明暦の大火後、武家地にのみ 火消し制度(その後、定火消しに発展)が出来ていましたが、1720年に 大岡越前守によって、「いろは四十八組」に分けた
町火消しがつくられ、古くから大藩で組織されていた 大名火消し(武家火消し)とあわせて、消防組織が3系統となりました。
なかでも明歴大火(所謂 振袖火事)は、江戸の都市作りに 大きな影響を与えました。
それ迄 町火消しは、南伝馬町・大伝馬町・小伝馬町・他20町が 組合としてもっていましたが、江戸全部には 普及していませんでした。それを「いろは四十八組」に
再編成したものです。
また、「いろは四十八組」に加えて 隅田川以東の本所・深川には 別に十六組があてられました。
更に これが、1730年
「いろは組」は10番組に統括、本所・深川の16組は南・北・中の三大組に統括されました。
纏は 当初は織が用いられていましたが、その後 吹き流しが付けられるようになり、「いろは四十八組」を10番組に再編成した際に、纏の下に
馬簾がつけられる様になりました。
今の形は 寛政年間(1789〜1801)に固まったと言われています。