10/04/05
365分の1週間


「空白の一週間」は、誰も知らないところで、ひっそりと始まっていた。

* * *

「なあ、最近アイツと会った?」
 ふらりと院生の研究室に現れた悟浄を見て、八戒は、めずらしい、と思った。
 悟浄はこの春、めでたく留年が決まった。二度目の四回生は、ほとんど大学に顔を出していないようで、ここのところずっと会うこともなかったのだ。
「久し振りですね。――で、誰のことですか?」
「悟空」
 悟浄はどこかなおざりな様子で後輩の名を言う。
 何かが八戒の心をざらりと撫でた。
「……いいえ、会ってませんが」
 答えるそばから、それは嫌な予感となって、八戒の胸にわだかまる。
「何か、ありました?」
「そういうワケでもねーんだけど……」
 答える悟浄は歯切れが悪い。八戒は視線だけで先を促す。
「最近、講義に出てねぇらしくて」
 大学に来ていないくせに、そういう情報は入ってくるようだった。悟浄らしい、と八戒は思う。
「ついでに、寮にもずっと帰ってねーみたいなんだワ」
「――それ、何かあるどころの話じゃないじゃないですか!」
 八戒は思わず、らしくない大声を上げる。
「やっぱりィ?」
 笑いながらも、悟浄の目の奥には真剣な光があった。
「携帯は?」
 八戒は冷静にと己に言い聞かせ、現実的なことを尋ねる。
「出ねぇ。電源落ちてるみてーで」
「旅行、とか? 何かそれらしいことを聞いてる人は?」
「あいつの知り合いに片っ端から聞いてみたけど」
 悟浄は肩をすくめる。「何もわからない」のジェスチャー。
「……いつから。いつからいなくなったんですか?」
「先週の金曜は、大学に来てたみたいだな」
 今日は金曜だ。つまり、一週間――悟空は姿を消していることになる。
「そういえば……僕も会いました。先週の金曜、大学の近くの喫茶店で。一緒にお茶を飲んで、それから――」
 ふと、八戒は口をつぐむ。
「どうした?」
 悟浄が訝しげに八戒を覗き込んだ。八戒は逡巡しながら続ける。
「……途中で何だか慌てた様子で帰っちゃったんですけど……」
「ソレ、怪しくね?」
 八戒は答えない。
 脳裏に浮かび上がるのは、その時居合わせたもう一人の顔。
 ――――三蔵。

* * *

 動くもののない部屋の中で、白い光が点滅する。
 携帯のバイブレータが、振動を音に変えて、着信を知らせた。
 ディスプレイに表示された名は、『猪八戒』――三蔵は、確認して携帯を放り出した。
 着信は鳴りやまない。
「……出ないの?」
 三蔵の傍らで、シーツのかたまりが動いた。
 最初に色素の薄い髪が、次いで大きな金の瞳が覗く。シーツから顔を出した悟空は、三蔵の携帯に手を伸ばした。
 三蔵が止めずにいると、悟空は携帯を取り、三蔵と同じものを見たようだ。次にこちらを見た瞳には、夢から醒めたような色がある。
「……見つかっちゃったみたいだ」
 それは、二人で過ごした時間の終わりを意味していた。
 カーテンを引いた部屋は、昼間なのにもかかわらず、薄い闇が落ちている。
「――帰るか?」
 三蔵が言う。悟空の目の奥を覗き込むようにして。
 悟空は答えられない。
 そんなことを尋ねる三蔵は意地悪だ、と思った。
 離れたくない――悟空はそう、思っているのに。
 出会ったその日、三蔵についていってから、悟空をこの部屋に閉じ込めて、離してくれなかったのは三蔵も同じなのに。
 一週間と一日前は、互いのことなど何も知らなかった。
 たった一週間で、こんなにも離れがたく思っている。
 けれど、ずっとこうやっているわけにはいかないことも、わかっていた。
 ……やがて静かにうなずいた悟空に、三蔵は、そうか、とだけ返した。

* * *

「まぶしー……」
 一週間ぶりに外に出て空を眺めた悟空は、その光の強さに目を細める。
 隣を歩く三蔵は無言だ。
 一人で帰れると悟空は言ったけれど、よく考えれば三蔵の家の周辺の地理をまったく知らない。寮まで送ってくれるという三蔵の申し出をありがたく受けることにした。
 二人並んで歩くが会話はない。
 寝食を忘れるほど抱き合って、今更、何を話せばいいのかわからない。
「――あ、」
 進行方向にある角を曲がってきた人影に気付いて、悟空は思わず声を洩らした。
 相手も悟空たちに気付いて、近付いてくる。
「悟浄、八戒。どーしたの?」
 呑気に尋ねる悟空に、悟浄の怒鳴り声が返ってきた。
「どーしたじゃねーよ! テメェ、一週間もどこ消えてたんだよ!」
「ご、ごめん!」
 悟空は反射的に背筋を伸ばす。
 だが次第に、苦笑が込み上げてきた。悟浄の剣幕に、現実に帰ってきたんだな、と実感して。
「心配したんですよ」
 八戒は悟空をたしなめて、三蔵に視線を移した。
 聞きたいことがある。けれど、言葉にするのはためらわれ、八戒は言い淀む。
「――何があったんですか?」
 結局、そんな聞き方になった。三蔵だけに聞こえるような小声で。
「別に」
 三蔵は八戒を見もせずに答える。
 八戒は顔をしかめる。素直に教えてはもらえないだろうと思っていたけれど。
 二人のやりとりを聞いていたのかいないのか、悟浄が煙草をくわえながら悟空に尋ねた。
「で、一週間、何してたんだよお前」
 悟空は答えず、ちらりと三蔵を見る。
 それが、秘密を共有する者の視線だと気付いた悟浄は、深追いせずに引いた。
「ま、それはいーけどよ。お前、無断外泊で寮追い出されるんじゃねーの?」
「え、マジ?」
 悟空の視線が、答えを求めるように八戒を向く。
「うーん、確かにちょっと、一週間は……」
「どうしよ」
 慌てる悟空に、冷静な声がかかる。
「――ウチに来るか?」
 天気の話でもするみたいに無造作に、三蔵が言った。
「一緒に住むか?」
「なーにプロポーズみてぇなこと……」
「え?」
 悟浄のからかいに反応したのは悟空で、驚いたように悟浄を見た後、ぽかんと三蔵を見る。
 三蔵は否定もせず、無言で悟空だけを見つめている。
 ナニその反応?
 茶化した悟浄の顔から、次第に笑みが無くなっていく。こんな状況は悟浄の想定にない。
 混乱する悟浄の腕を、八戒が横から引っ張った。
「行きますよ」

* * *

 その後、悟空の失踪もどきはキャンパスで少しだけ噂になったが、すぐに別の噂にかき消された。
 ――美貌と人嫌いで有名な三蔵が、誰かと同居を始めた、という噂だ。
 どうやら悟空は、寮を出て三蔵の部屋に転がり込んだらしい。
 二つの噂が、実は結びついていることに気付いているのは、おそらく八戒と悟浄だけだろう。だがそれも、どうでもいいことだ。


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