03/08/31
ROSES and SUNSHINE 06

 耳を打つのは涼しげな音色。
 四角く切り取られた蒼い空のこちら側で、赤い金魚が透明な硝子を泳いでいる。
 悟空は机に頬杖をついたままそっと瞼を閉じ、心地よい空間に身を委ねる。
 が。
「逃避してんじゃねーよ」
 無慈悲に現実を揺り起こす声を振り向けば、その主は顔を上げもせず小難しそうな雑誌に没頭していた。
「ンだよせっかくイー気分だったのにー!」
 抗議すると、ようやく視線がこちらを向く。三蔵はフレーム無しの眼鏡ごし、冷たく悟空を睨めつけた。
「テメェ今日が何月何日かわかってんのか?」
「っ、……当たり前だろ」
 忘れかけていたことを――正確には、忘れてしまいたくて意識の奥底に追いやっていたこと、を、思い出さされて悟空は憮然とした顔になる。
 今日は8月31日。夏休み最後の日だ。
 一ヶ月と少しの長期休みは、とても楽しかった。……そう、宿題の存在を遠い星の彼方にしてしまうほどに。
 残すところあと一日になって気付いてみれば、目の前には未着手の課題が大量に積まれていたわけだ。
 朝起きて事態に直面した悟空は、五秒考えて、自力での解決を諦めた。
 そして例年通り、隣家に泣きついたのである。
 もちろん三蔵もタダでは課題を見せてくれなかった。目下の危機を乗り越えたら、パシリ十回の代償が悟空を待っている。
 灰色の新学期にため息をついて、悟空は大人しくノートを写す作業を再開した。

 チリリン…、と、クーラーの風が当たる度に、赤い金魚の風鈴が揺れる。これもまた、悟空が三蔵の部屋に持ち込んだアイテムの一つだ。
 チリリン…、とその音に誘発されたかのように、悟空の背がぶるりと震えた。
「寒…」
「んなカッコしてるからだろーが」
 三蔵が指し示すのは、カーゴパンツ一丁という悟空の姿。
 しかしこれは、悟空の部屋における夏場の基本スタイルなのだ。扇風機しかない室内では、Tシャツ一枚さえ敵である。
 ただ三蔵の言う通り、クーラー完備のこの部屋では薄着過ぎるのも確かだ。いつも入り浸っている悟空は当然そのことを諒解してはいるのだが、ついつい自室のそのままの格好で訪れてしまうのが常でもあった。
「三蔵、どっかに俺のTシャツないー?」
「自分で探せ」
 言われて、悟空が向かうのは部屋の一角だ。主の性格を反映して概ね整然とした室内で、そこだけが異彩を放っている。具体的には、とても散らかっている。
 種明かしをすれば簡単なことだ。そのコーナーを我が物顔で陣取っているのは、すべて悟空の持ち物だった。
 誤解を招くのを承知で言えば、それは半同棲みたいな有様である。
「…………ない。」
 あらかたひっくり返した所持品を前に悟空ががっくり肩を落としていると、何かが頭に落ちてきた。
「それでも着てろ」
 上目遣いで確認できたのは、三蔵のシャツ。
 奇抜な柄と色彩のアロハシャツは、悟空が去年の夏に洒落でプレゼントしたものだった。渡した時に無理やり着せたのを除けば、一度も三蔵が袖を通しているところなど見たことはなかったが、まだ持っていてくれたらしい。
 こういうところが、三蔵はとても律儀だと悟空は思う。
 これまで悟空が押し付けた物のほとんどが、三蔵の部屋のどこかに仕舞われているはずだ。
 しかし心のこもったラブレターなどは平気で捨ててしまうのだから、その辺の基準が悟空にはよくわからない。
 まあ悟空としては、自分のあげた物が大事にされているのは正直気分が良い。別にアロハシャツなんか着ないのなら誰かに横流ししても構わないと思っているが、そうされないのはやっぱり嬉しいのだ。
 悟空は手に取ったシャツをまじまじと眺め、零れる笑みを隠して毒づいてみせた。
「趣味悪っ」
「誰の趣味だ。嫌なら返せ」
「でも借りとく」

 ……風鈴が鳴っている。
 その音を意識するのは、集中力が途切れている証拠だった。
 悟空はしばらく机に向かいっぱなしだった身体を、うんと反らせる。時計を見てみると、一時間ほど集中していたようだ。
「休憩、休憩〜」
 ひとりごちて、立ち上がった。
 向かう先は、一階の台所。玄奘家の冷凍庫には、しっかり悟空用のアイスがストックされているのだ。
 ソーダ味をした水色のそれを二本手にして、悟空は部屋に戻る。
「ハイ」
 一本は三蔵の分だ。しかし差し出したアイスは受け取ってもらえなかった。
 戻しに行くのも面倒で、悟空は二本とも食べることにする。
「美味しー」
 やっぱ夏はアイスだよな、と頷く。季節に限らず美味しく食べていることは、この際無視だ。
 だがそうして堪能していたのが災いして、二本目を半分ほど囓ったところで溶けてきてしまった。
「やば、」
「床汚すなよ」
 すかさず三蔵から注意が飛ぶ。
 慌てて悟空は垂れた液体を反対の手で受け止める。そして、急いで残った半分を強引に一口で押し込んだ。
「――セーフ」
 ひとまずほっと息をついて、それから悟空は己の掌を見つめた。窪みに溜まっているのはアイスのなれの果て。
 まあいいか、と舐めると、それを見ていたた三蔵は呆れた顔をした。
「……食い意地張りすぎだ」
「美味しーんだって! ほら!」
 むっとした悟空は、掌を三蔵の口に押し付ける。
「何しやがる!」
「何って……美味いだろ?」
 どうしてか三蔵は、そっぽを向いてしまった。無言で携帯を取り出して、イヤホンで音楽を聴きながら雑誌を開く。
「三蔵?」
 わけがわからない。
 首を捻ったが、三蔵の言動は全く理解不能で、悟空は考えるのを諦めた。

 今はともかく、三蔵より宿題だ。



「炎夏氷菓」......end.
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