1960年生まれ。大阪府立三国丘高校卒、神戸大学、広島大学大学院で生活指導論を学ぶ。その後、豊中市立第十中学校、十五中学校で英語教師として12年間勤務。その間、大阪教職員組合青年部事務長、全教豊中教職員組合書記長などをつとめる。
趣味はスキー、映画・ビデオ鑑賞、ギターを弾いて歌うこと。

▲家族みんなで
家族は妻と娘3人。教師として、子どもや父母、同僚からそれなりに一定信用され、教職員組合運動でも重要な役割を果たし、楽しく充実した日々を送っていました。なのに、中学教員という安定した職業を辞職し、なぜ市議会議員という政治の道に歩ふみ出すことになったのか。随分と悩み、髪の毛も抜けましたが、そこらの決心にいたる過程を私の生い立ちをふり返りながら、お話ししたいと思います。

▲3歳の頃
今改めて自分の歩んだ道を振り返ってみると、私は小さいころから、けっこう正義感と負けん気が強かったようです。
私は、長崎で生まれ、その後3年間暮らしました。そして親の転勤にともなって3歳の春に北九州に転居。そこで私の母は、遠く離れた幼稚園の3年保育に私を通わせました。当時は送迎バスなどはなかったので、路線バスに乗っての通園でした。しかも私一人でです。母親はバス停まで送って来て、バスの車掌に私のことを頼みました。あとは降りて幼稚園に行くのも、幼稚園から帰るのも私一人だけだったのです。今から考えると「親もよく私を通わせたなあ」と思いますが、こんなことができる時代だったのですね。
その北九州で、父に頼まれてタバコを買いに行った時、私は近所の小学生にお金を取られてしまいました。よほど悔しかったのでしょう。血相を変えて家に帰って来て、父親に「お金を取られた!取り返してくれ!」と叫んだそうです。(私は覚えていませんが、父がよく話しします。当時4歳でした。)このように、小さい時の私は結構しっかりしていたようです。でも一方で、私はかなりのごんたでもあり、近所の子どもをよく泣かしました。その度に、母はいつもあやまりにまわらねばならず、「将来この子はいったいどうなるのやろう」と心配していたそうです。

▲中学1年の頃
日本生命に勤務していた父親の転勤にともなって北九州に転居した後は、寝屋川、西宮、神戸と一年ごとに転居しました。そして、小学2年で再度西宮に転居してからは、中学2年までそこで過ごしました。小学校ではわんぱくでならし、中学ではいつも「掃除さぼり」に名を連ねていました。そんな私が中学2年で転機を迎えます。
仕事上で父親と付き合いのあった人が経営する大阪の塾に通うことになったのです。
もちろん自分の意思で決めたことです。その塾は、入塾試験はありませんでしたが、頑張る決意の証として丸刈りにすることが条件でした。片道1時間30分かけて通いました。午後6時から午後9時まで授業で、その後自習室で学習して帰るので帰宅はいつも最終電車でした。
しかもこの塾は毎日あり、1年間で休みの日は元旦を入れて3,4日しかありませんでした。まさに猛烈スパルタ塾です。しかし、今の進学塾とは違い、基本は自学自習でした。結局この塾には1年間通いましたが、そのことで、途中でものごとを投げ出さないねばり強さと、自分で勉強する力が身についたことは事実です。
しかし、このような生活をしていては友達付き合いができなくなるのは当然で、クラスでも独りぼっちになってしまいました。自ら選んだ道とはいえ、随分さみしい思いをしました。その後、友達付き合いも工夫して行い、クラスでも楽しく過ごせるようになりました。そして、この時の経験によって、「人の気持ちがわかる人間」になっていったように思います。特に、教師になってから、「友達のいない、あるいはできにくい生徒の気持ち」が痛いほどよく分かり、だからこそ仲間づくりに力を入れたのは、この時の経験があったからこそだと思います。

中学2年の一年間は、私を大きく変えました。そして、中学3年になる時に高石市に転居。そこでの生活も、今までとはガラッと変わったものとなりました。
まず、転校生で、しかも学年で唯一丸刈りだった私は、あっという間に学年中で有名になりました。そのためか、転校3日目に行われた学級委員長選挙では、なんと私が選ばれてしまったのです。これは女子の策略でしたが・・・。そして西宮と比べて生徒はみんな随分と気さくでした。
しかし、一方で悪さもたくさん教えられました。例えば、夜の9時頃から浜寺公園でマラソンをしてその後プールに忍び込んで泳ぐ、ということをクラスの悪がき達がやっていました。何回目かに私にも声がかかり、母親の「つかまるでー」という声に「大丈夫やって」と言って出かけていった私でしたが、案の定、警備員に捕まってこっぴどく絞られました。
このように、高石中学での1年間では、今まで経験したことのない「悪さ」と「のびのびとした生活」を経験することができました。「真面目だけど、ふざけるのも好き」という今の私の人格的基礎は、中2、中3の時の経験によってつくられたと思います。
▲高校時代の友人達と
さて、そんな経験をしながら高校受験を迎えました。私は関西学院高等学校に無事合格し、アメリカンフットボールをやる夢をもっていました。しかし、私学受験までは何も言わなかった担任から、「大学受験を経験しないという、安易な道を選ぶのは疑問に思う」と言われ、府立三国丘高校を受験。無事合格。人生とは面白いものです。もし担任の一言がなければ、教師にはなっていなかったでしょうし、日本共産党との出会いもなかったかもしれません。
高校では、バンドを組んでチューリップなどをコピーしてやっていました。進学校ながらも、三国丘高校は自由な校風で学校生活はとても楽しく青春を謳歌していました。そして、そのころバンド活動を通じて同級生だった妻と知り合いました。「素敵な女性だな」と彼女に好意を寄せながらも、大学受験直前ということもあって思いをうち明けずにいましたが、ある日彼女の夢を見ました。そのこで、思い切って交際を申し込むと、「考えさせて」という返事。正直、いい返事をあきらめていましたが、彼女の友人が私のことを「推薦にたる人物やで」と言ってくれたことが大きくものをいい、「交際OK」。その後、彼女とは8年間交際し、結婚しました。

▲大学生の頃
その後私は神戸大学に進学。ハンドボール部と子供会に所属し、自治会活動にも首をつっこみました。しかし、あまり勉学に励む学生ではありませんでした。
そんな私が専門課程にあがった時のオリエンテーションで故斉藤浩志先生に出会い、大きな影響を受けました。先生は「終戦時には海軍兵学校生で、一時は死ぬことも考えた。一度はなくした命だ。平和は命をかけて守る覚悟がある」と静かに話され、その言葉に私は大いに感動し、平和の大切さを痛感しました。そして、その後平和教育に関心を寄せ、そのことが広島大学大学院への進学と日本共産党との出会いにつながっていきました。
▲子ども会の「クリスマス会」にて
大学時代はノンポリだった私も、社会党の右傾化が顕著になってきたこの頃には、「信頼できるのは日本共産党しかない」と思うようになっていました。そして広島大学大学院に進学。私の周りに日本共産党員がけっこういたこともあって、大学院進学の半年後に日本共産党に入党しました。
院生支部では、支部会議の半分を古典学習にあてていました。「ドイツイデオロギー」や「唯物論と経験批判論」などを議論し合いながら読み進めるのはとても楽しかったです。そして、弁証法的唯物論の科学性のすばらしさに感動し、初めて「学問」に接した思いでした。
大学院での勉強はとても楽しく、あっという間に時間が過ぎました。そして、修士論文作成の時期が来ました。睡眠4時間が一ヶ月間続く地獄のような日々でしたが、何とか仕上げました。また、教員にも無事採用され、豊中市立第十中学校へと赴任することになったのです。

▲文化祭で生徒会から出演依頼
赴任して二日目。出勤すると「○○公園に行ってください」と同僚教師から言われて行ってみると、特殊警棒やチェーンを持った生徒達が数人たむろし、「おっさん、何しに来たんや」という始末。十中は大荒れ時代を迎えていました。授業不成立、ガラスは割れる、卒業生がトイレを占拠してのシンナーパーティーと、学校は無法地帯でした。しかし、その中心にいた生徒たちと少しずつ話ができるようになっていくと、彼らは、家の事情や勉強が分からないことなどを話し出してくれました。
そのうちの一人である父子家庭の生徒と彼の兄と一緒にドライブに行った時は、本当に楽しそうで、別れ際には「先生、今日はほんまにありがとう」と笑顔で言ってくれたのです。この経験が、「子供達のありのままをつかみ、彼らの心に共感する」姿勢をつくるもとになりました。そして授業も「分かる授業」を目指して研究に励みました。
▲修学旅行で生徒達と雪すべり
また、教育条件を良くしていこうとすれば、当然教職員組合運動にもかかわらざるをえません。生活指導や英語の研究サークルに参加しながらも、大阪教職員組合青年部役員や、豊中教職員組合の執行委員をつとめてきました。その中で、本当に政治が子供達を大切にしていない現実に何度も直面してきました。特に、書記長として組合専従になってからは、教育委員会などの行政の持つ問題点をより一層感じるようになってきました。そんなころ、党より立候補の要請を受けたのです。
教師としての仕事が非常に楽しかったですし、不況期に公務員を辞めることの不安もあり、随分悩んで髪の毛も相当抜けました。しかし、立候補の4年前から同居していた両親は当初は強く反対していましたが、最後には「とことん弱い立場の人たちの味方になる政治家になれ」と言ってくれ、妻も「あなたが納得できる道をすすめばいい」と言って励ましてくれました。また、教職員の仲間達も私を本当に勇気づけてくれました。家族や多くの仲間達の励ましで立候補を決意することができ、私は改めて「自分という人間が家族や多くの仲間の支えによって存在している」ことを実感しました。
議員になって、自分の責任の重さと「自分という存在が、自分一人のものではないこと」を日々感じ、まじめに生きる人たちが安心して暮らせる社会の実現をめざして頑張っています。