06/04/05
DailyLife
05



 玄関のドアを開けたら、真っ先に「おかえり」を言う。それからキス。
 けれど今日は、悟空が三蔵の首に手を回したところで、無粋な電子音が二人のあいだに割り込んできた。
 三蔵は眉を寄せ、悟空の額に軽くキスをすることで簡単に帰宅の儀式を終え、携帯に出た。
 電話と話し始めると、三蔵は完全にモードが切り替わって、悟空の存在は蚊帳の外だ。すたすたとリビングに向かって、ソファに腰を落ち着けて話を続けている。
 悟空もその後ろを追いかけて、けれどリビングの入口で立ち止まった。何となく、三蔵のそばに近づきがたいように思えたのだ。
 ……おもしろくない。
 悟空はむっとして、わざと大きな足音をたてて三蔵に近づいた。ソファの正面に回り込んで、おもむろに膝の上に乗り上げる。
 この行動には、さすがに三蔵も驚いたようだった。悟空を見て一瞬言葉を途切らせ、電話の相手に呼び掛けられたのか慌てて話を続ける。
 あくまで悟空は平然とふるまった。
 まず、そう、スーツが皺になるといけない。だから脱がせないと。これは電話よりも大事なことだ。悟空は背広の釦を外し、袖を抜くように促すと三蔵は素直に従った。脱がせたスーツはソファの背もたれに無造作に放る。
 次の標的は、窮屈に首を締め上げているネクタイ。こんな苦しいもの、いつまでもしている必要はない。悟空は難なく襟から抜き取り、スーツと一緒でソファの背もたれに放ってしまう。
 そして、ワイシャツ。きっちり喉元まで留められた小さな釦を、上から順に外していく。
 けれど、ふいに、悟空の手が止まった。
 視線が、落ち着かない様子で三蔵の首のあたりをさ迷う。
 自分の手で露わにした三蔵の首筋は、なぜか悟空をどきりとさせた。
 ……何かが匂い立つような。
 感じた衝動は、欲情に似ていた。
 悟空はシャツの襟の中にそっと手を忍ばせ、首筋に添わせる。掌に伝わるのは、熱と、脈。悟空の中の衝動を、じわりと突き動かす。
 ちらりと見た三蔵は、まったく悟空を構う様子がなく、表情にも変化がない。
 悟空は触れたままの手でシャツの襟を広げると、三蔵の肩口に顔をうずめ、鼻や口をすりつけた。匂い。そしてこの感触。うっとりとする。またたびを与えられた猫は、こんな気分だろうか。
 高揚した悟空は、ちろりと三蔵の肌を舐め、強く吸う。白い首筋に赤い痕がくっきり残って、悟空は満足した。襟に隠れるか隠れないかというきわどい位置だが、少しくらい困ればいい。
 再び三蔵の首にすがりついたとき、悟空の首の後ろに触れる手があった。
 ぞわりと産毛が逆立つ。
 反射的に悟空が身体を離し、顔を上げると、三蔵の深い紫暗の色と目が合った。
 ――やっとこっちを向いた。
 悟空の顔に笑みが浮かぶ。あいかわらず三蔵の手には携帯があるが、ちゃんと悟空を見てくれている。
 コラ、とイタズラをたしなめるように、三蔵は指先で悟空の口を押した。
 けれどようやく「三蔵」を取り返したのだ、悟空は反省なんてせず、むしろこちら側に引きずり込もうと舌を出してその指を舐めてみせた。
 誘うように。舌で絡めて、口内に招き入れて、指の付け根まで唾液で濡らしていく。
 滴るほど愛撫を繰り返すと、三蔵の指先が応えるように動いた。歯列をなぞって、舌を嬲って、今度は三蔵が悟空を翻弄していく。
 真面目な声で話しながら、そんな不埒な仕草をするなんて反則だ。
 自分から仕掛けたことは棚に上げて、悟空は仕返しに三蔵の指を甘く噛んだ。
 次の瞬間。
 三蔵は表情をまったく変えないまま、携帯を横に投げた。
 ついでに、悟空も投げた。
「――う、わっ」
 悟空は思わず声を上げた。慌てて口を覆うが遅い。
 聞こえてしまっただろうか?
 ソファの上で逆さまになっている携帯は、相手が切っていなければまだ通話中だ。
 悟空が気を取られている隙を縫って、三蔵はきわめて迅速に行動した。
 三蔵の膝の上で引っくり返された悟空は、後ろ手に腕をねじ上げられ、抵抗する暇もなく両手首を括り上げられてしまう。――戒めに使われたのは、さっき悟空が放ったネクタイだ。
 三蔵はそうやって悟空を膝の上に転がしておいて、平然と再び電話に出た。
 ……ゲームオーバー。
 悪戯が過ぎたようだ。
 悟空は小さくため息をついた。
 最初はちょっと、携帯に邪魔されたみたいでおもしろくなかっただけだ。
 けれど。
 悟空は首を回して三蔵を見上げる。また、向こう側に行ってしまった。
 けれど、いまは、少し寂しい。
 膝の上で寝そべったまま、悟空はそっとつぶやいてみる。
「……さん、ぞ?」
 三蔵には聞こえているだろうかいないだろうか。
 見上げる視線に返ってくるものはない。
 寂しい。
 こんなに近くにいるのに。
「…………ごめんなさい」
 はあ、と三蔵が深くため息をついたので、悟空はびくっと肩を震わせた。
 ようやく交わった視線は、あまり機嫌のいいものではない。
 怒っているのだろうか。
 悟空は悲しくなる。
 三蔵は目を閉じてもう一度ため息をついた。そして、一言相手に断って、携帯を切ってしまう。
 再び、悟空を見た。
「――反則だろ」
 憮然と、苦いものを呑み込んだような顔で、三蔵は吐き出した。
「ごめんなさい」
 悟空はまたつぶやく。
 それは、三蔵の眉間に浮かぶ皺をますます深くさせただけだった。
 そういう態度こそが反則なのだ。と、三蔵は言っている。
 おとなしく手を縛られながら許しを請うなんて、そんな従順で、けなげで、そして嗜虐心を煽るようなこと。
「謝るくらいなら……」
 続けて三蔵が何を言おうとしたのか、結局悟空にはわからなかった。
 空白の後、三蔵はふいに身体を屈ませた。――ネクタイの戒めを受けた悟空の手に、生温かく、濡れた何かが触れる。
「え?」
 それは三蔵の舌だった。
 三蔵は悟空がしたように、悟空の指を舐め、口に含み、愛撫を施していく。悟空よりも巧みに。
「さんぞ…っ」
 悟空がうわずった声でうったえると、三蔵は顔を上げた。
 さっきまでの不機嫌さは払拭されている代わりに、意地の悪い表情が、悟空の目に映る。
「――簡単に解いてやるとは思うなよ」
 その言葉どおり、悟空は夜遅くまで、他愛ない悪戯の付けをしっかり支払わされることになるのだった。


【電話】


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