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 絹の道 (八王子〜横浜)
 
1858年日米修好条約が締結された翌年に開港された横浜港に、関東各地から集まった輸出用の生糸が、この絹の道を通って運ばれるようになった。横浜港から出荷された生糸は輸出品の花形として、欧米の港へと海のシルクロードを渡っていったのである。

この頃の横浜港は、諸外国の新しい貿易市場となり、生糸のみならず、茶、雑貨、銀、銅、なども盛んに輸出された。中でも、生糸は安価な原価も幸いし、欧米での人気が高まり、1867年には、蚕種の輸出価格が前年比で26倍にもなったといわれ、日本の貿易が増大した。
八王子市に程近い鑓水には、生糸商人が多く輩出したため、江戸鑓水とも呼ばれるほど、地域的に隆盛し一時代を築いた。
まもなく、生糸は国策として、輸出されるようになった。農家の女性に依存していた糸取り作業は、大工場で機械化され、大手問屋を経由して出荷されるようになったため、隆盛を誇った鑓水の商人たちは没落の道をたどっていったのである。

「絹の道」の名はこの鑓水の豪商たちの地に、昭和20年代に名づけられ、石碑が建立された。
現在は市街化が進み、往時の道はほとんどなくなってしまったが、八王子市御殿橋から大塚公園までの間、約1kmが八王子市の指定史跡として当時のままの姿で保存されている。

実際にこの道を歩いてみると、道の整備状態、勾配などから荷車などは難しく、人が背負うか、馬に積んで運ばれたものと思われる。

しかしながら、この道が絹の道として栄えたのもつかの間で、横浜へ最短距離で建設された道路網は、馬車などの発達を促し、さらに、明治5年に東京、横浜間に開通した鉄道によって物資の輸送が格段に向上した。この新しい絹の道によって、日本の生糸貿易は大きく成長し、多くの外貨をもたらすことになった。


新しい絹の道は生糸などの輸出だけではなく、欧米のさまざまな文化をもたらした。それはキリスト教であり、自由思想などの新しい考え方であり、ランプやマッチなど珍しい生活雑貨などが生糸を運ばれた道をたどって、国内の村々に広がっていったのである。絹の道は当時の日本にとって大きな役割をはたしたのである。
当時のままで保存されている「絹の道」人通りもなく昔の様子を想像しながら歩く。
八王子市の指定史跡の説明看板がある。
絹の道の入り口に車両進入禁止の立て札が立っている
絹の道資料館
住所:八王子市鑓水989-2
電話:0426-76-4064
駐車場:あり

絹の道散歩
ここから大塚山公園(道了堂跡)まで歩いて15分、市が保存してある絹の道を通って当時の歴史を偲ぶことができます。

車の乗り入れは禁止です
絹の道資料館に近年見ることが少なくなった実物の蚕の繭が展示してある。
絹の道の歴史、鑓水の隆盛の過程や、養蚕の貴重な資料が展示されている。
参考文献:絹の道資料館の掲示など
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