第五章 復活論


それでは、まいりましょう!
まずは、こちらのトリビアです(`・ω・´)つ


イエス・キリストは、父親の葬式のために自分の家へ帰ろうとする弟子に
「死人を葬ることは、死人に任せておくが(・∀・)イイ」と言われた。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜へぇ〜へぇ〜


見て頂きましょう。
こちらが確認のVTRです(*´-`)つ

はい。確かにイエス様は、父親の葬式のために自分の家へ帰ろうとする弟子に
「死人を葬ることは、死人に任せておくが(・∀・)イイ」と言われました。
新約聖書の、ルカによる福音書九章の59節から60節を見ると、
またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。
彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。

とあります。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜へぇ〜へぇ〜

このイエスのみ言の中には、生死について、二種類の概念があるわ。
ひとつは、その弟子の父親のように、肉身の寿命が切れた「死」に対する生死の概念よ。
この死に対する生は、肉身が生理的な機能を維持している状態を意味するわ。
もうひとつは、その死んだ父親の葬式をするために、集まって活動している人たちを指していう「死」に対する生死の概念よ。
この死は、肉身の寿命が切れる死を意味するのではなくて、神の愛の懐を離れて、サタンの主管圏内に落ち込んだことを意味するのよ。
この死に対する生は、神の愛の主管圏内で活動している状態をいうの。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜へぇ〜へぇ〜

イエスが「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と言われたのは、
イエスを信じて、神の愛の中で生きる者は、寿命が切れて、その肉身が葬られたとしても、その霊人体は依然として神の愛の中にいるから、その人は生きているという意味よ。
そして、「また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」と言われたのは、
イエスを信じる者は、地上で永遠に死なずに生きるという意味ではなくて、肉身のある間にイエスを信じる者は、現在生きているのはいうまでもなく、肉身の寿命が切れた後も、その霊人体は永遠に神の愛の中で生きるという意味なのよ。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜

神はアダムとエバに、善悪を知る木の実を取って食べると死ぬと言われたけど、
その死は、肉身の寿命が切れるという意味での死ではなくて、神の主管圏からサタンの主管圏に落ちるという意味での死なの。
堕落によって死んだ人間が、復帰摂理によって神のもとに復帰されていく過程的な現象のことを「復活」というのよ。
私たちが、罪を悔い改めて、昨日の自分より今日の自分が少しでも善に変われば、それだけ復活したことになるわ。



さあ、続きまして、こちらのトリビアです(^o^)っ


楽園は天国に行くための待合室のようなところである。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜へぇ〜へぇ〜


では、どういうことなのか見て頂きましょう。
こちらが確認のVTRです(´・ω・`)⊃

はい。確かに、楽園は天国に行くための待合室のようなところです。
イエスがメシヤとして地上に降臨された目的が完成されていたら、そのとき地上天国は完成されたはずです。
そして地上天国で生活して完成した人間たちが、霊界に行けば、天上天国もそのときに完成されたはずです。
しかし、イエスは十字架で亡くなられたので、地上天国も天上天国も完成されませんでした。
楽園とは、イエスを信じて霊的救いを受けた者が行く霊界であり、天国の門が開かれるのを待つ所なのです。
イエスはペテロに天国の門の鍵を授けました。そのためペテロは、天国の門の番人といわれます。
わたしは時空の鍵をもつ、時空の扉の番人。
ゆきなさい。扉が開きます。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜



さあ、続きまして、こちらのトリビアです(*゚Θ゚)つ


輪廻転生は再臨復活によって生じる見かけの現象である



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜



こちらが確認のVTRです( ´_ゝ`)つ


はい。確かに、輪廻転生は再臨復活によって生じる見かけの現象です。
人間の霊人体は、肉身を土台としてのみ成長するように創造されました。
つまり、霊人体は肉身を離れては成長することも、復活することもできません。
地上で完成せずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して地上人たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりとして活用するしかありません。
このとき、協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する霊人の使命も代理で成し遂げるのです。
そのため、この使命を中心として見れば、その地上人の肉身は、彼を協助する霊人の肉身ともなります。
このようなわけで、地上人はしばしば、霊人が輪廻転生した実体のように見られるようになります。
例えば、月野うさぎの前世はプリンセス・セレニティであると言われますが、これは霊人であるセレニティが地上人である月野うさぎに再臨協助しているために、そのように見えるのであって、月野うさぎとプリンセス・セレニティはあくまでも別人です。
ただ、月野うさぎは、セレニティが肉身生活で果たせなかった使命を完遂すべき立場にいるので、その意味で、月野うさぎはセレニティの再臨者なのです。
輪廻転生が主張されるようになったのは、このような再臨復活の原理を知らないで、現れた結果だけをみて判断したためです。

輪廻転生が見かけの現象であるということは、慣性力が見かけの力であるということと似ているかもしれません。
加速度a1で運動している列車の天井から糸でつり下げられた質量mの物体について考えてみましょう。
この物体を地上に静止した人から見ると、物体には重力mgと糸の張力Sが働いて、その合力Fで物体は列車と同じ加速度a1で運動しています。このとき、運動方程式 F=ma1が成り立っています。
一方、車内の人から見ると同じ物体が静止して見えます。つまり、物体には重力mgと張力Sのほかに、それらの合力につり合う力f=−ma1が働いているように見えます。一般に、観測者が加速度運動をしていると、この加速度と同じ大きさで逆向きの加速度を生じさせるような力が、すべての物体に働いているように見えます。この見かけの力を慣性力と呼びます。慣性力を考えれば、加速度運動をしている座標系においても運動方程式が成り立ちます。
慣性力は、つり合いのために仮に考える力のような感じがするかもしれませんが、加速度運動している車内などでは、現実に重力などと同等な働きをする力です。例えば、さきほどの例で、物体をつり下げている糸が切断されれば、物体は、車内の人からみると、f=−ma1とmgの合力によって斜め下に落下します。
これと同様に、輪廻転生が見かけの現象であるとは言っても、使命を中心としてみれば、確かに月野うさぎの肉身がセレニティの肉身ともなるのは事実であるし、月野うさぎはセレニティが肉身生活で果たせなかった使命をも果たすべき立場にいるのです。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜

もちろん、地球も回転しているから、たとえ地面に対して静止していても、厳密には慣性系とはいえないわ。
ただ、あまり大きくない現象を秒や分の単位で分析する場合には、地球の公転や自転の影響は十分小さいと見なせるから、
地面を慣性系とみなしても差し支えないのよ。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜

キリスト教で待ち望んでいる再臨のイエスは、仏教で再臨すると信じられている弥勒仏でもあるし、儒教で顕現するといって待ち望んでいる真人でもあるの。
そして、それ以外のすべての宗教でそれぞれ顕現すると信じられている中心存在でもあるのよ。
だから、さまざまな宗教を信じて他界した霊人たちは、それぞれ、自分が地上にいたときに信じていた宗教と同じ宗教を信じている地上人に協助して、再臨主の前に導くのよ。こうしてすべての宗教は統一されていくのよ。
そして、宗教を信じないで他界した霊人たちも、時が来れば、再臨復活の恵沢を受けるために、同じような地上人に協助して再臨主の前に導くのよ。



( ・∀・)つ〃∩ へぇ〜



ちなみにこの銀の脳、5つ集めると金の脳と交換することもできます。



脳みそピョ〜ン

私たちが前世の運命を持って生まれてきたのは事実よ。
それを乗り越えた時、本当の自分になれると思う。
私が私になれたように。



美 奈 子 ・・・ _| ̄|○