kiss of life 1/2
街はずれにある古い洋館は、高い塀に囲まれ、庭には鬱蒼と植物が生い茂っており、そのせいか昼間でもなぜか薄暗く、どこか不気味で近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。夜は一層不気味で、近くに街灯がなければ、館の窓から明かりが見えることもなく、闇の間に木々の陰影がちらついて、何かがじっと息を潜めて隠れているような気配を醸していた。
洋館には誰も住んでいないように思われていたが、その一方で、窓辺に動く影が見えたとか、夜中に悲鳴のようなものが聞こえたとか、まことしやかな噂が囁かれていた。
いま、一人の少年が、軽い足取りで洋館に続く道を歩いてきて、門の前で足を止めた。格子状の高い門はかたく閉ざされ、強固な守りで訪問者を拒んでいる。
少年は首に掛けた銅色の鎖を服の中から取り出し、その先にぶら下げた鍵を使って、慣れた仕種で門を開き、その隙間からしなやかに身体を滑り込ませた。
月明かりを頼りに、少年は植物の生い茂る前庭を歩く。道はない。だが少年は迷わず一直線に、玄関にたどり着いた。
玄関も少年は同じ方法で鍵を開け、館の中に入り込んだ。中は真っ暗だ。足下も覚束ない暗闇の中を、しかし少年は危なげなく進んでいく。
少年は夜目がきいた。また、館の内部を隅々まで知り尽くしていた。
闇に包まれた長い廊下に、規則正しいスニーカーの足音と、衣擦れの音が響く。
不意に少年は立ち止まった。木製の重厚な扉の前だった。少年がノブに手をかけて押すと、軋みながら扉が開いた。少年は扉の中に首だけを突っ込んで、部屋を見回す。
「……いないや」
呟いて少年は扉を閉めた。そしてまた一定の速度で廊下を歩き出す。
だが少しして、いきなり踵を返し、先程覗いた部屋に駆け戻った。
ばん、と大きな扉を開け放して、窓に分厚いカーテンがきっちりと掛かった、薄暗い部屋に少年は入る。
部屋の奥には、縦横の長さが同じ比率の大きなベッドがあった。少年は先程、このベッドが平らになっているのを確認して、部屋には誰もいないと思ったのだ。
ベッドには誰もいない。少年が足を向けたのは、ベッドのそばにある、長いソファーだ。
背もたれが扉に向けられているから見えなかったのだ。ソファーの上には、長身の男が寝ていた。
光を閉じ込めたような金髪に、白皙の美貌を備え、漆黒の装束を纏っている。ぴくりとも動かないその姿は彫像めいていた。
少年はソファーのそばに膝をつき、彼の耳朶に唇を寄せて囁いた。
「三蔵、夜だよ」
少年の視界の外で、三蔵の腕がのそりと持ち上がる。
ひやりとした冷たい手でうなじを撫でられ、少年は鋭く息を呑んだ。三蔵の瞼は閉ざされたままだ。非常にめずらしいことだが、彼は寝惚けているらしい。
少年はあらがわずに、三蔵に身を任せた。三蔵の手は少年の頭蓋を支え、自分に引き寄せ、何かを探るような動きをする。
だが、はたと少年の下の身体が強ばった。少年のうなじに添わせていた手も、ぱっと退く。三蔵が目を開けた。
「…………悟空」
「ようやく起きた?」
悟空は目を細め、三蔵に笑いかける。そして襟元を広げ銅色の鎖をよけ、首筋を露わにして、三蔵が無意識に行おうとした行為の続きを促した。
「――はい」
三蔵は半身を起こし、伸ばされた左手が、今度は悟空を驚かさないようにそっとうなじに添えられる。そうして軽く引き寄せられ、三蔵は悟空の左の首筋に顔を埋める。
三蔵の生暖かい舌が、悟空の首筋を這った。その一瞬後、三蔵の口許から鋭い牙が覗く。
首筋に牙が刺さる瞬間も悟空は一切声を上げず、眼を閉じて、血を飲まれる感覚に身を委ねた。それは痺れるような感覚で、でも不快ではなく、どちらかといえば快感に近い。
悟空が思っていたタイミングより少し早く、三蔵は血を飲むのをやめた。唇を離す前に、牙の痕を舌で十分に清められる。
「もういいの?」
「……ああ」
三蔵が離れるのを待って、悟空は服を直した。首筋の痕はすっかり隠れる。
「今日はもう帰らないと」
悟空がそう言うと、三蔵は玄関まで送ってくれた。
三蔵の紫暗の瞳は、多少夜目がきくだけの悟空と違って、暗闇でも全く不自由しない。足音も、三蔵はほとんど立てない。黒衣を纏っていることもあり、夜の闇に溶け込んでしまいそうに感じる。
「どうした?」
悟空がじっと見ているのに気付いたのか、三蔵が訝しげな声で尋ねる。低くひんやりとした声も、三蔵は夜の闇を思わせる。
「ううん」
悟空は首を振って視線を三蔵から外した。だけど意識はずっと隣を歩く三蔵に向けたままだ。
三蔵の中で、唯一昼を連想させるものがあるとすれば、金色の髪だ。だがそれも、昼の太陽の光よりは、夜の月の光に似ている。やはり三蔵は夜にふさわしい。
とりとめのないことを考えているうちに、玄関に着いた。
「じゃ、また明日」
悟空は軽い挨拶をして、玄関から外に出る。閉まりかけた扉の隙間から、三蔵の声が聞こえた。
「いや……、もう来なくていい」
悟空の目の前で、バタンと扉が閉まった。
――ナンだ、ソレ?
いったいどうして三蔵があんなことを言ったのか、悟空には全くわからなかった。
一晩眠れば何か思いつくだろうかと淡い期待をしたものの、単に熟睡しただけで、朝になっても状況は眠る前と全く変わらない。
何だか腹がたったので、朝食を抜いてやろうかとも思ったが、お腹がすいていたのでやっぱり食べた。食べながら、また腹がたった。
毎日の食事だって、悟空は栄養バランスに偏りがないように、しかも、鉄分を多めに補給できるように、気をつけている。三蔵に美味しい血を十分にあげられるように、だ。ニンニクや香りの強い刺激物も、悟空は食べたことがない。
この際、暴飲暴食をして、三蔵を困らせてやろうか。
そう考えたところで、悟空は気がついた。三蔵は、悟空の血のことで何か言ったことがない。そもそも、栄養バランスのとれた食事や何やも、三蔵が悟空に強要していることではなく、悟空が、そうしたくてやっているだけなのだ。
出逢って、初めて血をあげた子供の時からずっと、悟空は三蔵に対して自分のできる限りのことをしてきた。でもそれは、誰かに強いられたり、自分の意志を曲げて無理にしたのではなく、悟空にとってそうするのは自然なことだったのだ。
悟空にとっては。
では、三蔵にとってはどうだったのだろう。
悟空が思うほど、三蔵は悟空を必要とはしてくれていないのだろうか。だから、もう来なくていいと言ったのだろうか。
――たとえそうでも、悟空は納得できなかった。
なので、学校が終わったら、真っ直ぐに三蔵の家に向かった。日が落ちるのが早い時季だから、三蔵の家に着いた頃には、もう暗くなっていた。
いつもの手順で悟空が門の鍵を開け中に入り、続けて玄関の鍵を開けようとした時、予想外のことが起きた。
「あれ……?」
玄関の鍵が、回らなかった。門の鍵を間違えて差してしまったのかと思い、もう一つの鍵で試してみるが、やはり同じだ。
「どうして?」
えもいわれぬ不安に襲われ、悟空は思わず扉を拳で叩いた。
「三蔵!」
いつもは、三蔵の家に入るところを誰にも見咎められないように、悟空は家の周囲に人がいないのを見計らい、極力物音をたてないように気遣っている。
だけどいまは、そんなことを構っていられなかった。
「三蔵!」
悟空はなりふり構わず三蔵の名を叫びながら、扉を叩く。だが、いくら呼べども、中から三蔵の返事はない。
三蔵は悟空の何倍も耳がいい。広い館の、玄関から一番遠い場所にいたとしても、悟空の呼ぶ声が聞こえないはずがなかった。
だから、三蔵には悟空の声が聞こえているはずなのだ。――なのに、応えてくれない。
悟空は扉を叩くのをやめ、握りしめた拳をゆっくりと下ろした。玄関に背を向け、扉に体重を預ける。水が流れ落ちるように、悟空の心も深く深く落ちてゆく。
それとも、三蔵は家にいないのかもしれない。昨日三蔵が言ったのは、つまり、そういう意味だったのだろうか。だとしたら。
悟空はずるずるとその場に座り込んだ。
……三蔵は、もうここには帰って来ないつもりかもしれない。