Europa Universalis 君主達の略歴


Table of Contents


カスティーリャ/スペイン王家 - Castille/Spain

フアン2世 - Juan II

フアン2世は、1405年に父王エンリケ3世が死んだ時まだ2歳にもなっておらず、 当初は母である太后キャサリン(イングランドはランカスター家の王女)と 叔父フェルナンドが共同して摂政となり政治を執っていた。 1412年、叔父フェルナンドは、アラゴン王に選ばれ、マドリッドから退出した。 しかしフェルナンドの息子達はカスティーリャに残り、これが後の禍根の種となる。

1419年、成人(14歳)したフアン2世は親政を敷くこととなった。 フェルナンドの息子エンリケは翌年、部下を引き連れて王宮を襲い、 フアン2世を監禁して自分を摂政にするよう脅迫した。 しかし、フアン2世の幼馴染であるアルヴァロ・デ・ルナの活躍により、 国王は救出され、エンリケのクーデターは失敗に終わった。

フアン2世はアルヴァロに絶大な信頼を置き、彼を重用した。 しかし貴族達はこれに反発し、ことあるごとにアルヴァロと衝突した。 1445年、フェルナンドの息子フアンに扇動された貴族達が反乱を起こすが、 アルヴァロはオルメドの戦いで反乱軍を撃滅し、 15世紀カスティーリャの内乱の前半戦は一応終結する (EU2のイベント3557ではエンリケ4世が反乱を起こしたように書かれているが、 これはParadoxの勘違い)。 性格的に果断さに欠けるフアン2世は、国政はもちろん自分の生活管理まで、 アルヴァロに任せるようになる。

1447年、すでに妻に先立たれていたフアン2世は、 息子エンリケ(後のエンリケ4世)の健康に不安を覚え、 またアルヴァロに説得されたこともあり、ポルトガルの王女イザベルと再婚する。 国王は43歳、新王妃は21歳の夫婦であった。 ところが、アルヴァロは国王夫婦の夫婦生活まで管理し始めたため、 イザベルの不興を買う。 二人の間に娘イザベラ(後のイザベラ1世)が生まれた後、 イザベルは夫フアン2世を説得し、アルヴァロを失脚させ、 ついには斬首刑に追い込んでしまう。 アルヴァロ亡きあとのフアン2世には、 カスティーリャの貴族達を自分一人で束ねる力は無く、 一年後、アルヴァロの後を追うように倒れた。 この後カスティーリャは15世紀内乱の後半戦に突入していく。

政治的には凡庸であったとされるフアン2世だが、 文芸に対する理解は深く、詩人や音楽家のパトロンとなって、 16〜17世紀に華開くスペイン文化の下地を作った一面もある。

エンリケ4世 - Enrique IV, el impotente

「不能王」という、世界史上でも指折りの恥ずかしい名前で知られる。

エンリケ4世は父王フアン2世と 王妃ドナ・マリアの間に生まれたが、 生まれつき心身共に虚弱だった。 心配したフアン2世は、王妃の死後再婚し、 新王妃イザベルとの間に王女イザベラと王子アルフォンゾをもうける。 貴族の支持はエンリケとアルフォンゾとで割れ、 ここにカスティーリャ内乱の後半戦の幕が開くことになる。

エンリケの最初のスキャンダルは、ナヴァラのビアンカとの結婚生活に始まる。 結婚後数年してもビアンカは処女のままで、 イザベラ支持の貴族達はここを攻撃し始めた。 エンリケは「自分の肉体には問題はなく、問題なのはビアンカの方だ」と主張し、 娼婦に証言させるなど、完全な泥試合の様相を呈していた。 結局二人の婚姻は無効と宣告され、事実上の離婚となった。

父王の死によってエンリケがカスティーリャ王に即位すると、 新王はヴィレナ伯を重用し、 彼は義母イザベルとその子イザベラ、アルフォンゾを幽閉する。 これによってイザベルは精神に異常を来したと言われる。 これに対しヴィレナ伯に反発する貴族達はアルフォンゾ支持で結集した。

次いで彼はポルトガルのフアナと再婚し、娘フアナをもうけ、 彼女を王位継承者として宣言する。 しかし、既に国王の性的不能は周知の事実となっていたため、 アルフォンゾ支持の貴族達はフアナを、 王の寵臣アルバカーキ公ベルトランの子だとして非難し始める (このためフアナはBeltranejaと渾名された)。 かくして国王の権威は地に落ち、カスティーリャ国内は内戦状態に陥る。

そうこうしているうちにアルフォンゾが病死してしまい、 アルフォンゾ派の貴族たちは仕方がないのでイザベラを頭目に祭り上げる。 エンリケとイザベラは、王位継承者をフアナではなくイザベラにする、 イザベラは結婚相手を自分で選べるが、結婚にはエンリケの承認を得る必要がある。 という条件で和解し(ロス・トロス・デ・ギサンドの和平)、 いったん事態は収拾されたかに見えた。

しかしこの和平もすぐに瓦解する。 エンリケは、イザベラをポルトガル王アルフォンゾ5世と結婚させようとし、 イザベラの反発を買う。 彼女はアラゴン皇太子フェルナンドとの結婚を決意し、 エンリケの監視元から脱走する。 これに対しエンリケはフアナをアルフォンゾ5世と婚約させ、 ポルトガルの力を借りてイザベラと対決する。 結局内戦はエンリケの死後まで続き、 カスティーリャの再興はイザベラ女王の時代を待たねばならなかった。

イザベラ1世 - Isabel I

イザベラは、1451年、カスティーリャ国王フアン2世と王妃イザベルの間に生まれる。 三年後、父王フアンが死に、 腹違いの兄エンリケ4世が国王となると、 彼女と母イザベルと弟アルフォンゾはアレヴァロに軟禁され、そこで幼少期を過ごす。 13歳の時、貴族の支持がアルフォンゾに集まっていることを知ったエンリケは、 この姉弟を目の届くところに置こうと考え、マドリッドの宮廷に移す。 ここから彼女はカスティーリャの権力闘争に巻き込まれることになる。

1468年アルフォンゾが急死すると、 反エンリケ派貴族はイザベラを押し立てて内乱を起こそうとするが、 彼女はエンリケ4世と交渉する道を選び、 王位継承者として王の了承を得る代わりに 王存命中は王を支持すると約束する(ロス・トロス・デ・ギサンドの和平)。

次の問題は、イザベラの結婚をどうするか、から始まった。 彼女の結婚は彼女一人の問題ではなく、カスティーリャの外交を左右する問題であり、 この決定権が誰にあるかはほとんど国政の実権とも等しい話だったのである。 ギサンドの和平では、妥協の産物として、 結婚相手を決める権利はイザベラ自身にあるが、 実際に結婚するためにはエンリケ4世の承認を得なければならない、と決められていた。
実はイザベラには諸外国から結婚の申し出が殺到していた。 イギリス王室のリチャード王子(後のリチャード3世)、 フランス皇太子ギュイエンヌ公、ポルトガル王アルフォンゾ5世、 そしてアラゴン皇太子フェルナンドなどである。 エンリケ4世はポルトガルとの同盟強化を望み、 アルフォンゾ5世と結婚させようとした。 しかしイザベラは、フェルナンドとの結婚を望んだ。 これには、イザベラ支持派貴族の意向があったと考えられている。
エンリケ/イザベラの折り合いがつかないまま、 イザベラはフェルナンドとの結婚を強行する。 エンリケは、イザベラがギサンド和平に違反したとして彼女の王位継承承認を破棄し、 娘フアナをアルフォンゾ5世と婚約させた上で、改めて彼女を王位継承者と宣言し、 イザベラとの全面対決に臨む。 今回は、反アラゴン派貴族も国王支持に回り、またポルトガルの支援も望めたため、 エンリケは強気だった。 しかしイザベラも、 枢機卿ペドロ・デ・メンドーサを通じてローマ教皇の支持を取り付けていた。

イザベラにとって幸いなことに、 虚弱だったエンリケ4世が1474年に死去する。 これによりカスティーリャ国内貴族の大半がイザベラ支持に傾き、 彼女はカスティーリャ女王として戴冠する。 これに対してアルフォンゾ5世は、フアナを通じてカスティーリャを支配下に置くべく、 ポルトガル軍を率いてカスティーリャに侵攻、 4年間に渡ってイザベラと対決を続ける。 1479年、カスティーリャ軍はポルトガル軍に大勝する。 また同じ年、アラゴン王フアン2世の死によりフェルナンドが新アラゴン王となり、 アラゴンを挙げてのイザベラ支持を表明する。 これによりアルフォンゾ5世もカスティーリャへの野望を諦め、 フアナは修道院送りとなり、イザベラの実権が確立された。

イザベラとフェルナンド - Isabel y Fernando

カルロス1世 - Carlos I

フェリペ2世 - Felipe II

フェリペ3世 - Felipe III

フェリペ4世 - Felipe IV

カルロス2世 - Carlos II

フェリペ5世 - Felipe V

フェルナンド6世 - Fernando VI

カルロス3世 - Carlos III

カルロス4世 - Carlos IV

フェルナンド7世 - Fernando VII

カスティーリャ/スペインの指導者達 - Castille/Spain Leaders

アルヴァロ・デ・ルナ - Álvaro de Luna

カスティーリャのコンスタブルにしてサンチャゴ騎士団の団長、 アルヴァロ・デ・ルナは、1390年にアラゴン系貴族の諸子として生まれた。 アヴィニヨン教皇ベネディクトゥス14世の甥でもある。 彼はカスティーリャ国王フアン2世(1歳で国王に即位) の幼馴染であり、 もともと国王に好かれていたが、 1420年アラゴン王子エンリケの反乱から国王を救出したことで絶大な信頼を勝ち得て、 1423年にコンスタブル(軍総監)に任命された。

彼は軍人としても統治者としても有能であったが、敵も多かった。 軍を率いては、イスラム諸国・反乱貴族、相手を問わず負け知らず。 国政を執ってはムーア人やユダヤ人を登用して経済力向上に貢献した。 しかし同時に、相続財産を持たない彼が、宮廷内での権力を維持するために、 地位を利用して私腹を肥やしていたことも、また事実である。 国王が彼に完全な信頼を寄せて心酔しきっている姿について、 黒魔術を疑う人も多かった。

さらに、フアン2世の最初の妻ドナ・マリアを彼が毒殺した、 との噂もあった。 1438年、ポルトガル王ドゥアルテ1世が死去すると、 王妃レオノールと王弟コインブラ公の間で内紛が起き、 これに敗れたレオノールは妹ドナ・マリアを頼ってカスティーリャに亡命してきた。 コインブラ公の親友でもあったアルヴァロは、 王妃ドナ・マリアとレオノールが結束して自分の地位を脅かすことを恐れ、 二人を毒殺した、との噂である。

もともとフアン2世を見下していた貴族達は、このようなアルヴァロに強く反発し、 彼の失脚を画策し、実際1427年と1438年の2度までもこれに成功した。 しかしそのたびに、 アルヴァロ以外の人物ではカスティーリャを統治できないことを露呈し、 彼を呼び戻すことになったのだった。 そして1445年、鬱積した貴族の不満が爆発し、オルメドに反乱の火の手が上がる。 しかしこの反乱軍もアルヴァロに撃滅され、以後貴族達はおとなしくなる。

こうしてアルヴァロの権力は絶対の物となったかに見えたが、 意外なところから足元を掬われる。 フアン2世が再婚を望んだとき、 彼は親友コインブラ公の娘イザベルを推薦した。 しかしこれが裏目に出る。 ポルトガル王の強いリーダーシップの下で育ったイザベルは、 カスティーリャの国王が夫婦生活までコンスタブルの言いなりになっていることに 我慢がならず、アルヴァロを嫌うようになる。 彼女はオルメド反乱の生き残りの貴族達を味方につけ、 王からアルヴァロを遠ざけるよう画策した。

1453年、王のお気に入りであったドン・アルフォンゾが、 アルヴァロのパーティをすっぽかして王妃のパーティに参加し、 これに怒ったアルヴァロはアルフォンゾを窓から投げ飛ばし、 落下したアルフォンゾは間もなく死亡した。 王妃はこの好機を逃さず、アルヴァロを殺人罪で告発する。 アルヴァロは王に直接弁解することを望んだが、 王妃らの工作は完璧で、かなえられなかった。 彼は1454年6月2日、ヴァラドリッドの大広場にて処刑された。

カトリック両王 - Los Reyes Católicos

Old Duke of Alba

エル・グラン・カピタン - el Gran Capitan

本名ゴンザロ・フェルナンデス・デ・コルドバ (Gonzalo Fernández de Córdoba)。 1492年グラナダを征服してレコンキスタを完結させたスペインの国民的英雄。 カスティーリャの内戦ではイザベラ女王の 右腕として活躍した。 1497年には教皇アレクサンデル6世の求めに応じてオスティアでフランス軍を破り、 1500年には逆にフランス軍と共にオスマントルコ軍と戦い、 1502年にはまたしてもフランス軍と戦い、 特にガリグリアーノの戦いでは、洪水した川を艀で渡っての奇襲により、 質・量ともに勝るフランス軍相手に大勝した。

プロスペロ・コロンナ - Prospero Colonna

ローマの名家コロンナ家の一人にしてコンドッティエーリ(傭兵隊長)。 イタリア戦争の際にカルロス1世側についてフランスと戦い、 1522年のビコッカの戦いでフランス軍を打ち破った。

ポンセ・デ・レオン - Ponce de León

プエルトリコに最初の植民地を建設し、後にフロリダを発見した探検家。 しかし今日では、 新大陸にあると噂された「若返りの泉」を熱心に捜し求めたことで最も有名である。

ヘルナン・コルテス - Hernán Cortés

コンデスタブル・ボルボン - Condestable Borbón

フランシスコ・ピサロ - Francisco Pizarro

パンフィロ・デ・ナルバレス - Pánfilo de Narváez

スペイン人征服者の一人。 スペイン軍の兵士としてジャマイカに来た後、 弓兵隊の指揮官としてキューバ平定に参加し、 その功によってキューバに所領を与えられる。 1520年、彼の上司であるキューバ総督ディエゴ・ベラスケスが ヘルナン・コルテスを反乱者として告発し、 ナルバレスにコルテス逮捕の命令が下される。 しかし900人の兵を連れて出陣したナルバレスは、 コルテスに返り撃ちにされ、捕虜となる。 釈放された後、ナルバレスはカルロス1世から 正式に総督として認められ、 フロリダの探険と植民を命じられる。 彼は500名の部下を連れてスペインから出発するが、 フロリダに到着するまでの間に200名以上が脱落した。 フロリダに着いてからはさらに困難を極め、 メキシコまで帰ろうとしても迎えの船が来れなかったことから 自力で船を作らざるを得ず、 1528年、ミシシンッピ河口を過ぎたところで彼の船が難破し、行方不明となった。

フランシスコ・デ・モンティホ - Francisco de Montejo

ユカタン半島を平定しマヤ人を征服したスペインの征服者。

カベサ・デ・ヴァカ - Cabeza de Vaca

ヴァカは、 ナルバレスによるフロリダ探険隊の経理士だったが、 この探険隊が1528年に遭難した後、1536年にメキシコに戻るまでの間、 実に8年間も北米をさ迷った人物である。 彼はこの放浪の間に北米先住民達から「シボラの七つの黄金都市」の伝説を聞き、 後に出版した自伝の中でこの噂を取り上げ、 黄金目当てのスペイン人が殺到する原因を作る。
彼は後にリオ・デ・ラプラタの副王に任命されるが、 部下ドミンゴ・マルチネスの反乱によって放逐され、 アフリカに左遷された。 しかしその後も、南米での体験を旅行記として出版し評価を受けるなど、 なかなかの文才に恵まれた人物でもあった。

ペドロ・デ・メンドーサ - Pedro de Mendoza

南米を探険したスペイン人征服者で、リオ・デ・ラプラタの初代総督。 スペインの名家に生まれたペドロは、 カルロス1世に南米探険を命じられ、 リオ・デ・ラプラタに赴き、ここに新しい都市ブエノスアイレスを建設する。 しかし彼は梅毒を患っており、彼の部下の間では内紛が相次ぎ、 最初親切にしてくれた原住民もやがて敵に回り、 結局彼は失意のうちにスペインに引き上げる。 その船旅の途中に彼は死に、大西洋に葬られた。

ペドロ・デ・メンドーサ

ヒメネス・ケサダ - Jiménez Quesada

南米コロンビアを征服したスペインの征服者。 もともと法律家だったが、 サンタマルタ島の裁判官として南米に渡ったのが運の尽きで、 全く軍隊経験が無かったにも関わらず、 いつのまにか900人の兵士を率いて南米奥地を探険することになってしまった。 8カ月に渡ってジャングルを行軍した後、 彼らはコロンビア中央平原に達し、チブチャ族と接触する。 族長のジパはスペイン軍を見るなり逃亡し、 ケサダは戦わずしてこの地を征服した。 しかしすぐ後、キトのセバスチャン・ベラルカザル、 およびベネズエラのニコラウス・フェダーマン(ドイツ人)が、 俺こそコロンビアの真の征服者だ、とケチを付ける。 この三人はマドリッドに裁定を仰ぐことになってスペインに戻ったが、 結局ケサダが真の征服者だということで決着した。
ケサダはニューグラナダ(コロンビア)総督として南米に戻ったが、 すっかり探険に取り付かれた彼は、 1569年に伝説の黄金都市を発見すべく、500人の兵を率いて再び探険に赴く。 2年間の放浪の後、結局黄金都市は見つからず(当たり前だ)、 兵も25名まで減ってしまい、諦めた彼はスペインに戻った。 彼はその後スペインの田舎に引退し、自伝を書いたとされるが、 その自伝は今では失われてしまっている。

フェルナンド・デ・グズマン - Fernando de Guzmán

ぺルーで伝説の黄金都市を探し求めたスペイン人三人組の一人。 三人組とは、彼とペドロ・デ・ウルサ、そして ロペ・デ・アギレである。 彼はウルサの副官だったが、ウルサが謎の死を遂げた後、 彼の跡を継いで探検隊の隊長となった。 しかしすぐにアギレに殺されてしまった。そんだけ。

ロペ・デ・アギレ - Lope de Aguirre

ぺルーで伝説の黄金都市を探し求めたスペイン人三人組の一人。 三人組とは、彼とペドロ・デ・ウルサ、そして フェルナンド・デ・グズマンである。 ウルサ率いる探検隊は、アマゾン河の水源地に黄金都市があると信じ、 苦労の末にアンデス山脈を越えて水源地に到達した。 その直後、アギレはまずウルサを殺し、 続いてグズマンをも殺してしまう。 その後の彼についてはあまりよく知られていないが、 やっぱり黄金都市は見つからず(当たり前だ)、 今日のベネズエラあたりのインディオの村々を襲って略奪を繰り返していたらしく、 最後にはスペイン軍に捕らえられて処刑されてしまった。 今日でも南米の人々はアギレという言葉を「残虐な裏切者」の意味で使うらしい。

バスケス・コロナード - Vázquez Coronado

スペインの征服者。 ヴァカに触発され、 シボラの黄金都市を求めて北米を探検し、当然見つからなかったのだが、 代わりにグランドキャニオンを発見した。

ペドロ・デ・バルディビア - Pedro de Valdivia

スペインの征服者。南米チリを探検した。

アルバ公 - Duque de Alba

本名フェルナンド・アルヴァレス・デ・トレド・イ・ピメンテル (Fernando Álvarez de Toledo y Pimentel)。 ポルトガル征服の英雄として名高く、オランダで圧政を敷いたことで悪名高い。 彼は自他共に厳しい性格で、兵士は厳しく教練すべしとの信念を持っていた。 彼は自分の訓練された兵を手足のように使い、 火縄銃をテルシオに限定されず活用することができた。 彼は単に優秀な戦術家であるのみならず、兵站の達人でもあった。 また、自分自身に揺るぎの無い自信を持っていた。 彼のことは残酷な暴君として語られることが多いが、 当時のスペイン士官の多くは彼よりももっと残酷であり、 彼が部下の暴走をたびたび制止したことは気に留めておく必要がある。 彼の欠点は、戦争全体を俯瞰する戦略眼に欠けていたことであろう。 彼は、特にプロテスタント国では悪逆非道な暴君として今日でも憎まれているが、 祖国スペインでは古き良き騎士の誇りを持った勇猛果敢な将軍として尊敬され続けている。

1524年、17歳の若さでスペイン軍の指揮官となった彼は、 スペイン北部のフエンテラビアの戦いでフランス軍相手に軍功を立て、 一躍脚光を浴びる。 スペイン王カルロス1世 (神聖ローマ皇帝カール5世)に取り立てられた彼は、 1535年にチュニス侵攻を指揮してさらに名声を高め、 1547年にはミュールブルクの戦いでシュマルカルデン同盟の新教徒軍を破る。 1552年にはイタリアの帝国軍指揮官となり、 フェリペ2世の即位後はナポリの副王に任ぜられる。 この後のフランスとの戦争ではギース公フランソワを出し抜き、 フランス側に立っていたパウロ4世を屈服させた。

カルロス1世はアルバ公の性格を見抜いており、 息子フェリペ2世に 「やつは野心家で目的のためなら手段を選ばないので、 軍事においては役に立つが、決して信用するな」と告げたとされる。 にも関わらず、フェリペ2世はアルバ公を重用した。 アルバ公は軍事拡張路線を進言し、 一方彼のライバルであるゴメス・デ・シルバは穏健路線を主張したが、 フェリペ2世はアルバ公の進言これを取り入れた。

アルバ公は1563年時点ですでにオランダのオランダ貴族達の処刑を進言していたが、 1566年にフェリペ2世の命によりオランダに派遣される。 彼はエグモント伯ラモラールとホールン伯を逮捕し、 騒乱裁判所(Council of Troubles)を開設した。 しかしこれはすぐに血の裁判所(Council of Blood)と呼ばれるようになる。 この裁判所は全てのオランダ法に優先するとされ、12,000人の逮捕状を発行した。 その多くは逮捕される前に海外に逃亡したが。 またアルバ公は10%の売上税の導入を発表した。 これによりオランダ執政政府の財政的独立性を高め、 オランダの排他主義を破ろうとの腹であった。 これにはオランダ人の間で猛反発が巻き起こり、結局彼の命取りとなる。

血の裁判所の異端審問を逃れて海外逃亡していた貴族達は、 その後「ゼ=ゴイセン(海の乞食)」を名乗り、得意の海軍力を駆使して、 海から反乱を起こす。 1572年にはホーラント州とゼーラント州のほとんどが反乱軍の手に落ち、 さらにオラニエ公ウィレムとナッサウ伯ルイがドイツ・フランスから 軍勢を率いてやってくる。 アルバ公は精鋭スペイン軍を率いてこれらを迎え撃ち、 ウィレム/ルイの軍勢を撃破し、ホーラント/ゼーラントの一部を取り戻したが、 資金と海軍力の不足により、全てを取り戻すことはできなかった。

1573年、ゴメス・デ・シルバの工作により、 アルバ公はマドリッドに召還される。 さらに1579年、彼の息子がフェリペ2世の意思に反して結婚したことで、 彼は自宅軟禁を命じられる。 しかし1580年、ポルトガル王位を望むフェリペ2世は、 グランヴェル枢機卿に説得されて、アルバ公にポルトガル征服を任命する。 アルバ公は僅か数週間でリスボンを陥落させ、再び高い名声を得るが、 フェリペ2世の信頼を取り戻すことはできなかった。 彼は2年後、リスボンにて息を引き取った。

ドン・ファン・デ・オーストリア - Don Juan de Austria

スペイン王カルロス1世 (神聖ローマ皇帝カール5世)の庶子の一人で、 フェリペ2世の腹違いの弟。 レパントの海戦を指揮してオスマン帝国艦隊を撃滅した名将として名高い。

彼の母親は中産階級の女性であった。 1547年に生まれた彼は、すぐに母親から離され、スペインで密かに育てられる。 カルロス1世の死後、 その後を継いだフェリペ2世は、彼を弟だと認め、 ドン・ファン・デ・オーストリアの名前と領地を与えた (領地がオーストリアだったというわけではなかったらしい)。 当時の貴族の庶子はカトリックの聖職者になるのが常で、 ドン・ファンも同じように寺院に入るはずであった。 ところが彼は軍人に憧れ、 フェリペ2世も彼が軍隊に入ることを許可した。 1568年にムーア人海賊相手の海戦で活躍したのち、 翌年にはグラナダの反乱を鎮圧する軍を指揮する。 こうして陸海両軍の経験を積んだ彼は、1571年、 オスマン帝国に対抗する神聖同盟艦隊の総司令官の任に就く。 若干24歳の総司令官だった。

ドン・ファンは、喧嘩しがちな神聖同盟各国の提督達を 打倒トルコの名の下に団結させることに成功し、 1571年10月、レパントの海戦にてトルコ艦隊を殲滅する。 彼はさらにトルコ侵攻を望んだが、 フェリペ2世はこれを許さず、 オスマン領チュニスの攻略で我慢せざるを得なかった。

1576年、 アルバ公の後任であったオランダ執政レセケンスが急死し、 オランダは混乱状態になる。 オランダ議会が暫定的にオランダを統治することになったのだが、 議会はスペイン兵への報酬支払いを停止し、 怒った兵達は暴徒と化してオランダ一帯を略奪して回ったのである。 ここでオラニエ公ウィレムが治安維持を名目にオランダに進駐、 スペイン兵を追い払い、新教徒の多いホーラント・ゼーラント両州と カトリックの多い他州とを和解させることに成功し(ガンの平和)、 オランダの指導者としての地位を固めにかかった。

この状況下で、フェリペ2世は ドン・ファンをオランダの新執政に任命する。 ドン・ファンは当初これに乗り気でなかったが、 鎮圧に成功したら軍を率いてイギリスに侵攻して良い、という条件で、 オランダ執政を引き受ける。 翌年ドン・ファンは、 オランダがカトリックに戻る代わりに スペイン軍がオランダから退去する、という永久法令を出し、 オランダ議会との和解を図った。 ところがホーラント・ゼーラント両州がこれを認めず、議会から脱退する。 ドン・ファンもこれに対抗してナミュール城を占領し、 レパント海戦時代の副官 パルマ公ファルネーゼを迎えて戦力を強化し、 1578年にはガンブルーの戦いで反乱軍を打ち破る。

しかしドン・ファンは、他のオランダ執政が皆そうであったように、 フェリペ2世の信頼を失ったことで凋落する。 きっかけは彼の秘書フアン・デ・エスコベドが国王の機嫌を損ねたことで、 この秘書はすぐに謎の死を遂げたが、 それ以降本国スペインからの送金・補給が滞るようになった。 彼は1578年10月、失意のうちに病に倒れ、後をファルネーゼに託して息を引き取った。

アレッサンドロ・ファルネーゼ - Alessandro Farnese

アレッサンドロ・ファルネーゼは1545年、 イタリアのパルマ公爵であるファルネーゼ家に生まれた。 ファルネーゼ家はもともとコンドッティエーリ(傭兵隊長)の一族で、 15世紀にローマ教皇に仕えて勲功を立てたことで貴族の地位を得た。 一族の中からはローマ教皇パウロ3世をも輩出しており、 彼はパルマとピアツェンツァに公爵領を作り、 甥(本当は息子)のピエール・ルイージを公爵に任命した。 ピエールの息子オッタヴィオは、 スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世) の娘マルガリータと結婚し、 二人の間に双子が生まれた。 双子のうち一人は死んだが、生き残ったもう一人がアレッサンドロである。

彼は幼少時に親から離され、 スペインのフェリペ2世の宮廷に人質として送られた。 この間にスペイン・ハプスブルク家の要人達と知り合う。 1559年、オランダの執政となっていた母マルガリータに従ってオランダに赴く。 この年、ポルトガルのマリア王女と結婚するが、 結婚式の二日前に初めて花嫁の顔を見たと言われている。 結婚後も、彼は狩猟と乗馬、そして何より戦争が大好きで、 家を空けることが多く、結婚生活は必ずしも幸福なものではなかった。

1571年、彼は、 ドン・フアン・デ・オーストリア (カルロス1世の庶子)の副官となって、 レパントの海戦で勲功を立てる。 1577年にはドン・フアンが オランダの総督兼将軍として宗教反乱の鎮圧に向かったため、これにも従う。 1578年にはゲンブローの戦いでまたも勲功を立てた。

1578年10月にドン・フアンが死ぬと、 フェリペ2世は ファルネーゼをオランダの総督兼将軍に任命した。 彼は指揮官としても一兵士としても優秀で、 しかも社交的で、人間的な魅力にも溢れ、狂信を排する理性を持っていた。 オランダ反乱軍を率いるオラニエ公ウィレムとよく似ており、 ウィレムは初めて自分に匹敵する強敵を得たことになる。

ファルネーゼは、反乱軍の組むユトレヒト同盟と戦いつつ、 オランダ諸州のうちカトリックが多数派を占める州に外交的切り崩しをかける。 この間に病に倒れるが、それも物ともせず、 1579年にはマーストリヒトを陥落させ、反乱軍に大打撃を与えた。 外交面では同じ年にアラス条約を締結し、 オランダ南部の州をスペイン側に引き戻すことに成功する。

アラス条約では、全ての外国兵力とファルネーゼ本人が、 六ヶ月以内にオランダから撤退することになっていた。 しかしファルネーゼは政治的アクロバットを駆使し、 条約に違反しない形でオランダに残ることに成功する。 さすがにスペイン正規軍は撤退せざるを得ず、 ファルネーゼの手元にはオランダ兵15,000人だけが残された。 誰もがこれではファルネーゼも何もできまいと考えたが、彼には勝算があった。 この状態から彼は1581年トゥルネーの町を陥落させ、ここにスペイン執政政府を置く。 さらに1582年にはアラス条約諸州を説得してスペイン主力軍を呼び戻すことに成功し、 1584年、陸海からの包囲により、ついにアントワープを陥落させる。 また1586年、彼の父の死により、彼はパルマ公爵となった。 この頃が彼の絶頂期であった。

もしファルネーゼがこのまま北部侵攻を続けていれば、 オランダの反乱は粉砕され、オランダはスペインの統治下に戻っていたことだろう。 しかしフェリペ2世がそれを許さなかった。 国王はファルネーゼを信頼しておらず、 彼をオランダから呼び戻し、イギリス侵攻を命じたのである。 そして1588年、メディナ・シドニア公 率いるスペイン無敵艦隊が イギリス海軍と戦って全滅する。 この敗戦の責任がファルネーゼに押し付けられ、彼はまずい立場に置かれる。 さらに持病が悪化したところで、 ナッサウ家のモーリス率いるオランダ反乱軍が猛反抗を開始し、 スペイン軍は総崩れとなる。

ファルネーゼは1592年12月3日、アラスで息を引き取った。 彼はスペインのオランダ執政歴代の中でも際立った戦略家・外交家であり、 彼の作り出したアラス条約は今日のベルギーの礎となっている。

アルヴァロ・デ・バザン - Alvaro de Bazán

サンタクルス侯として知られるスペイン随一の提督。 輝かしい軍歴を持ち、スペイン海軍の(短い)黄金時代を築いた。
1526年に海軍軍人の息子として生まれた彼は、若くして海軍に入り、 実力で昇進し、69年にはサンタクルス侯爵に叙せられる。 2年後のレパントの海戦では予備艦隊を指揮し、 トルコ艦隊を撃滅する上で重要な働きをした。 また1580年にはアルバ公のポルトガル侵攻を海から助けた。
1583年に彼はスペイン国王フェリペ2世に対し、 無敵艦隊の編成とそれによるイングランド侵攻案を進言する。 しかしフェリペ2世はフルスケールの編成を認めず、 艦隊の規模を縮小させた。 リスボンでの無敵艦隊の編成準備中も、 フェリペ2世の干渉が相次ぎ、サンタクルス侯を悩ませた。 その完成直前、サンタクルス侯は急死し、 無敵艦隊の指揮は海軍に不慣れな メディナ・シドニア公に委ねられることになる。

メディナ・シドニア公 - Duque Medina-Sidonia

本名アロンゾ・ペレス・デ・グズマン(Alonso Pérez de Guzmán)。 スペイン貴族でも名門中の名門の出だが、 今日ではただ「無敵艦隊がイギリス艦隊に負けたときの司令官」としてのみ知られる。 EU2における指揮能力も、まるっきり無能と言う他ない。

アンブロヒオ・スピノラ - Ambrogio Spinola


HTML書いた人: nakanohito@semilog.net

powered by メモ帳