06/02/28
DailyLife
04



「んー」
 味見したコーンポタージュスープは、なかなかの出来だ。といっても、鍋で温めるだけのものだが。
 隣りのフライパンでは、ベーコンエッグがパチパチと軽快な音を弾ませている。こちらもあと少しで出来上がりだ。
 香ばしい香り漂うキッチンで、悟空は機嫌良くスープをかき混ぜる。
「……いい匂いだな」
 突然、背後からするりと二本の腕が首に巻きついた。
「わ!」
 悟空は驚いた拍子に鍋をひっくり返しそうになる。
 けれど相手はかまわず耳や頬にキスをしてくる――三蔵だ。
 まったく気配を感じなかった。
 もともと三蔵は存在感があるが、悟空は特に三蔵の気配には敏感だ。それが、いくらコンロに集中していたとはいえ、背後に立たれるまで気付かなかったのは、三蔵が意図的に気配を消していたからにちがいない。
「三蔵、離して」
 悟空は身じろぎして二本の長い腕から逃れようとする。しかし、三蔵は逆にますます悟空を拘束した。
「嫌だ」
 声は甘い。
 抱きすくめられる腕は、実際心地良く、いつもだったらしょうがないなぁと許してしまうのだけれど、悟空は再度懇願した。
「三蔵、向こう……」
 しかし、腕の中でぎゅうっと潰されて、最後まで言わせてもらえない。
 悟空が拒むほど三蔵は離してくれず、やはり折れたのは悟空の方だった。
 どうしようかと苦笑しながら悟空がおとなしく腕に収まっていると、三蔵は満足したのか小さなキスをいくつも落としていく。
 さらに、またぎゅっと悟空を抱きしめた。
「どうして先に起きた?」
 ――要するに、それが不満だったらしい。
「もう昼だよ?」
 悟空の返答は三蔵のお気に召さなかったようで、軽く耳朶に噛みつかれる。
「ごめん。な、わかったからそろそろ離して」
「……キスしたらな」
 拗ねてるのか甘えてるのか――両方なのか、悟空はようやく緩んだ腕の中で後ろに向き直り、ひょいと背伸びして三蔵にキスをした。
「これでいい?」
 三蔵は答えず、代わりに悟空の後頭部に手を添えて大きく上向かせた。
 降ってきたキスは、情熱的なんてものじゃない。
 ダメだ、と悟空は咄嗟に思うが、抵抗するより早く、思考がとろかされていく。
 ダメだ、コンロの火が点けっぱなしだし、それに――

「――お邪魔をするようで申し訳ないんですが、ちょっと焦げ臭いですよ」

 キッチンと間続きのリビングから、至極遠慮がちな声がかかった。
 ――それに、リビングにはお客さんがいるのに。
 途切れた思考の続きを思い出した悟空は、うわあと慌てて三蔵の顔を引き剥がす。
 パチン、とコンロの火を消したのは三蔵だ。
 なぜ気付かなかったのか頭を捻るほど、ベーコンが焦げる臭いが鼻を刺激し、フライパンはバチバチ不穏な音をたてている。ぐつぐつと大きな泡を作っているコーンポタージュスープも、もしかして鍋の底が焦げついてしまったかもしれない。
 悟空がうなだれる一方で、三蔵は険呑なオーラを巻き散らしていた。
 射るような視線は、リビングのソファに。――そこには、八戒と悟浄が所在なく収まっていた。
 三蔵のお怒りの理由が、悟空といちゃついていたのを知らず見られたからなのか、それとも邪魔をされたからなのか、――あるいは自分の許可なく家に上がり込まれたからなのかは判断つきかねたが、どれであったとしても、八戒と悟浄に弁解の機会は与えられないだろう。
 少なくとも、キッチンの二人がいちゃつくのをわざと黙って見ていたという点では有罪だ。
 八戒は気が進まなかったのだが――道徳的な理由ではなく、学習したからだ――悟浄は興味津々で二人を窺っていた。新婚さん――特に三蔵――が二人きりのときにはどんな言動をしているのか、悪趣味と自覚があっても、知りたいと思わないわけがない。
 ただ、すぐに悟浄は自分の選択が誤っていたことに気付いた。
 三蔵が悟空に甘える、なんて想像は冗談であるから楽しいのであって、現実はつらかった。結局、八戒と二人、じっと耐えるはめになったのである。
 八戒の勇気の発言でようやく解放されたものの、今度は判決を待つ囚人のような気分でソファに沈むことになった。弁解の機会が得られたとしても、もうそんな気力がない。
 部屋に渦巻くのは、禍々しいオーラ、そして諦めと疲労の空気――そこに、突如別の風が吹き込んだ。
「もー、焦げちゃったじゃん!」
 三蔵に押し潰されんばかりとなって沈黙していた悟空が、いきなり爆発したように叫び、乱暴に三蔵の拘束を振りほどいた。
 そしてどうするかと思えば、コンロの前に立ち、昼食のなれの果てを覗き込んで被害状況を確認している。
 その背中は、明らかに……怒っていた。
 誰も声をかけられない。
 三蔵は眉を寄せながら悟空の後ろ姿を見つめて、次に、悟浄を振り返って恨めしそうな目つきで睨みつけた。
 え、俺のせい?
 思わず悟浄が八戒を振り返ると、何やら同情に満ちた視線を向けられる。
「……あー、何か急用があったよな八戒!」
 逃げることにした。
 三蔵には自力で悟空の機嫌を直してもらおう。
 ――それにきっと、「仲直り」は二人きりの方が都合がいいにちがいないのだから。


【キッチン】


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