WOC2005を終えて

 

世界選手権が終了した。2005年日本開催が決まってから5年、最終的にはメンバーになれなかったものの、この5年間は自分にとって非常に成長した年月であったと思うし、これからの自分にとって間違いなくプラスとなっていくものであろう。これをひとつの節目として、自分のオリエンテーリングの過去、現在、未来をまとめてみたいと思う。

 

1999年度

大学入学とともにオリエンテーリングクラブの門を叩いた。あの日のことは今でもはっきり覚えている。健康診断の日、時計台横に陣取っていたオリエンテーリングクラブに足を運び、入部を願い出たのである。言わば、すべてのスタート地点であった。

入部して間もない4月、ひとつ上の番場さんがJWOC日本代表選手となり、大変うらやましく思った。7月、先輩に誘われて八ヶ岳で開催された世界選手権壮行会に参加。これが初の遠征。雨の中決勝を走る日本代表選手の姿に心を奪われ、その後の選手紹介でいつか自分も、という夢を抱いた。

長い距離を走るのが大嫌いだったので、最初は気楽に続けていくつもりであったが、先輩たちの後ろについていろんな話を聞きながら鴨川に走りに行くのが楽しく、週末の大会参加もおもしろく、オリエンテーリングにだんだんのめり込んでいった。何より同期の仲間に負けるのが悔しく、まずは京大の同期で一番に、次に関西の同期で一番に、と言う具合にどんどんライバルを作っていき、まだ見ぬインカレへの思いを膨らませていったように思う。

こうして京大杯新人王と関西学連新人王を獲得し、インカレ新人クラスに挑戦した。この頃にはもうJWOCに行くことをはっきり意識しており、同様にそれを目指す仲間とも親しくなり始めた時期で、既に全国に意識が向いていた。

 

2000年度

 目指していたJWOCに出場し、その後O-RingenPWTに参加した。PWTではスターであったビヨルナー・ヴァルスタッドやハンナ・スタッフなどと同じレースを走り、その雰囲気の中にいる自分がとても幸運なものに思えた。また、PWTIOF総会と併催で、2005年の世界選手権が日本に決定する瞬間をこの目で見ることができた。その瞬間は自分の未来に大きな意味をもたらした瞬間であった。

 さて、JWOCへの参加は自分にどんな影響をもたらしただろうか。日本選手はオリエンテーリングを本格的に始めて1年そこそこの選手ばかりで、あまりにも太刀打ちできない状況にただただ打ちのめされて大会を終える。自分も然り。大切なのは、次にどういう行動に移すかであり、さらなる成長を目指すパッションであると思う。それまで世界を知らなかったのだから、初めての世界の舞台で結果を残す、というのは非常に難しいことだ。だったら、また次の機会をうかがい、それに向けて自分を成長させ、戦うための準備をすればいいのだ。今にして思うのは、この時もっと積極的に他の国の選手と話をし、その生活環境、オリエンテーリング環境、自分の現在の社会的地位と将来のプラン、などの情報交換を行っておけば良かった、ということである。彼らはユース時代からすでにオリエンテーリングで世界を目指す、という環境に身を浸し、事実それを目的に見据えていろいろなことを考えていたはずである。そして、我々がインカレを目標にする仲間と大学の垣根を越えて親交を深め、ライバルを作るように、彼らは国境を越えて親交を深め、互いの情報を交換し合って来たことだろう。情報交換は戦いに挑む上で重要な位置を占めるし、何よりやる気と情熱を湧かせてくれる。また、目標を同じくする仲間と話をしたりレースの反省をしたりすることは非常に楽しいことである。世界の舞台で戦うことは苦しいことではなく、実はとても楽しいことなのだ。

しかし、少なくともこの頃の自分には、オリエンテーリングは自分を表現しうる最良の手段である、という意識はありつつも、さらなる意欲を持って世界に挑む、という意識は無かった。楽しんではいたが、自己満足の範疇を脱してはいなかった。最下位に近い成績でも、ただ出場できただけで満足であった。自分がその場にいることのできる、限られた人間のひとりであることのほうが大きな意味を占めていた。

 長期の海外遠征から帰国し、その後はひたすらインカレに情熱を向ける日々が続いた。インカレ団体戦のメンバーに入ることだけに集中していた。JWOC後、オリエンテーリングが周りの期待以上に伸びることはなかったが、21Aクラスで上位入賞できるくらいのレベルに達した。インカレでは個人戦12位、団体戦2位という結果を残し、2000年度を終えた。

 

2001年度

 2001年度前半は情熱がなかった。体重も増えた。だから、ワールドゲームズに参加したことくらいしか記憶がない。世界のトップの走りを間近で観戦し、すごいなあと感嘆し、彼らの勇姿を眺めていた。この頃は楽しめればそれでいいや、という意識でオリエンテーリングに接しており、何が何でも一番!という思いはなかった。インカレの目標もなかった。

 そんな中、禅洲がインカレショートで優勝し、目が覚めた。速く走れないと楽しくないのだ。体力がないと楽しくないのだ。そして何よりも、勝たないとやっぱり楽しくないのだ。

 ここから勝ちにこだわるインカレへの意識が芽生えた。インカレで優勝すること、それが自分の目標となり、情熱となった。結果、個人戦は振るわなかったものの、団体戦で優勝。インカレが自分を表現する最高の舞台となり、次年度最後に賭ける思いが強くなった。

 

2002年度〜2003年度

4月、ユニバー選考会に通過した。負ける気がしなかった。絶対通過する自信があった。精神面における、史上最高の準備勝ちだと思う。しかし、本戦ではいいところなくJWOCに続き惨敗。ただ、このユニバーには様々な伏線があった。まず、世界の舞台に上がる、ということの意味をおぼろげながらつかみかけたこと(まだまだ確信ではない)。そして、スイスチームオフィシャルのウルと出会ったこと。

帰国後は順調にレベルアップしていく自分がわかり、エリートクラスでもようやく20位以内の順位を取れるようになった。インカレでは個人戦2位、団体戦では3位という成績を残し、インカレという舞台から降りた。

インカレが去ってから、オリエンテーリングとどのように向き合っていくかを迷う必要は全く無かった。日本のトップが手の届きそうなところに近づきつつあったし、自分より上の人たちに勝つことの喜びと楽しさを感じ始めた時期であったからだ。また、ユニバー2004に向けた取り組みがこの頃始まったことも大きな要因のひとつである。MLでのつながり、大会会場での話し合いなど、みんなで目指す世界の舞台、ということで、チームとしての一体感が生まれたと思う。院試と卒論を挟んでの苦しい期間であったが、情熱はチェコへと向いていた。過去2回の世界の舞台で見たこと、感じたことを思い起こし、三度世界への挑戦を夢見て日々を過ごした。

 

2004年度

 チェコのユニバーに出場した。自分から臆することなく英語でコミュニケーションを図ることはまだできなかったが、過去二回に比べて積極的に話をする機会が持てた。JWOC以来の再会だったスロベニアのアンドラッシュ、ノルウェーのスティグ、そして、ウルと話をした。スイスチームは2005年の日本での世界選手権に向けて11月に来日するとのことであった。いよいよ日本でのWOCが現実のものとなるのだ、という実感が湧いてきた。

 O-Ringenにも参加した。私はあの雰囲気が大好きである。老若男女あらゆる人が森の中を駆け抜けていく。そんな中で、ナヴィゲーションと地図読みのバランスが絶妙にマッチした瞬間が何度かあり、2000年度に比べて技術的な部分で大きく成長している自分に気が付いた。これは素直にうれしかったし、結果がついてきたことから、世界の舞台に上がるという情熱をさらに大きなものにしてくれた。

 2度にわたる遠征の後、果たして11月がやって来た。ユニバーが終わってから、ナショナルチーム入りを目標にさらに上を目指そうという情熱が生まれたので、WREであった東日本大会上位進出を目標に準備を進めた。また、自分は当時修士課程1回生でそれほど研究室に束縛されず、比較的自由に休みを取ることができ、ワールドランキングイベント後一週間愛知の山にこもってスイスチームのお手伝いがてら一緒に練習させてもらうことにした。

東日本大会では日本人上位に食い込んだものの、NTに選出されることはなく、少々歯がゆい思いで翌日を迎えた。

いよいよスイスチームに帯同しての一週間が始まった。最初は選手の名前も判らず、互いにしゃべることもあまり無く、同じメニューをこなしてミーティングに参加していただけであったが、3日目の岡崎観光後からチームに溶け込むことができるようになった。全員の名前と顔が一致し、ルート検討や世間話もするようになった。自分の英語はたどたどしく、文法的な間違いも多々あったが、お互いネイティブではないので別に問題はなかった。失敗してなんぼである。細かいことは全く気にしなくて良いし、彼らもそれはわかっている。

スイスチームの練習メニューはきついものではなかった。朝、低負荷で練習し、宿に戻ってシャワーを浴びて日光浴か昼寝をし、14時ごろから再び森に入って1時間程度練習し、終わり。午前と午後で練習を分け、一旦完全にリセットしてから次のメニューに入った。もちろんテレインも別の場所に移動である。これは我々日本人の練習方法とは違っていた。まず、午前のメニューの後一旦戻ってシャワーを浴びて昼寝をする、というのが斬新であった。普段の合宿では同じスタート地点から午前と午後で異なるメニューをし、夕方に撤収して引き上げる、昼飯は現地で、というパターンが多かったし、冬場の合宿ではウィンブレを着込んで寒さに凍えて震えながら次のメニューに備えたものである。また、練習量自体も少ないものに思えたが、11月のトレキャンの目的は日本の山に慣れることで、ガンガン飛ばして走ることにあまり重点を置いていないようであった。山の中の動きは本当にゆっくりしたもので、地図と現地を入念にチェックし、技術的な確認をしながらオリエンテーリングをしているように感じた。これは海外のどのチームも同様であった。

11月のトレキャンが終わり、日本チームはいよいよ臨戦態勢へと突入した。私もトレーニングパートナーとして合宿に参加し、自分を磨きつつ日本チームのレベルアップに貢献しようと努めた。秋以降のレースでNTの選手と対等にレース展開できることが何度かあり、自分のレベルが現在進行形で向上し続けていることが感じられた。あわよくば代表に、という意識はこの頃から生まれたように思う。冬の鍛錬期を経て、選考対象であった全日本に臨んだが、結果は惨敗であった。

全日本大会から一週間の予定で再びスイスチームがやってきた。この時は研究室での作業が忙しくなり始めていたので、週末の青山高原の合宿にのみ参加した。彼らは愛知の山だけではなく、似たタイプの山に入って気分転換を図っていた。この時、11月には来ていなかったマークと出会い、たくさんの話をする機会を得た。彼は心から日本を楽しんでおり、我々にフレンドリーで、自分にストレスをかけることなく他人に対して自然と気を使うことがうまかった。同じくフランスのティエリー・ジョルジョウとも気さくに話をすることができて、2日間の合宿で得たものは大きかった。

 

2005年度

 42日、ミドル選考会の日、就職活動のため欠場。イギリスワールドカップにすべてを賭ける。イギリスはトップレベルのデビュー戦となったが、思うような結果は残せなかった。ユニバーの時に不足していると感じた「技術力」以上に「オリエンテーリング走力」の必要性を痛感した。踏ん張ってついて行けなかった。どうやって改善すればいいのか。ひたすら練習すればいいのだ。しかし、日本でひたすら練習しても限界がありそうな気がする。その環境に身を投じてのめり込む必要がある。自分よりもすごい奴らがわんさかいてそいつらに何とかして勝ちたいと思い、どうしたら勝てるだろうかと考える。意見を交換する。時には国境を越え、海を越えて情熱を外に向ける。より多くの情報をキャッチし、自分からも発信し続ける。なんだ、これはインカレを目指していた時と一緒じゃないか。枠が日本から世界に変わるだけの話だ。言語が日本語から英語その他に変わるだけの話だ。世界に友達を作り、世界にライバルを作り、英語で情報交換し、親交を深め、舞台に上がって戦う。一番いいのは本当に日本を飛び出してスウェーデンなりどこかなりに移住してしまうことであるが、それは今の自分にはできない。ではどうすればいいか。インターネットを活用すればいいのである。幸いにも扉を開けば様々な国、選手がありとあらゆる情報を発信してくれる。最近はWebTVの技術が導入され、動画で海外のトップ選手の様子を観ることも可能だ。メールを使えば情報交換も簡単にできる。大切なのは、興味と向上心と情熱である。インターネットを介して世界に目を向けるようになって、イギリスのワールドカップに参加して、同世代の活躍を目にして、彼らと話をすることによって、ようやくこのことに気が付いた。世界を見据えるとはどういうことか、世界選手権自国開催を目前にしてようやく確信を持って「わかった」と思えるようになった。

 6月、コーチ陣にワイルドカードを切らせることなく、ミドルの本セレを迎えた。自分は前走させてもらったが、体と精神の準備不足を痛感した。イギリスワールドカップの時より体重も増え、体力も若干落ちていた。何より心の準備が中途半端であった。自分のすべてを投資して自国開催の世界選手権に出場するという情熱が足りなかった。5年間を通してそうだったのかもしれない。限られた者に与えられる日本代表の称号。自分はJWOC2回のユニバーでその称号を勝ち得てきた。しかし、今思えばそれだけに満足していた自分がどこかにいた気がする。少なくとも最初のJWOCはそうであった。インカレでエリートになっただけで満足したか。そうではなかった。優勝を目指す自分がいた。本気で結果を残したいと思えば、本気になるはずだ。結果的に、自分はその挑戦に敗れた。自分から挑戦を放棄した。完全なる敗北である。しかし、手の届きそうなところまで来ることができた、というのも疑いようの無い事実である。それは評価するべきだと思う。5年間かけて考え、苦しみ、笑い、興奮し、喜び、悔しさに溢れ、希望を持ち続けた、その過程は間違いではない。

 

WOC2005

 7月末、続々参加国の選手が来日し始め、私もスイスチームの練習用コントロールの設置手伝いをしに愛知に向かった。選手たちを一見して、体を絞り、最高の準備をしてきたことが見て取れた。特にマークはよく絞れていて、顔つきが精悍になっていた。彼らは11月と同じように午前、午後でメニューを分割し、メリハリのある練習を行っていた。また、印象的だったのはミーティングの後わいわいがやがや言いながら卓球をし、その後プロジェクターを持ち出して映画を観ていたことであった。その影でオフィシャル陣は必要資料の整理、コピー、スケジュール確認、コースセット、バスやマウンテンバイクの手配などの雑務をこなしていた。そしてその様子は選手と隔離されたところで行われており、選手を完全にリラックスさせるためにあらゆる手を尽くして気を使いながら選手のサポートを行っているのが見て取れた。この日の晩は日本チームの宿に泊まる予定だったので、スイスチームと日本チームの宿での過ごし方を比較することができて面白かった。スイスチームは非常にリラックスムード、日本チームはリラックスしている中にもどこか堅いイメージがあり、落ち着けなかった。選手とオフィシャル陣が始終同じ場所にいることもスイスチームと違った。スイスチームの輪の中にいたほうが、ゆっくりと時間が流れる感じがした。

 8月に入り、世界選手権も間近に迫ってきた。スイスチームは直前に京都に2泊し、気分をリセットして再び愛知入りする予定だったので、京都の宿に同宿して少しだけお手伝いをした。昼間は研究室に行き、夜と朝だけ共にご飯を食べ、夜九時ごろから先斗町に繰り出した。彼らは完全にリラックスモードで京都観光し、酒を飲み、心から京都滞在を楽しんでいた。世界選手権が始まるなんていうのはまるでウソのようで、単に京都観光に来たスイス人としてしか写らなかった。最後にひとりずつピンバッジをお土産に渡し、Good luck! と挨拶をして送り出した。

 いよいよ世界選手権が始まった。毎日予選の様子を研究室からチェックし、更新ボタンを押しまくってリザルトの更新に一喜一憂した。中でも日本人選手の予選通過には本当に興奮した。研究室でパソコンの画面に向かいながらひとりで万歳をしていた。その場に行くときが非常に待ち遠しく、同時にそれらが終わってしまうことが恐怖であった。

 ミドル決勝から観戦。併設大会参加。野外会場の雰囲気に自分が経験してきた舞台の雰囲気と同じ匂いを感じ、うれしくなった。スイスチームも活躍しているようでうれしかった。初日に併設大会で優勝した。技術的な部分で粗さが目立ち、体力的にも不完全であったが、トップ7人が抜けているのでまあこんなもんか、という感じで一喜一憂することはなかった。

 ロング決勝は打って変わってテレイン内で選手の撮影をした。道の分岐で結構止まる選手がいて興味深かった。マリアン・ダヴィディックは10秒程度止まって地図を読みながらブツブツ呟いてルートチョイスを模索していたし、一度行きかけたがまた戻って別のルートに変更した選手もいた。そんな中、マークとアンドレイ・クラモフがパックになってトップタイムで現れた時は興奮した。祈るような気持ちでマークを応援し、アンドレイを突き放せ!と念じた。彼らはゴールまで一緒に併走し、結局マークは銀メダルに輝いた。自分のよく知った選手が活躍する姿を見ることができたことはこの上なくハッピーなことであった。シモーネも見たが、他を寄せ付けない躍動感のある走りで圧勝であった。

 CC7を間に挟んだレストデイ、夕方から鬼久保ふれあい広場に出かけて盆踊りをし、手筒花火を見学した。スイスチームもみんなで繰り出してきて一緒に盆踊りを楽しんだ。彼らは力の抜き方が本当にうまい。特にシモーネとヴローニとマーク。その場の雰囲気を心から楽しんでいる。笑顔を絶やさないのだ。そしてそれは成績に如実に表れている。リレー期待してるぜ、と言ってマークと別れ、いよいよ残すは団体戦のみとなった。

 世界選手権最終日、団体戦。私はビジュアル件ラスポでカメラマンの仕事をした。大助さんがニコラス・ヨナソンと一緒に会場に現れた時、8位で再び現れた時、マークがパックの先頭で現れたとき、シモーネが踊りあがってラスポに現れた時、ダニエルがラスポゴールでエミル・ウイングステッドを引き離した時、感動で武者震いがした。表彰台のてっぺんに上がるスイス女子を見て、感動で涙が出た。自分も微力ながらあの金メダルに貢献できたことが素直にうれしかった。

 

 そして、すべてが終わった。夢見てきたものは以外にもあっけなく、あっさりと、しかし確実に過ぎ去った。人生一期一会というが、今回の世界選手権を通じて、というよりそれを目指してきて、数え切れないくらいの出会いがあり、たくさんのことを学んだ。オリエンテーリングに賭けて来た今までのすべての物事はここに収束し、昇華され、また次へとつながる。見たこと、聞いたこと、学んだこと、経験してきたことすべてを次なる目標に注ぎ込むべく、新たな情熱を持って世界に出て行きたいと思う。

 

これから

 来年、私は長きに渡る学生生活を終え、ついに社会に出る。自分を取り巻く環境も大いに変化するであろうし、今までのようにオリエンテーリング第一で生活することはできなくなるかもしれない。まず間違いなく、何らかの形で障害にぶつかることだろう。しかし、5年間を通じて養ってきた情熱はまだ冷めやらず、挑戦し続けたい思いで満ち満ちている。今までは自分の帰るべき場所であったオリエンテーリングだったが、これからは飽くなき挑戦の舞台として捉え、世界を視野に楽しんでみたいと思う。まず、来年は最後のチャンスであるユニバーに全力を注ごうという思いが強くなっている。2回参加して勝手がわかっており、結果を出すために何が必要かを知っているからである。3度目の挑戦でどれだけやれるのかを自分で確認したい。世界選手権も出場したいが、今はユニバーで結果を残すことに集中したい。出たい種目も決まっている。選手に選ばれたなら、ロングは回避する。ミドルとリレーに絞る。あわよくばスプリントも出たいがそれ以上にミドルとリレーである。今まで自分はリレーで良いパフォーマンスができていない。自分本位のレースをしてきたので、今回の世界選手権代表チームのような、日本の誇りをつなぐ走りをしたい。その後はまだわからない。中期目標は2008年のチェコの世界選手権である。2008年は28歳になる。仕事も軌道に乗り始め、いよいよこれから、という時であろう。3度目のチェコで結果を出したい。この情熱を冷ますことなくこれからも上を目指してがんばるつもりだ。

 

スイスチームに学んだこと

 最後に、スイスチームから学んだことを書いておこう。まず、何よりも心から楽しむこと。自分をリラックスさせる方法を知ること。選手として完成型に近づくためには、あらゆる状況においてもリラックスして次の手段を考えることが大切である。次に、現地情報は現地人から得る、そしてその人にうまく仕事をさせる、ということである。今回、スイスチームには特に松澤さんと私の貢献度が非常に高い。地図調達から宿探し、情報伝達、人材探し、設置要員の借り出しなど、請け負った仕事は多岐に渡った。特に重要な点は、二人とも日本のトップレベルに位置する人材である、ということだ。目標が同じであるから物分りが早いし何を必要とするかを考えて仕事をする。この点において、彼らは他チームを大きく引き離して日本での準備をうまく運ぶことに成功したチームと言えるであろう。しかし、同時に彼らは我々へのフィードバックも惜しまない。練習には自由に参加させてくれたし、こちらからの願いも聞き入れてくれたことがあった。これもお互いの信頼関係がうまく築かれてた上でのことである。あと、オフィシャルが選手にコンペティション以外のことで気を使わせないように配慮していたことが挙げられる。適度に放置し、適度に束縛する。チームとしてのありかた、距離の置き方が大変大人であったと思う。選手もオフィシャル陣を完全に信頼し切っており、強固なチームワークが感じられた。一番印象に残ったのは、若手の育成である。彼らは若手選手の育成に非常に熱心に取り組んでいる。ジュニア、U23、シニアとカテゴリー分けし、成長著しい選手はどんどんレースに出して経験を積ませ、選手層の底上げを図っている。日本にもJWOC、ユニバー、NTというカテゴリー分けがあるが、特にジュニア世代の育成が整備されていない。インカレ主体の大学オリエン界は学連がその強化担当であり、その枠を超えての強化プログラムがなく、大学終了と同時に逸材を失うケースが少なくない。最も、一番鍵になるのは海外の大会に参加するためのスポンサーの有無であるが、それを抜きにしても、現状では個人のやる気に期待する、という状況であり、強化部が若手の発掘を行って育成する、というところまでは達していない。プログラムが確立し、若手をどんどん世界に輩出するシステムが出来上がれば、今後の日本のオリエンテーリングのレベルはもっと上がるであろうし、より多くの人が世界に目を向けるであろう。他の競技のように日本のライバル国となる国がアジアにないのも日本が伸び悩むひとつの理由であると思う。日韓戦や日中戦が開催されれば、我々はもううかうかしていられなくなるだろう。そんな日がいつかは来ることを夢にみつつ。

 

何はともあれ、私は今後も世界を舞台に戦うことを夢見て挑戦し続けます。一期一会を繰り返し、人生万事塞翁が馬。継続は力なり。

 

2005821日 25歳の誕生日に思う