江戸の町火消し
明暦の大火後、武家地にのみ 火消し制度(その後、定火消しに発展)が出来ていましたが、1720年に 大岡越前守によって、「いろは四十八組」に分けた 町火消しがつくられ、古くから大藩で組織されていた 大名火消し(武家火消し)とあわせて、消防組織が3系統となりました。
なかでも明歴大火(所謂 振袖火事)は、江戸の都市作りに 大きな影響を与えました。

それ迄 町火消しは、南伝馬町・大伝馬町・小伝馬町・他20町が 組合としてもっていましたが、江戸全部には 普及していませんでした。それを「いろは四十八組」に 再編成したものです。

また、「いろは四十八組」に加えて 隅田川以東の本所・深川には 別に十六組があてられました。
更に これが、1730年 「いろは組」は10番組に統括、本所・深川の16組は南・北・中の三大組に統括されました。

纏は 当初は織が用いられていましたが、その後 吹き流しが付けられるようになり、「いろは四十八組」を10番組に再編成した際に、纏の下に 馬簾がつけられる様になりました。
今の形は 寛政年間(1789〜1801)に固まったと言われています。

組番号をクリックすると、
詳細図が表示されます。
出火の時は、風上の町が2町、左右の町が2町ずつ、計6町が出動し、出火地点の川下の家を 人海戦術で 撤去しました。
纏は 「その地点で火を食い止める」との標識(「消し口」と言った)として 使用したものでした。
町火消しの行列は、先頭に頭取、続いて梯子・纏・平人足が 長鳶口を持って3列か四列になり、その後を竜吐水が続きました。
町火消しの守備範囲は もともとは 町人の住む町人地であり、武家地は 大名が持つ大名火消しや 幕府の定火消しが担当していました。
火の見櫓
 
定火消し 町火消し
しかし、時代が進むにつれ、幕府定火消しが手薄となってきたことから、町火消しが 武家方火消しと混合して 活動するようになりました。
更に 幕末となると 武家方の消防力は低下し、ついには 町火消しが 江戸城内の消化の為出動する様にさえなりました。
町人は、ただでも 武士に対し対抗意識を 持っていたことから、消し口争いに かこつけた喧嘩さわぎは めずらしくなかく、火事と喧嘩は江戸の華と言われた所以です。
引用した資料

東京消防庁 消防博物館展示資料
江戸東京博物館展示資料
江戸東京博物館:図表でみる江戸・東京の世界
人文社;江戸切絵図
内藤 昌著「江戸の町(下)」 草思社
山本純美著「江戸の火事と火消」河出書房新社
朝日ジャーナル:大江戸曼荼羅

ページトップへ