夜に徒歩す
三食寮付きの大学生活。
進路に迷っていた高校3年生に、その大学はとても魅力的にみえた。
軍人になるための学校だとわかっていたが、軍人になるつもりなどなく、決めるのは入ってからでいいと思った。
人を殺すための訓練。奥底に潜む嫌悪感を押し殺して、菊池雅行の防大生活がスタートした。
出会いは春。散りかけた桜の植えられた学校内を、先輩に連れられて案内されていた時だった。
周囲を取り囲む景色に、先輩の一人が言った。桜が散っていて残念だったな。もうちょっと早ければ山のあちこちに白く桜が見える。それはそれは綺麗な景色は自慢できるのだと。小・中・高校ともに似たセリフを聞いたことがあるなと菊池は思った。たいてい入学式の頃には桜は散っているのだ。東北あたりなら、また別だろうが―――…。他の新入生たちがぎこちなく世間話をしているのを聞くともなしに聞いていた。
「桜は好きではないので、これくらいでちょうどいいです」
菊池と同じように会話に積極的に加わるでもなく、あちこちにあるモニュメントのような兵器や建物を眺めていた一人が、何を言われたのか困ったようにそんなことを言った。
「角松、お前海自に行くんだろ?同期の桜がそんなんでいいのかよ」
一人やたら体格の良いそいつは角松というらしい。はて見たことがある顔だなと思い、さっき新入生代表で挨拶をしたやつだと思い出した。
桜が好きじゃないなんて正直に言わなければいいのに。嘘のつけない正直者か、単純なやつなのか。どちらにせよ要領は悪そうだな。少しばかりの嫉妬心が菊池に皮肉まじりの感想を植えつけた。
「…海自に行くって、もう決めてるのか?」
気まずいのか集団の後ろに来た角松と並んだ菊池は、先程の先輩が言っていた、決め付けるようなセリフについて尋ねてみた。防大に入学しておきながら自衛官になるかどうか未だに悩んでいる自分とはえらい違いだ。
「ああ。…ずっと海のあるところに住んでたからな。海、好きだし」
「へえ…。どこ出身?」
「佐世保。お前は?」
「俺は横浜」
「ふうん。横須賀なら行ったことあるけど、横浜ってどんなとこだ?海は綺麗なのか?」
にこやかに話す角松に、菊池は自分の感想を訂正した。微妙にはぐらかされたのだ。なぜ海自なのか、答えたくない理由でもあるのだろうか。
ひととおり学校一周して、制服などの学校用品を受け取ると、いよいよ寮だ。
数人で暮らすことになる部屋は想像していたよりも広く、清潔で、妥協できそうなスペースが与えられていた。どのみちある程度は慣れないといけない。
菊池と角松は名前の順で同室になった。
他の同室者ともヨロシクと挨拶をしておく。どいつも口数は少ない。ようやく先輩方から開放された安堵感と、本当に上手くやっていけるのかという不安。ほんの少しの私物をロッカーと机の前の棚に並べて、ついため息がもれた。
思い描いていた『楽しい大学生活』とは、あまりにもかけはなれていた。
数週間が経った頃、ようやくぎこちなさが抜けて、友人と呼べる相手もできた。
自分のペースを取り戻し、楽しめる余裕が生まれてくると、他人のことが見えるようになった。
防大というところは、なるほど軍を養成するための学校だ。組織というものを徹底的に叩き込まれる。団体行動と団結力。自分一人だけ抜きん出ているからと浮かれていると容赦なくしごかれる。学力だけならかまわないだろうが、隊行動では仲間のことを考えなくてはならない。他人に気を使う、ということがどれだけ大切なのか、今さらながらに思い知らされる。
単純に団体行動なら小・中・高ともに教えられるが、中身が全く違う。自分はまったく何も教えられずに育った我儘な子供だったのだ。
もっと早く―――せめてあと一年早く気づいていたなら、ここにはいなかっただろうに。
「なあ菊池、お前平気?」
「………?何が?」
夕食時、隣に座った友人がふいに訊いてきた。
疲れきった表情をして、美味くもなさそうにもそもそと食事をしている。あまり箸は進んでいない。
「具合が悪いのか?」
今日も一日体と頭を酷使させられた。ありきたりで濃い味付けのメニューだが、茶碗ではなくどんぶりで飯が食いたいくらいに腹は減っているはずだ。
「そうじゃなくて……自分ちの飯が食いたいと思わねえ?」
「ホームシックか」
まあな、と友人はうなずいた。よくよく見回してみれば、そこらじゅうに淋しげな顔があった。
「寮生活になれて、これなら大丈夫だって安心したとたんに、コレだ」
「俺は……ないな」
「いいな〜。俺も学生長に相談すっかな」
「学生長?」
「俺と同室のやつ、学生長に話してスッキリしたって」
「へえ……」
相槌をうって、つい目で角松を探す。彼もまた隣席の男と話をしていた。食器の音と静かな話し声で食堂内なうるさくない程度にざわついている。角松が何の話をしているのかまでは、さすがにわからなかった。
学生長というのは人生相談までするのかとなんとなく彼を観察していると、確かに角松の傍には誰かしらやって来て、彼は嫌がるそぶりも見せずに穏やかに話を聞いている。人徳、というやつだろうか。たんに成績の出来だけで学生長に選ばれたのではないらしい。角松の父親が海自の制服組幹部であることは菊池もすでに知っているが、そういう家庭で育つと角松のような男になるのだろうか。
「おかえり」
部屋に戻ると角松がすでにいて、菊池はたじろいだ。ついさっき見た時には、誰かと話をしていたはずなのに。
「ああ…ただいま」
他の同室者たちはまだ戻ってきていない。電話の列にでも並んでいるのだろうか。自分には無縁の話だ。そう思い、角松はどうなのだろうと気になった。
「学生長っていうもの大変だな」
「なにが?」
「ホームシックに罹ったやつらの相談窓口になってるんだって?」
「ああ、そのことか。寮生活に慣れてくると、ホームシックになりやすいんだよ」
「よく知ってるな」
「高校の時の、部活の合宿とかで覚えがあるんだ。メカニズムまではわからないけど、この先長いんだから支障のないようにしてやんないと」
「そういう自分は大丈夫なのか?人のことばっかりで……」
菊池が見ているだけでも数人の相談には乗っているはずだ。どうやって解消しているのかは知らないが、つられて落ち込んだりしないのだろうか。彼自身の時間がないように見える。
角松は少し驚いたように目を開いて、それからふわっと笑った。
「自分ちよりも俺は寮のほうが居心地がいいんだ。多人数で暮らすのって楽しいから」
「ああ……」
そうだ。
一瞬家を思い出してしまい、菊池は苦い気分になった。家は嫌いだ。もう二度と帰りたくない。待っていてくれる人もない家。
菊池は顔を背けてしまったため、見ることはできなかった。角松もまた同じように眉を顰め、遠くを見ていることに。
玄関に靴が一足。
ブランド物のパンプス。そんなものを履く者は、家に一人しかいない。
―――母さん……?
いつも遅くまで帰ってこない母親。なにかあったのだろうか。家の中は夏特有の籠もった匂いがする。いや、それだけではない。
―――母さん、何の匂い?
菊池は生理的に嫌悪感を呼びさます匂いに眉を顰めた。生臭い―――馴染みのない匂いだ。
当然いると思ったリビングに母親の姿はなかった。具合が悪くて寝ているのかと彼女の部屋を覗くがそこにもいない。なにをしてるんだか。普段からロクに会話もない、ヘタをすれば一日顔を会わせる事もないような母親には、反抗する気も甘える気ももはや起きない。あのひとは母親だが、家族ではないのだ。父と別れた時から。自室に荷物を置き、着替えていると、静まり返った家に微かに水音がしていた。
―――なんだ、風呂か。
少しでも心配して損した。
菊池は自分のそんな心境にがっかりしながらも、今夜の糧をなににするか冷蔵庫を確認する。それでも母親がいるのなら何か好きなものでも作ってやろうかという気分になるのが疎ましい。ほんの少し、浮かれている自分がいるのが厭だ。もっと大人になれば、こんな気分も笑ってやりすごせるのだろうか。
買い物から帰ってきて風呂場に耳を澄ますとまだ水音が続いている。いやに熱心だな、あの母親にかぎってまさかデートにでも行くつもりなのか?嫌な匂いはまだしていた。窓を開け、換気をする。
―――母さん、いいかげんにしろよ。
夕食を作り終えても出てくる気配のない母親に業を煮やして、とうとうバスルームのドアを開けた。
そこにいたのはスーツ姿の母親―――であったもの―――嫌な匂いはここが一番強烈だった。なにより一番記憶に焼きついたのはいつもの見慣れたクリーム色の浴室を真っ赤に染め上げているモノだった。
ザアザアザアザアと蛇口から熱湯が噴き出しだしている。
眼鏡が一瞬で曇り、視界を閉ざした。
「―――…っつぁっ……!」
ばっと布団を跳ね除けた菊池は、込み上げてきた吐き気に口を押さえた。
周囲に気を配ることもせずにトイレに駆け込む。
洗面台に縋りついて何度も激しい呼吸を繰り返す。胃から逆流してくるものはなく、ひたすら苦しいだけだ。吐いてしまえばこの嘔吐感はなくなるだろうに。
これは夢だ、早く目覚めなければまた最後まで見てしまうとわかっているのに、どうして起きることができないのだろうか。もう何度、あの場面を見ただろう。あと何回見ることになるのだろう。これから先、ずっとか?
震える手で蛇口を回す。溢れ出る清潔な水。浄化されたカルキ臭が今はありがたい。匂いという物質は記憶を呼び覚ますという。脳にこびりついて離れないあの血の匂いを洗い流したかった。
冷たい水に手を差し込んで顔を洗う。襟も袖も前髪もびしょ濡れになった頃、ようやく現実が返ってきた。心臓の音がうるさい。
顔を拭こうとして、タオルとついでに眼鏡もないことに気がついた。些細なことだが、自分がどれほどパニックに陥っていたのかわかり、ため息がもれる。何も考えずに部屋を飛び出してきてしまったが、誰か起こしてしまっていないだろうか。
誰か、と思ったときに真っ先に思い浮かべたのは角松で、菊池は戸惑った。なぜかはわからない。面倒見の良い学生長という感想しか、彼には抱いていないはずだ。何故だろう。誰かと話をしたい気分ではない、だが、起きて来てくれないだろうか。
シンと静まり返った寮内は人の気配などないかのようだ。緑色の非常口を示すランプが点々と、不気味さを演出している。
自分以外は誰もいない。
角松が来る気配はもちろんない。
莫迦みたいだ。一体何を期待して角松なのだ。菊池は首を振って、湿った髪をかきあげた。ぺたんと皮膚に張り付く感触に眉を寄せる。裸足だった。気がつかなかったが、当然トイレの床も裸足で歩いていたということだ。足を洗わなくては再び布団に入る気にはなれない。もっとも眠気などすっとんでいるのでかまわないが、あの悪夢を見るたびにこれではたまらないなと菊池はため息混じりに思った。これからは靴下を履いて寝ることにしようか。くだらなくも重要なことを考えながら今度は慎重に部屋に戻った。誰かを起こしてしまっていないかと、そろりとベッドを覗き込むと、ひとりを除いた同室者たちはぐっすりと眠っていた。ひとりはいなかった。空のベッドが二つ。ひとつは、菊池本人の。
もうひとつは角松のベッドだった。
「角松……?」
小声で呟いた。つい、空の布団に手をやってみた。布団は冷たかった。一方の菊池の布団はというと、まだぬくもりを残している。つまり、菊池よりも先に角松が部屋を出たということだった。
まるで推理小説さながらだと内心浮き立つ心を抑えながら、菊池はまず眼鏡をかけた。靴を履き、部屋を出る。タオルも忘れない。まず、足を洗わなくては。それから捜索開始だ。
足音を忍ばせてはいるものの、時折キュッとリノリウムの床が鳴った。自分の足音だけがついてくる寮内はまったく妙な雰囲気だった。昼間とはまるで違う。
非常階段へと続くドア付近まで来た時だった。ふっと新鮮な空気が菊池の頬をかすめた。
「………誰、だ?」
ひそめられた呼びかけに、びくりと肩が震えてしまった。角松の声だった。
「角松…。どうしたんだ、こんな夜中に……」
「菊池か……。そっちこそ…」
彼に姿が見えるように、正面に立つ。角松は窓を開けていた。警備上、夜中に窓を開けたら問題なのではないだろうか。いや、警報装置が鳴ってもおかしくないはずだった。どうやったのかは知らないが、今もって警報が鳴らないところをみると、角松には慣れた行為であるらしい。
「…海が見たくなったんだ」
「やっぱりホームシックか?」
「家が恋しいわけじゃない。帰ったところで誰もいない」
「え……」
どういうことだ?問いかけようとするよりも早く、角松は窓から身を乗り出していた。海が見たくなっただけではない。実行する気だ。
角松は地面に下り立ち、菊池を振り返った。行こう、とも、来いよ、とも言わず、ただじっと見つめてきた。
しばらくそうして見つめ合っていた。
菊池が窓の桟に手をかけたのを見て、角松は少しだけ首をかしげ、それから足を海へと向けた。防大の敷地には港も浜辺もあり、海自へ進む者たちが訓練に励んでいる。菊池はまだ選んでいないが、角松はじきに海へと放り込まれるだろう。
夜の海は、想像していたような暗さではなかった。
日本の夜を宇宙から撮影した写真があるが、夜でも明るく縁取りをされた国を証明するかのように、街からのネオンがとりどりの色彩を海面に映している。ざわめきはなく、波の音。潮の匂いに満ちた世界があった。
「どうしたんだ」
口火を切ったのは角松だった。
「恐い夢でも見て、泣いたとか?」
「な、」
「少し、目が赤い。顔色もよくない」
なぜそれを。見ていたのか?激昂しそうになる菊池に、角松はあっさり説明した。感情のこもらない声だったが、そこに冷たさはなく、しかし心配の色もなかった。ただ彼は説明をしたのだ。だから菊池も沸騰しかけた頭を冷やすことができた。角松という男の気遣いを感じながら。
「そっちこそ、どうなんだ」
否定をしないことで暗に正解だと告げ、今度は菊池が尋ねた。お前も夢を見たのか?
「夢を見たわけじゃない。けど、無性に海を見たくなった」
角松は海へと眼を向けた。その瞳の見つめる先は目の前の海なのか故郷の佐世保の海なのか、それともまったく別の海なのか、菊池には判断できなかった。
「ぶしつけなこと訊くが、お前、両親いる?」
振り向いた角松の、唐突で刺激的な問いに、菊池の肩が跳ねた。
瞬間、悪夢を思い出し、すぐに封じ込めた。
「本当にぶしつけだな。………もう、いない。両方とも」
声が震えないように言ったが、成功しなかった。語尾が小さくなるのを自覚した。
菊池の父親は生きているが、何年も会っていない。なにげなさを装えるが、演技なのはわかっただろう。胸が痛む時期はとうに過ぎたが、棘が消えたわけではない。
「なんでわかったんだ」
「うちもいないから」
角松は答えた。自分の発した質問が菊池を傷つけたことに気づいたようだった。
「親父さんはいるだろう?」
母親のことまでは知らないが、父親は海自の制服組エリート幹部のはずだった。菊池は自分の声に少しばかりの攻撃性を持たせた。角松は少し頬を歪め、笑った。自嘲の笑みだった。
「あのひとはどちらかというと、父親というより船乗りさんだからなぁ……」
あのひと、という呼称に菊池のなかの攻撃性が消えた。自分と同じ境遇にあるのだ。ふっと角松の声が蘇った。部屋に戻った時におかえりと言った声が。
帰ってきても誰もいない家。ただいま、おかえりというあたりまえの日常会話すらない家。冷えた空気のなかに微かにただよう家族の残り香に胸が締め付けられ、わけもなく泣き出したくなるような想いを彼も知っている。菊池の奥底にある孤独を角松は見抜き、だからこそあの時立ちどまったのだ。そしておそらく菊池自身もそのことに気づいていた。だからとっさに、角松を求めたのだ。
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