10年だったんですね(笑)

手足の力が弱っているのに、無理だろうと話に乗ってくれない殿でしたが、車の購入はokだったので、知人につきあってもらい運転の練習

オートマチックというのはとても便利、パワーステアリングも大好き私の味方のようでした 

車種は「フェステバ」色は赤で可愛い車です




半月ほどで、乗りこなすようになり、児童課に殴り込み(笑)。。。

児童課の話では、父親が自営業で自由がきかない、一番の保護者になる母親が身障者で、歩行困難なのに

介助者が全くいないという例が今までに無いから、保育園側とも話し合いが必要ということでした。

基本的に私が車で子どもを送り迎えする。平行して子どもを見てくれる人材を入園までに必ず探す。

特別扱いをお願いする物ではない事等を切々と話した結果 わかりましたという言葉をもらい

車が横付けできる保育園は一ヶ所だけなので、そこを第1希望で書類を提出し

数日後、まだ入園できると決まっていない保育園の園長に会いに出かけた。

入園許可が出たら、出来る限り力を貸していただけると暖かい言葉をもらえた

その次の月マンション敷地内の駐車場が1台分空き抽選会が行われた

マンションに移って2年目の私が、1回目の抽選で当ててしまいました(笑)、

10回以上、抽選に落ちていると言う古株の方に「新参者が使うなんて不公平だ」なんてね嫌みを言われながら。。。

これで、駐車場までの距離が短くなって、さらに条件が整った

1992、2月の事でした、妊娠6ヶ月お腹も目立ってきて、さらに歩きにくくなったけれど

王子1の公立保育園への入園が決まった。

※補足、私の体調他諸々の問題があり、翌年の入園は見送り1993年4月から通園が決まりました。

4月から王子1を車に乗せての通園が始まる大きなお腹がハンドルにつっかえそうだと少し不安

運転は健常者と同じで足での操作。

動きにくい足、つま先は力が無く使えないので足の平、側面を使ってアクセルブレーキを踏み込んで運転していたので、

自分でもかなり起用だと思わずにいられない。体は必要な時に、最大限の力を出してくれるみたい

色んな面で、改造車の方が良いと言う市役所の福祉課に促され、改造の為の助成金を頂き改造したけれど

肘を伸ばして押しやる力はあっても、手前に引っ張る力がない。

それに、肩の力が弱ってる右手だけじゃハンドルが回せないし・・・・

手動装置はただのお飾りだったけど運転免許証は手動装置の限定に変更になってしまいました。




生まれくる子は、7月出産予定。

しばらくは家でゆったり子育てして翌年、王子1と同じ保育園に入れる可能性が大きく広がった

なーんだ、世の中まんざらでも無いじゃない! 私って強運の持ち主だったんだ!と思ったのでした(笑)


次回は、少しskipして、王子2.3の出産の頃の話になると思います。(笑)


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