注意:この記事には「風の谷のナウシカ」(原作漫画・アニメ版両方)と、「Dr.STONE」第二章(いわゆる「司帝国編」)のネタバレがあります。
この記事では、技術や知識や文明を憎悪する考え方・感じ方を「文明憎悪」と呼称します。
「風の谷のナウシカ」の原作漫画とアニメ版の両方を読み/視聴した方の多くは、両作品から大きく異なる受ける印象を受けたと思います。 その重要な要因の一つは、主人公ナウシカの行動でしょう。
アニメ版ではナウシカは、時に激昂することもあるものの、基本的には自己犠牲をもいとわず他人はおろか蟲の生命も救おうとする聖人のようなキャラクターとして描かれます。
原作漫画でもナウシカは基本的には同様に聖人のような人物ではありますが、最終的に巨神兵を使役し、文明崩壊前の技術の一部を受け継ぐ人々を皆殺しにします。 アニメ版ではクシャナが巨神兵を使役して多数の蟲を殺し視聴者に苛烈な印象を与えましたが、 原作漫画ではクシャナが巨神兵を使役することはないため、なおさらナウシカの苛烈さが際立っています。
ナウシカに知識人たちの皆殺しを決意させた最大の理由は、私の解釈では文明憎悪でした(それだけではありませんが)。 アニメ版を見ても他のキャラクターに『多すぎる火は何も生みはせん』といった文明憎悪的な台詞がありますが、ナウシカは最終的にこの感情を爆発させように思えます。
私は、ナウシカを非難するつもりは全くありません。
実際にナウシカの世界では知識や文明が人類に破局をもたらしたのですから、知識人を皆殺しにしようという考えになるのはむしろ自然なのかもしれません。
ただ、非難するつもりはなくても、個人的にはナウシカや風の谷の人々の文明憎悪的な考え方には魅力を感じないというというのが正直なところです。
作者の宮崎駿監督がナウシカの文明憎悪をどう評価されているのかは分かりませんが、この文明憎悪が同作のテーマの一つだったのではないかと私は考えています。
近年のヒット作品「Dr.STONE」第二章も、同様に文明憎悪をテーマの一つにしていたと私は解釈しています。
全人類が石化し文明が崩壊した3700年後の地球で、少しずつ人類や技術を復活させていけそうになった時、主人公(千空)とライバル(司)は全人類・全技術を復活させて以前のような文明を取り戻すか、一部の人間のみを復活させ文明は復興させずに原始的な社会を構築するかで対立します。 司は石化解除液をかければ復活する石化した人々の像を次々破壊していき、豊富な科学知識を持つ千空を殺そうとすらします。
司の文明憎悪は強固なものでしたが、やがて彼自身が文明復興阻止のために復活させた人々も文明復興を望むようになっていきます。
文明を復興させて美味しいラーメンが食べたい。コーラが飲みたい。風邪を治せる抗生物質があった方がいい。 やはりほとんどの人はそう考えるのではないかと思います。
上で私は文明憎悪に魅力を感じない、と書きました。恐らくそう考える最大の理由は、私が文明憎悪に傲慢さを感じることが多いからであるような気がします。
例えば上で引用した『多すぎる火は何も生みはせん』にしても、蟲や胞子におびえながら生活する人々をそうやって非難することは本当に妥当なのか?
そんな非難は飢饉でたびたび餓死者が出る村の人に「森を焼いて畑にするなんてけしからん」と言うくらい無茶ではないか?と考えてしまいます。
無論、野放図な開発には問題があるでしょうが、どの位から野放図な開発となるのかはそう簡単に決められるものではないように思えます。
また文明憎悪の方は、「却って危険な技術を生むリスクもあるためあまり技術革新を進めるべきではない」、 あるいは「よくわからない技術革新はやめて実用的で身近なものに絞るべきだ」というような主張をすることがあります。 しかし、後に多くの人々を助けノーベル賞を受賞するような重要な発見でも当初は使途が不明だったりするわけで、 科学に常に有用性を求めるものではないと思います(参考:「「役に立つ」が社会をダメに ノーベル賞大隅発言にネット沸く」)。
フィクションの登場人物の考え方と作者の考え方を同一視するのは危険とは思いますが、宮崎監督はテレビ出演の際に 火星に住む研究をする位ならまずサハラ砂漠に住めるようにするべきだ、という趣旨の持論を展開するなどしばしば文明憎悪的な主張をされており、 ナウシカの考え方にある程度は肯定的なのかもしれないと考えています。 しかし、将来惑星規模の環境変動等があった時にサハラ砂漠に住めても人類は助かりませんし(十億年後には太陽活動の変化により地球は死の星になると考えられています)、 そもそも火星に住む研究は地球にもう住めるところがないから行っているのではないはずで、 「やっぱり文明憎悪の方の考え方はよく分からない」と考えてしまいました。
スティーブン・ピンカー様は著書「21世紀の啓蒙」で、私が文明憎悪と呼んだ考え方を詳細に批判されています。
(略)一つは衰退主義で、ほぼ二世紀前から多様な分野の著述家たちが、現代文明は進歩を享受するどころか衰退の一途をたどっていて、もはや崩壊寸前だと断言してきた。 歴史家のアーサー・ハーマンが『西洋史における衰退の思想(The Idea of Decline in Western History)』のなかで、この二世紀のあいだに、人種的、文化的、 政治的、生態学的な衰退に警鐘を鳴らした悲観論者を詳しく紹介している。どうやら世界はずいぶん長いこと終わりつづけているようだ。
衰退主義はさらに二派に分けることができ、片方は、人類はプロメテウスよろしく禁断の科学技術に手を出してしまったと嘆く。 神々から火を盗んだことは、結局のところ自滅の手段を得たことにしかならなかった。環境汚染のみならず、人類は核兵器、ナノテクノロジー、 サイバーテロ、バイオテロ、人工知能等々、自らの存続を脅かすものを次々とこの世に解き放ってしまった(略)
もう片方の衰退主義はその逆を嘆くもので、現代の問題は人生を過酷で危険なものにしたことではなく、過度に快適で安全にしたことだと考える。 その提唱者によれば、健康、平和、そして繁栄は、人生にとって本当に大事なことから目を逸らすためのブルジョア的な気晴らしに過ぎない。(略)
スティーブン・ピンカー/草思社「21世紀の啓蒙(上)」P.77より
同著には様々な面白いデータが紹介されています。たとえば、人類は500万年前に生まれましたが、その歴史の大半において全体の平均寿命は30歳前後で、 比較的早く豊かになったヨーロッパやアメリカでも19世紀中ごろまでは35歳前後でした。 その後人類の平均寿命は劇的に伸び、2015年時点では71.4歳にまでなっているそうです。
無論、文明がもたらした公害や兵器等によって多くの方々が命を失っていますし、将来進歩した文明が人類に危機をもたらす可能性もあるでしょう。 しかし、人類誕生後500万年横ばいだった平均寿命をここ百数十年で二倍以上にするなど文明が人類に与えた恩恵ははかり知れませんし、 将来進歩した文明が人類を危機から救う可能性もあるでしょう。
私は、文明発展は人類が生き残るための死にもの狂いの努力の結果であると考えています。 文明憎悪の方々はこれまでのこうした努力を馬鹿にすることが多い印象があり、どうにも傲慢に思えてしまいます。
公開:2022年7月22日 最終更新:2022年7月24日