kiss of life 2/2
その姿を目にするより先に、人より遥かに優れた嗅覚で、三蔵は悟空の存在を感じ取った。
何かの間違いではないかと思った。或いは、三蔵の願望が生じさせた幻かと。
もう真夜中をとっくに過ぎている。むしろ明け方に近い時間帯だ。こんな時刻に、悟空が三蔵の住処に来ているはずがない。
いや、こんな時刻でなくとも、悟空が来ているはずはないのだ。――昨夜、三蔵は悟空を拒絶して、傷つけたのだから。
だが、正しいのは嗅覚の方だった。住処にしている洋館に近づくにつれ、匂いははっきりと悟空の存在を指し示し、ついに、三蔵は洋館の玄関の前で蹲る悟空を見つけた。
悟空は眠っていた。三蔵にとっては活動時間中だが、悟空はそうではない。
触れることに躊躇ったのは一瞬で、三蔵は静かに悟空を抱き上げた。
常に三蔵よりも高い悟空の体温が、いまは夜風で冷えきっている。
三蔵が館を空けていた間、悟空は開かない扉の前でずっと待っていたのだろうか。どれだけ長い時間、悟空はこの場所にいたのだろう。
そうさせたのは自分だ。事実が三蔵に突き刺さる。
せめて暖めてやれればいいのだが、人よりも体温が低い三蔵には、悟空にぬくもりを分け与えることすらできない。
三蔵は悟空を抱いて館の中に入り、まっすぐに寝室をめざした。
ふだん三蔵が使っているベッドに、そっと悟空を横たえる。その拍子に、悟空の襟元がはだけ首筋があらわになった。なめらかな肌にぽつりと二つ、三蔵の牙の痕が、濃い痣のように浮いていた。
突如沸き上がった衝動を堪え、三蔵は震える指先で痣をそっと隠し、毛布で悟空の身体を包もうとする。
その時、悟空が目を覚ました。
「…………三蔵?」
悟空は三蔵の名を呟き、次の瞬間、勢いよく飛び起きて三蔵の首に抱きついた。
それは、しがみつく、と言えるような強さで、三蔵の身体を甘く痺れさせ、動けなくさせる。
酩酊するように心地よい悟空の体温や匂いは、三蔵が昨夜、一度は断ち切ろうとしたはずのものだ。
だが、再び三蔵は囚われてしまう。
「……いなくなったかと思った……」
頭蓋のすぐそばでささやかれた悟空の声は、脳に直接振動が伝わる。切なく、泣き出しそうな響きで、三蔵の胸を締めつけた。
三蔵は衝動のままに悟空の背に腕を回す。
だが、背中に触れる寸前、悟空の身体が何かに反応したように強ばり、ぱっと三蔵から離れた。
「…………これ、香水の匂い?」
悟空の視線が驚きと戸惑いで揺れた。
三蔵は匂いに敏感だ。だから、香水などの香りの強いものは絶対にそばに置かない。悟空も、それを知っている。
なのにいま、香水の香りが三蔵からすること。三蔵が住処にいなかったこと。悟空にもう来なくていいと言ったこと。
いくつかの出来事がぐるぐると悟空の頭の中を回り、結び付き、一つの答えを導き出すのを三蔵は黙って見ていた。
悟空の瞳が疑惑を宿す。
「三蔵、ほかの人の血、飲みに行ってたの?」
「……ああ」
なるべく感情がこもらない声で、三蔵は答える。
悟空は何かを堪えるような顔をして、再び小さく尋ねた。
「俺の血、不味くなった?」
今度は即答できなかった。
本当は別の理由でも、それを言うわけにはいかないのだから、悟空の言葉を肯定してしまえばいいのだ。
だが、三蔵が返答を躊躇った僅かな間が、悟空に次の行動を起こさせた。
「――もう一度、ちゃんと飲んで。それで答えて」
悟空は思い詰めた声で言って、襟元を開き、首筋の痣に爪を立て、何の躊躇もなくかきむしる。
切り裂かれた皮膚から、眩暈のするような芳香が一気に立ち上り、三蔵は自分の理性がぐらりと揺らぐのを感じた。
そしてその直後、傷口から浮いた真紅の玉を目にした瞬間、――もう何も考えられなくなった。
本能に突き動かされるまま、三蔵は奪うように悟空を引き寄せ、傷口に舌を這わせた。
悟空の血は極上だ。これを上回るものにも、これに近いものにさえ、三蔵は出会ったことがない。
数時間前、血を求めてさ迷った夜の街でも、結局、三蔵は悟空以外の血を受け入れることができなかった。
渇いた三蔵の身体に、悟空の血が染み入っていく。その甘美な味に三蔵は陶然と酔いしれる。
舐めただけでは到底足りない。
もっと――――、
「三蔵、痛い」
悟空の声に、三蔵ははっと我に返った。
夢中で貪るあまり、悟空の首筋に容赦なく咬みつき、深く牙を立てて血を啜っていた。
それに気付いた瞬間、三蔵は青ざめ、悟空から己を引き剥がす。
……たった一晩、血を断っただけでこのありさまだ。
悟空が声を上げなければ、三蔵は気がすむまで貪り尽くしていた。その結果、悟空がどうなるかなど考えもせずに。
――こうなることを、もうずっと、三蔵は恐れていたのだ。
いつからか、血を求める衝動を、自分ではコントロールできなくなる瞬間があった。最初の頃は一瞬ですんでいた理性の消失は、じわじわと染みが広がっていくように支配を広げ、そして。
いまでは、自分が得体の知れない別の生き物を身体の奥深くで飼っているように、三蔵には感じられた。その生き物は、隙あらば三蔵に取って代わろうとしている。
悟空は知らないだろう。三蔵が悟空に触れる時、どれほどの神経を使っているか。
そうでもしなければ、ふと気を抜いた瞬間に、三蔵の牙は無意識に悟空を襲おうとするのだ。
近い未来、悟空を奪い尽くさずにはいられなくなる予感が、三蔵を怯えさせた。
悟空を遠ざけたのはそのためだ。
そして、その結論が正しかったことを、たったいま、三蔵は自分で証明してしまった。
……だけど、まだ間に合う。
悟空が止めてくれたおかげで、三蔵は本能に自分を明け渡してしまわず、途中で引き返すことができた。
だから、いまのうちに。
今度こそ三蔵は、悟空を引き離さなければいけない。三蔵自身から悟空を守るために。
「――離れろ」
低い声で言い、三蔵は悟空を突き放そうとした。
だがその手を、逆に悟空が握り返し、自分に引き寄せた。
「痛いって言っただけで、飲むななんて一言も言ってないだろ!」
そして、ずい、と咬み痕が無惨な首筋の傷口に、三蔵の顔を押し付ける。
「痛くしてもいいから、飲め」
この期に及んでも、滴る真紅への本能に三蔵は逆らえない。唇に触れた血を、無意識に舌が舐める。
ただ、今度は理性を失ったわけではなかった。
……ふと意地の悪い考えが首をもたげた。
痛くしてもいい? ――そんなものではすまないことを、悟空は全然わかっていない。
だったら、わからせてやればいいのだ。
三蔵は悟空の要求に従って、再び首筋に咬みついた。わざと苦痛を与え、脅かすようなやり方で。
悟空は容赦ない痛みを感じたはずだ。けれど、うめき声ひとつ洩らさなかった。じっと、三蔵にゆだねる。
そんなやせ我慢をいつまで続けられるだろうか。
悟空は耐える必要なんかないのだ。素直に痛いと叫べばいい。抵抗すればいい。恐怖すればいい。
――そうして、三蔵なんか拒絶しろ。
もう二度と修復できないくらいの、決定的な亀裂を二人の間に作ってしまえ。
そう強く強く願いながら、三蔵は抉るように深く牙を立てる。
だが、いつまでたっても悟空は三蔵を遮ろうとはしなかった。
このままでは先に自分が理性を無くしかねない、と三蔵が不安を抱きはじめた時、悟空が何かを呟いた。
三蔵ははっとした。その呟きが耳に届いた途端、頭から冷水を浴びせられたように、己の過ちに気付いた。
悟空は、自分に牙を突き立てている相手の頭をぎゅっと抱きしめ、声を震わせながら懇願していた。
「……ほかの人の血なんか飲まないで……」
三蔵の暴挙に対する苦痛や恐怖ではない。
自分が損なわれることよりも、三蔵が離れていくことに、悟空は苦しみ怯えていたのだ。
きっとこのまま血を飲み続けても、悟空は三蔵を拒んだりしない。いつものように、当たり前に三蔵に与えようとする。何も犠牲とは思わずに。
それがわかり、三蔵は悟空に突き立てていた牙を、傷を広げないように慎重に抜いた。そして、咬み痕を丁寧に舐めて清める。三蔵の唾液には、人間にとって麻酔に似た成分がある。
けれど、傷痕を消してしまうことはできない。
身勝手な理由で、悟空を無意味に追い詰め苦しめたことを、なかったことにはできない。
「――すまない」
顔を上げ、目を見て告げる。
「何をあやまるの?」
悟空は首をかしげた。本当にわからないのだ、悟空には。
「痛かっただろう」
「痛かったけど、俺がいいって言ったんだから、いいんだ。それよりも」
悟空は一瞬、声を詰まらせる。
「……三蔵が、俺のじゃない血を飲む方が、いやだ」
まるで二度と離すまいとするかのように、悟空の指先が固く三蔵の服を握りしめる。
三蔵に血を与えることで、悟空が得することなんて何もないはずだ。むしろ、自分の一部を損なっているというのに。
それなのに、苦痛をもたらされてもなお、悟空は三蔵に血を与える方を選ぶと言う。
「――俺が、我を忘れて、お前の血を吸い尽くしてしまうとしても?」
三蔵の低い問いかけに、悟空が少しだけ目を瞠る。
「それでもお前は、おなじことを言えるのか?」
切り裂かれるような苦渋に満ちた三蔵の声をじっと聞いて、悟空は……淡く、微笑んだ。
「言えるよ」
静かな声だった。
三蔵は天井を振り仰いで目を閉じた。
悟空の言葉を、覚悟を、じっくり噛みしめる。
そして考える。
悟空のために、離れるべきだと思っていた。だけど、本当にそれは正しかったのだろうか。
三蔵は、失うことを前提に、先に手を離してしまおうとしていた。そうではなくて、失わない努力をすべきなのに。
そばにいるために何もしようとせず、ただ破滅の予感に怯えて離れてしまうのは、愚かなことではないのか。
覚悟すべきなのは悟空ではない。
三蔵こそが、強い覚悟を持つべきなのだ。悟空のそばにいるために。
ゆっくりと息を吐きだして、三蔵は神秘的な紫暗の瞳を悟空に向けた。もう、心は決まっていた。
「――お前の血しか、飲まない」
悟空が金の瞳を大きく見開く。
「……いいの?」
「お前だけだ」
三蔵ははっきりと告げる。
悟空の血しか、飲まない。――飲めない。そう、もともと、三蔵に選択肢などなかったのだ。
だけど、それは悟空に知らせなくていい。三蔵の覚悟も。悟空は、知らなくていい。
重荷はぜんぶ三蔵が引き受ける。だから、悟空は三蔵のそばにいてほしい。
泣き笑いのような表情を浮かべて、悟空が三蔵の首に腕を回し、しがみつく。
三蔵はそっと悟空の背を抱き返した。