夜に徒歩す





「父親が海自だから俺も海自を選んだと思われてるし」

 いささか迷惑そうな口調が意外だった。

「違うのか」
「そんな理由で自衛隊に入ったって潰されるのがオチだろ。いちいち否定して説明するのも面倒だし」

 後年、誰もが納得する理由として自ら使うことになるとは、18の角松はもちろん知らない。

「…俺にも?」

 ほんの少しの優越感が菊池にそう言わせた。自惚れでもかまわない、角松は打ち明けたくて、ここにいる。他でもないこの俺に言うために。

「笑うなよ……」

 照れているのか怒ったように眉を寄せ、角松は視線を菊池から海へと戻した。ああ、と了承すると、他に誰がいるわけでもないのに、ひそめた声が返ってきた。

「人間が海で生きていくには船に乗るしかないからだ」

 言って、菊池の反応をじっと待つ。見つめられている菊池はといえば、あたりまえといえばあたりまえの答えにどう反応していいのかわからなかった。

「…単純だな」
「そうだ。わかりやすくていいだろう」
「そんな理由で自衛隊なのか……」
「理由はつけておいたほうがいいぞ、菊池」
「……なぜ?」
「家庭の事情や経済的事情でしかたなく防大っていうやつは案外多い。ここにいる間はそれでかまわないかもしれないが、正式に任官した時、命令が来たから戦争して来いって言われた時、どうする?」
「………っ」
「考えてなかったって顔だな」

 図星だった。
 命令を実行するための軍隊なのだ。もちろん、法的に正式な「軍隊」ではない自衛隊は、海外軍とは異なり人を殺す可能性は交通事故よりも低い。とはいえ武器を装備していることに変わりはない。憲法で戦争の放棄を謳っていても、攻撃されて反撃もしないというわけにはいかない。国を護るという名目で置かれた組織なのだから。
 シビリアンコントロール、いわゆる背広組となればまた話は別だが、そこはそこで現実と理想に悩まされることになる。憲法解釈、在日米軍、国際問題。逃れることができない敗戦国という現実。放射能に汚染された唯一国という敗者の強みをどう扱うか。問題は山積みだ。さらにそこに政治とカネと権力と利権とプライドが混じりあっている。ニュースで取り上げられることすら珍しい、軍隊。

「角松…おまえは平気なのか?命令されて人を殺す覚悟があるのか…?」
「平気なわけがあるか。人が死ぬのはもう見たくない」

 信じられないとでも言いたげな菊池の問いを、吐き捨てるように角松が答えた。
 でも、もし―――………。
 自衛官たちは常にその「もし」と戦っている。軍隊を放棄した国家の軍の、放棄したはずの戦争。正当な理由など与えられないのはわかりきっているのに、その時のための訓練をつむのだ。
 海の生き物はいいなあと思うことが角松にはある。これからも憧れ続けるだろう。しかし人間は海で生きていくことはできない。肉体がそのように作られていないからだ。国家という人間の敷いた線に区切られて、海だけではなく空にまで線が引かれている。深海にもぐることもできず、遠海に逃れることもできない。逃げられないからといって眼を閉じてしまうことは角松にはできなかった。どうがんばったって、人間は悩むのだ。生きている限り。

「誰かを守るためなんだって、俺は信じる。他国はどうあれ自衛隊は守るための組織だ」
「強いんだな」

 任官すら悩んでいる菊池には羨ましい決意だ。

「強くないと、生き残れないだろう。どんな生き物だって」
「……そう、だな……」

 なにげない、ごく当たり前の角松のセリフは、菊池の中の何かを呼び覚ました。
 どこかで聞いたことがある、と思い、菊池は思い出した。強い、ではなく弱いと表現されていた。弱いから、生き残れなかったのだと。彼女は見た目より弱かったんだな。心の弱い人だったのね。そこまで弱っていたのに気づかなかった。過去形で語られるセリフたち。

 ―――彼女は弱い人だったのだ、だから、きみのせいではない。

 何度も何度も―――母親の葬儀で。

「弱いことは、悪いことなのか」
「菊池?」
「弱い―――弱くなっていったのに気づかなかった者の責任は?弱いから生き残れなかった、そうやって見捨ててもいいのか?」

 角松にぶつけることは間違っているし、彼が言ったのはそういう意味ではないこともわかっていた。角松は守りたいといったのだ、弱きものを守るために戦う訓練をしているのだと。
 だが、菊池は吐き出さずにはいられなかった。心の奥底に沈めていた澱みが浮き上がる。なんとかしてくれと角松に訴えずにはいられなかった。わかってくれ。


















 人を殺しても罪に問われないケースはいくつかある。
 代表的なものは、戦争。
 次に、正当防衛。
 そして、自分で自分を殺す―――自殺した場合だ。

「おふくろさんか………」
「自殺するほど思いつめていたことに、俺は気づかなかった。俺が殺したんだ……っ」

 バスルームを真っ赤に染め上げた血液。スーツのまま浴槽に浸かっていた母親。熱湯が湯船から溢れていた。赤い水が排水溝へと吸い込まれていく。生臭い、血の匂い。
 うつ伏せた顔は湯船に浸かっていた。肩まである髪が水の流れでゆらゆらとたゆたい、まるでそこだけが生きているみたいだった。黒い髪、白い項、そのすぐ横にぱっくりと開いた穴から見える赤い肉。そのグロテスクで美しいコントラスト。
 とても現実とは思えなかった。

「菊池が、殺した?」
「だってそうだろ。一緒に住んでたんだから。忙しい忙しいって、まともに話もしなかった。高校生の忙しさなんて高が知れてるのに、どうして俺は―――……」

 母親は遺書を残さなかった。
 誰も菊池を責めなかった。かわいそうに。元気をだして。あなたが悪いわけじゃない。彼女が弱い人だっただけ。
 そんな言葉では、到底救われない。

「………。なにが言えると思う?自分が死んでいくのに、残す者に対して…」

 たまらずにしゃがみこんだ菊池に目線を合わせて、角松は肩に手を置いた。あたたかい手は、早くも日焼けしていた。

「遺言を読んだことがあるか?」

 菊池は黙って首を横に振った。

「海軍の資料館には遺書が展示されている。主に太平洋戦争の時の物だ。だいたい読めないが、解説がついているものもある」

 ほとんどの遺書には感謝の言葉が綴られている。今まで育ててくれてありがとう。結婚してくれてありがとう。あなたに会えて幸せでした。次に、心配。困った時はだれそれを頼りになさい。妻を子を頼みます。立派な人になってください。死に行く者が生きていく者へと託すメッセージ。
 一方で現代のニュースで伝えられる自殺者の遺言は恨み辛みばかりだ。
 死にたくないと願った者と、死にたいと願った者の違いだろう。

「自分で自分を殺そうとしている母親が、残していく子供に、どうがんばっても重く残る遺言を、残せるか?」

 感謝も謝罪も恨みも。すべて消し去ってしまうために死を選んだのに。何かを残すことで子供に一生消えない傷を負わせることになるのなら。だったらせめて、恨んでくれたほうがいい。なんて無責任なと。少なくとも、悲しみよりは怒りのほうが行動力になり得る。

「そんな…そんな配慮ができるんなら、なんで自殺なんか……っ。だったらいっそのこと、道連れにでもしてくれたほうが、まだましだ!」
「愛するものに死んで欲しいと思うやつなんてどこにもいないよ」
「嘘だ。心中事件なんてそこらじゅうにあるじゃないか」
「すでに自立している子供は、道連れにしなけらばならないほどかわいそうじゃないだろう。自分で考えて、自分で動いて、自分で決断してる、自分よりもずっと、たくましい」
「そんなの、勝手だ」
「うんそう。勝手だよな。最後の我儘だから……」
「結局、自分のことしか考えてなかったんだ。俺のことなんて、俺が残されてどんな気持ちになるかなんて、どれだけ大変だったかなんて、これっぽっちも考えてくれなかったんだ」
「だから―――恨んでいいんだ」

 なにが言える?おそらくあの子は自分を責め続けるだろう。でももう生きていることがつらい。全てを捨ててしまいたい。自分の命さえ。

「恨んでいい?」
「そうだろう?いきなり独りにされて、泣くに泣けない状況に追い込まれたんだ」
「……そうか、俺………俺は……」

 独りにされた。捨てられたのだ。
 認めたくなくて、自分を責めた。死んでしまった相手を責めるのは虚しいから。自分を責めているほうが気持ちが良い。酔っていられる。俺は、俺が、俺を。自分を責めていれば、慰めてもらえる。なんてことだ。結局は逃げていたのだ。
 ぽろっと涙が零れた。

「菊池」
「大丈夫だ」

 角松の言ったとおり、今まで泣くことができなかった。なぜ涙がでないのか、泣けない自分を責めていた。
 何が言える?何も言えるはずがない。死んだ後のことに責任はもてない。せめて恨まれたほうが、残していく子供にとってまだましだろう。

「……菊池」
「―――っ」

 角松に頭を抱き寄せられて、菊池はそのまましがみついた。角松の肩も背中も大きかった。心臓の音や体温はひどくなつかしく、安心させてくれるものだった。

「菊池、大丈夫か?」
「平気だ…。かっこわるいな、俺」
「お互い様だ。俺だっていっぱいいろんなことしゃべっちまった」

 涙を拭って見つめた角松は、優しい表情だった。ぽんぽんと頭を撫でられて、あらためて照れくささがこみあげる。
 離れがたい体を離して立ち上がった。








 角松は一度、海を振り返り、元来た道へと足を向けた。
 いっぱいしゃべったと角松は言ったが、個人的なことは聞いていないと菊池は気づく。しかし尋ねてもいいのかと迷った。

「なあ、人が死ぬのはもう見たくないって言ってたけど、お前はだれが死んだんだ?」

 迷ったが今しか訊けないだろうとも思う。重い口を開いた。

「俺も、母親。交通事故らしいけど」
「らしい……?」

 おかしな言い方だ。

「憶えてないんだ。俺と一緒の時に車に撥ねられて亡くなったって聞いただけで。その時のショックで記憶を失ったんじゃないかって説明された」
「そ、か」
「だからあんまり深刻じゃない。気づいたら母親はいなくて親父が陸にいた。あんなに海が好きだったのに……」

 あきらかに無理をしている父親に、もういいよと幼い角松洋介は言ったのだった。母親は死ぬ間際に洋介をお願いと言ったというが、覚えていない母親よりも父親のほうが大切だった。
 自分を抱きしめて号泣する父がかわいそうで、洋介も泣いていた。
 人が一人死んでしまった。
 毎日TVでも新聞でも伝えられる情報に重みはない。当事者にならなければ絶対に理解できない一人分の命の重み。
 打ちひしがれていた父親は海へ行くたびに蘇っていった。そして息子を海へと誘った。

「よくあっちこっちの海へ連れて行ってくれたな、忙しいのに。普段ほっぽってる償いだったんだろうけど」
「いい親父さんじゃないか」
「まあ、な」

 抜け出した窓から寮に入る。
 再びこっそりと部屋に戻った。内心心配していたのだが、同室者はぐっすり眠っていた。
 明日、いやもう今日か、起きられるだろうかと不安になる。まともに授業が受けられるかどうかの自信もないくらいだ。泣いて、しゃべって、自覚しているよりも疲れていた。

「なあ、角松」
「なんだ?」

 ベッドに潜りこんで、菊池は小声で呼びかけた。

「また夜中に海を見に行くときは―――誘ってくれ」

 夜中に抜け出して歩くなんて、ちょっとした冒険だ。ばれればただではすまないだろうが、要はばれなければいいのだ。そうないだろう機会を、逃したくない。
 ちょっとの間をおいて、角松は忍び笑いをもらした。

「わかった。また、夜に」
「うん。―――おやすみ」
「おやすみ」

 眼を閉じると、生臭い匂いがつんと鼻腔をさした。脳裏にこびりついて離れない、あの匂いに似た、べとついた匂い。
 でも、違う。
 あれは、死の匂いだ。
 海は生き物の匂いに満ちている。角松が、自分が、海から離れられない理由は、おそらくそれなのだ。