365分の1日
ガラスごし、ひらひらと振られる手に立ち止まる。
「あ。」
八戒。
悟空の大学の先輩だった。
知り合ったのは、ちょうど一週間前だ。悟空が入った寮の歓迎会に、元寮生の八戒が来ていたのがきっかけで、何だか妙にウマがあってすぐに仲良くなった。
八戒と顔を合わせるのはあれ以来だ。一回生の悟空と院生の八戒では、大学の広い構内でばったり出会うなんて偶然もそうそうない。
なのに、さらに確率が低い大学の外で、偶然会うなんて。
八戒がおいでおいでと言うように店の中で手招きするので、悟空はそのカフェに入っていった。
「久しぶりー」
「そうですね。少しは慣れましたか?」
「うん。八戒は、元気だった?」
「変わりありませんよ」
言いながら八戒は、メニューをすっと差し出した。
「好きなだけ頼んでくださいね。遠慮はいりませんよ。全部僕の知り合いに払わせますから」
八戒にしては無責任なことをにっこり笑って言う。
「悟浄?」
心あたりのある共通の友人――やはり寮の歓迎会で知り合った――の名前を出すが、八戒は笑顔のまま首を振った。
「もうすぐ来ますから、悟空にも紹介しますね。うちの大学じゃちょっと有名なんで、もしかして名前くらい聞いたことあるかもしれませんが――――あ、三蔵!」
八戒が、悟空の背後に向かって呼びかける。
悟空はつられるように振り返って……
――その、瞬間。
ばかになったみたいに、頭がまったく働かなくなった。
ただ、その人を見つめる、しかできない。
八戒がそばで何かを言っているのだけれど、何も耳に届かない。
茫然と、見つめる。
そして見つめてくる視線――それは、何を意味しているのか。
彼が、八戒に向き直った。
「借りてた本はこれだけだ」
ようやく耳が音を拾う。彼の声。
「帰る」
とん、と数冊の本をテーブルの上に置いて、席にはつかず、彼はそのまま行ってしまおうとする。
――ただ、去り際に一度、悟空を見た。
「あ、俺も――」
弾かれたように、悟空は席を立った。
慌てて彼の背中を追いかける。八戒に呼ばれたような気がしたけど、振り返って確かめる余裕はなかった。
勢いだけで彼を追いかけて店を出たものの、悟空は声をかけることもできず、ただその背中を見失わないように後をついていくしかできない。
――ついてこい、と言われたような気がしたけれど。
しかし実際は、彼は悟空を見ただけだ。言葉で言われたわけじゃない。時間がたつにつれ、悟空の勘違いだったのではないか、という気がしてくる。彼が一度も振り返らないからなおさらだ。
勘違いだとすれば、悟空の行為はストーカーと同じだ。どうしよう、とがめられる前に立ち去るべきだろうか、と迷って悟空が足を止めかけた時、彼がタイミングよく悟空を振り返った。
悟空の足は、今度こそ完全に止まった。
すると、彼も立ち止まった。
見つめられ、悟空は直立不動になる。何を言われるのだろうか、と身構え、全身が耳になったように彼に意識を傾ける。
「――名前は?」
とがめられるのではなかった。しかしほっと息をつく余裕もなく、悟空は喉の奥から声をしぼり出す。
「ご、悟空。孫、悟空」
「玄奘三蔵」
それが彼の名前だと、少しして気付く。
「悟空」
――息が止まるかと思った。名前を呼ばれただけで、こんなにも心臓に悪い思いをしたことはない。
けれど、そんなのは、まだましな方だったとすぐに知る。
ふと、視界がかげった。
いつのまにか三蔵の顔が目の前にあって、――――キス、を、された。
「――怒らねぇのか?」
茫然とする悟空を、三蔵は間近で見つめながらそんなことを冷静に言う。
「…………怒る、って思うようなこと、なんでするんだよ」
「したかったからに決まってるだろ」
「したかった、の?」
「いまもしたい」
三蔵は小さく笑って、怒らねぇ気ならもっとする、と、指で悟空の唇をなぞって、また奪った。
真っ昼間の路地で。
人通りはないけれど、いつ誰に見られるかわからないのに、なんでだか悟空は怒ることができず、ただキスがキモチよくて。
キモチよくて。
……唇が離れていっても、まだ夢の中にでもいるようなふわふわとした気分で、悟空は三蔵を見上げる。
「――来るか?」
三蔵が尋ねる。
「行く」
悟空はうなずいて、三蔵の後を追った。迷いもなく。