笑って笑って





 町並みを歩くかれを見つけてしまった。
 不自然にならないように細い路地の物陰に隠れた。心臓は痛いくらい強く脈打っている。
スリルを味わう気分でひょっこり顔だけを出す。口元には抑えきれない笑み。こんなところで会えるなんて。
 草加は妙に高揚しながら、えっちらおっちら歩く角松を観察することにした。
角松は満州の町並みを不思議そうに楽しそうに眺めている。興味を引いたらしい店先で立ち止まり、ショウウインドウを覗き込む。通りを振り返っては人々が働く姿をどこか眩しそうに眺めている。かれの目に映る風景はきっとかれの守るべき風景として認識されているのだろう。
 かれの姿は人目を引いた。ただでさえ体格のよい角松に、白いスーツはよけい存在感を増している。まずかったかなと草加は苦笑した。かれとあのスーツを買いに行った時のことを思い出す。選択の余地はなかったのだ。角松に入るスーツはあれ一着しかなかった。まあ悪趣味まであと一歩ってところだな。着替えた角松はたいして嬉しそうでもなく感想を述べた。それからありがとうと言って笑った。このころには警戒もいくぶん解けてきたらしく、やわらかい笑顔だった。あえてそれからのことは考えずに草加は角松の観察を再開した。
 角松は道の端により、左右を見渡した。途方に暮れた顔をしている。もしかして迷子になっているのだろうか。ふきだしそうになった。なにくわぬ顔をしてかれの前へ行き、案内しましょうかと言ってやりたくなった。驚き怒るかれの顔が目に浮かび、ますますおかしくなる。実際にできるはずがないのはわかっていたが、想像するのは自由だ。
 久しぶりのかれの姿。胸をしめつけるほどの懐かしさ。角松はぼんやりと、少しの不安をにじませながら人々をどこか遠いものでも見るように立ち尽くしていた。
 声が聞けないのならせめて、笑ってほしい。どうか、笑って。
 まるで草加の声が届いたかのように、角松がふわっと笑った。安心した、ひどく嬉しそうな。なんだそこにいたのかという声さえ聞こえてきそうなほど。
 一歩、踏み出しそうになった。
 止めたのは、角松の声だった。

「如月!」

 そうかれは叫んだ。さっと草加の隠れている小道の前を影が走り過ぎていった。角松と並ぶと小柄に見える支那服の青年がかれに駆け寄っていく。角松は笑いながら青年と会話を交わしている。勝手にあちこち行くなといっただろう。すまん。まったく。大きな体を恐縮させ、かれは謝った。青年はため息をつき、行くぞと言った。かすかに笑っている。青年の気分は草加にもわかった。角松にはどこか毒気をぬいてしまうところがあるのだ。それを眼にしてしまうと始末におえないほどの安心感が湧いてきてしまう。かれに惹かれていくのを自覚しながらも止められない。
 角松は信頼を宿した瞳を浮かべた。それを目にした青年は、あきれたような、まんざらでもなさそうな顔でかれと歩きはじめた。不思議なことに、二人がそろって歩けば角松の浮いた雰囲気は消えて、実に自然に二人は風景に溶け込んだ。
 二人が近づいた。草加は無意識に物陰の奥へと身を隠した。角松が、何も気づかずに通り過ぎていった。
 ふと手のひらに痛み。いつのまにか握りしめていた手のひらに、爪がくいこんでいた。
 自分が望んだもの。失ったもの。これからの行動とそれを、草加はとっさに天秤にかけた。どちらが重たいかは自明だった。
 理想の国家に殉ずる自分には、一時の喜びは耐えるべき範疇である。それに、いつかかれは笑って両腕をあげ、迎えてくれるだろう。草加は肩を揺らして自嘲した。角松さん、あなたの生み出した命の生き様を見るがいい!ああまったく生きていることはなんて素晴らしい。