江戸の大火
江戸時代は1603年に始まり、1867年まで264年間続きましたが、江戸は武家中心の町であり、総面積の約67%が武家地で 町屋は約12%にすぎませんでした。
しかし、人口的には 武家地に住んでいた人;約50%に対し、町屋には約46%の人が住んでいました。
この為、町屋の人口密度は、約69,000人/平方キロと超過密な社会でした。

下の図で、茶色の部分が町屋、緑の部分が武家地を示しています。
町屋は、日本橋や神田或いは浅草・赤坂・芝といった処に集中していて、その多くは 所謂 裏長屋に住んでいました。
昭和55年度の国勢調査では、全国一の豊島区ですら22,185人であり、いかに過密であったかが うかがえます。
1632年 1670年 1849年〜1865年

また、規模としても1700年頃の記録では、ロンドン;50万人に対し、江戸は80万人であり、既に世界一の巨大都市となっていました。
単位;ku
  武家地 寺社地 町人地 その他 合計
1644年 34.1 4.5 4.3 1.1 44.0
1673年 43.7 7.9 6.7 5.1 63.4
1725年 46.5
(65万人)
10.7
(5万人)
8.7
(60万人)
4.0
 
69.9
(130万人)
1865年 50.7 10.1 14.2 4.8 79.8
( )内は人口を示す。
当時は、火を 炊事と灯りの両方で使っていたことに加え、密集した木造家屋であった為、火事は 日常的と言っていいほど起きていました。
又 遺恨からの放火も多かった様です。
つまり、宵越しの金を持っていても、火事があれば すべてなくなってしまったわけです。
江戸時代には、1657年の明歴大火、1772年の行人坂火事、1806年の芝車坂の火事の 3大火を含めて 記録された大火は 200件以上に及んでいます。
江戸の大火は 1000戸単位で延焼していく例が多く、冬は北西風で江戸北部から 春の南西風では江戸南部から、帯状に燃え広がっていく形でした。
明暦の大火による被害
大名屋敷500余
旗本家770余
町屋400町
焼死者10万7046人
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