JWOC2000への挑戦

京都大学2回生 西尾信寛

 

 

ことの始まりは、去年の5月はじめ。1年間の努力の結果、当時は思いもしなかった環境の中に現在の自分がいる。時間の流れは早い。あんなにあこがれ、待ちこがれ、ついにつかんだJWOCは、もう終わってしまった。1年間は、あっという間だった。しかし、そこから得たものは計り知れないほど大きい。この経験は一生忘れないだろうし、これからの僕の人生にとっても、かけがえのない財産になることだろう。

では、JWOCに関して僕が見たこと、感じたこと、その他全てを、順を追って綴っていきたいと思います。

 

 

(1)   JWOCを目指したきっかけ

 

1999年春、京大の先輩、番場洋子さんのJWOC日本代表決定の知らせを聞いたその瞬間から、どうやらぼくはJWOCを目指すようになったらしい。なぜか?ただ単純にうらやましかったから。入学したて、入部したての大学1年生オリエンティアにとって、これほど魅力的な話はなかった。「オレも来年・・・」と思ったのが、最初の一歩だった。

 

 

(2)   セレクション

 

 セレクションまでは、セレクションに使われる「勢子辻」の地図読み(毎日地図に穴があくほど読んだ)、継続的なトレーニング、規則正しい生活をすること、などを心がけた。セレに通ることのみが目標で、この段階ではその先のことは全く見えていなかったが、自分のオリエンテーリングのレベルは3月のインカレまでで数ヶ月前にくらべて相当向上していることがわかっており、またセレクションにおいて誰が自分のライバルとなるかはだいたい予想がついていたので、4月30日のセレ本番を迎えるにあたって、ほとんど不安要素はなかったように思う。

結果、一度大きく崩れるも目標だった「6600m60分切り(キロ9分)」で走りきることができ、加藤さんに続いて2位で通過することができた。男子の他のメンバーは全員既知の友達ばかりでうれしかったが、佐々木が通らなかったことが非常に残念であった。

 

 

(3)   セレクション後、出発まで

 

 セレクションに通った後、通過すること自体が目標だったために、次に何をすべきなのか全く先が見えない状態に陥った。

JWOCに出場することは決定した。じゃあ、何のためにわざわざチェコまで行くの?いつも日本でやっている大会と同じようにただ単に行って走るだけ?要は、JAPANトリムが欲しかっただけだろ。などというふうに、目標がつかめないまま自分の中で葛藤することが多かった。

このままでは本番に臨めない、と危機感を抱いたので、たくさんの方々からアドバイスをいただき、また過去のJWOC報告書を読み、何とかこういうふうに本番で走れたらいいなあ、くらいのイメージを最初の合宿までにまとめてみることにした。

「クラシック:90分以内かつトップ比150%以内、ショート:少なくともBfinal、リレー:Aチーム入り」

あまりにも漠然としていて、今思えばあってないような目標ではあったが。

しかし、全然JWOCの雰囲気というものを知らぬまま目標設定するというのは僕にとっては正直限界があり、とりあえずはセレ前とあまりやっていたことを変えずにJWOCまでの準備に取り組み、チェコの地図をじっくり読み込もう、と決めた。4日間連続で激しいレースを消化するだけの体力をつけることが必要だと感じたが、とにかく継続することを最優先にした。自分の信念である、「継続は力なり」を最後まで実践すれば問題はない、結果は後からついてくると思っていたからだ。

この点では成功した。学校の授業の課題提出に追われながらも空いている時間を見つけてはトレーニングや地図読みをし、合宿には全部参加し、出発1ヶ月前の東大大会ではいい成績を残すことができた。最後の富士での合宿はアキレス腱を傷めながらのメニュー参加であったが、自分にできること、つまりJWOC本番までに克服せねばならないと感じていたことだけを確認し、あとは患部を氷嚢で冷やして無理をしないようにした。

ここまでは順調なように見えた。合宿ではユニバー代表選手やNT選手にコーチしてもらって、それが非常に刺激になったと同時に、JWOC2000のメンバーはもちろん、たくさんの人たちと親交を深めることもでき、大変有意義な時間を過ごすことができたと思うし、限られた時間の中で、自分のしなければならないことは全てとまでは言えないまでもひととおりこなしてきたつもりだった。アキレス腱も、合宿後数日たって完治した。

ところが、もはや本番を迎えるのみとなった6月下旬、生活のリズムがおそろしく不規則になった。遠征に向けての荷物その他の準備と専門科目の課題提出締め切りに追われたためである。                      

それまでの疲れも少しずつたまってきていたのだろう、7月4日、まさに出発の日の朝、僕は37度8分の熱を出してしまったのであった。いざ、出陣!という時になって、抑えていたものが一気に爆発した感じだった。すぐに病院へ行き、血液検査をして疲労と緊張による発熱であることを確認し、解熱剤や抗生物質などの薬(後々これらの薬が大活躍をした)を大量にもらって関空へと向かった。この時は朝早くから寺嶋さんに電話をかけ、迷惑をかけてしまった。両親にも多大なる心配をかけさせてしまい、熱が下がるまで出発を遅らせなさいと言われたが、予約した飛行機に乗らないとJWOCが始まるまでにチェコにたどり着けるかどうかわからないと思ったので、両親を説き伏せ、気力を振り絞って行くことにした。それくらいしんどかった。        

僕の渡欧第一歩はそんなこんなで最悪なものとなった。行きの飛行機の中では最高39度ちょいまで発熱し、頭がどーんとして重かった。何とかロンドンで乗り換えに成功し、プラハに着いた。解熱剤のおかげで熱は少し下がっていたが、まだしんどかったのでトレキャンの宿に着いてすぐベッドの上にぶっ倒れて寝た。これから始まるトレキャンやJWOC本番のことが少々不安になったが、とりあえず体の調子を元に戻すことが最優先だ、と考え、あまり深く考えないようにした。まあ、なるようになるさ、と思った。

 

 

(4)   トレーニングキャンプ

 

初日は大事を取って、薬を飲んで1日中寝ていた。その後体の調子は少しずつ快方に向かい、2日目の朝にはほぼ完治した(はずだった)。時差ぼけもそんなになかった。

トレキャンの宿には我々日本チームの他にアメリカ、ロシアなどが泊まっており、ああ、いよいよ始まるのだな、ということがひしひしと感じられて、体中に鋭気がみなぎってくるのがわかった。2日目の午後にはもはや熱は完全に下がっており、やるぞ!と気合いを入れてトレキャンメニューをこなすことにした。他のメンバーも続々集まりだし、厳しくも楽しいJWOCの開幕は、もうそこまで迫ってきていることが実感できた。

 さて、トレキャン中はチェコの地形に慣れること、それへの対応の仕方、技術の確認などを自分の課題にし、それぞれのメニューをこなしていった。

中でもとりわけ自分にとってラッキーだったのは、わが日本チームのコーチをしてくれたRopekさん(with Ropek犬)を独り占めしてコーチングしてもらったこと。これにより、日本でのオリエンテーリングとチェコでのオリエンテーリングの仕方に多少の違いがあることがわかり、自分の改善すべき点も見え、また英語によるコミュニケーションもできて、かなり良い感じで本番を迎えられそうだった。

しかし、最終調整のボータスカップ(レース)では基本技術の詰めの甘さを露呈し、しかも加藤さんがかなりいいレースをしていて自分と結構大きな差があることがわかり、これはちょっと考えないといけないな、と思った。基本に忠実に、正置、直進、アタック、脱出。フラットな地形にはまずまず問題なく対応できたのではないか、じゃあ、あとはいかに落ち着いてこれらの基本動作を最後まで集中力を切らさずに繰り返すことができるかがレースのカギを握っているな、と思った。

トレキャン中に得たものは結構多かった。オリエンに関係ないネタもなぜか多かった。思い出すと今でも笑えてくる。毎日のハードな生活の中にも仲間とともにばか笑いする楽しいひとときがあった証拠だ。

しかし、本番までに全員のザックが届いて本当によかった。

4日間のトレキャン生活を終えて迎えた7月9日、僕らは満を持してトレキャンの宿を後にし、Milovyへと向かった。いよいよ本番だ!

 

 

(5)   モデルイベント、開会式

 

 710日、モデルイベント。この日は晴れていて暑かった。モデルイベントのテレインへ向かうバスに乗る前、洛星高校の1年上の先輩、金井塚友人さん(WOC2005日本招致のためヨーロッパを飛び回っていた)を通じて知り合ったスロベニアのAndrazと出会い、固い握手を交わす。

 バスにはいろんな国の選手が乗っていた。スペインのやつらが「おれらポケモン知ってるぜ!」「PIKACYU!!」とか言っているのが聞こえてきた。どうやら黒河さんがポケモン知ってる?と話しかけたようだ。しかし、僕は小学生の頃以来久々にバスに酔って死にかけていたので、座席の支柱にしがみついているのがやっとだった。それどころじゃないのよ!という感じだった。

 モデルイベントの会場にはすでに様々な国の選手やコーチ陣が集まってきており、みんな自分の国のトリムに身を包んで森の中へ続々と消えていく。僕もバス酔いが治ってから早々と着替え、以前から気になっていた「岩」を見に行くことにした。

これは非常におもしろかった。岩と岩の間の細いすき間にポストが置かれていてアタック方向によっては見えない場合もあることがわかり、要チェックであるな、と思った。いろいろな方向からのアタックを試みたが、手応えはイマイチで、結局地図をよく読んで慎重にアタックする以外にないのではないか、という結論に達した。要は、上からのアタック、下からのアタックで場合分けして考える必要がある、ということである。チェックチェック!

フィンランドの女の子は半袖にタイツでセクシーだった。チェックチェック!!

その他のポストはトレキャン中につかんだ感触とだいたい同じような感じだったので、特に問題はなし、基本に忠実にやれば大丈夫!と思った。とにかく明日から始まるJWOCが楽しみでしかたがなかった。

さて、この日の午後は開会式である。ホテルから湖のほとりまでパレードし、さわやかな日差しの下、開会式が行われた。待ちに待ったJWOC2000が、ついに開幕した。

 

 

(6)   クラシック

 

7月11日、曇りのち雨。クラシック。距離10400mup430m。目標タイム:90分。

クラシックは早い時間帯、間の時間帯、遅い時間帯、の3つの時間帯からスタートしたい時間帯を選ぶことができ、僕は前日のミーティングの時にいちばん早い時間帯を希望した。早い時間のスタートのほうが好きだからだ。特に長丁場が予想されるレースではなおさらだ。

スタート前、十分に体をほぐしてストレッチとウォーミングアップをする。この時、ほのかな頭痛と左足の太ももの付け根が少し痛むのを感じた。しかしスタート直前になればそんなことは忘れてしまい、レースのことだけを考えて集中した。

枠に入ってSIのチェックをし、合図とともにスタートした。序盤はなかなか調子が良かった。2ポは前日に発表されたデフをもとに地図読みしていたおかげで予想がずばり的中した。ルートも「こうかなあ」と考えていたとおりに行ったが、あまり速くなかった。実はもっとうまいルート取りがあることが後になってわかり、Shock

クラシックのコースは思っていたよりもかなりタフなコースで、登ったり降りたりを繰り返した。レースそのものはよく集中することができ、少々のミスを重ねているもののまずまずといったところかな、と思っていたのだが、他の国の選手は不整地を走るスピードがけた違いに速く、後ろから猛烈なスピードでやってきた何人もの選手に抜かされた。負けるか!と思ってがんばるのだが、自分のオリエンテーリングができないので追いかけるのはやめてマイペースで行くことにした。それとは逆に、自分と同じような動きをするやつらもいた。事実、ベルギーの選手といくつかの区間で前になったり後ろになったりした。

いつのまにか雨が降り出しており、夏だというのにかなり冷えた。手がかじかんでうまく動かないほどだった。

ビジュアルを過ぎてその後3つのポストを取り、死ぬかと思うくらいがんばってラスポ〜ゴールを駆け抜けた。107分41秒。目標の90分には程遠く、後半は少しばてたかな、という印象だった。自分としては、レース全体のできはどうにか納得のいくものだったが、順位は下の下であり、世界のレベルと日本のレベルの差をまざまざと見せつけられた気がした。トップとは40分近く差があった。速報ボードの下のほうにかろうじて載っている自分のプレートを見つけて写真を撮って喜んでいる自分が情けなく思えた。くやしかった。

 レース後、雨にぬれて寒かったので早々に体を拭いて着替えを済まし、ホテルに戻ってシャワーを浴び、ついでにそのまま洗濯もした。頭を振ったらなんかかなり痛いなあ、と思っていたのだが、まあ昼寝したら治るだろうと安易に考え、疲れてもいたので昼寝をすることにした。

 起きたら熱が出ていた。体温計をわきに挟むまでもなかった。頭が割れるように痛かった。食欲も全然なかった。表彰式をやっているらしく、階下から拍手と歓声が聞こえてきたけれど、体があまりにもだるくてベッドから起き上がることさえ億劫で見に行くことができなかった。なぜこうなったのか全くもって謎だった。出発の時のやつを再びぶり返したとしか考えられなかったが、そうは思いたくなかった。そんなんあまりにもアホやんけ!

しかし、思考力は以外と落ち着いており、今、どうすることがチームと自分にとっていちばんプラスになるかをガンガン鳴る頭で考えた。寺嶋さんに状況を説明し、ドーピングに引っかかるおそれのないアスピリンをもらって服用した。

ベッドに埋もれて苦しんでいた時、加藤さんが心配して来てくれた。

「とにかくメシ食っとけ、メシ食わないと走れないよ。」

と励ましてくれた。そうだな、そうだよな、と加藤さんに感謝するとともに重い体を起こして夕食を口にしたが、ごく少量しかのどを通らなかった。

 ミーティングの前、断腸の思いで寺嶋さんに「ショート予選欠場」を申し出た。そうするのがいちばんいいという結論に達したからだ。自分にはリレーを走らないなどということは考えられなかったし、できるだけベストに近い形でレースに臨みたかったので、明日は走らないほうが良いと思ってのことだった。

 しかし、明日もし休んで元気になっても予選を欠場したら決勝を走らせてもらえる保証はないと言われ、それではくやしさのみが残ってしまうので、明日の体調がどうなっているかはわからないけれど、やっぱり出場することにした。歩いてでも全部回れたらそれで十分だ、と思った。

 

 

(7)   ショート予選

 

7月12日、雨。ショート予選。目標Bfinal進出→完走。

霧雨の中をスタートエリアまで歩く。アスピリンが効いたのか、どうやら熱は下がったようだ。むしろクラシックを走って余計にひどくなった左足の痛みのほうが気になった。

しかし、やはり体の調子は良くなく、走ることはできるものの、頭はぼんやりしていた。

当然のようにレースは散々だった。スタートした直後に普段より物事に対する判断能力が低下しているのがなんとなくわかり、ミスへの対処もあいまいになっていて、気が付いたらオリエンテーリングではなく登山をしていた。さらに、体がだるくてあまり走れずに後ろから来る選手にどんどん抜かされ、泣きそうになりながらもがんばって完走した。ラスポ〜ゴールはズッコケたけれど、気力だけで走りぬいた。なんとか成績はついた。

この日は自分の体をコントロールするのに精一杯で、こういうふうに走りたいと思っていた走りが全くできず、涙が出るほどくやしかったが仕方がなかった。誰のせいでもなく、全ては自分の責任なのだから。結果、決勝はCfinalを走ることが決定した。

他のメンバーも男女含めてBfinalに駒を進めたのは加藤さんだけで、予想以上にレベルが高いことを思わせた。出発前に自分が思い描いていたのとは大きく違い、何もかもが誤算に思えてならず、ますますくやしさが込み上げてくるのがわかった。とにかく、冷静に自分のレースをするのだと言い聞かせた。体の調子は復調の兆しを見せていた。

 

 

(8)   ショート決勝

 

 7月13日、晴れ時々曇り&雨。ショート決勝。目標:Cfinal制覇。

 朝起きていちばん最初にしたこと、おでこに手をあてたこと。なんとかなりそうだ。朝ご飯も抵抗なくもりもり食べられた。今日は昨日の借りを返そうと思っていた。加藤さん以外は全員Cfinalだったので、負けるか!とも息巻いていた。

 レースが始まり、スタートする。しかし、体に切れがなく思うように足が前に出ない。左足も無理に動かすと鋭い痛みが走ったので、我慢のレースを続けることを心がけ、丁寧に動作を繰り返しながら行こうとしたのだが、いくつかのレッグでささいなミスからアタックに手間取った挙句、蔵田に追いつかれてしまった。なんとか先にゴールしたものの、自分の満足の行く内容のレースをすることができず、無念であった。

Cfinalでさえ上のほうの順位に食い込むことができず、自分のしているオリエンテーリングの未熟さに苛立ちすら覚えたが、いや、まだ明日があるんだ、と自分に言い聞かせ、最後のレースへの準備に専念することにした。

この日の夜、リレーのメンバー発表があり、僕はAチームで走ることになった。チームのメンバーは、エース加藤さんと調子のいい蔵田。僕は2走をまかされた。すべては僕の体調にかかっているな、と思った。再び微熱が出てきていたので、薬を飲んで早々に寝た。最後だけに、いいレースがしたかった。

 

 

(9)リレー、解散〜バンケット

 

 7月14日、曇り時々晴れ。リレー。

 いよいよ最終日となった。体の調子はまずまずに思えた。レース前、みんなで集まって輪になり、「日本、ファイト!オー!」と気合いを入れた。大きな声を出したおかげで体が温まり、気分も高揚して俄然士気が高まった。勝てるチームにはなんとしても勝ちたい、と思ったし、事実日本にいる間から尾上さんにいただいた資料や過去の報告書をもとに、リレーでどこの国と張り合えるかそれなりに研究もしてきていた。あとは寺嶋さんと加藤さんのデータ収集と分析をもとに、自分の持てる限りの力をレースで発揮するだけであった。

ウォーミングアップをするうちに男子1走のスタート時刻が迫り、加藤さんと宇田川を応援しに行く。そして、ついにスタート。その後女子のスタートも応援した。

1走スタート後は気分を引き締めてアップを続けた。Ropek犬が足元に寄ってきたので「オッス!元気か?」となでなでした。Ropekさんも奥さんとともに会場に顔を見せており、「Hi!」とあいさつを交わした。

トップ集団がどんどん帰ってきてだいぶ時間がたってから、加藤さんがビジュアルを通過した。いよいよ出番だ。寺嶋さんに檄を飛ばされ、スタートエリアに向かう。「攻めのレース」をイメージする。左足が刺すように痛んだが、とにかく足を前に出すのじゃ!と気合いを入れた。

加藤さんからタッチを受け、スタート。地図を取り、落ち着いて地図読み、正置をし、1ポへ向かった。体の切れはやはりいまひとつぱっとしなかったが、ショートの予選、決勝の時に比べればかなりましに思えた。

レースは少ないアップかつ道走り多用の高速レースだった。僕が得意とするタイプのオリエンテーリングだったが、アタックで何度もミスした。アタックポイントまでのアプローチが容易であるにもかかわらず、そこから先が遅いためにトータルでかなりのロスタイムを生み出してしまった。これは今後の課題だ。

ビジュアルポストに向かって森の中を走っている時、チェコAチームの3走だったMichalがものすごいスピードで僕の横をすり抜けて行くのを目の当たりにした。この光景が、JWOCが終わって1ヶ月たった今でも鮮明によみがえってくる。JWOC全体を通して最も印象に残ったシーンのひとつだ。

ビジュアルを過ぎ、あせらず丁寧に動作を続け、ラスポへ向かった。ラスポを取ってからはゴールレーンを今までにないほどがんばって駆け抜けた。

「これで最後だ!」

ギャラリーの大声援(Ropek犬が僕のそばをずっと一緒に走っていたらしい)を受け、蔵田にタッチ。「がんばれ!」とエールを送る。ついでにスウェーデンの2位フィニッシュとフィンランドの3位フィニッシュも見ることができた。同時にそれは、日本が2走終了時点ですでにレースを終えているチームがあることを意味していた。あまりにも差がありすぎる。全然太刀打ちできない。

 結局日本男子はアメリカにも負け、順位がついた中では下から2番目の26位。こんなにも相手にならないとは思っていなかっただけに、全てが終わってしまってからいろいろと考えさせられた。僕らは果たしてJWOCまでに完全に近い準備をしてきたのだろうか、どういう心構えで日々本番に向けて暮らしてきたのだろうか。それらは全て、結果が物語っている。

 今回、僕らには結果が求められていた。事実、すばらしいメンバーが集まっていたし、自分自身も他のみんなもコーチも結果を出すことを前提に準備を進めてきたはずだった。しかし、実際は違った。レベルが高かった。内容は別としても、出したかった結果に、思い描いていた目標に、手が届かなかった。

 これらのことが頭の中を駆けめぐり、写真を撮ったりトリムを交換したりし、バンケットで禅洲が腰をフリフリ大ブレイクし、モテモテ前菜宇田川は特に何もなく、JWOCは過去のものとなっていった。

 

 

(10)最後に

 

 ひとつのステップが終了した。JWOCセレに通った時、僕は「JWOCは通過点に過ぎない」と言った。そのポイントを今確かに踏みしめ、次のステップへ向かい顔を上げる。今回の遠征で、僕は今までにない莫大な量の新しい経験を積んだ。考えることを知り、レースに向かう競技者としての心構えを学んだ。失敗や無念を乗り越えて1つの物事に立ち向かう強い精神力を得た。

 しかし、様々な人々のサポート無くしてここに至ることはなかったと思う。クラブの先輩方、同期のみんな、合宿でコーチをして下さったみなさん、個人的に何かとお世話になった尾上さん、友達、家族、そして何と言っても一緒にJWOCを目指してきたJWOC2000のメンバー、コーチの寺嶋さん、貴美江さん。僕はたくさんの人たちに囲まれてオリエンテーリングができる環境にあり、非常に幸せ者だ。それら全ての人たちに、この場をお借りして感謝したいと思います。本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。僕はまだまだ速くなります。この経験が今後どう活きてくるかはわからないけれど、間違いなくプラスになると僕は考えています。

さて、長々と書いてきましたが、この辺でピリオドを打ちたいと思います。最後に、来年以降JWOCへ行く資格のある人たちへ。僕はできることならもう一度行きたいです。しかしそれはかなわないので、あなたたちのJWOCでの大暴れを期待しています。ぜひぜひ目指して下さい。

以上、終わり。       

・・・最後まで読んでくれたあなたはイイ人です。