クリック
 大山
大山信仰 
大山は丹沢山地の南東部に位置し、標高1245.6m。別名「雨降山、阿夫利山」とも言われ、雨乞い山として、古代より豊作、豊漁の守護神として崇められ、また山岳信仰の場として多くの修験者を集めてきた。

大山詣
江戸中期、大山詣では、江戸より一泊二日と気軽だったため、参拝者は年間20万人にも及んだという。人々は雨乞い、豊漁、航海安全、商売繁盛、家内安全といった現生利益を願った。春日局も四度程詣でたという記録が残っている。

お盆の時期には白木綿の衣と笠を身にまとい、境川、相模川で身を清めて出発した。この参拝者目当ての旅籠、休屋などが多く出来たという。下山して帰途には、藤沢、江ノ島あたりの相模女と結ばれる若者もあったようで、精神的にも肉体的にも一人前の大人になるという、いわば成人式を意味するものであった。

相模原市内にも、昭和初期まで続いていた大山講の記録がいくつかある。講の人々は農水産物を神社に奉納するため持参した。中でも大豆は、大山の名水と相まって、大山豆腐となり、名物となった。


現代の大山
大山は江戸時代の末まで約千年間、不動明王と石尊大権現を一体とする信仰の山、大山寺の山であったが、明治初年の神仏分離以来、神社が上位に立って不動堂の形は薄れ、阿夫利神社の山と呼ばれるようになった。大山に登る人々の多くは大山は阿夫利神社の山と思い、大山寺のことは女坂のお不動さんという程度の認識しか持っていないようである。しかし、神仏分離以前の古い伝統行事は、お花講の夏山開き、薪能、五壇護摩などで引き継がれている。
山頂にある阿夫利(あふり)神社本社をめざして、今も白い行衣の信者らの姿が見られる。中腹にある下社や大山寺迄はケーブルカーが通じている。山頂からの眺めは雄大で遠く大島までも見渡せる。

交通:小田急伊勢原駅から大山ケーブル行バス25分終点下車後大山ケーブル追分駅まで徒歩10分
有料駐車場:300台

 大山道
「大小の岐路、いやしくもその一端が大山に達するものは、大山道と名付く。その岐路に至って、人の迷うところには必ず、大山道の石標を設立せり。」と大山史がのべているように、十人、二十人の講中が先達に導かれて通った道は、すべて大山道である。
現在、畑の中の細い道となったり、廃道となったり、現在の245号のような交通頻繁な自動車道となったりで、残っているのは40道程である。

主なものは、次のとおりである。 
1.矢倉沢往還道(相模川、厚木の渡しを利用)
2.柏尾通大山道(相模川、戸田の渡しを利用)⇒戸田の渡し居合坂付近はかながわ古道50選
3.熊谷から松山道大山道(相模川、久所の渡し、または磯部の渡しを利用)

熊谷から松山道大山道は、境川領国橋から相模原市橋本公民館までの旧国道16号線沿い約500mの町並みが、昔交通の要所として栄えた橋本宿である。橋本宿は大火で焼失したため詳しいことは不明であるが、江戸初期、幕府の命によって宿場として誕生したらしい。徳川家光が静岡東照宮から日光東照宮へ宝物を運ぶにあたって混雑の激しい東海道を避けて小田原から橋本を通って熊谷に行く裏街道を利用したので日光往還八王子道ともいった。


 棒杭
現東電橋本変電所の南側に、昔大山道が田名、久所の渡し経由と上溝、当麻の渡し経由に分岐するため、木の棒の道標がたてられていた。それでこの辺りを棒杭といった。
この付近の民家内に大山ゆかりの不動明王像が祀られている。七沢石造りの不動明王が浮き彫りにされ、その下に大きく「右大山見ち」、右側面に「北八王子道」、左側面には「南厚木道」とある。この像は、田名の人々が大山詣での人々をなんとか上溝ではなく、田名に立ち寄らせたく、「右大山見ち」と大きく彫ったものという話が伝わっている。



参考文献:川とみず文化研究会編発行相模川水の旅
神奈川県史料編集委員会編史料が語る神奈川の歴史60話
原田鉄生著相模大山

マイタウン目次に戻る