うんちくのページ

落語に関する、うんちく、エッセイのようなもの、いろいろと書き綴ってみましょう。

森山さんのこと 落語録音事始め 落語の音を集めている後輩への助言 ライブラリーの継承への不安

森山さんのこと

 昔、僕が勤めていたスタジオに、森山さんと言う守衛のおじさんがいた。還暦はとうに超えていた様だったからお爺さんと言っても良い年齢だった。痩せぎすで背も低かったが、その小柄な体でとにかく良く動き、微笑みを絶やさず、愛想も良かったので、評判の良い守衛さんだった。僕は夜遅くまで一人で仕事をすることが多かったので、自然どの守衛さんとも仲良くなり、雑談を交わす仲だった。

 その森山さんに、ある夜「草柳さんは落語がお好きなんですか」と尋ねられた。森山さんとは落語の話なぞしたことがなかったので余りにも突然なその言葉に驚いた。「えぇっ、えぇ、大好きなんですよ」と答えると、「やっぱりそうでしたか」と、いつもの笑顔でいる。「誰かに聞いたんですか?」と尋ねると、「いえ、今口ずさんでいたの、あれ圓生さんの出囃子でしょう」僕はハッと思った。そう言えば、仕事が終って一人で後片付けなんぞをしている時に、話相手もいないので口三味線で出囃子を口ずさみ、壁や持っている箱なぞを素手で叩いては太鼓の代わりにして、噺家の口真似のさわりなど一人で演っていたのだ。きっとその時も廊下を誰もいないのを幸い、圓生になりきって歩いていたのかもしれない。「そうでしたか」「以前にも聞いたことがあったんですが、その時はもし間違いだったらと思って言わなかったんですが、今日はこれは確かだろうと思って…」「すると、森山さんもお好きなんで…」と言うと、森山さんは少し恥ずかしそうに「最近はこの仕事ンなって夜が駄目ですからさっぱりですが、昔は道楽で良く寄席へ通ったもんです」と言うのだ。思いも寄らぬところに同好の志を見付けた僕は、それから機会のあるごとに森山さんの昔話を聞くことになった。

 「圓生さんがまだ橘家圓蔵だったころを知ってますが、拙くはないが何かキザな感じで面白くなかったですねぇ。こんなに上手くなるなんて思えませんでしたよ。そう言えばさっきのは今の圓生さんの出囃子でしょ、その頃はあの三木助が使ってたあの曲でしたよ、ほら…瑤…」と口ずさんだ。「あァそれなら筑摩祭りって曲ですよ」「そうなんですか、あたしは曲の名前は知らないんですが、三木助さんが後になって使っていたんであの曲だなって思い出したんです」「そうですか、それで圓生さんが独演会の時に時々筑摩祭りで上がる訳が分りましたよ」

 「志ん生さんは面白さは一番だったんですが、喋りが雑でしたねぇ、やたらに大きな声で…」若き日の圓生と志ん生、既に様々な人が語った事と同じだったが、身を以て体験したこの老人の言葉には妙な説得力があった。

 「柳好さんはねぇ、楽屋から出て来るだけで客席がパーッと明るくなりましたねぇ。出の形が本当に良かった。真似の出来ない形ですよ。出る途端にかならず声が掛かりましたね。『蝦蟇』だの『野ざらし』だの。本当に唄っているようなちょうしで」聞いたことはあっても全く見たことのない柳好。レコードの解説に載っていたあの暖簾から顔を出している写真の印象と、この言葉がオーバーラップした。柳好という噺家は本当にそんな噺家だったのだろう。

 「圓生の出は昔からあんな形でしたね。背がすらっとして痩せているからこう前屈みになって、志ん生は、形なんか全く無い。知らないうちにスーッと出てきちゃう。それから圓歌さんね、あの人は高座の端から何かピョーンと跳ねて出てくる。顔はしみだらけでしたが、一席演って良く踊ってました」僕は「あの人は見たか、この人は見たか」と根堀り葉掘り聞いたが、森山さんは微笑みを浮かべて楽しそうに思い出話をしてくれた。

 「柳好さんなどはもう一遍聞いてみたいと思ってたんですが、早死にしちゃって…」

「柳好さんの録音なら何本か有りますよ。カセットに入れてきましょうか」思い出話のせめてもの御礼として、僕はコレクションから『野ざらし』『二十四孝』『鰻の幇間』をカセットに入れて森山さんに渡した。「お代は…」と言うのを、「いえ、色んな話を聞かせて戴いたのだから…」と言って僕は拒んだ。「早速聞かせて戴きます」とその日は別れたが、翌日仕事の準備をしていると、「本当に有難うございました。久し振りに聞いて涙が出ちゃいました。もう聞けないと思ってたのに、懐かしくて懐かしくて…」そして、野ざらしのここんとこは、とか、二十四孝の蚊がプーンとか、と言って、また仕方噺をしてくれるのだった。それから度ある毎に僕は森山さんの喜びそうな懐かしい人のカセットをコピーして渡した。森山さんはその都度嬉しそうにその噺家の思い出話をしてくれた。道楽で集めたテープがこんなに喜んでもらえたのは冥利に尽きる。

 その森山さんの顔をしばらく見なくなった。守衛さんは一日交替だから、二日に一度は出てくるのだが、休みが入ったり、こっちが夕方に返ってしまったりすると一週間くらい逢えないこともある。どうも近頃巡り合わせが悪いなと思っていたのだが、それにしても見ない。別の守衛さんに尋ねたら、病気で休みだと言う。しばらくすると入院したと聞いた。「明日お見舞いに行ってくるよ」と、守衛の山口さんが言ってくれたので、僕はその晩早速、まだ渡していない何席かをカセットに入れて山口さんに渡してもらうように頼んだ。翌日「森山さん、草柳さんから貰ったカセットを枕もとに並べて聞いてたよ。イヤホンして一人でニヤニヤしてるって奥さんが笑ってた」「病気のほうはどうなんですか」「それがね、余り人には言えないんだけど奥さんがこっそり教えてくれたんだ。癌でもう駄目らしいんだ」

 僕はガーンと脳天を叩かれたような気がした。まだまだ森山さんに聞きたい話は沢山あるのに…、SPレコードでしか聞けない噺家の話はまだ聞いていない…、それにまだ森山さんに聞いて欲しいテープが沢山ある…。「まだ元気そうですか?」「いや、もう痩せちゃってね、あの人だから、にこにこしてるけど、そんなに元気でもないみたい」まだまだ元気と言うならお見舞いを口実に話を聞きに行こうと助平根性が出たのだった。しかし、それももう不可能だった。…でも、一度お見舞いにだけは行こう。話は聞けなくとも…。 そう思ったものの、仕事におわれて愚図愚図しているうちに二週間程たったある日、山口さんから「森山さんが亡くなった」と教えられた。僕は、葬式に出たいとの旨を上司に伝えた。しかし、許して貰えなかった。僕と森山さんが、親しくしていることなど会社の人間は誰も知る術が無かった。僕と森山さんは、いつも真夜中に仕事が終ってから受付のカウンターで話すだけだったのだから…。結局、お見舞いにもお通夜にも葬式にも行けなかった。同じ屋根の下に五年も一緒に居ながら親しくなって落語の話をしたのはたった半年だったのが残念でならない。いや、あの日僕が口三味線で出囃子をやらなかったら、只挨拶をするだけの間柄で終ってしまったかも知れない。森山さんももう聞けないと思っていた柳好や志ん生をまた聞くことが出来て、昔の寄席の話の聞き手が出来たのは嬉しかったのかもしれない。そう思うと、半年だったが森山さんにとっても僕のしたことの役割がきっとあったに違いない。そう自分で自分を慰めるのだった。

 街を歩いていて、ふと口から出囃子がこぼれたとき、今でも森山さんの事を思い出すことがある。『極楽亭』というものがあるとしたら、今頃森山さんはそこの桟敷の片隅で、煙草をくゆらせながら、大好きな柳好や志ん生や圓生を聞いてにこにこしているに違いない。僕が極楽亭に行ったときは真っ先に森山さんを見つけて、今度はゆっくりと思い出話の続きを伺ってみたいと思う。

落語録音事始め

落語は同じ噺を何度聞いても面白いから、録音しておいて何回も聞いてみよう。と、その頃は沢山あった寄席番組を、オープンリールのテープレコーダーで録音しはじめたのは、1967年頃。中学二年生の頃でした。「桂文樂なんかもう歳だから録音しておいた方がいいな」と言う親父の言葉もあって、当時すでにエア・チェック族と化していた私はせっせと録音するようになっていたのでした。安くなっていたとは言え、当時秋葉原で、放送局放出のつなぎ目だらけの再生テープが三百円で、一月の小遣いの額と変わりませんでしたから、全部が全部録音を残しておけず、天秤にかけて泣く泣く消した音もありました。以来、コツコツと録音を続け、寄席関係で8900種類の音が集ってしまいました。基本方針として同じ音源はダブって保存しない事にしているので、掛け値無しの8900です。しかし、それでもまだ私が持っていない貴重な音が全国各地に散らばっています。世の中同じ様な事をやっている人は探せばいるもので、仲間同士網を張って未だ懲りずに幻の音を求めて探しまくっています。将来は何らかの形で後世に残せるようにしたいと考えています。誰か落語の音の博物館を作ってくれるなんて粋な人いませんかねぇ。技術面からもソフト面からも協力出来ますよ。

落語の音を集めている後輩への助言

コツコツやっていればどんどん集ります。とにかく放送を録り逃さない事です。そして、きちんと整理しておく事です。少ない内から整理しておけば増えた時に困りません。増えてから整理すると大変な労力を必要とします。今ならコンピューターを駆使して簡単に整理が出来ます。なかなかコレクションが増えないと思っているうちが華です。沢山持っている人は、再放送番組があっても結構すでに持っている音が多いのです。先輩が持っている音が放送されればそこでもう一歩近づけている訳ですから、コツコツとやっていけばいつか追い付きます。私もそうやってコツコツやってきました。これからもコツコツやって行くに違いありません。

ライブラリーの継承への不安

集めた落語ライブラリーは今現在全てオープンリールのテープに保存してある。始めた時からずっとオープンリールだったのと、カセットテープだと音質や耐久性に疑問があるのと、商売柄オープンリールのテープが入手しやすかったためにずっと続いている訳だ。しかし、ここへ来て大きな壁に突き当たっている。それはオープンリールのテープレコーダーがプロ用を除いて生産が中止されてしまった事である。一時は各社が競って出していたテープレコーダーも、カセットの音質向上、デジタル録音の普及によるDATやMDの台頭によって、面倒でコストもかかるオープンリールは時代遅れとなって、買う人もいなくなり、遂に最後まで作っていたTEACが生産を中止した。幸か不幸か、生産中止の報を受けた直後、二十年使って来たテープデッキが息の根を止めてしまい、市場に売れ残っていた最終生産機を手に入れているのだが、これが壊れてしまったら万事休すなのである。もっとも四十年以上も続いている規格なので、特注したりすればなんとかなるとは思っているが、そろそろライブラリー自体の継承を含め、別の録音媒体へ移す事を考えなければならない時に来た様である。しかし、これだ!と言う媒体が見つからない。便利さと運用のしやすさから言えばMDが一番場所も取らずに良いのではあるが、MDはデジタルデータの圧縮と言う事をやっていて、音質的に疑問が残る。最近のMDは良くなったと聞くが、初期のMDは音のプロとしては勘弁ならぬ音であった。圧縮=間引き、であり、何が無くなるかというと、空気感が無くなるのである。落語で肝心な喋りが失われる様な事は無いが、客席との間の空気や雰囲気が薄れてしまうのはまずいのである。ノイズが無くてカセットより良い、と言うのは素人考えで、ノイズがあってもカセットテープに正しく録音されていれば空気感や雰囲気が失われ事は無いのだ。ただ、非接触なのでMDは耐久力はありそうである。DATはMDより遥かに情報量も多く、圧縮などしないリニアな録音方法を取るのでオープンリールに変わる方法としては遜色無いし、普及率もプロ・ユースが拡大しており将来的に安定している。しかし、悲しいかなそれだけの膨大なデータをあまりに小さい物に詰め過ぎてしまった。テープ自体の耐久性が乏しいのである。エラーを起こし出したら広がる一方で修復が不可能になってしまうのがデジタルの弱みで、仕事柄DATは良く利用しているが、駄目になったテープを結構経験した。一時的に保存しておく媒体としてはこんなに便利なものは無いのだが、半永久的保存には向かないのである。つまりMDもDATも帯に短し襷に長しで、決定打になっていないのが現状だ。非圧縮のMDでも登場すれば決まるのだが…。あとは書き込みの出来るCD、つまりCD−Rだろう。耐久力にはまだ不安が残るものの、CDと同等の音質で、なおかつどのCDプレーヤーでも掛けられるからライブラリーの継承には持って来いである。しかし、パソコンを使ってCD−Rを作るのにも時間が掛かるし、失敗するとやり直しが利かないのが難点。コストが金銭的にも時間的にも掛かる方式である。今、DVD−Rが注目され出したが、規格の統一を巡ってメーカー同志が利権絡みで熾烈な争いになってしまっている。これとていつ決着が着くものか見込みが立たないのだ。そんな不安の中、とりあえずは新たな媒体が登場するまで、コツコツとオープンリールに残すしかないのかと思う今日この頃である。