三遊亭圓生音源データ
塩原多助一代記〜青馬の別れ−1
1.TS-02606C1
2.1970.8.14,NHK,イイノホール,東京落語会第134回
3.52:25
4.なし
5.出囃子 正札附
えー、ェーッ、『塩原太助一代記』と言う、えー、これは、ァーッお長いお噺でございますが。まァ、申し上げるまでもなく、ゥーッ、圓朝、数ある作の中でも名作とされておりまして。えー明治・大正・昭和にかけまして、小学校の、ォーッ、教科書にこの、話は入っておりまして。えー、太助と言う方は一代に、巨万の、オーッ富を残したと言うただ金を残したと言うばかりではございません人間として誠に、優れた方でございまして。本所相生町で、炭薪の渡世を致しまして、その時分の、オー落首に、「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原」と言われ、十万石の大名と肩を並べたと言うのは誠に、エーッ偉いもんでございますが。えーこの人のお父っつぁんは塩原角右衛門と申しまして、阿部様に仕えて八百、石を取りました立派な、お武家でございますがこの人の家来に、ウーン岸田右内と言う方がありまして、(白湯を啜る)おせいと言う、角右衛門の女房、えーその妹の、おかめと言うのと、この、右内がいつかいい中になりまして、ウーンそのうちおかめが妊娠をしたと言う。昔はまァ屋敷なぞでこの私通と言う事は大変喧しゅうございますので、これはいけないと言うので、手に手を取って江戸ィ逃げまして、ォー本郷、ォーッ春木町で裏家住まいを致しておりまして、今はもう町人になりまして、岸田屋、宇之助と、えー名前を変えまして、えー、セー、今で言うセールスマンでございますね、えー旅商人と言う、え地方に品物を持っては売りに行くと言う。えそのうち女の子が出来ておえいと言う名前を付ける。この子が七つになりました時で、誠にこの岸田右内と言う人は主人思いでその後、どうしたかと、色々、えー風の便りに噂を聞いていると浪人をして一時、行方が知れませんのでございましたが、えー上州沼田に、いると言う事を、聞きましたのでどうか、御主人にお目に掛かってその折の詫びもしたいと言うので、日光へ、ェーッ商いに行くと言う、堺屋伝吉と言うこれァ大変自分と、仲のいい人で、で二ァ人連れで、商いをして、それから、街道を行くと大変回りンなりますから、日光の山を越えまして小川村と言う所を通り掛かる、向こうから来たのが、粗末ななりをした杣の様な男で。近寄って見ると驚いたのは旧御主人の、塩原でございまして。「旦那様ではございませんか」 「…右内か」と言ったが、二ァ人は暫時言葉もごさいませんで。……
6.圓生師はこの噺を三回演じているがこれはもっとも後の記録で、東京落語会での口演である。「圓生全集・追悼編」に収録されている速記はこの録音による。
7.NHK R 放送録音 演芸名人会 1970.9.2 佐藤氏ライブラリー
8.
塩原多助一代記〜青馬の別れ−2
1.TS-02860A3,TS-02860B1
2.1968.12.29,人形町末廣,独演会
3.34:30+35:16
4.CS.20AG-732
5.出囃子 正札附
えー、ェッ、『塩原、太助一代記』と言う、お噺でございますが。えー、これは、ァーッ申し上げるまでもございませんが、三遊亭圓朝の作でございまして。えー本所相生町に炭薪の、商売を致します。えーその時分の、落首に、「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と言われまして。十万石のお大名と、肩を並べたと言うのは、偉いものでございまして。えーこの塩原太助の話は、明治・大正、それから昭和の初期にかけまして、小学修身の本に載っておりまして、まァ圓朝数ある作の中でも、これはなかなか、ァッ名作でございまして。太助と言う方は、金を残したと言うだけではございません、その人間と致しまして実に偉かったそうで。六百文の金で江戸ィ出てきたと言う。ま六百文と言うと、今のお金にして六銭でございますが、物価を、色々比較して見ると、まァ六百円位に、なるんじゃァないかと思うんでございますが。今でも、千円以下のお金で、どんな商売でもしようと言ってなかなか、ァッ出来る訳はございませんで。まァ空拳から、その位の富を、築きあげたと言う偉い人で。お父っつぁんは塩原角右衛門と言いまして、えー阿部伊予守に仕えまして八百石の、石高を取りましたお侍。立派な方でございますがこの人の家来に、岸田右内と言う方、角右衛門の女房のおせいと言うこの人の妹に、おかめと言うのがあって、これとこの岸田右内が、いつかいい中になりまして、昔は、ァッ屋敷方でこの私通と言う事は大変喧しいもので、そのうちおかめが妊娠をしたらしいと言うので、二ァ人が手に手を取って江戸ィ逃げまして、今では旅商人と言う、本郷春木町に、住んでおりまして勿論まァ裏長屋でございますが、えー一生懸命稼いでまァどうやらこうやら、えーそれで生活が出来ると言う訳で。女の子が一人出来まして、おえいと言う名前を付けます。でこれが、七つンなる。でこの岸田右内と言う人は誠に忠義な人で、御主人がその後どうなったかと色々、風の便りに聞いて見ると、ォッ浪人をしたと言う話で。一時行方が分かりませんが今は、沼田にいると言う、噂でございまして。(白湯を啜る)自分も一度は、主人に会って色々その節の詫びもしたいが、今度日光へ商いに行くから、まそのついでに、是非お訪ねをしたいと言うので、日光へ参りましてあれから、えー中禅寺、尚向こうへ三里入りますと、温泉場がございまして、でここで商いをして、堺屋善助と言う、えーこれは、大変馬の合う友達で、まァ商いに歩く時も始終二ァ人で出ようと言う訳で。でこれから沼田へ出るには、街道を行きますと大変回りになりますので、山越えをしようと言う訳で。…………<日光山越え>………やっとのことで、小川村と言う所ィ出て参ります。向こうから杣の様な男が来たので。岸田右内がひょっと見る、これが、旧御主人の塩原角右衛門でございますから、びっくり致しまして。「旦那様ではございませんか」「おう、右内か」互に手を取り合ったが暫時言葉もごさいません。……
6.圓生師の二回目の記録、人形町末廣での独演会での口演である。
7.CS.20AG-732 DISC COPY
8.
塩原多助一代記・解説
圓朝作の人情噺で、圓生師が演じているのはいずれも「青馬の別れ」の部分である。他の演り手としては、古今亭志ん生師が、この「青馬の別れ」をはじめ「山口屋のゆすり」「戸田の屋敷」「道連れ小平」「四つ目小町」を演っており、他には、林家正蔵、古今亭今輔師がやはり一部を演じていて、一連の圓朝ものと同じ様に比較する事が出来る。「圓生全集」の解説によれば、圓生師は東横落語会で初演、人形町の末廣での独演会、イイノホールの東京落語会の3回演じており、その三種の録音が残っているとの事だが、初演の東横のものは世に出ておらず、我々の手元には二本の録音が残る。圓生師は人形町のものが出来がよく、イイノホールのものは出来が悪いとメモを残している様だが、聞いてみると一長一短で、イイノホールのものが全体的に言い違いが多く感じられるので、その辺が気に入らないのであると思われる。
しかし、この噺はどちらかと言うと、講談・浪曲の得意とするいわゆる「出世美談」のたぐいで、戦前の教科書に載っていたという。今回聞き直して見ても私のようなひねくれた落語好きの観点から見ると、圓朝ものを抜きにして一つの人情噺として見ても、余り感心できない噺であった。現実にあった人物の伝記の様なものであり、戦前ならともかく、戦後生まれの人間には余りピンと来ないのも致し方ないだろう。確かに「青馬の別れ」の場面はジーンとくるものがあるにはあるのだが…。
時代設定:江戸時代。
舞台:群馬県沼田近辺小川村、大原村。江戸市中、小網町。
登場人物:塩原多助、父塩原角右衛門、その女房、旧家来岸田右内、その女房おかめ、その娘 おえい、右内友堺屋伝吉(善助)、大原村九兵衛、分家太左衛門、下男五八、土岐伊予守家来原丹治、丹三郎、幸右衛門伜円次郎、馬・あお。
ベストテイク:圓生自薦と言う事で「塩原多助一代記〜青馬の別れ…2」としておく。