夜の海へ

 誰かと思った。それがドズルの第一印象だった。次に、騙されたようなもったいないような悔しいような、複雑な気分にさせられた。これが、シャアでなければまず間違いなく口説いていただろう。それほど、今のシャアはどこから見ても美女だった。それも、絶世の。

「中将?」

 声を聞けば確かにシャアだ。ドズルは咳払いをひとつして、さてどうしたものかと考え込んだ。からかい半分でこれを着て来いと言ったのは、他ならぬ自分であったが、さすがに趣味の悪いことを言ってしまったと後悔していた。だからシャアがこのパーティに来なくても、あるいは女装をしていなくても、怒らないつもりであった。プライドの高い男という認識があったから、まさか真に受けて本当に女装してくるとは思いもよらなかった。任務のためならプライドを捨てることができるのがシャアであるということを、ドズルは知らなかった。
 そう、任務だと、シャアは思い込んでいる。それだけ自分を信頼してくれていたことにドズルは少し感動した。すなわち、からかったり嫌がらせでこんな命令してくるはずがないと、シャアは信じているのだ。信頼に応えてやらなくては、今後の士気にも関わるだろう。彼は優秀な部下だ。信頼できる部下でもある。それを失うのは痛い。

「任務、任務は―――…」

 切り出すと、命令を受け付ける部下の顔に、ぴしりと緊張した。露出面積の少ないドレスから覗く白い肌がひどく艶めかしい。濃い藍と真紅を織り交ぜたドレス。宝飾品は一切つけていなかったが、そんなものは必要なかった。真珠のようなその肌と、遠く、宇宙から見る地球にも似た双眸。それだけでシャアは他の貴婦人たちよりも群を抜いて美しかった。我ながらセンスのいいドレスを選んだものだとちょっぴり感心してしまった。これは迂闊な命令はできない。ドズルは目線をさまよわせ、好奇と羨望の入り混じった周囲の顔の中から、弟の姿を見つけ出した。

「ガルマの護衛だ」
「ガルマ大佐の…?」

 咄嗟に嘘をついて、ガルマを手招きする。ガルマは訝しげな表情で人の波をくぐりぬけ、こちらへ向かってきた。当然、複数の護衛が続く。

「もちろんガルマには護衛がついている。貴様に頼みたいのは、そういった事ではない」
「では、どのような?」
「今日の夜会は主に軍事関係の企業を招いてある」
「はい」

 企業というのは貪欲だ。連邦にもジオン公国にも、どちらにも商売する。戦争でもっとも利益をあげるのは、彼ら死の商人たちだ。

「ガルマに変な虫がつかないよう、見張っていろ」

 言いながらドズルは、我ながらなんという素晴らしいアイデアだろうと感心してしまった。これなら、大事な弟に邪な想いで近づく女性も減るだろうし、シャアが女装しているという状況も気づかれにくいだろう。親友が女装など、ガルマでも面食らうだろうが、情に篤いだけに言いふらしたりはしないだろう。親友どころかそれ以上の関係であることを、ザビ家唯一の妻帯者でありまっとうな人間でもあるドズルは知らなかった。

「変な虫……と言いますと?」
「俺はあいつに政略結婚はさせたくないが、スパイと結婚したいと言い出されても困る」
「ああ…。そういうことですか」
「兄上」

 ようやく合点がいったところで、タイミングよくガルマが現れた。引き連れていた護衛はつかず離れずのところで、兄弟の邪魔をしないように待機する。

「ガルマ、こいつも今夜の護衛だ」
「よろしく、大佐」

 え、とガルマは二人を見比べた。周囲の囁きは、ドズル中将に新しい愛人ができたのか、というもので、親しそうな様子からガルマもそうだと思っていたのだ。兄上もいい趣味をしている。あんな美女をつかまえるなんて―――どことなくシャアに似ていたから、軽い嫉妬さえ覚えていた。

「しかし、兄上、そちらの方は―――」
「私が、おわかりになりませんか?大佐」

 くすくす、と笑いながらドレスを摘み上げて優雅に挨拶をした彼女は、間違えようもない、聞き覚えのある声だった。

「え、えぇ…!?」

 まさか、と叫びそうになったガルマの唇に、シャアが人差し指をあてて遮った。艶やかで冷たい繊維の感触。手袋から透けて見える指先は、確かにシャアのものだった。

「そういうことだ」
「はい。おまかせください、中将」

 ぽんとガルマの肩に手を置いて、ドズルはその場を離れた。シャアがしなやかにお辞儀をして見送る。シャアにしてみればいつもの命令をうける態度と変わりはないのだが、ドレス姿であり、男だとばれないよう気を使っているぶん、本物の女性よりその所作は美しく淑やかだった。う、とドズルは言葉を詰まらせ、それから少し顔を赤らめ、ごほんとわざとらしい咳払いをして、足音を立てながら歩み去って行った。

「シャア……なのか?本当に……」
「なんだ、この顔を見忘れたのか?ガルマ」
「いや、だって…。しかしなんだってそんな、女装なんて……」
「ドズル中将のご命令だ。君が変な女にひっかからないように」

 はあ、とためいきをついてガルマは改めてシャアを見つめた。頭の天辺から爪先まで見ても、どうみても確かにシャアなのだが、不思議なことに女にしか見えない。とても男が女装しているなど思えないほど、見事なできばえだった。
 兄の気遣いは余計なお世話だが、渡りに船だとガルマは内心喜んだ。いつものパーティでは取り巻きや女性たちに囲まれて、まともにシャアと話もできないのだ。もちろん踊ることなどできるはずがない。表面上は親友である以上、秋波を送ってくる女たちにこの人が恋人なのだと言うこともできずにただ苛立ちを隠すことしかできなかった。それが。

「ガルマ?」

 すっとシャアの手をとって、甲に口付ける。周囲がざわめくのがわかったが、それすらガルマを得意にさせた。堂々とシャアと二人っきりでいられるシチュエーションなど、おそらくもう、ない。楽しまなくては損というものだ。

「シャア、とは呼べないよな。名前はどうしよう?」
「名前か…考えてなかったな」

 ガルマに手を引かれて歩き出しながら、シャアは考え込んで、そして楽しげに答えた。

「ドルシネア、というのはどうだろう」
「ドルシネア…。『ドン・キホーテ』か」
「そう。美女だ」

 男の頭の中にだけ存在する、幻の貴婦人。一夜限りの女にはぴったりだろうとシャアが笑う。
 ガルマはシャア―――ドルシネアをともなって部屋の中央まで来ると、軽く手をあげた。
 音楽がはじまる。
 周囲の人々はガルマとそのパートナーを気にしながら、それぞれ手を取って踊りだす。シャアは自分たちを、というよりはガルマを見ている女性たちに気づいて、彼から離れようとした。

「どこへ行くんだ?」
「その辺りを見回ってくるから、君は楽しんでるといい。変な女が近づきそうになったら阻止するから、心配しなくていい」

 君を見てるぞ、と彼女たちを指し示す。ガルマは不機嫌を露にした、怒った口調になった。

「君は、今は僕のパートナーだろう。ドルシネア?」
「しかし………」
「君といたいんだ。…ここまで言わなくてはわからない?」
「わかった…。悪かったよ」

 あくまで護衛としての立場を貫こうとするシャアに焦れて、半ば強引に抱きしめた。女性たちの群れから悲鳴のような声があがるが、かまわない。きっとどこかでドズルが目を丸くしているのだろうが、仕掛けたのはドズルのほうなのだ。
 お互いに一礼して、踊りだす。女性のステップなどシャアはもちろん踊ったことがないが、どうすればいいのか頭で考えるより早く体が動いた。ガルマのリードに合わせていればいい。

「兄上に、感謝しないといけないな」
「なぜ?」
「こんなに堂々と、君と踊れる日が来るとは思わなかった」
「僕と踊りたかったのか?…ものずきだな」
「二人でいても誰も邪魔をしに来ないし、変に思われることもない」

 曲が終わって、二人は人の輪から離れた。二人のごく自然な、親しそうな様子に、周囲は勝手に勘違いをした。シャアがドズルと一緒にいた女性だということは皆が見ていたから、兄から紹介された人と仲良くなったのだと。戦時中は、おめでたい話は殊更素早く伝わっていく。ガルマ大佐に恋人誕生。すわ、ご婚約―――という噂はあっという間に広がり、遅れてやってきたギレンの耳にまで達した。



お邪魔虫参上。
えろ未到達でごめんなさい……。


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