そしてユニバーへ(1)

4回生 西尾信寛

 

矢板インカレが終わって早や3ヶ月が経とうとしている。2001年度はクラブの部長を務めさせていただいたが、本当に大変なことが多くて苦しかった。しかも運営学年であることを言い訳にしてトレーニングをサボっていた。そんな中、個人戦でまずまずの成績を残すことができたのは競技から遠ざかることなく合宿や大会に参加し続けていたからだろう。少なくともレベルダウンはしなかった。

2回生の時JWOCへ行った頃の僕から考えれば、客観的に見て個人戦の成績はイマイチだ(であろう)。もっと伸びていてもいいはずだ。いったい自分はこれまでどんなふうに過ごしてきたのだろう。そして今年度はどうなっていくのだろう。1年を振り返りつつ、今後自分が目指すものについて書いていこうと思う。

 

2001年4月、愛知インカレを個人戦12位、団体戦準優勝という形で終えた僕は、この1年をどうやって過ごしていくという目標がなかった。とりあえず大会と合宿だけには参加しようという計画性のない生活を続けていた。そんなのんべんだらりとしたマイペースな生活の中でも時の流れは変わらない。夏合宿、ワールドゲームズの終了とともに暑い夏が終わっていつの間にか秋になり、運営のゴタゴタを乗り越えて加賀インカレショートを迎えたのだった。

たとえ10分でも自由な時間は作れたはずだ。10分のトレーニングだって内容を考えれば十分価値のあるものになる。しかし当時の僕はそれをしなかった。自分に甘えていた。にもかかわらず結果だけは欲しかった。いい結果を出さなければみんなに何だその程度だったのかと思われてしまう。それだけは嫌だ。トレーニングどうのこうの以前にプライドだけが先走りしていた。それが本末転倒であることに気が付けずに。

インカレショートは「予選に落ちないために」ばかり考えていた。「予選に通るために」どうするかという前向きな志向がなかった。完全に守りに入っていた。攻めの気持ちがなかった。結果、予選は通ったが決勝では浮き足立って惨敗。精神面での準備が体力面の準備以上に疎かだったことに今更のように気付いた。表彰式で禅洲が「優勝だけを考えた」と口にしたのを聞いて、自分と禅洲との間に大きな差があるのを初めて知った。いつの間にあいつはそんなに強くなったのか。ショックだった。もう手が届かない気がした。それでもやはりJWOCを目指していた頃のようなナニクソ!という攻撃的なモチベーションは取り戻せず、まるで他人事のように現実を受け止めていた。あまり口惜しくなかったのである。そんな自分がもどかしかったが、その頃明確な目標のなかった僕にはどうしようもなかった。わかっているのにマジになれなかった。

インカレショートの終わった日の晩、縁あって朱雀OKのみなさんとご一緒させていただくことになった。その時に寺嶋さんから言われた一言が後の自分に大きく影響することになる。自分は強いと思っていた。レースに臨むための心の準備も他の人よりうまくできると思っていた。しかし、ショートの結果が物語るように、それは間違いだったのである。

 

「自分なあ、走る前に負けを口にしたらあかんで。京大杯の前に『許田さんに負ける。』て言うてたやろ。そら負けるわ。自分では強いと思ってるかも知れんけど、見ててめっちゃ弱っちいで。」

 

ショックだった。自分は実は弱かったなんて思いもしなかった。自分は人より強いと思っていた。だからこそJWOCに行くことができた。それは正しいはずだった。しかし、それは違うのだ!強いと思い込むことで弱い自分を押さえつけ、これでいいんだという勝手な思い込みで努力することから逃げてばかりいた。確かにJWOCに行ったかもしれないがそれは単なる事実に過ぎず、それをプライドだのなんだのだというのはちゃんちゃらおかしい。努力もしないで負けたくたくないと言うのは言語道断である。でも僕は1年以上もそれを引っ張っていた。長い長い勘違いの道を進んでいた。

 

 2回生の時、目指していたJWOCに行くことができ、その後気の合った仲間とともに北欧に遠征し、さらにオーストリアで開催されたPark World Tourに出場する機会を得、2005年の世界選手権が日本に決まったIOFの総会にも出席する機会を得た。ある意味僕は頂点を極めた。欲しかったジャパントリムを着て走り、北欧で本場のオリエンテーリングを満喫し、PWTでは世界のトップの選手と競い、ともに過ごすという夢のようなすばらしい体験をした。すなわち当時の僕が最高と考えていたOL生活のすべてをこんなにも早くたった一夏で経験してしまったのである。

 その後帰国した僕は明確な目標を失った。インカレは自分を奮い立たせるべき目標であったが、がむしゃらに「こうしたい」という強い思いがなく、当時自分の中には夢の余韻と勘違いのプライドだけがあった。ずるずるとそれらを引きずったまま、僕はその長いトンネルを抜けるのにそれから1年以上も要すことになるのだった。

 

 インカレショート惨敗後、寺嶋さんに諭された僕はそれでもまだ変わることはなかった。いや、徐々に変わろうとしていたのかも知れないが、トンネルを抜け出すにはまだ時間が必要だった。続くインカレセレも昇平と並走して抜き去った後、流して3位通過。うれしくも口惜しくもなかった。もうシードは無理かな、と思った。やはり舞台に上がるからには自分に箔をつけたかったので、あつかましくも、どうしてもシードになりたかった。とりあえず1つ前の週の西日本では全日本E権を確保することができたのだが、それだけを心の支えにわずかな希望を抱いていた。

 年が明けて早々、松澤さんや高橋さんをはじめ有志の皆さんが「インカレに向けて」と題した合宿を開いてくださり、僕もそれに参加した。そこで僕はようやく先のほうに光るトンネルの出口を見つけたのだと思う。今までの自分を取っ払って、まったく自由にオリエンテーリングをしようと考え、とりあえず一生懸命メニューをこなそうと思った。そうしたら体が勝手に動いた。手続きも非常にスムーズだった。俺は今いい感じでOLしているぞ、という感覚を本当に久しぶりに味わった。実際レースも速かった。しかし、自分ではまだ目標を絞ることも、勝とうという意欲も正直なかった。なんとなくショートが終わってから自分が変わってきている気はしていたが、それは確信ではなかった。まだ僕はトンネルの中から抜け出せずにいた。

 

そんなこんなで2月になった。インカレまであと1ヶ月。僕は幸運にもシード選手に選ばれた。それだけのことであるが、うれしかった。がんばろうという動機付けになった。トレーニング量も自然と増えた。日光の学連合宿では調子が上がってきたことを思わせる感触が得られ、翌日の関東インカレ団体戦も佐々木に敗れはしたが2走でいい走りができた。このころからトンネルの出口の光がはっきりと見え始めたのだろう。明らかに気持ちの持ち方が変わっていた。インカレ個人戦における明確な目標はなかったが、

(団体戦では優勝という大目標がありました。しかし思い入れが個人戦より圧倒的に強かった分、始めから書こうとすると恐ろしく長くなるであろうし、また話の流れが違うのでこの話の中では割愛させていただきます。)

レースそのものに向けてポジティブ志向ができるようになった。負けることではなく、勝つことを意識するようになった。OC大会ではM21A7位と沈んだが、むしろ攻めの気持ちで行ってぶっ飛ぶと言う単純なミスを繰り返していただけで、特に気にはしなかった。攻めようという気持ちでレースに臨んだことのほうが重要だった。

 インカレ2週間前、日光直前合宿でのインカレモデルレースで右足首を激しく捻挫した。レースそのものはまずまずの出来でなかなかの仕上がりを思わせるものであったが、かなり強くひねっていたようで次の日は痛くて走れなかった。家に帰ってからも走れない日々が続き、結局そのままインカレを迎えることになった。走れない間は矢板の地図とにらめっこをし、インカレを走る自分のイメージを膨らませた。それは面倒な作業で苦しかった。だから、ひたすらポジティブ志向になるよう努めた。

 迎えたインカレでは途中で足を攣り、やる気が萎えて再び惨敗の結果に終わった。とは言えレース直前の準備の仕方やメンタル面の強化をどのように図っていくかという教訓を得た。確実に前とは違った。次に向けてどうしようという切り替えがパパッとできるようになった。だからこそ団体戦では快走することが出来たのだと思う。僕は以前のような、特に1回生の時のような攻撃的で勝ちを狙う気持ちをようやく取り戻した。

 

 3回目のインカレが終わり、また新しい春がやってきた。インカレの2週間後、いつものメンバーを我が家に招いて迎えた全日本大会。エリートクラスでまたまた惨敗した。惨敗ばっかりである。少し気が滅入りかけたが、公開されたラップを見てみると全く良いところがなかったわけではなく、前半は体が重くて調子が上がらなかったにもかかわらず結構戦えていたことを知り、なんだ、俺こんな状態でもそこそこやれるのだ、という自信を得た。これは大きなプラス材料になった。速かった部分のレッグは何で速かったのかを考えるとワクワクした。

 3月末、ユニバーセレを見据えた合宿が富士で開催された。この頃の僕はユニバーを目指してはいなかった。セレに出る資格を得ていたが、ユニバー本番に向けてのビジョンがなく、1年間JWOCを目指していた頃から比べても準備の点で全く他の人たちに出遅れていた。日本代表になるということはどういうことか、それはJWOCであれ何であれ一度代表を経験してみないと絶対わからない。ただジャパントリムが欲しいから代表になってはいけないのだ。俺は代表になってこういう成績を残したい。日本の代表として世界とこう戦うのだ、という心構えのもと日々積み重ねの努力をしてようやくそれは許されなければならない。少なくとも当時の僕はこのようなユニバーをどう戦うという目標を持って準備をしてきたとは言い難かった。むしろようやく勘違いのトンネルから抜け出さんとしているところで、実際にユニバーに行くための準備をしようと思えば相当長い時間が必要だろうと思った。

 合宿初日のレースでいいタイムで走れた。並居る選手達の中4番手だった。これはかなりの自信になったと同時に、合宿全体を通しても相当いい感じでOLできていたことにかなり満足した。

 4月になって締め切りギリギリにセレの参加申込をした。新年度の始まりということで今後1年間自分のレベルを高いものへと上げていくためのステップにちょうどいい機会だと思ったからだ。だから、走るからには本気でやってやろうと思った。定期的に勢子辻の地図読みをするようになった。みんなで一緒にやっていた昼休みの地図読みにも顔を出し、体力を維持できる程度のトレーニングを継続して行った。メンタル面の準備は特に力を入れてやるようにした。セレを走る自分、スタートの瞬間、勢子辻の地形のイメージ、レース中盤苦しい中での競り合い、ゴールに向かう瞬間。これを繰り返すうちにレースに対するイメージが出来上がっていった。もはやこの頃は寺嶋さんに言われた「強い」西尾信寛になることができており、新しいステップを踏み出すことにすでに成功していたのだと思う。僕は強くなった。それを確信した。

 セレ2日前、自転車で帰宅途中にふと気分が晴れ晴れして、自分はセレに通るのではないか、と思った。ユニバー本番に向けての準備は全くといっていいほど不十分である。セレに出ようと思い始めたのもつい最近である。許田さんが前前からユニバーに向けてこつこつ努力してきたのを間近で見てきてこの人にはかなわない、と思ってもいる。他にもかなわなさそうな人はたくさんいる。しかし、考えたら本番まではまだ4ヶ月という時間が残されているのだ。間に合わせてやる、そう思った僕はさらに気分が晴れ晴れし、絶対通ってやるのだ、と強く思った。体力面に不安が残るものの、その不安を吹き飛ばすくらい精神面の強化に成功していた。怖いものは何もなかった。セレ当日が待ち遠しく、ウキウキとドキドキが混じりあった適度な緊張感を持って富士に乗り込んだ。

 

ついにその時は来た!

 

 

 

 

 

・・・ここで終わるのは中途半端なため、次号に続く。

継続は力なり。