聴いて良かったCD

グィド・カンテルリのメンデルスゾーン「イタリア」  Testament.SBT 1034 

グィド・カンテルリは1956年に飛行機事故で僅か36年の生涯を終えてしまったイタリアの指揮者である。演奏家で早死にしてしてしまって惜しい人はいくらもあるが、中でもこのカンテルリ、ピアノのリパッティは、生きていたなら音楽界が変わっていたのではないかと思う。カンテルリは1920年生まれだから生きていれば77歳で、巨匠となっていた筈である。今もって惜しいと思うのは、彼が1950年代に残した数枚のレコードを聴いて思う事である。モノーラル時代にレコーディングを開始したカンテルリは、その短い盤歴の中に優れた演奏を刻んだ。その中で、私がカンテルリの名を頭の中にしっかりと叩き込まれたレコードがこの、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」なのである。第1楽章の出だしを聴いて見たまえ。弦のピチカートと木管のスタッカートで開始し、ヴァイオリンがメロディーを奏でていくこの曲の出だしは、リズムの歯切れ良さとヴァイオリンのメロディーのカンタービレの調和が実に難しい曲である。リズムの歯切れが良すぎればヴァイオリンのメロディーが浮いてしまうし、逆だとだらしがなくなってしまう。だが、カンテルリはこの調和をここで見事に成し遂げている。演奏するフィルハーモニア管弦楽団のアンサンブルが決して機械的なリズムになっておらず、自然な呼吸を伴っている。このリズムとカンタービレの調和に私は参ってしまったのだ。その後、色んな指揮者で「イタリア」を聴いたが、この出だしの部分でこれ程ゾクッとした演奏には巡り合っていない。それどころか「イタリア」を聴く度にカンテルリの事を思い出してしまうのである。さて、出だしの事ばかり書いてしまったが、出だしだけでなく、このリズムとカンタービレの調和は曲全体に及んでいる。とにかくリズムの処理がうまい。それでいて歌わせるところはきっちり歌わせ、ちょっぴり寂しいところはとてもセンチメンタルな音を聞かせるし終楽章の様に力強さが必要なところはきちんとアタックが当てられている。とにかく私にとってはこの曲の理想的な演奏なのである。ただ、惜しむらくはこの録音が、モノーラルである事である。カンテルリとフィルハーモニアとの録音は1955年8月からステレオ録音が開始されている。モーツァルトの「音楽の冗談」とブラームスの第3交響曲は8月の録音だがステレオで録音されている。が、この「イタリア」は同じ8月でもモノーラルなのだ。しかも録音最終日の8月16日はステレオで残ったブラームスの録音日と重複しているのだ。録音はモノーラルでも鮮明な音だが、もしこれがステレオだったらこの演奏の評価も現在の存在価値ももっと上がったろうと残念でならない。いや、もしかするとEMIの倉庫に幻のステレオテイクが眠っているかも知れないのだ。レコードはずっと昔に国内盤で出てから暫く廃盤になったままだった。本家EMIが何故かCD化せずに放置していたが、「テスタメント」と言う、EMIがCD化しない音源を正式にライセンスを受けて復刻するレーベルがリマスターしてリリースしてくれた。カンテルリを代表する名演奏なのに本家が商品化しないのはどうしたもんだろうと思うが、このテスタメントによるCDはしっかりした音で復刻されている。そして、更に嬉しい事に、余白にカンテルリが録音を開始していながら、かの飛行機事故の為に完成されなかったベートーヴェンの第5交響曲の録音された第2楽章以降が収録された。死の直前までレコーディングを続け、第2楽章のOKテイクを録音し、第3第4楽章はテストテイクであったらしいが、第1楽章を残して演奏旅行に出て帰らぬ人となってしまい、レコーディングが中途半端に終わってしまった。だが、未完成とはいえここで聴ける事になったのはとても嬉しい事である。カンテルリは黎明期のステレオ録音で、この第5を入れて6曲半の録音を残しているが、その中ではベートーヴェンの第7交響曲が「イタリア」同様のリズムと歌の調和が美しく、この指揮者の体質に合っている名演だ。(1997/09/25)

ヨーゼフ・クリップス〜ウィーン・フィルのウィンナ・ワルツ Preiser Records 90984 N 

以前からあちこちの雑誌や本で、クリップスのウィンナ・ワルツは絶品だと言う人が多く、気になっていたのだが、残念な事になかなかこのアルバムを見つける事が出来ずにいた。Decca原盤のこのアルバムは未だ本家ではCD化されておらず、一部の曲目がオムニバス盤に組み込まれているだけだった。CD化を待ち望んでいたのは私だけでは無かったようで、シビレを切らせたのか、オーストリアのプライザーと言う会社がデッカからライセンスを受けてCD化した。地元ウィーンで親しまれていたクリップスのこのアルバムを、ウィーンの人達も首を長くして待っていたに違いない。レギュラー・プライスの輸入盤だが、とにかく買って見た。演奏は期待通り、いや、それ以上だ。1曲目の「皇帝円舞曲」からウィーン・フィル独特のみずみずしい香りがたちこめてきたのだ。録音されたのは1957年、この頃のウィーン・フィルは、ことアンサンブルに関しては1960年代のそれに引けをとるが、まだまだ良きローカル色が満開である。それにしても現在のウィーン・フィルのていたらくを思うと情けないものがある。ウィーン・フィルは現在でも世界のトップ・オーケストラである事は間違いないのだが、その魅力は半減している。あまりにインターナショナルなオーケストラになり過ぎてしまった。ウィーンのあの音色が失われてしまったのだ。原因は良い指揮者がいなくなってしまったからだろう。ウィーン・フィルの音色が失われていったのも、カール・ベームの逝去と時を同じくしている様に思えるがいかがだろう。日本でもリアル・タイムで見る事が出来る様になった、あのニュー・イヤー・コンサートにしても、クライバーあたりが振った時にはまだ良いけれど、マゼールとかムーティなんかに振らせちゃいけない。信頼してしっかりと付いていける指揮者がいなくなってしまったのもウィーン・フィルには悲しいことだ。クリップスの演奏は無理のない自然体だ。CDで聴く事のできるモーツァルトもベートーヴェンもハイドンも、ことさら何を強調しようとかここを聞かせようと言った主張が無いかのように聞こえる。しかし、それは至極自然な形で音楽そのものを聴かせているのである。クリップスはオーケストラにアンサンブルを教え込むタイプの指揮者では無かろう。が、彼の指揮によってオーケストラは協調する事を自ら求められるのであろう。クリップスの演奏は教え込んで生まれたものでもなく、アンサンブルそのものを眼中においたものでも無い。だから、アムステルダムのオーケストラもロンドンのオーケストラからも、さらにはスイスの二流オーケストラも彼の棒の下自然な音楽を奏でるのだ。 生まれも育ちもウィーンのクリップスのそんな自然体が、ウィーン・フィルに受けない訳が無い。クリップスとウィーン・フィルが相性がいいと言われるが、このコンビは同じ言語で音楽を奏でる事ができるのである。話をこのアルバムに戻そう。このアルバムは練習を積んでレコーディングしたものでは決して無いだろう。どこか、ぶっつけ本番的な危なっかしさと緊迫感が漂っている。「皇帝円舞曲」でまず最初に気がつくのはなんと言ってもリズムの切れ味の良さだ。冒頭の小太鼓のリズム、跳ねる弦楽器、そしてバルブ・トランペットのくすんだ音色。これこそウィー・フィルだ。偉大なるローカル・オーケストラの音色だ。時々アインザッツがずれたりするけれども、そんなのはどうだっていい。楽員全員が一体となって自分たちの音楽を奏でているではないか。独特のルバートもリタルダンドも、とてもおしゃれで粋だ。歯切れの良いリズムに甘美なメロディーが乗る、ウィンナ・ワルツの醍醐味はここにある。そこには、歌があるのだ。おそらくウィーンっ子にしかわからない限りなく民謡に近い歌がある。誰にも真似の出来ない歌が…。クリップスはウィー・フィルの中にあるその歌の世界を棒を振りながら時々、くすぐっているだけなのだろう。ウィーン・フィルのウィンナ・ワルツには、モノラル時代のクレメンス・クラウスのものと、ステレオによるウィリー・ボスコフスキーのものがある。ニューイヤー・コンサートはクラウスが戦後復活させて、亡き後ボスコフスキーが後を継いだらしい。特に、100曲以上の録音を残したボスコフスキーのものはウィンナ・ワルツの集大成と言うほどの立派な功績である。が、今このクリップスのアルバムを聴いてしまうと、その役をクリップスにやって欲しかったと思わざるを得ない。ボスコフスキーのものだけを聴いていればそうは思わないのだが、クリップスのものにあるこの独特の粋でありながら田舎臭さに近い味わいが薄く、教則本的な演奏に思えてくるのである。今、このような音色と歌をウィーン・フィルに求めてももうそれは叶わないであろう。ウィーン・フィルはインターナショナルに、そしてアカデミックになり過ぎてしまった。最後にこのアルバムに入っている曲目を記しておこう。いずれもシュトラウス・ファミリーのものである。例として挙げた「皇帝円舞曲」と、「南国のバラ」が中でも絶品だ。「南国のバラ」はボスコフスキーのものが録音のバランスが余り良くないのでこちらの方が聴きやすいことも含めてベストである。「春の声」と「オーストリアの村つばめ」の2曲は珍しいソプラノ独唱入りで入っている。歌はヒルデ・ギューデン、これもぶっつけ本番的な合わせでスリルがある。後、「加速度円舞曲」「美しき碧きドナウ」「ピチカート・ポルカ」の全7曲。録音は1956年と1957年と古いが、さすがデッカ録音。遜色は全くと言って良いほど無いステレオ録音である。(国内盤登場:London.POCL-4319)

CHICAGO "Night & Day BIG BAND"   Giant 74321 26767 2 

CHICAGOとは、あのCHICAGOである。デヴィッド・フォスターと別れてから今ひとつ冴えなかった連中が、何を思ったのか懐かしいビックバンドのスタンダードを集めたアルバムを作ったのである。これは1995年に発表されたものだが、余り話題に上がらなかった様だ。CHICAGOのアルバムは、デヴュー以来ずっと通し番号が付いてきたが、ここへ来てその番号が付かなくなった。本来は"22"だと思う。何をとち狂ってこんなアルバムを出したのか良くわからないが、それはともかく、ジャズが好きで、それもビックバンドが好きで、ブラスがパーパーやるのが好きな私にとっては、買った時には大して期待してなかったのだが、これが結構ご機嫌なのである。しょっぱなに出て来るのが、Chicagoである。CHICAGOのCHICAGOとは洒落のつもりだろうが、ツービートのビックバンドサウンドに乗って「CHICAGO..CHICAGO..」と歌われると、ついついにやけてしまったのである。アレンジは基本的にツービートのビックバンド・サウンドなのだが、良く聴くと古いだけでなく、近頃流行のブレークビートサウンドが加味されていてなかなか面白い。次曲のCaravanではブレークビートが更に色濃くなり、シカゴ・ブラスのフレーズが飛び出す。3曲目はDream A Little Dream Of Me"女性ヴォーカルとのデュエットでバラード風。バックのハモンド・オルガンがなかなか泣かせますぜ。4曲目Goody Goodyは、こりゃもう今風、シカゴ・ブラス大活躍。Moonlight Serenadeはボサノバ風で面白い。という風に、昔懐かしいビックバンドのエッセンスを取り入れ、シカゴ・ブラスがビックバンドと競演した形のアルバム。なかなか面白く出来てます。曲は他に、Night & Day、Blues In The Sky、Sing, Sing, Sing、Sophisticated Lady、In The Mood、Dont't Get Around Mushch Anymore、そしてラストの、Take The "A" Trainに至っては、909のKickまで飛び出すありさま。シカゴのブラスのおっさんたち、こんなのをやって見たかったんだろうな。もっとも彼らは元々ジャズの流れを強く受けている訳だから、そのエッセンスはうまく取り入れている。ジャズが好きで、CHCAGOがお嫌いでなかったら聞くべし。録音の方は、悪くはないのだが、圧縮されたデジタル・サウンドとでも言っておこうか。ナチュラルではないがそれなりにインパクトはある。

クレイジー・シングルス ハナ肇とクレイジー・キャッツ  Toshiba.TOCT-6030-1 

この2枚組のCDが発売された時、発売日に真っ先に買ったのを覚えている。中途半端なベスト盤をじっと我慢して、網羅されたものをひたすら待ちわびていたのだ。私にとってのお笑いの原点は、クレイジー・キャッツにあると言える。VTRの普及する以前に過ぎ去ってしまったクレイジー・キャッツ。「おとなの漫画」や「シャボン玉ホリデー」を知るのは、もうかなりのおっさんである。小学校の時、祖母の葬儀の場で「スーダラ節」を唄っている私の写真がある。僕にとっては、「スーダラ節」は、一世代後のピンク・レディーや今のアムロと同じだった。今や都知事の青島幸夫の詩がとっても良い。逆説、本音、願望を巧みに組み合わせ、笑わせながらその奥に、深いものを感じさせるのは落語と同じなのだ。そしてここに、クレイジーがドリフターズなどとは違う事を見いだす事が出来るかどうかが、笑いと言うものの文化価値判断の基準があると思うのだ。どっちも馬鹿馬鹿しくて面白いだけと思うだろうか。いや、クレイジーの方はためになる笑いだと私は思うのである。曲も編曲も今聞いても実に新鮮だ。巧みに使った効果音。今ならシンセサイザーですぐ作れそうだが、当時は全て実音。探す方も大変だったろうが、録音するのも大変だったろうと思う。全22曲、全てが名曲とはいかないまでも、クレイジーが華々しかった頃のものは名作揃いである。スーダラ節、こりゃシャクだった、ドント節、五万節、ハイそれまでョ、これが男の生きる道、ショボクレ人生、おっと、挙げていくと全部になってしまうぞ。とにかく、クレイジーの軌跡とも言うべきシングルカットされた曲が全部入っているのだから嬉しいことこの上ない。レコード会社の枠までも乗り越えて集大成されているのである。私にとって遠くへの一人でのドライブのお供に、このCDは欠かせないものになっている。眠くなった時、こいつを鳴らして大声で一緒に唄って走る事が多い。若者がカラオケで発散しているのと同じ様に、私はクレイジーで発散しているのである。「そのうちなんとかな〜るだァろ〜う」は、仕事でも、ラリーでも、そして人生の諸問題に関しても、私の糧にしている。

 

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