約束





「かどまつ、ようすけ。です」

 はじめまして。大きなリュックサックを背負い、ぺこりとお辞儀をした5歳の男の子は、草加の予想に反してとても礼儀正しく挨拶をした。
 もううちでは面倒みきれない。突然かかってきた、名前しか知らない親戚に押し付けられた子供。どんなクソガキが現れるのかと内心身構えていたのだ。30過ぎの独身男にとって子供など迷惑以外の何者でもない。断りはしたものの向こうがそれで引くはずもなく、半年でもいいから一度は預かれ、手に負えなくなったら施設にでも入れてしまえばいいだろうとまことに無責任なことを言ってきたのだ。見も知らない子供に対する同情と親戚への不愉快もあいまって草加は引き受けた。直後に後悔したものの、もう遅い。
 角松洋介は子供らしい好奇心に満ちた瞳をきらきらと輝かせて草加を見ている。

「草加拓海だ。これからよろしく」
「はいっ」

 元気の良い返事に目を細め、草加は周囲を見回した。現れたのは角松一人で、件の親戚の姿は見えない。

「…君だけか」
「はい。ここまでの切符は、おばさんがくれました」

 なんということだ。草加は天を仰いだ。雲の合間から見える青空にやるせなくなる。何があったか知らないが、たった5歳の子供をひとりでよこすなど、大人のすることではないだろう。本当に、文字通り彼は厄介払いされてしまったのだ。
 あらためて角松を眺める。清潔ではあるもののサイズの大きいシャツとズボンを着ている。おそらく親戚の子供のおさがりだろう。靴だけは自分のものだろうが、踵の部分が擦り切れていた。育児放棄、ネグレクトといった同音異句が頭をよぎる。呆れるよりは不愉快極まりない事態だ。
 ひとまずアパートに帰り、角松の荷物を紐解いた草加はその思いを強くした。大きなリュックサックとはいってもそれは子供の体にとってということで、草加にしてみればちいさいサイズだ。その中には彼の両親の位牌と、彼自身の下着と着替えが一着ずつ。それから箸と茶碗が一揃い。それだけだった。

「…よし」

 草加はため息を堪えてうなずいた。やってやろうじゃないか。出されたジュースをひと息に飲んだ角松が目を丸くする。

「まずは、買い物だ」
「かいもの?なにかうの?」
「洋介の洋服と下着だ。靴も新しいのにしよう。あとは…何が必要かな」

 独身の草加には、5歳の男の子に必要なものなど見当もつかなかった。引き取ることが決まってすぐに布団だけは揃えたが、服も靴もサイズをみなければ買い揃えられないものばかりだった。デパートへ行ってから決めることにして、二人は部屋を出た。買い物より先に、アパートの大家に挨拶をするのが先だ。
 楽隠居といった風情の大家は角松の元気な挨拶に始終にこにこして、草加に「頑張りなさいよ」とのんびりとした励ましをおくった。子供を預かることは前もって相談してあったので、大家はわざわざ以前の部屋から引越しまでさせてくれたのである。まったくもって、経験者というのは貴重だ。
 デパートに着くと、角松は楽しげな表情を顔一杯にうかべた。はずむような足取りに、草加はあわてて手をつなぐ。

「ほら、迷子にならないように」
「はい」

 子供服・下着類・靴と予定通りに買いこんで小休止にする。買い物の間に草加の胸にあった不信感と憐れみは強くなり、そして同時に安堵もしていた。角松は買い物に一切口をはさまず――我儘を言わず、すべてを草加にゆだねていた。この年頃ならおもちゃのコーナーで立ち止まったりあれこれと歩き回り大人に心配かけたりするものなのに、実際にそんな子供もいて草加は内心恐々としていたのだが、角松は大人しく草加に手を引かれている。自分の身をわきまえているといってしまえばそれまでだが、たった5歳の子供にそれをわきまえさせていた親戚たちにひと言言ってやりたい気分だった。
 角松はバニラのアイスクリームを幸せそうに食べている。どれがいいと草加がたずねた時、彼はわからないと答えたのだ。それなら端っこから制覇していこう。好きなものをこれから一緒に探していけばいい。草加の言葉に角松は驚いていた。20種類以上もあるアイスクリームは季節ごとに新しい味が加わって、全制覇など遠い先の話になるだろう。子供であってもそれくらいはわかったのだ。

「あとはなにがいるかな…」

 5歳ということはもうすぐ小学生だ。読み書きくらいはできておいたほうがいいだろうと草加は筆記用具を買い物カゴに入れた。大きめの落書き帳とえんぴつ、12色のクレヨン。
 お手本用にと本屋で幼児用ドリルと絵本を選んでいると、角松がそっと草加から離れていった。何を選ぶのだろうと窺うと、彼は一冊の本をじっと見つめた。

「気に入ったのか?」

 声をかけると恐いものにでも見つかったように大げさに角松は飛び上がった。手にあるのは生物図鑑。イラストではなくカラー写真が載った、詳しい解説付きだ。何歳児向けと明記されていないということは、どちらかというと大人向けなのだろう。文字は小さく、漢字も多用されている。とても子供向けではなかった。3冊シリーズで陸・空・水となっている。図鑑にふさわしく、値段もたいそうなものだ。

「あ…っ」

 今まで引き取られた家では何かを強請ることもなかったのだろう。角松はぶんぶんと首を振った。

「そうか?言ってくれないとわからないから、何か欲しいものがあったら言ってくれ。買うか買わないかは、ちゃんと相談して決めよう」

 健気というより痛ましい。我儘のひとつやふたつくらい言ったって怒ったりしないと教えてやりたかった。角松はぽかんと草加を見つめ、それからまた図鑑に目を落とし、意を決してそれをぎゅっと胸に抱いた。

「これ、かってください?」
「この本?」

 下に積まれていた一冊を草加も手に取った。図鑑など、社会人の生活に必要なものではない。草加の家には一冊もなかった。3冊買えば福沢諭吉が財布から飛んでいくが、悪くない買い物だろう。

「私の家には一冊もないからな、買っていこう」
「おじさん、もってないの?」
「おじさんではない、草加だ。言ってみろ」
「くさか」
「はい。よくできました」

 くしゃくしゃと頭を撫でて3冊手に取ると、レジに向かう。会計を済ませこれは洋介の本だからと持たせてやると、幼い顔が喜びに輝いた。
 二人暮らしになったその夜、角松洋介は図鑑を眺めながら眠ってしまった。解説を読み聞かせていた草加は汗ばんだ額を拭ってやる。いろいろあって疲れていたのだろう、くうくうとかわいらしい寝息をたてていた。

「おやすみ」





 どうしてこの子が親戚をたらいまわしにされていたのだろう?一緒に暮らし始めても、その答えはでなかった。

「くさか!おかえりー!!」

 会社勤めの草加が帰宅すると、角松は足音を立てて走ってくる。飛びついたりはしないが草加の手を引き部屋に入ることを急かすのだ。今日も遊びに行った出来事(角松は武勇伝だと言い張る)を話したくてたまらないらしい。草加が着替えている間も夕飯の支度をしている間もちょろちょろとつきまとい、おしゃべりを続ける。草加は相槌をうちながら時々褒めたり叱ったりした。

「それでな、ほんものさがしにかわへいった!」
「川?どこのだ?」
「でっかいはしがあるとこ」
「橋って…あ!あんなところまで行ったのか?」

 このあたりの地図を思い浮かべ、草加は驚いた。そこまでは2キロ以上あるはずだ。子供の足には遠すぎる距離といっていいだろう。

「とちゅうでおべんとたべて、カルピスのんだ!たんけん、たのしいぞ!」
「すごいな…よく迷子にならなかったな」

 呆れと感心が入り混じった草加に、角松は胸をはった。

「まいごなんかなんねーよ!それで、おみやげ」
「お土産?」

 ごそごそとポケットの中から出てきたのは、

「かえる」

 ちいさな緑色の石。ほら、と手のひらに乗せられる。角度を変えて見ているうちに、草加にも意味がわかった。

「なるほど、蛙だ」
「なー?」

 角松は得意気だが、しかし草加は考え込んだ。あんなところまで行くとは、角松の行動範囲は相当広い。今日は無事でも明日は迷子になるかもしれなかった。加えて川は子供がひとりで遊ぶには危険すぎる。
 夕飯後、草加は角松といくつか決まりごとを作った。あまり遠くへは行かないこと。川にはひとりでは行かないこと。知らない大人にはついて行かないこと。心配事など限りがないが、最低限は守らせるべきだった。こうやって目の届くところにいる時なら多少の無茶もかまわない。けれど仕事に行っている間、草加はそばにいてやれないのだ。きちんと正座して聞いていた角松はいちいちうなずいて、約束した。

「そうだ」

 草加は色画用紙を切り取って、住所と名前を書き、それを首から下げられるようにした。

「迷子になったらそれを見せて、助けてもらいなさい」

 首にかかった迷子札をしげしげと見ていた角松が、ぽつりと言った。

「…おれ、いないほうがいいんじゃないの?」
「何を言っている」
「だって…」

 うつむいて言葉を探す角松の表情は見えない。両親と死に別れて以来親戚の家をたらいまわしにされて、幼いながらも(幼いからこそ)、自分が「いらない」子であると思っているのだ。
 今までがどうであれ、草加には角松を手放すつもりなどなかった。もはや角松のいない生活など考えられない。

「洋介は私を泣かせたいのか?」
「くさか、ないちゃうの?」
「泣きわめくぞ。洋介が帰ってこないって、ご近所中に知らせて回って、皆で探しに行く。大家さんも皆も、洋介どこいったって、きっと泣くぞ」

 大げさに手を振り回すリアクションが面白かったのか、角松が笑い転げた。わかった、ぜったいかえってくる。これも約束だ。





 子供と暮らし始めてわかったことはたくさんある。男は家庭を持って一人前とよく言われるが、それは守るべき者への責任と義務だけではなく、誇りと喜びをもって働くという意味でもあるのだ。家に帰れば愛すべきものが自分を待っていてくれる。それは他のどんなものより、生きがいと張りを与えてくれる。
 この日、草加は定時で仕事を終わらせた。スケジュールを調整し無駄を省くだけで自分でも驚くほど効率があがった。終わらない仕事は家に持ち帰ってやっているが、やろうと思えばできるのだ。子供ではなく嫁をもらうべきじゃないかと周囲は言うが、知ったことではない。酒のつきあいも接待もキャンセルだ。
 夏の長い夕暮れの帰り道。冷蔵庫の中身と夕飯の献立を考えながら歩く草加の目に、もうすっかり見慣れたちいさなシルエットが飛び込んできた。

「洋介!」

 大声で呼ぶと角松はびくっと肩を跳ねさせ、草加だと気づくと走って抱きついてきた。

「くさか!」
「洋介、迎えに来てくれたのか?」

 鞄を脇にかかえて抱き上げてやる。すぐに草加は角松の異変に気がついた。息が切れるほど汗をかいているのに、震えている。

「洋介?」

 細い腕が必死でしがみついてくる。視線を走らせて角松の体を確認するが、虐待めいた怪我はなかった。震える背中を撫でてやる。

「どうした?迷子になったのか」

 あえて軽く言う。角松はぶんぶんと首を振った。なんでもない、と言う。

「くさか、かえろ」
「そうだな。買い物して帰ろう」

 地面に下ろすと不安に潤んだ黒い瞳が見上げてきた。にっこり笑って手を繋ぐ。ちいさな手のひらに体温が戻っていた。

「スイカ買おうか、夏だし」
「スイカ!たべたことない。あれだろ?なかがあかくて、タネをとばしてこーげきするやつ!」
「ま、まあそうだ」

 どこで覚えたそんなこと。部屋中水浸し種まみれを想像して草加は苦笑した。それもスイカの醍醐味だということにしておこう。
 スーパーの青果コーナーでスイカを見つけると、角松が嬉しそうな顔をした。子供と二人で食べるのに丸ごとは大きすぎるが、これが初スイカとなると丸ごと買ってやりたくなる。ちらりと角松を見れば案の定丸ごとのスイカをじっと見ていた。仕方がない、半分は大家さんにおすそわけすることにして、草加は大玉スイカをよいしょと持ち上げた。持つ、と主張した角松にそれならと渡す。予想外の重さに子供がよろめいた。ほぼ水分だけとはいえ、丸ごとスイカは重いのだ。
 慎重に丸いスイカを半分に切ると、赤い果肉があらわになった。冷蔵庫に幅を取る大きさのそれを冷し、まずは夕飯と風呂にする。スイカは後でのお楽しみだ。

「スイカはそとはみどりなのになんでなかはあかいんだ?」

 子供らしい質問に草加は答えに詰まる。そういうものだとしか言いようがないが、せっかくだし何か気の利いたことを言って尊敬されたい。しばし、考え込む。

「…中を見られて恥ずかしくなって、赤くなるんじゃないかな」
「そうなのか?」
「洋介はどう思う?」
「うーん。ちのいろじゃないしなー…」

 三角形に切られたスイカを前に、5歳児は考え込む。真剣な表情が微笑ましい。草加が種を飛ばさないせいか、角松も行儀良く食べていた。

「スイカもはずかしーってなるのかな」
「黄色いスイカもあるぞ」
「えーっ?」

 どうするんだよーと言って笑い転げる。角松はまったくよく笑う子供だった。ふいに草加の胸にあの疑問――なぜこの子が親戚をたらいまわしになっていたのか――がひやりと忍び込んできた。なにひとつ、悪いところがないのだ。なさすぎるといっていい。一切の隙がないというのはかえって怪しいと思ってしまうのは穿ちすぎだろうか。
 布団に入って、角松がぽつりと言った。

「おれ、くさかにだったら…いいよ」
「何がだ?」

 まっすぐに草加を見上げていた角松は、首をかしげた草加に照れくさそうにはにかんで「なんでもない」と布団を頭からかぶってしまった。草加はおやすみを言って電気を消した。子供が眠っている間、草加は持ち帰った仕事をするのだ。
 だが、今夜は妙に胸がつかえてはかどらない。角松は何を言おうとしたのだろう。草加にならばという言い方が気になった。草加の子供だったらという意味であれば、「いいよ」という結びにはならないはずだ。許可を与える言い方ではなく、希望的な語尾になるだろう。
 加えてもうひとつ、気になることがあった。それを言った時の角松の表情である。
 あれは…子供の顔ではなかった。直後の照れくさそうな表情とはまったく違う、真剣で熱っぽい瞳をしていた。草加はさらりと流したが、ほんの一瞬ときめいた。欲情しているように見えたのである。

「………」

 何を莫迦な。そう思うものの、思考は止まらない。角松洋介の年齢がせめてあと10歳上だったら、あの時キスのひとつもしていたかもしれない。
 もうあの子の面倒を見られない、そう一方的に告げてきた声を思い出す。ややヒステリックな、女性特有のかすれた声だった。まるで叫びつかれた後のような――。もし草加の想像したとおりなら、彼女の夫は角松に『何か』をしたのだろう。角松の会話の中に「おばさん」はでてきても、「おじさん」の話はひとつも聞いたことがなかった。
 厄介をしょいこんだのかもしれない。角松を引き取って以来はじめて、草加は憂鬱なため息をもらした。





 それに気づいたところで、ショタでもペドでもない自分は血迷ったりしない。だがそう思う心に反し、体は実に正直に欲求不満を訴える。子供が隣に寝ているというのにオカズを見ながら自家発電できるほど草加はずぶとくなかったし、教育上たいへんよろしくないと、そういったことは一切していなかったのだ。うかつにして、万が一角松に見られでもしたらどう言い訳するかも問題である。子供は親から性の気配をかぎとっていくものだが、それがトラウマになるという話も本にのっていた。子育て関連の本は事細かに注意事項が書かれているが、そのほとんどはやってみなければわからないことばかりだ。

「くさか、ひとくちたべる?」

 日曜日、いつものデパートでのひと時。角松はチョコミントのアイスクリームにご満悦で、草加に差し出してきた。溶けたアイスでべたべたの口元に苦笑しつつ、草加は口を開ける。

「あー」
「ん!」

 かぷり。草加が控えめに齧りつくと、角松の目が綺麗に弧を描いた。背筋に寒気のようなものが走り、草加はとっさに嫌悪する。5歳の幼児にときめいている30男なんて、変態すぎるだろう。
 このままではいつ限界を迎えた自分が角松に牙を剥いてしまうかわからない。想像が具体的になってきている草加は、意を決して風俗のお世話になることにした。夜中に子供を一人置いて行くのはためらわれるが、逮捕されるよりはマシであろう。
 家に帰りひととおり家事をすませると、草加は切り出した。

「洋介、私はこれからちょっと出かけてくるから、先に寝ていなさい」
「おでかけ?おしごと?」
「……まあ、そうだ」

 パジャマに着替えた角松はいきなりのことに戸惑った顔になる。

「おれ、いっしょにいっちゃだめか?」
「洋介はお留守番だ。ちゃんと、鍵をかけて寝るんだぞ」
「…はぁい」

 夏の夜も更けた時刻に仕事に行くという草加に、角松はしゅんとしょげかえった。抱きしめたい、強い衝動がこみあげる。あのちいさなくちびるにキスをして、いまだ産毛しか生えていない体を撫でてみたい。夏用の薄いパジャマの裾から伸びた細い手足が誘っているように見えて、草加は瞬時にその妄想を振り払った。逃げるように、家を出る。いってらっしゃい、と心もとない声が、ぴしゃりと草加を打った。
 年端もいかない子供、大切に慈しむべき角松洋介を、大人の醜い欲望にさらすなどあってはならないことだ。角松はいつか大人になる。一人前になって、そうしていつか草加から飛び立っていく。彼はそういう存在なのだ。





 そういった店が並ぶ駅前の繁華街に着くと、草加の心はいっそう重たくなった。子供をひとり家に残しているという罪悪感が、欲望の後ろめたさより大きくなってきたのである。
 しつこい呼び込みを避けて歩くうちに足まで重くなる。あれほど懐いている自分に突然置いていかれて、捨てられたと思うのではないかと思うと草加はいてもたってもいられなくなってきた。暗い部屋に、あの子はひとり。

「…………」

 胸の内をあらわすこれまた重たいため息を吐いて、草加は踵を返した。早く帰って謝ろう。自分のことより、仕事よりも大切だと言って、安心させてやろう。途中で見つけた洋菓子店でお詫びのケーキを買い、草加は足を速めた。
 やがて外灯が申しわけ程度に照らす馴染みの道を歩くうち、草加の胸に罪悪感よりもさらに大きな不安が圧し掛かってきた。
 おそらく(予想にすぎないが当たっていると確信している)今まで角松を引き取った家の男たちは、角松の持つ不思議な魅力にあてられたのだ。今の自分と似た葛藤と懊悩を繰り返すうちに潰れてダメになっていったか、実際に手を出すかしたのだろう。やがて気づいた女たちは驚き嫌悪し疲れ果て、もう面倒みられない、となる。「草加にならいい」といったのは、彼にとって不本意で不条理なことだったからに他ならない。大人の言い分を信じるしかないいたいけな子供は、何もしてこない草加に心を開いたのだ。

「………?」

 草加の足が止まった。
 しかし、なぜそんなことを角松はいきなり口に出したのだろう?あの時、そのひと言がなければ草加は気づかないままだったに違いない。あの日、走って抱きついてきた角松。

 ――まさか。

 草加は走り出した。まさかあの日、誰かにそういったことをされそうになったのではないだろうか?
 近所の誰かにそういう性癖を持つ者がいるなど想像したくないが、嫌な予感というものは往々にして当たりやすいと相場は決まっている。ひとり残してきてしまったが、その隙をそいつが狙っていたとしたら?
 丁寧に箱に入れられたケーキが台無しになるのもかまわずに草加は走った。やっと見えてきた家のドアに胸が高鳴る。確かに鍵を閉めたはずなのに、5センチほどの隙間ができている。草加は飛び込んだ。心臓が縮み上がる。部屋の中はまっくらだった。

「…洋介!?」

 暗闇の中から何かが突進してきた。角松ではない、大人の男だと至近距離で見て取った。反射的に受け止め、力任せに殴りつける。息を荒げていたそいつがうめき声をあげ、ドアから逃げていった。

「…洋介?」

 草加は自分が静まるのを待って、明かりをつけた。

「………」

 角松はテレビの前で座りこんでいた。ちいさな体は青褪め、呆然と草加を見ている。服はすべて脱がされており、そして顔にも体にも、誰のものともしれない精液を浴びせかけられていた。

「………っ!」

 瞬時にわきあがった殺意をなんとかこらえた草加は、角松に歩み寄った。さすがに笑顔を作る余裕はない。陵辱者の証拠となる遺留物のズボンと下着を踏みつけて、草加は冷え切った角松を抱き上げた。彼への土産だったケーキは、玄関に放られていた。

「くさ…か……」

 ちいさなくちびるを動かすたびに、ねっとりと糸を引いた。泣きもせずにただじっと見つめてくる黒い瞳が何を考えているのか草加にはわからなかった。この子を守ってやれなかった後悔だけが強く胸を焼いた。

「…きれいにしよう」

 警察へ連絡するのは後回しだ。体液と証拠品はそろっている。おまけに犯人は現在下半身まるだしで逃走中だ。すぐに捕まるだろう。
 風呂場へ行き、シャワーをぬるま湯にして角松の体を清めていく。

「くさか…おしごとは?」

 ようやく角松が言ったのは、草加のことだった。

「行こうと思ったが、洋介が心配で帰ってきたんだ。そうだ、駅前のケーキ屋さんでお土産買ってきたぞ。あとで食べよう」

 不愉快なことに不快な付着物はなかなか落ちなかった。石鹸を泡立てて洗う。

「おれ……」

 言いかけて、角松は口をつぐんだ。彼は何も悪くない。5歳の子供に善悪を理解しろというほうが無理なのだ。悪を善だと言われれば、それを素直に信じ込む。好きか嫌いかの区別はあるだろうが、引き取られた先でこのようなことをされていたらそれすら主張できなくなるだろう。

「さっきの人は、友達か?」
「……うん」

 いくらなんでも見ず知らずの大人に玄関のドアを開けたりしないはずだ。角松はうなずく。公園でいつも会うおじさんだと言った。やさしくしてくれたから草加のことを話したし、迷子札も見せた。ひとりでテレビを見ていたら、遊びに来たよといって尋ねてきたのだと。草加が出かけた直後だった。

「おれ、くさかのおしごとてつだうにはどうしたらいいってそーだんしたんだ」
「うん」

 どうして?とは訊かない。追い詰めては逆効果だ。自分から本心を吐き出さなければ何も解決できない。

「くさかのおしごと、おれもいっしょにいっておてつだいしてはやくかえってきていっぱいあそびたかったから。おれ、いっぱい…」
「そうだな。一緒のほうがいい」
「そ、そしたら、『なかよししかしないこと』、おじさんもしてきて、おとなのなかまいり?をすればいいって」
「仲良ししかしないことって……」

 角松の、未熟すぎるそこは血が出ていた。石鹸が沁みたのか角松が顔を顰める。ぬるま湯で漱ぎあらためてそこを確かめると、皮膚の一部が破れていた。まだ子供のままだったそこの皮を、無理矢理剥かれたのだ。殺してやればよかったと草加は怒りを新たにする。

「おじさんがいってた。「なかよししかしない」んだって。からだじゅうさわったり、…なめたりするのはとくべつなショーコなんだって。だからおれ…ほんとはきもちわるかったけど、なめた」

 この「おじさん」は親戚のことだろう。上に圧し掛かられ、体中をまさぐられ、恐怖と気持ち悪さを「特別なこと」だと言い聞かせ、角松はひたすら耐えたのだ。

「くさかはしないよっていったら、それはおれのこときらいだからだって…だからいっしょにおいでって…でも、おれ……」

 そこで、とうとう角松が涙を浮かべた。

「おれ、くさかがいい」
「洋介…」

 零れ落ちる涙は耐えてきたぶん溜まっている。ぼろぼろと頬を伝った。

「くさかのところがいい」

 顔中をぐしゃぐしゃにしてずぶぬれのまま、角松がしがみついてきた。草加が自分も濡れるのをかまわずに抱きしめてやると、泣き声はいっそう激しくなった。

「どこにもいきたくない。くさかといっしょがいい。くさか…っ」

 おれのこと、すてないで――

 一番言いたくて言えなかった、角松の一番の我儘。吐き出してしまうと角松はひたすら泣くだけだった。十月十日の沈黙からやっと解放されたばかりの、その瞬間のように。草加はただ強く抱きしめてやることしかできなかった。





 角松が泣きつかれて眠った後、草加はやるべきことをした。まず角松の眠りを布団の中で安らかなものに強化してから110番通報したのだ。とっくに不審者として巡回中のお巡りさんに捕まっていた犯人はそのまま逮捕。夜中に取り調べに来た警察官は角松の泣きはらした寝顔を見て大いに同情し、事情聴取は明日にしましょうと言い、証拠品を押収して帰って行った。夜中のパトカーに驚いた大家や近隣住民が何事だと野次馬に来たが、そこは警察官が上手くあしらってくれたためたいした騒ぎにならなかった。どのみちわかってしまうことだからと、草加は大家にだけ真実を告げた。大家は驚き怒り、次に嘆き、そしてこれからはこんなことが2度と起きないように住民たちが一致団結して子供たちを守っていこうと決意を固めてくれた。まずは老人会で、という言葉に頼りにしていいものかどうかちょっぴり不安だが、ありがたいのは確かだった。
 明けて翌朝、短い眠りから草加が覚めると、角松がぴったりと張り付いて眠っていた。寝ている間にも泣いたのか、頬が湿っている。ついでに草加のパジャマも濡れていた。
 横になったまま頭や頬を撫でていると、角松も目を覚ました。ぱちぱちとまばたきをして草加を見る。さんざん泣いたせいで掠れた声が「くさか」と呼んだ。瞳がまだ潤んでいる。

「おはよう」
「おはよ、ございます」

 いつもなら着替えて顔と歯を磨いて朝食となるのだが、今朝はその前に言っておかなければならないことがある。

「洋介、昨日のことだが」
「はい」

 草加が切り出すと、角松は真剣な表情になりちょこんと正座をした。草加も正面に正座する。

「私は洋介を捨てないし、よそにやるつもりはない。それは安心していい」
「ほんと!?」

 ぱっと顔を輝かせて角松は身を乗り出した。笑顔でうなずいてやる。

「それから…「仲良ししかしないこと」だが」

 非常に言いにくいことではあるが、これはしっかり言い聞かせておかなければならない。大きくなればいやでも性について意識する。生存本能に生物は逆らえないようにできているのだ。本当のことを知るのが遅くなればなるほどトラウマになり、人間不信になりかねない。ヘタをすれば性行為そのものができなくなってしまう可能性だってある。いくらなんでもそれはあんまりだろう。角松は何も悪いことなどしていないのだ。罰せられるべきは彼ではない。角松はいつか一人前の男となり、誰かと結ばれる。そんなあたりまえの人生を、草加が守ってやらなくては。
 あとせめて10年早く角松が生まれていれば、草加にもチャンスがあったかもしれなかった。苦い想いを封じ込め、草加は保護者の顔を作る。

「あれは本来、大人しかしないことだ。洋介にはまだ早すぎる」
「そうなの?」
「そうだ。特別な人としかしないというのは嘘ではないが、大人が洋介にしたら、それは犯罪だ」
「いつならいいの?」
「……え?」

 角松はまったく真剣だった。だから草加も真剣に答えた。

「18歳になったら…かな。日本の法律では」

 女は16歳から結婚できるが、その前提の交際段階で逮捕されかねない。自由恋愛だろうがなんだろうが、大人が子供と恋に落ちるにはリスクがつきまとうのだ。なんとも不自由なことだ。
 角松が18歳になるにはあと13年もあった。その頃にはもう草加と一緒にいたいなんて言ってくれなくなるだろう。淋しいことだ。
 そんな草加の親心理などおかまいなしで角松が言った。

「じゃあ18さいになったらくさかとする」

 まっすぐで幼い角松の愛情が胸に沁み、それを噛み締めて、草加が応える。

「18歳になったら、他の人が洋介の特別になってるさ」
「そんなことない!おれ、ずっとくさかといっしょにいる!」

 大人の分別を子供はあっさり叩き落し、泣きはらした眼に再び涙を溢れさせた。

「なんでそんなこというんだ?おれじゃくさかのとくべつになれないのか?」
「特別だ。決まっているだろう」
「おれ、くさかがいちばんすきだ。だからずーっといっしょにいる」
「ずっとか」
「うん」

 私もだ、と言えたらどんなにいいだろう。だが今自分が言ったばかりではないか。大人が子供に手を出したら、それは虐待という名の犯罪なのだ。
 誰にも渡したくない。力づくでも自分のものにしたい。できない。角松を傷つけるものを許すことができないのに、自分が傷つけてどうするのだ。葛藤がせめぎあい、草加を苦しめた。

「…じゃあ、約束しよう」
「うん!」

子供のおままごとと同じだ。約束になどなりえないのはわかっている。草加は自嘲するがそれで洋介と、自分の欲望が一時でも慰められれば良いだろう。
 草加は部屋を物色し、赤いリボンを見つけ出した。図鑑を買ったときにせっかくだからとプレゼント用にラッピングしてもらったのだ。角松は丁寧に包装を紐解き、リボンも大切にしていたのだ。
 角松のちいさな左手の、さらにちいさな薬指にリボンを結びつける。自分の左手にも同じように結ばせた。

「指輪がないからこれで代用だ。…病める時も健やかな時も、死が二人を分かつまで。ずっと一緒にいることを約束しますか?」
「うん!約束する!」

 元気一杯の誓いに笑って、草加も誓いをたてる。

「私も約束する。ずっと一緒にいよう」
「うん!」

 愛おしさで胸がいっぱいになり、草加は角松を抱き上げた。目線が同じになる。一途な黒い瞳が草加を映し、きらきらと喜びを湛えている。
 そっと、誓いのキスをした。
 思いのほかちいさなくちびるは一口で食べられそうなほどだった。ふっくらとしてあたたかく、ほのかにしょっぱかった。

「…今のは、秘密だ」
「わかった」

 二人だけの秘密。親密度の高いキーワードに角松は神妙な顔つきでうなずいた。
 こつん、と額をくっつけて笑いあう。意味のわかっていない角松は、ひたすら無邪気だった。
 それから二人はすっかり形の崩れたケーキにロウソクを立てて、二人で食べた。