足元は煉獄





 如月は惨憺たる思いだった。
 完全に手玉にとられた。目の前の男に。情報将校であることは知っていたが、特務としての腕に自信があっただけに、牽制されて翻弄された自分がひどく悔しい。涼しい顔で礼など言われ、沸騰した頭に冷水をぶっかけられた気分になった。固い頭のどこかにヒビがはいった。

「…あなたはよほど私のことが嫌いらしい」

 店を出て車に乗り込もうとしていた草加に、咄嗟に言っていた。
 草加は足を止め、如月を振り返る。口元には微笑。さて、何を言い出すのかな?とでも思っているのだろう、余裕の笑み。

「安心した。死人相手ではどうしたらいいのかわからないが、心があるのならあなたは生きているということだからな」

 草加はまだ余裕の表情を崩さない。冷静で優秀な情報将校、しかし如月はこの男の奥に潜む、暗く燃え上がるマグマのような情念を知っていた。その源も。

「…角松二佐に、」

 ピク、と草加の頬が歪んだ。ほんのわずかだが、巧みに隠していた熱が瞳に揺らめく。

「助けられ、未来の記録を知った時に、一度死んだと言ったそうですね。だから帰郷した時も、ご家族に無事を知らせなかったのですか?」
「………。そうだ。今更家族に会っても、私は以前の私ではない」
「会いたくない、というのが本音でしょう。特に、奥様には」

 とうとう草加から笑みが消える。殺気を込めた瞳に射抜かれ、指先が震えそうになるのを如月は必死で耐えた。負けてたまるか。腹に力を込め、それでもあえて静かな声を作り出す。

「角松には独身だと言ったそうですね。なぜです?それだけは少し気が楽だと言っていましたよ。あなただけをたよりにしている人がいなくて良かった、と」
「如月……っ」
「角松は私になんでも話してくれましたよ。あなたのことや「みらい」のこと、自分のこと……よほど、私を信じているらしい」

 カアッと燃え上がる炎を、如月は見た。どこまでも黒い黒い炎。熱ささえ感じさせない、だが触れれば一瞬で全てを焼き尽くす、炎。
 気がつけば銃口が突きつけられていた。草加はさきほどまでの余裕が嘘のように激昂している。実に痛快だ。この男の本心を垣間見た。これが見たかったのだ。

「優秀な海軍軍人…と褒めていただいて光栄ですが、」

 にこりと笑みを浮かべて如月は人差し指でその銃身をずらした。一瞬でも本心を見せてしまったことに動揺したのか、銃はすんなりと横にずれ、草加は腕を下ろした。

「同時に如月克己という個人であることも、お忘れなく」

 以上、というように敬礼をすると、草加は探る眼を向け、そしてまた涼やかな微笑をはりつけた。

「やはり、殺しておくべきだったかな?」
「一度失した期は二度と来ないと存じます」
「心得ておこう……」

 草加は優雅に答礼すると、今度こそ車に乗り込んで、去って行った。