03/10/10
ROSES and SUNSHINE 08

 朝の空気は少しだけ冷たくなった。ひんやりと肌をなぞって、けれどその分だけ見上げた空がクリアだ。
 チリンチリンチリン、と自転車のベルをきっちり三度鳴らす。
 さ、ん、ぞっ。
 澄み切った空気の間を伝わっていく音の軌跡が見えたと思ったのは、心の中で想定したタイミングと同時に隣家の玄関の扉が開いたからかもしれない。
「ちーっす、お迎えでーす」
「遅ぇぞ」
 三蔵が放った鞄を自転車の籠へと突っ込む。荷台が一人分の体重で沈むのを確認して、悟空はペダルを漕ぎ出した。
 学校まではおよそ2キロ。それはとても微妙な距離だった――というのは、ちょうど2キロが自転車通学を学校から許される最短距離なのだ。
 悟空と三蔵の家は、僅差でそれに届かなかった。よって徒歩通学を余儀なくされたのだが、たびたびこうして自転車を使っている。高校の裏門付近は、そんな校則違反の自転車やバイクが連なっていたりする。
 今日は更に交通違反も加えての二人乗りだ。昨夜、賭に負けたペナルティ。悟空は三蔵を後ろに乗せて、朝のラッシュを避けた裏道を縫ってゆく。

「――道、違うだろ」
 不意に、三蔵が悟空の背中のシャツを引っ張る。
「いーんだよこれで」
「逆方向だろうが」
 三蔵の指摘は全く以て正しい。
 悟空は、振り返らず笑った。
「だからいーんだって。こんな晴れてるのに、学校行くなんてもったいないだろ?」
「っ、テメェは! 勝手にひとを巻き込むんじゃねえ!」
「どーせ三蔵だってマジメに授業なんか聞いてないじゃん。ほんと今日はすげー晴れてるんだから、遊ぼー?」
 赤信号で止まると、悟空は肩越しに「な?」と駄目押しする。
 三蔵は嫌な顔を隠そうともせず、ただ深くため息をついた。
「……好きにしろ」
「ん、そーするー」
 前に向き直って、青信号でペダルを踏み出す。数メートルもせず、悟空の口から忍び笑いが洩れた。
「三蔵ってそゆとこ意外に付け込まれやすいよな」
「お前相手にだけだ」
 憮然とした声は忖度せず、確かにそうかも、と悟空は思考を宙に浮かせた。三蔵相手にこんな強引なことが出来るのも、そうして機嫌を損ねないで済むのも、彼の両親を除けば幼なじみである自分くらいだろう。何をしても許してもらえるなんて思ってはいないが――結局は三蔵が自分に甘いということを知っている。たちが悪い、と言うのだろうかこういうのを。
「――俺ってもしかして性悪女みたい?」
「アホ」
 後ろから思いきり頭を叩かれた。

「で?」
「何が?」
「どこ向かってるんだ?」
 家を出てからかれこれ三十分。他愛ないことばかり話していたが、ようやく三蔵はそれが気になってきたらしい。
「それは着いてのお楽しみ〜」
 なだらかな勾配を、しかし二人分の体重が掛かっているため、立ち漕ぎをしながら悟空は答える。
 坂の頂上まで辿り着くと、一気に視界が開けた。そして今度は急斜面だ。
「三蔵、危ないからしっかり掴まってて」
 言うが早いか、自転車は坂道を滑り出す。
 すぐに加速度がついてきた。三蔵が慌てて悟空の肩に手を添える。
 微妙に凹凸のあるアスファルトを、上手くバランスを保ちながら、かなりのスピードで下っていく。
「きっもちいー!」
 風を切る。冷たい大気が顔に肩にとぶつかって、景色と共に後ろへ流れていく。
 と、――唐突に、翻った前髪が元に戻った。
 同時に、響き渡るブレーキ音。
「うわっっっ!」
「オイ!」
 ふわりと身体が引力に逆らって浮く。
 その後は、形容しがたい音が辺りにまき散らされた。
 悟空と三蔵は、折り重なるようにして地面へと倒れ込む。
 横倒しになった自転車の向こうで、「ニャー」と一声鳴いて、突然飛び出してきた障害物が走り去っていくのを、悟空は横目で捉えた。咄嗟の判断はどうやら間に合ったらしいと、危うく轢きそうになった猫の無事に安堵する。
 が、猫は無事でも人は無事では済まなかったようだ。
「三蔵……だいじょーぶ……?」
 運動神経の差、というよりは、状況認識ができる状態にあったか否が、この場合は運命の分かれ道だっただろう。
 ブレーキを掛けた張本人である悟空は、当然そのための備えが可能だった。しかし三蔵は――。付け加えて、これは偶々だが、自転車から振り落とされた時の体勢もあって。
 ……三蔵は、満足に受け身も取れないまま、悟空の下敷きにされていた。
「あの、三蔵……?」
 そろそろと三蔵の上から退いた悟空は、相手のあまりの無反応さに、戦々恐々とする。
 無言で起き上がった三蔵が、冷たい視線を悟空に向けた。
「――ごめんっ! ほんと悪かったって!」
 三蔵はとにかく一言たりとも口を開こうとはせず、ただ全身で不機嫌、不愉快を表している。
「三蔵〜〜〜!」

 はたしてその代償は――二週間の専属運転手。



「晴天迷走」......end.
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